第2章
01 思いつくままに
毒の花。
何だか物騒だ、と思う。
危険な植物であるのならば、毒のない内に抜いてしまうとか全部焼いてしまうとか、そういったことはできないのだろうか。
町びとたちはもちろん、考えたことがあるだろう。けれどそうする代わりに〈三穀祭〉という風習を作って難を逃れている。
(ということは、はびこる力がものすごく強いとか)
(それとも、毒以外に何かいい薬効があるとか)
ただの想像だ。彼の場合、正解を知りたいと言うよりは物語を考えてみたいだけだ。何であろうとそれはサルフェンとそこに住む人たちの問題であって、彼がああだこうだと考える必要もなければ口を挟む必要もない。
(毒の花。満月の夜に咲く、美しい――)
(いや別に、美しいとは聞いてないか)
麦に似た植物だとオルエンは言った。となると、あまり派手な花ではないのだろう。彼はただ、詩人の習性で物語のようなものを考えそうになっただけである。
一年に一度だけ、不吉な色をまとう夜の花。それはなかなかに、詩人の創作意欲をくすぐる物語であった。
ただ、それでは本腰を入れて歌でも作ろう、と考えるには、リアーという女性の死が重かった。クラーナがもう少し非情か、或いは自分の感受性ばかりが豊かな気質の詩人であればそれも含めて物語にするところであったろう。だが幸か不幸か、彼はひとの気持ちを思いやることができた。リアーの悲恋を美しい歌物語に仕立てたところで、コト少年は喜ばないどころか、一年間が少しずつ癒した傷口をまたえぐってしまうことになりかねない。
彼でさえ、哀しい気持ちがする。
見知らぬ女性であれ、恋人を待ち続け、その愛を抱き続けたゆえ毒の香りに倒れてしまったなど、そんな出来事は哀しすぎる。遺された子供の心に空いた穴も。
ふと、詩人の内に覚えのある旋律が浮かんだ。還らぬ恋人を待ち続け、哀しみに胸をふさがれて死んでしまった娘の歌だ。その娘は死んでまでも男を待ち続け、白い花畑を呪いで黒く染めてしまったと言う。
愛で。哀しみで。それとも憎しみで。
(……
青年は首を振った。黒い花オーアンを歌ったその歌は、哀しさと怖ろしさが入り混じる。だがそうではない、と彼は感じた。
(リアーは、〈オーアンの花の娘〉じゃない。還らない恋人を憎みはしなかっただろう)
(ただ、待っていた)
(――夢を見て)
毒の花への怖れよりも、恋人への思いが勝った。けれど、それは彼女の死を招いた。コトの心に、哀しみも。
(息子のことは、考えなかったのかな)
(考えたからこそ、父親を欲したんだろうか)
(……まあ、そんなのは僕がどうこう言うことじゃないし、いまさら考えてみても)
(何にもならないことだ)
どこかもやもやしたものが、彼の心を覆った。クラーナはそれを振り払おうとばかりにぶんぶんと首を振って、辺りを見回す。確かこの先にちょっとした広場があったはずだ、と思い出した。
そこで数曲ほど、演ることにしよう。彼はそう決めた。そうすればきっと、気分も変わると。
昼間の人々は忙しい。詩人の歌声に足をとめる者はいないかもしれない。
でもクラーナはかまわなかった。歌は日銭を稼ぐ手段であるが、彼はそのためだけに歌うのでもない。歌いたいから、歌うのだ。
石段を見つけて腰を下ろすと、
声を張り上げるでもなく口ずさみながら続けていると、いつの間にか仕事の手を休めた人々や子供たちがぽつぽつと集まりだしていた。
商売人としては、ここでさり気なく硬貨を入れるための器を置いたり、もっと客に受けそうな曲に方向転換したりするべきである。だがこのとき、彼は自らの内からこんこんと泉のように湧き出す思いを汲み出すことに夢中だった。少しずつ職業として、生計としての演奏に慣れてはきたけれど、それでも彼はこのとき、金のためではなく自分自身の心のために歌っていた。
彼は、若かった。彼はとても若い吟遊詩人で、まだ彼の世界はどこへでも広がっていく可能性を持っていた。
