2.金色の瞳のマリアミーラ②
青年が目を覚ましたのは、その日の夕暮れだった。
町から戻った父が言うには、魔力切れと空腹による衰弱が彼の倒れた原因だったらしい。特に外傷もなかったから、数日もすれば動けるようになるそうだ。
野菜スープの皿と温めたパンを差し出すと、彼は申し訳なさそうに礼を口にした。
「何から何まで、すまない」
「礼は動物たちに言って頂戴!」
「……動物?」
「そうよ」
「この子が、あなたのところまで案内してくれたのよ」
私の肩に乗るリスの頭を指の先で撫でると、小さくクキュッと鳴いた。
リスは私の腕を伝ってベッドに下り、青年の傍まで小さな足で駆けていく。
「ほら、今だってあなたを心配してる」
「……そうか。ありがとう」
少し困った顔で笑う彼は、恐る恐るといった感じにリスへと手を伸ばした。すると、怖れを知らないこの子はその指に頭を擦りつけてまた鳴いた。
青年の瞳が驚きに見開かれる。
もしかしたら彼は、森や動物を知らないのだろうか。
「私、熊のことを今も怒ってるわ」
「すまなかった。熊は人を襲うと聞いていた」
「こちらから手を出さなければ襲ってこないわ! 森と生きる私たちは、むやみに命を狩ってはいけないって、習わなかったの?」
「……森と、生きる?」
「そう。あなたをここに運んでくれたのは、森のシカよ。私たちは彼らと共に生きているの」
「すまない。森や動物のことは詳しくないんだ」
青年は項垂れてしまった。まるで叱られた飼い犬のようだわ。
思い返せば、彼の着ていた服は、この地方では見られない刺繍が施された黒いローブだった。おそらく、別の地方から来た人なのだろう。
もしかしたら森から遠い場所で生活をしていたのかもしれない。森から遠い場所では、熊の狂暴性を第一に教えるだろうし。だから咄嗟に攻撃を──逃げる隙を与えなかった彼の攻撃魔法を思い出し、私は身震いをした。
彼の行動をいくら正当化して考えてみても、私の胸の内はもやもやとしたままだ。
お肉だって食べるし、父が熊やイノシシを狩ってくることもある。でもそれは、生きるための命を分けてもらう行為で、必要な分だけだ。そうすることで、動物たちもむやみに人を襲わないよう牽制する意味もあるんだって教わってきた。
森と共に生きるこの地方では当たり前のことを、彼は知らない。それだけのことだけど、その異質さに恐怖すら感じる。
「ねぇ、あなたの名前は? 森を知らないみたいだけど、大きな街から来たの?」
「俺はアーリック……山を越えてきた」
「山? 山って、まさかオーラブ山!?」
青年アーリックの言葉に驚き、私は座っていた椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
椅子の倒れる音に驚いたリスは飛び跳ね、彼の背中に隠れてしまった。それを目で追ったアーリックが肩越しにリスを探る様子を見せると、後ろから小さな顔がちょこんと出てきた。
キーキーと抗議の声を上げるリスの頭を、武骨な指先がそっと撫でた。
「だって、オーラブ山には魔獣もいるじゃない。あなた、それを一人で越えたって言うの?」
「……あぁ」
「それで、魔力切れを起こしたの?」
「そんなところだ。森に入って、気が緩んだんだろう」
どうやら、疲れ果てて気を失ったところを見たリスたちが、心配して大騒ぎをしたということらしい。
リスは何の話と問うように、小さく首を傾げた。
それにしても、まさか単身でオーラブ山を越えられる人間がいるなんて誰が想像するかしら。
あの山はラドリフ山脈の中でも最も険しい山で、私たちの住むドラゴニア国と隣国マーヴェランサの国境でもある。国同士の仲が悪かった古い時代でも、険しいオーラブ山があることで、この辺り一帯で大きな戦争が起きることはなかったと聞いたことがある。それくらい山を越えるのは一苦労で、今でも行商人は倍の時間をかけてオーラブ山を迂回していく。
騎士団を従えて抜けるならまだしも、単身で山越えをしようだなんて正気とは思えない。
「あなた、自殺願望でもあるの? 無謀だわ」
「……人を探しに来たんだ」
「人探し?」
「あぁ。急いでいた。だから……」
私を仰ぎ見たアーリックの瞳が、部屋の明かりに照らされてきらりと光った。やっぱり、私と同じ金色の目だ。
重なる視線が一瞬の沈黙を呼び、どうしてか胸が苦しくなった。まるで、誰かに胸の奥を掴まれたようだ。
彼の言葉の続きを待てずに、私は胸元で手を握りしめると声を上げていた。
「だ、だからって、無謀すぎるわ! 死んだら人探しだって出来ないのよ?」
「心配してくれるのか?」
「森で人が死ぬのは嫌なの。それだけよ!」
「そうか……君の名を、聞いて良いか?」
少し寂しそうに笑った彼に向かって、私は「マリアミーラよ」と名乗った。
「……マリアミーラ」
「えぇ。ペタル薬店の一人娘マリアミーラ! よろしくね、アーリック」
どうぞご贔屓にと言って笑うと、彼は金色の目を少し見開いた。
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