05 何もしないじゃないか

 全くいまいましい、この、〈鍵〉というやつ。


 オルエンとともに時間を過ごす内、次第にクラーナは白髪の若者に対する苛立ちを覚えていった。


 クラーナは自身の好みに関わらず、オルエンの意思に引きずられるのである。それが、リ・ガンと〈鍵〉。


 詩人である彼は、人との語らいが好きだ。夜の酒場に行って、たまたま隣り合っただけの縁しかない相手と話しをし、店の主人の許可が得られれば歌を歌う。歌には日銭を稼ぐ効用もあるが、それはどちらかと言えばおまけ、〈兎をしとめた狐〉を運よく捕まえられるだけのこと。彼は単純に歌いたいし、聞いてもらいたいのだ。


 だが、オルエンは喧騒を好まない。


 初日の酒場を除けば、食事は屋台で買い、宿に戻って食べた。いつもそうしているのだと言う。或いはそうでなければ高級な、客たちが大声で笑い合うようなことのない、品ばかりがよい酒楼へ行ったりするらしい。いったい「大砂漠」のどこで稼げるものか、とクラーナは思ったが、話ばかりかもしれないと思い返した。


 ともあれ、要するに、そんなオルエンにくっついているとクラーナは歌う機会がない。


 これは大いに不満であった。


「好きにすればよかろう」


 リ・ガンの〈鍵〉は簡単に言ってくれる。


「何も出会ってから〈変異〉が終わるまでずっと、ぴったりとくっついていなくては翡翠を目覚めさせられぬ訳でもあるまい」


「ないよ。そりゃあね」


 クラーナは腹立たしい思いを抑えながら言った。


「でも君には自覚を持ってもらう! 君の意思が、どれだけ僕に影響を与えるか。ちゃんと理解してもらわないと、僕は、すごく、困る!」


「だいたいのところは掴んでおる」


 というのが魔術師の返答だった。


「私の方でもしお前を行かせたくないと考えれば、お前はそれに影響を受け、出づらくなるのだろう。だがそうではない。私は残るがお前は好きにしろと言っている。問題はないはずだ」


「僕は、君にも、きて、もらい、たいん、だけど」


 クラーナは一語ずつ区切って言った。


「馬鹿な。何故私がそのような」


「僕は君をおいて出かけるなんて気に入らないの。行くなら、一緒」


「馬鹿な」


 オルエンはまた言った。


「まさか、夜のひとり歩きが怖いのか、お嬢さんセリ


「……殴るよ」


 クラーナはふるふると拳を震わせた。オルエンは面白そうな顔をする。


「楽器を奏でる大事な手をそんなことで痛めてどうする。暴力に訴える前に、私がともに行かねばならぬ理由を言え」


「僕は、君の価値観を変えさせると言った」


 クラーナはじろりとオルエンを睨む。


「歌はなんか、ないってね」


「ほう」


 オルエンは片眉を上げた。


「成程。それで私を酒場に連れ出し、お前の歌を聞かせようと言う訳か。だが焦るなと言ったろう。時間はある。私がその気になったらお前の舞台まで出向いて、気に入ったら花でも贈ってやる。それでよかろう」


「よくないよ」


 クラーナは負けなかった。


「君が『その気』になるのはいつ? 次の〈変異〉かい?」


「かもしれんな」


 気のないように魔術師は返した。


「人混みなど煩わしい。女王陛下の御為と、こうして出てきてやってはいるが……いや正直、私自身の興味もある。だがその役割以外、なんぞにつき合うつもりはない」


「感動的だね」


 クラーナは天を仰ぐ。


「好みの違いはともかく、一年間、一緒にいることにしたんだよ? まあ、もちろん、君は嫌ならいつだってに帰っていいんだ。でも、君はそうしない方を選んでる。それなら、もうちょっと歩み寄りってやつを」


「だから、寄ってやっているだろうが」


 、と加わる。いったいいつまでその面白くもない冗談を続ける気なのか、とクラーナは呆れた。


 一事が万事、この調子である。


 ああ言えばこう言う。少しでも理屈になってるならまだましで、たいていは意味のない嘘八百――としか思えないこと――が混ざった。


 何とも、理不尽。


 リ・ガンは〈鍵〉を守る義務まで負うのだ。どうして、少しも本当のことを言わない自称爺さんを守ってやらなければならない?


