第35話 3レーン

 今日も空が高く見える。それは空が澄み切っているからか、それとも自分が水面に浮いている格好で見ているせいか。どちらにせよこの姿勢で見上げる空は大好きだ。いつもの自分は人より身長が少し高いのだが、他人の目線が怖くて、下を向いて大半を過ごしている。なので、こうやって『頭上を見る』という行為は、日頃の生活ではまずない。ずっと狭い足下を見続けた後に、広々とした空を目にすると、様々な柵から開放されていくような面もちになる。


(いつまででも居られるな)


 そんな事を思いぼーっと水辺に浮いていると、遠くの方が声が聞こえる。それが徐々にはっきりと聞こえるようになってきた。


「戸乃立さん」


 どうやら自分を呼んでいるようだ。と言うことは閉場が近づいてきている。


「ここ」


 手をあげ自分の居場所を知らす。


「お疲れ様です。もうそろそろ閉場の準備だそうです」

「わかった」

「じゃあ俺、あっちの流水プールの方見てきますから、戸乃立さん競泳用お願いします」

「茂宮君」

「はい」

「終わったら行く」

「分かりました。よろしくお願いします」


 彼は直ぐに元来た場所に戻るべく、誰もいなくなったプールサイドを駆け足でその場から立ち去った。自分はその背中を見ながらゆっくりとプールから出て、いつもの作業に取りかかる。


 今日は取分け客の帰宅も早く定刻通りに、閉場することができた。その後は帰宅するのみと言うこともあり、こういう日はいつもより長く、たわいのないボーイズトークが展開される。実際自分はあまり話はしないものの、彼等の輪の空気感が自分には殊の外居心地がいいのだ。だが今日は意外にも早めに切り上げ解散となった。本当はもう暫くあの場所に居たかったというのが本音である。


 皆と別れた後、一人田園風景広がる農道をいつものように地面を見ながら歩いて行くと、数軒集まる集落が道沿いに現れる。その中の一軒、黒壁の瓦屋根の敷地内へと入って行くと、玄関のドアを開けた。


「ただいま」


 ドアの音と声に反応して、奥の台所から勢いよく人が走って来る音共に、満面の笑みを浮かべながら、母が玄関まで来た。


「おかえりなさい。あら昂だったの」


 そう言うと、明らかに残念そうな表情を浮かべながら、台所へと戻っていった。自分はそれを見送ると、自室のある2階へと向かい部屋に入ったと同じに、ベッドに寝ころんだ。


(寄り道してくれば良かったかも…… でもそんな事まで頭がまわらないな)


 まだ、兄が帰宅していなかったようだ。既に兄が帰って来ていれば、母は玄関迄覗きにこない。自分だと分かっていれば母は声のみ。へたをすると、帰宅したことすら気づかない。


(あーー 一気に疲れた)


 ゆっくりと瞼を閉じ、昼間見た空が脳裏を過ぎる。そんな中、水に浮かぶ事で体が軽くなり空を飛んでいる様な錯覚を思い出す。すると本当に浮遊しているような感覚を憶え、もう暫くこのままでいたいと思っていた矢先。誰かに腕を捕まれた感触に、目を開けると兄の幸が自分の腕を軽く触っていた。


「おかえり」

「ごめん。起こしちゃったな」

「別に良い」

「お袋がご飯だってさ」

「わかった。行く」


 返答の声を聞いた兄は部屋から出ていく直前、いつも同じ表情を浮かべ出て行く。どこか申し訳なさそうな、そして哀れみのような顔を自分に向けて来るのだ。彼自身も無意識で出してしまっているのかもしれないが、それはそれで気が滅入る。第一彼がそんな思いに駆られる必要性はないのだ。兄もまた自分と違う意味で大変な思いをしているのだから。   


 少し怠さ覚える体を起こし自室を出ると、母の甲高い笑い声が階段まで響いている。案の定兄と話しているようだった。


 兄とは3歳年が離れている。彼は自分と違い、運動神経抜群、成績優秀、人当たりも良いという、ハイスペックな人柄で母はその兄を昔から溺愛しているのだ。また、そんな兄と何かと比較される事が多かった自分も一時期は兄に近づこうと、頑張った時期はあった。が、兄の壁は自分にはあまりにも高く、彼の背中を追うことを止めた。すると、それが益々母の溺愛ぶりが輪をかけるような状況となってしまっていたのだ。


 兄も、父も、彼女に苦言は言っているものの、そんな事は母の耳には入ってきてはいない。今年は特に、兄が地元の大手企業に就職し、働き始めた事もあり、さらに拍車がかかったような常態になっていた。自分から見て溺愛というより執着と言ってもおかしくない母の状況に、屋根の下で共に生活する者達は諦めに近い常態で暮らしている。本音として母の居る家には帰りたくはない。が、母以外の家族が心配する事を思えばここに帰ってくるしかないのだ。


(とりあえず、早く食べてしまおう)


 一階まで下り、一旦気持ちの整理の為息を吐くと、戸を開ける。そしてどうしようもなく居心地の悪い空間へと足を進めて行くのであった。



※※明日20時以降更新。烏滸がましいですが、星、感想頂けると至極嬉しいです※

※ハートありがとうございます!

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