心の赴くままに奏でる旋律はクラーナ・アトアールを喜びで満たし、どんな混沌とした未来も彼の道に射す陽射しを遮ることが――ないようだった。
彼は歌った。
それだけで幸せだった。
決して一流と言われるほどの腕ではなかったけれど、何かきっかけがあれば、彼はぐんと変わるだろう。美麗な歌を聞き慣れた貴族王族たちですら満足させるだけの技量と雰囲気を身につけてそれを使いこなし、やがて運命そのものを弾き語るようになるだろう。
だが、まだ「不思議なこと」のとば口にいるに過ぎない青年詩人に、未来は見えなかった。ただ彼はこのとき、未来ならぬ夢でも見ているように、聞き手の存在をぼんやりと意識しただけである。
思いつくままに歌を。
知っているものがなくなれば、彼自身の内から湧き出る旋律を。
曲はどれも優しく、彼は疲労を感じずに歌い続けていた。その弦の音がやんだのは、曲の合間にそっと触れられた手があったためである。
うたた寝をしているところを起こされたかのように、クラーナはびくりとして瞬きをした。
「……これ」
「君、コト」
クラーナの腕を静かに握ったのは母を亡くした子供だった。
「飲んで」
差し出されたのは紅石のように美しい色合いの液体が入った白い陶の杯だった。
「何だい?」
「サンサータの実を煮詰めたものなんだ。飲むときに、薄める」
「へえ」
クラーナは礼を言って杯を受け取る。紅色の液体は甘酸っぱい香りがして、その香りから想像できる通りの味がした。喉を通っていくと少しだけ痛い感じがしたものの、それは嫌な痛みではなく、クラーナは身体の芯がすっとまっすぐになるような感じを覚えていた。
「のどにいいって、デン爺が」
子供は、初めて彼に言葉をかけたときと変わらぬ、小さな声で言った。
「そりゃあ有難いな」
上っ面ではなくクラーナは本心から答えた。あまり酸の強い飲み物は却って喉に悪いこともあるが、この刺激は適度で、喉に引っかかるものを押し流してくれるかのようだ。
「デン爺さんって言うのは、どの人?」
クラーナは思ったよりも集まっていた観客に少し驚きながら周辺を見回した。コトは首を振る。
「爺は家から出ないんだ。ぼくに持ってけって」
「じゃあ、お礼を言っておいて。あ、それとも」
ふとクラーナは思いついた。
「もしデン爺さんが聞きたい曲でもあるなら、それをお礼代わりに」
そう言うと、コトはほっとしたように笑んだ。
「〈月の花〉の歌が聞きたいって」
「つきの――」
まずった、とクラーナは思った。彼の持ち歌の数は年齢の割になかなかのものだが、そのような題名は聞いたことがない。
「それじゃつまんないよ」
ほかの子供から声がかかった。
「その歌は、今夜のお祭りで歌うんだから」
「お祭りで?」
クラーナはそう言った子供に視線を向けた。
「
その言葉にクラーナは、成程と納得した。畏れを払うための祭り。オルエンの言った通りだ。そして、コトの視線が下を向くのに気づく。
(どうしたん……ああ)
(母さんが言ってた、か)
ほかの子供は、何とも思わずに口にするのだろう。「母」というのがその子にはいて、コトにはもういない存在であると気づかぬまま。詩人は気づくと、コトの肩にそっと手を置いていた。ただ、孤独を覚える子供に触れていてやりたくて。
「つまり」
少年を励ますような言葉は発さなかった。この子はちゃんと自分で顔を上げるだろう。そんな気がしたから。
「〈月の花〉というのはこの町の歌、ってことか」
ただそんなことを呟くように言った。
それでは、彼が知るはずもない。当然だ。だが、子供たちはともかく、老人であれば、旅の者が町に伝わる歌など知っているはずがないと判っているはずだ。
何となく、気になった。
「コト」
彼は少年を見た。少年は、顔を上げていた。
「デン爺さんの家に案内してくれないかな」
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