「オルエン」


 呼べば、白髪の若者は面倒臭そうに振り返る。


「今度は何だ。私に、何をさせたい」


「何を言ったって、君は何もしないじゃないか」


 クラーナはもっともなことを言った。


「僕だって別に、翡翠ヴィエルのもとに出向きたくてたまらないって訳じゃないんだ。でも一日でも早く動けば一日でも早く解放される、という考えは悪くないと思いはじめてるところなんだけども」


「その案は悪くない。だがしばし待て。翡翠は逃げん」


 オルエンの返答はそればかりだった。確かに、時間はある。確かに、主たるふたつは逃げないだろう。


 だが、早くもこの数日間で彼はこの相棒にうんざりだった。リ・ガンがどうのと言う劇的な運命の相棒なら、もう少し頼りがいがあってもいいのではないか?


 大嘘つきの魔術師。全く、嫌になる!


 こんなのをまともに相手して、まともな返答がやってこないと嘆くのは馬鹿げているかもしれない。サルフェン滞在三日目の夜、クラーナはオルエンを連れ出すことを諦め、ひとりで小さな酒場に出向くことにした。


 オルエンの言う通り、〈鍵〉が行かなければ出かけられないというものでもないのだ。ただ、引っ張り出したいと思っただけで――。


 吟遊詩人は首を振った。偏屈な爺さんの面倒を見てやることもない。そんなふうに思って、彼は愛用の楽器を背に、道をひとり歩いていった。


 サルフェンの町には、大都市にあるような舗装された道はない。街灯と言うようなものもなくて、各家庭や店の外に申し訳程度の灯りが置かれているくらいだ。


 しかし満ち行く月の女神ヴィリア・ルーが夜空に浮かび上がれば視界は充分、加えて、昼間とは異なる装いを町並みに与えてくれる。どうということのない民家の塀ですら、昼よりも神秘性を持つようだ。


 気に入らない魔術師から離れると詩人は気分が乗ってきて、鼻歌など歌いながら月光の魔力を楽しんだ。


「こんばんは」


 小さな町の散歩はすぐに終わってしまったが、目的地にたどり着いたのだから別にかまわなかった。


 その酒場は、看板の名前がすり切れていて何という店なのか判らなかった。町びとたちはみな知っているから、直す必要もないのだろう。


 そんなふうに思いながら扉をくぐると、客たちの視線は一斉に彼に集中した。クラーナは一リア、怯む。


 酒場に入って注視を受けることは珍しくないが、それはたいてい、入り口近くにいる客たちからだけだ。そう広い店ではないとは言え、奥にいる客から、配膳中の給仕娘から、何やら熱く語り合っていたらしい若者たちから、一斉に言葉までとめられて注目を浴びる、というほどのことは――あまりない。


「ええと、こんばんは」


 クラーナは繰り返した。


「――吟遊詩人フィエテ!」


「きたね!」


「待ってたんだよ、さあさあ」


「早く、何か歌っとくれ」


 次の瞬間、彼は歓迎の渦に包まれていた。これもまた、珍しい。詩人は喜ばれることが多いけれど、それにしたって酒場全体で大歓迎というのは、大きな街ではなかなかできない体験である。


「もちろん! 僕はそのためにいるんだから」


 こうなると、空腹などは吹っ飛ぶものだ。クラーナは弦楽器フラットを下ろし、酒場の主人の姿を求めて視線をうろつかせた。客たちにどれだけ求められても、奏でる前には主人の許可をもらう、これは吟遊詩人の礼儀、不文律のようなものだった。


「何、詩人だって? きたのか」


 主はどうやら調理人テイリーを兼ねているらしく、前掛けで手を拭きながら厨房らしき場所から姿を現す。


ご主人セラス、いいかな?」


 クラーナは弦楽器を掲げる。無論だ、と返ってきた。客たちが湧く。


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