02 教えていただけませんか

 見せ物が突然終わってしまったことに子供たちは不満そうだったが、仕事をさぼるなとか詩人さんを困らせるなとか言った大人たちの声に渋々と散開をした。


 コトに案内されてついていけば、デン爺と呼ばれる老人の家はすぐそこだった。確かに家を出なくても窓を開ければクラーナの歌声が聞こえただろうと言うほどの距離だ。


「お、お邪魔します」


 少年が勝手知ったるとばかりに入っていくので、クラーナは続きながらそっと礼儀を保つ。


 小さな家はふたつの小さな部屋から成っていた。


 手前の部屋は食事をする場所ような拵えになっていたが、何だか物足りないような気がした。食器も水差しも整頓されていて、なおかつ無駄なものがほとんどなかったためだろうか。だが、きちんとしていると言うよりも少し寂しい感じがした。


 コト少年はクラーナの先導を務めるように奥の部屋へ進む。続いて行けば、そこは寝室と居間を兼ねているようだ。


 と言ってもそう大きな部屋ではないから、しっかりした作りの寝台が部屋のほとんどを占めてしまっている。居間のようだと思ったのは、手前の何もない部屋に比べると、花や絵画が飾られていたりして、生活の気配が感じられたためだ。


 こちらの部屋で普段過ごしているというのは、この小さな家の主が食卓よりも寝台を必要とする老齢である故なのかもしれないが、単純に方角のせいであるかもしれない。


 奥の窓は北向きと見え、そこからは春の陽射しがやわらかく差し込んでいたのだ。そしてその窓際に大きな椅子が置かれており、ひとりの老人が腰掛けていた。


 コト少年はそちらへと小走りに寄った。どうやらコトは人見知りをするというより誰に対しても内気と見えて、旅の詩人と違って見慣れた顔であろう老人に向かっても消え入るような小さな声で話した。人々に注視を浴びながら演奏していたクラーナの手をとめるのは、さぞや勇気の要ったことだろう。


「こんにちは」


 改めてクラーナは、自分から声を出した。コトに仲介を続けさせるのは何だか気の毒な気がしたのだ。


「僕はクラーナと申します、旅の詩人です。僕の歌をお聴きいただきましたようで。よい飲み物を有難うございます」


 皮切りとばかりにそんな挨拶をすると、窓の外を眺める体勢でいた老人がゆっくりと振り返った。クラーナは何故かどきりとする。その大儀そうな仕草は男の年齢を感じさせたが、それと同時に威厳のようなものを思わせた。コト少年がまるで従者か何かのように見える。


「美しい歌声の、雲雀殿セル・セレア。私はデン。デン爺と呼ばれている」


 男の齢は、六十をゆうに超しているだろう。七十近いのかもしれない。老人の年齢は読みにくいものだったが、声には力強さがあり、動きとは裏腹に老いを感じさせなかった。


「座ったままで、失礼を。年を取ると、立つことも厄介になりましてな」


 丁寧な言葉にクラーナは少し慌て、軽く頭を下げた。


 吟遊詩人は決して高尚な職業とは思われず、場合によっては「下賤」とされるくらいだ。声だけでなく身体で稼ぐ、と言われる――事実の一端でもある――せいであり、娯楽の種として歓迎はされても尊敬されることはあまりない。礼儀を重んじたデンの物言いに、彼は少し戸惑い気味だった。


「飲み物のご恩に報いたいのですが、ご所望の歌を存じ上げなくて。浅学をお許し下さい」


 彼はできうる限りに丁重な口調で言った。


「何の」


 老人は笑った。


「お聞きになりませんでしたか。それは、このサルフェンの歌。あなたが知っていたら、私は驚く」


 やはり、と思った。同時に、何故、と。


「では、何故」


 思ったことをそのままクラーナは口にした。デンは少し黙り、コトに何か囁いた。少年は老人と青年を見比べるようにしてから、うなずいて踵を返す。少しクラーナを見上げて、そのまま部屋を出て行った。


「あれは、可愛い子だ。母親の死という痛ましい出来事を小さな身体で受け止め、懸命に生きている」


「聞きました。……哀しい、話ですね」


 詩的な物言いをする雰囲気でもない。クラーナが簡素な言葉を選んでそう返すと、デンは彼を手招いた。わずかな躊躇いののち、クラーナは歩を進めて先までコトが立っていた場所、老人のすぐ隣まで移動をする。


 そこまで近寄ると、逆光のために影のように見えていた顔がはっきりと詩人の瞳に届いた。深い皺。穏やかな瞳は濃紺で、髪は豊かだが真白い。正しく年を重ねた身体だ、と感じ、そんな当たり前のことを思う自分を少し不思議に思った。


(正しくない年の重ね方なんて、あるんだろうか?)


