惑いの森 ⑤

「ブラーゼン!」


 呪文を唱えると、ミアを包み込もうと襲い掛かってきた見たこともないほど黒いゴーストは、風で吹き飛んでいく。学校の校舎内にいる無害なゴーストとは全く違う、邪悪な雰囲気を感じた。

 以前のミアであればまだ魔力のコントロールができなかったため、巻き起こった風でこの森の木々をなぎ倒していただろう。少しだけ魔力をコントロールできるようになってきているように感じて嬉しくなった。


 迷子になっては困るので、通った道に印を付けることにした。魔法で生成した光の玉が通った道は、ミアが消すまで光り続ける。

 さきほどの一撃で他のゴーストたちはミアを警戒したのか、身を潜めるようにして森の奥へと帰っていった。ミアは目を閉じて嫌な気配が完全に消えたことを確認すると、一歩一歩と足場の悪い森を進んでいく。


(さっきの、びっくりしたな……襲ってくるゴーストなんているんだ)


 校舎内にいるゴーストたちは、大抵この学校の歴代の先生で、生徒に危害を加えることはない。悪意を持って近付いてくるゴーストに、ミアは初めて出くわした。

 場所によってゴーストの性質は変わるのだと考え、できるだけ気を付けながら歩いていると、あるところで、ミアの隣に浮かぶ光の玉ではない光が見えた。


 その光の周りには霧がなく、澄んだ空気を感じる。

 より近付くと、その光の中心に、額の中央に角が生えた、白い馬のような生物がいるのが見えた。臀部からはライオンの尾が生えている。


――ユニコーンだ。


 そのあまりの神秘的な雰囲気、美しさに見惚れたミアだったが、すぐにユニコーンがこちらに対し全く好意的でないことを悟る。

 緋色の瞳からは獰猛さしか感じられない。今にもこちらを襲ってきそうだ――嫌な予感がして、すぐに方向転換して走った。


(ほうきを持ってくればよかった)


 飛行魔法の授業で、ほうきに跨って飛ぶ方法は習った。ミアはまだ安定して空を飛べないものの、その方が走るよりもずっと速く長距離移動ができる。


(……いや、ここで飛行は使えないか)


 邪魔な木が多すぎる。この間を潜り抜けていくなど、カトリナくらい飛行魔法のコントロールがうまくなければできない。

 どちらにしろ走って逃げるしかない。さっきのゴーストは一撃で追い払うことができたが――ユニコーンの場合は、何かもっと強大な力を持っている気がする。魔法を勉強し始めてまだ日の浅い自分では対抗できないと考えたミアは、ひたすらに光の玉を隣に連れて走った。


 森のかなり奥に到達した時、ミアの息は切れていた。ぜえっぜえっと激しい呼吸をし、息切れが落ち着いたところでさっき買った水を半分飲んだ。


 それにしても、ちょっと悪戯好きの少年ゴーストを探すつもりが、ユニコーンから逃げるために随分遠いところまで来てしまったようだ。しかも、同じ道を戻ったらまたあのユニコーンと遭遇してしまうかもしれない。

 また走ることになる可能性があるのなら、ここで少し休もう。そう思って地面に座ると、ふさ、と何かの毛がミアの背中に当たった。


 びっくりして立ち上がると――金眼の、美しい黒オオカミが横になっていた。オオカミの目は短く細められ、ミアの方をじっと見つめている。体高は見たところ立てば百三十センチメートルほど、頭部はミアの身長より頭一つ分低い程度だろう。

 ミアは不思議とそのオオカミが怖くなかった。その瞳をじっと見つめ、胴体に視線を移動させると、次に足。オオカミの下の地面に広がる赤黒い血を見て、冷静に声を掛ける。


「怪我をしてるの?」


 オオカミは何も答えない。オオカミにより近付き、足の付け根を触った。どろりとした血が手のひらにべったりと付着する。


「治してあげる。それから、水もあげるね。こんな場所で倒れていたら、水分補給もできていないでしょう」


 水の残りを汚れていない方の手の平に垂らし、オオカミに差し出す。オオカミは厚く温かい舌を出し、その水を少しずつ舐めた。


 その後、オオカミが飲まなくなるまで水を与え、杖を使って治癒魔法をかけてみた。足の付け根に干渉してみても効かなかったので、今度は腹に向かって呪文を唱える。すると、みるみるうちに血が消えていった。どうやら治癒魔法は、杖の先が怪我をした部位に向いていないと効かないらしい。オオカミが怪我をしていたのは腹部で、足の付け根には血が垂れていただけだったのだ。


 オオカミが立ち上がり、ミアの顔に頬を擦りつける。もふもふした毛で顔を撫でられ、「あはは、くすぐったいよ」とミアはけらけら笑った。


 本当に治ったかどうか確認するために、綺麗になったオオカミの腹部を見ると、そこにはミアの腕にあるのと同じマークがあった。同じ形、同じ色。偶然とは思えないほど全く同じ花のマーク。


「……お揃いだね」


 アブサロンが言うには、これは魔法省の長官であるエグモントによるマーキングだ。もしかしたらこのオオカミも追われているのかもしれない。ずっと知らない世界で一人だったのがようやく仲間を見つけたかのような気持ちになり、オオカミの体にもたれかかった。

 ぐう、と自分のお腹が鳴ったので、持っていたパンを千切って食べる。オオカミにもたれたまま空を見上げると、相変わらずどこまでも続く黒だった。


「ここは一日中月も太陽もないから風情がないね」


 言葉を喋れないであろうオオカミに語りかけてみる。オオカミは何も言わないが、不思議と通じている気がした。


「私の記憶ではね、空に丸い光が浮かんでたんだ。でもここから見る空は真っ暗」


 自分のことは全く思い出せない。けれど、常識的な記憶はあるのだ。例えば文字の書き方。言葉。食べていたもの。言葉や文字や食べ物は同種だが、この国はその他のほとんどのものがミアの知る常識と異なっている。おかしな時計。おかしな世界。おかしな空。おかしな時間の流れ方。自分の知らない〝魔法〟という術。


 ミアは何らかの理由で記憶に障害を抱えたのだ。忘れている事柄、覚えている事柄、記憶違いを起こしている事柄、そのどれもあっておかしくはない。

 けれど――


「あの空に浮かぶ光だけは、正しい記憶であってほしかったなあ」


 ぽつりと呟いたその時、がさりと木が揺れる音がした。そういえば、さきほどからやけに周囲が明るい。それどころか、徐々により明るくなっていく。ミアは慌てて姿勢を正し、周囲を見回した。


 オオカミの影に隠れて見えなかったが――――あの緋色の目をしたユニコーンが、仲間を何頭も引き連れて、一直線にこちらへと走ってきていた。

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