第17話

ダンッ


 鈍い音が誰もいないトイレに響く。ここに駆け込み一回顔を洗ってみたものの、手の震えは止まる事はなかった。いつもとは言わないが、時に、昔の情景とリンクした時に起きる精神からくる身体変化。


「しっかりしろ」


 苦渋を帯び、呻くような声をだしながら、手を抑えつけた。まだ閉場するには時間があるというのに、それに、さっきの健吾の顔。かなり心配をしていた。確かにこれだけわかりやすく異変が見てとれるのだから危惧されても仕方がない。


「情けない……」


 指導役として彼にそれなりに心得を教えてきた事もあるが、先日の件でどことなくぎくしゃくしている中での出来事。非常にばつが悪いこともさることながら、元々、自分に人を指南する器など持ち合わせていないのだ。


 すると、現下の精神状況のせいか昔の記憶が鮮明に蘇る。今でもはっきりと思い出される自分の名前を呼ぶ妹の姿……。とてつもない深い溜息をつき、再度荒々しく顔を洗う。まだ、多少の震えはあるものの、後はどうにか自身で乗り切るしかない。意志を固め、目の前の鏡に視線を送った。自分で見ても覇気のない表情に思わず口を開く。


「ひでー顔」  


 そう捨て台詞を吐き、一回顔を両手でパンっと叩くと、その勢いのまま、籠もっていた場所を後にした。


 その後は、どうにか閉場まで持ち堪えたのの、羽鳥以外の面々はどことなくいつもより気を遣わせている節がみうけられたのだ。特に健吾は如実で、腫れ物にさわるかのようである。それはいたしかたない事。元はといえば、自分が蒔いた種なのだ。それらを、平常に戻すには自分にしか出来ない。やはり己の中でのけじめをつける必要がある。


 今回の事で、自分の資質の危うさが露呈されたのだ。そんな自身がこれ以上指導役を引き受けるわけにはいかないと痛切に感じ、米内にその胸を告げると心に決めた。

 すると自分の内心を読んでいたのであろうか、米内は閉場後の終礼の際に、彼と一緒にプールの循環機の点検を一緒にお願いしたいと声をかけてきたのだ。自分も今の状態で、皆の輪に加わる事が、気が引けていた事もあり、二つ返事で承諾し、その作業を黙々とこなす。


 一連の作業が終了したのは、終礼から30分を経過しての事。勿論それだけ時間が流れると、管理棟は誰も人がいない状態になっていた。ひっそりと静まり返る棟内で、黙々と仕度を整え更衣室を出ると、一目散に事務所前まで足を運ぶ。そして戸の前に立ち一回息を大きく吐くと、目の前の戸を叩いた。その音に答えるかのように、室内から『どうぞ』と声がかかり、室内へと踏み入れる。


「実々瀬君今日は急遽すいませんでした。大変助かりましたよ。ここも設備の老朽化が著しくて調子が思わしくない節がみられるものですから。あっ、ちゃんと残業代としてつけておきますので心配しないで下さいね」

「ありがとうございます。あのぐらいで良ければいつでも声かけてください」

「助かります。つきましては何か用事でも?」

「はい」


 そう答えたものの次に言葉が出ないまま沈黙が一刻流れる。その様子に米内は再度自分の名前を口にした。その声に意を固めるかの如く一回奥歯を強く噛み締め重い口を開く。


「米内さん。当初からお願いされていた、健吾の指導役を下ろさせて頂きたいのですが」

「また急にどうして?」

「昼間の件と言えばわかるかと。米内さんは御影さんのヘルプに入って下さっていたのである程度の状況はお分かりですよね」

「あの事ですか? しかし、昼間の一件と、指導役としての適任者としての話は別かと」

「いえ!! 俺には荷が重すぎます!! 話の勢いで当時は承諾しましたが、俺には

人に教える資格なんでないです!!」


 米内もまた、自分に気を遣っている節が垣間見える話に、彼の話を終わる前に、自分の話を切り出してしまっていた。本当ならバイト歴が長い自分があんな失態をしたのだ、責めてるべき事であり、叱咤すべき事。だが周りの誰も自分を責めず、ましてや上司である米内さえも自分の責を問わない。ただただ、皆が自身を心配し接する状況が耐えられないのだ。そんな気持ちがこみ上げ、感情として出てしまった。勿論そんな状態で彼と面と向かい話せる雰囲気でない。


「運営責任者の指示であり、社会的には従うべきかと承知はしています。でも今回はすいませんが後任あてて下さい」


 早口で用件を伝え、深々と頭を下げると、逃げ去るように出口へと向かう。


「実々瀬君」


 背後から、米内が名前を呼ぶもそれに答えることなく、自分はドアの外に出る。そして、一方的に『失礼しました』と再度頭を下げその場を後にした。



※※明日20時以降更新烏滸がましいですが、星、感想頂けると至極嬉しいです

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