 百年を生きたと自称する魔術師を思い出した。


(まさか。あれは彼の出鱈目だ)


(オルエンはきっと、自分の白髪を皮肉ってそんなことを言うだけさ)


 そう、目前の老人と白髪の若者は明らかに異なる。デンは長い時間を生き、オルエンはそうではない。万一にも百歳であれば、デンよりも年上ということになるではないか。有り得ないと思い――ふと、どきりとした。


(似ている)


(目の前の僕を見ながら、遠くを見るような)


(いや、違うデレス。重ねた経験から、見計られるような視線)


 彼の年齢の半分にも届かぬほどをしか生きていない若者を表裏から全て見透かしてしまうような瞳の深さ。オルエンの方が――より、深い。


(まさか)


(有り得ない)


 いまだ齢を重ねぬ吟遊詩人は、自らの感性よりも理性を重視した。


「リアーの話を聞いたのか」


 デンの問いにクラーナは思いを引き戻され、小さくうなずいた。


「コトの様子を気にしていたら、〈白蛙〉亭のご主人が話してくれました。恋人を追って、一年前に毒の香りを吸ってしまったと」


その通りアレイス


 痛ましい、と老人は言った。


「老いた者が遺され、若き者が逝く。そのようなことは――あってはならんのに」


 その悲痛な声は、クラーナをはっとさせた。見知った娘が死んだ、それだけでは、ないような。


「デン殿。もしや、あなたはリアーさんのお身内か……」


 少し躊躇ってから、彼は続けた。


「もしや、お父上なのでは」


「――そうだアレイス


 痛みを押し殺すような声音でデンは言った。クラーナは驚きに目をしばたたきながら哀悼の仕草をした。老人は返礼をする。


「では、コトは」


「私の孫ということになる」


 当然の答えが返ってきた。クラーナは意外に思う。先の少年の態度が、身内に対するものだと?


「あの子が私に懐いていない、とお思いか」


「い、いえ、そんな」


 素早く否定をしたが、かまわないというようにデンは首を振る。


「仕方がない。私の妻が生きていればともかく、このような老人では母親の代わりにはなれん」


 その言葉は冗談のようにも聞こえたが、どうにも笑うことが憚られる話題である。クラーナは困惑して、黙っていた。


「〈月の花〉というのは」


 デンは孫との関係についてそれ以上は触れず、歌の話題に戻した。


「クリエランの花に宿る精霊を讃えた歌だ。だが私には、どこか哀悼歌のように思える。花の咲く夜に逝った娘」


 すっと老人は視線を遠くに向けた。森の方角だったろうか。


「あなたがご存知でないと判りながら、あなたの声で聞きたいと思ってしまった。老人の戯言で、コトとあなたを困らせてしまったな」


 目線をクラーナに戻して、老人は少し笑った。


 思い入れのある歌を聞きたいと言う、それだけではなく彼の声で聞きたいと。それは詩人にとって最上級の褒め言葉であった。


「僕も、それを歌いたい。そう思います。あなたのために」


 詩人の誇りに押されて、クラーナは言った。


「どんな歌なのか、教えていただけませんか」


「この老人に、歌えと?」


 デンは声を出して笑った。年を経たものだけができる、深い笑い声だった。


「勘弁してくれ、セル・フィエテ。戯言だ、老人の戯言なんだよ」


「でも」


 知らない曲を歌えやしない。魔術師でも、あるまいし。そう思って反駁しようとする若者を老人は制した。


「そう言ってくれるなら、今宵、嫌になるほど聞かれよう。聞き覚えられたら、明日にでも歌ってくれまいか」


 その言葉にクラーナは力強くうなずき、是非そうさせてほしいと彼の方から頼み込んだ。老人は優しく笑い、礼を言った。

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