第14話 さらば、エスカ

 エスカが目覚めた時、最初に目に入ったのは、見慣れぬ天井だった。晴れた夏の空を思わせる、濁りのないブルー。視線を横に動かすと、小さな草花模様の壁。

 開け放たれた窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえる。なぜか幼い子のはしゃぐ声。何を言っているのかよく分からないところからして、二才前だろう。

 草いきれの匂いが漂って来る。鶏の声まで聞こえる。ここは、農家なのかな。

 突然ドアが開いて、シェトゥーニャが顔を見せた。

「目が醒めたのね、エスカ!」

 表情が、ぱっと明るくなる。

「お水飲む?」 

 言われてみると、喉がからからというより、全身が渇いている気がする。

 シェトゥーニャの差し出す水を、ひと口、ふた口、ゆっくりと飲む。やっと人ごこちがついた。

「ああ、よかった。時々、無理に起こして飲ませてたんだけど、憶えてないでしょう? 入院はまずいって、みんなが言うから」

「ここ、どこ?」

 ただでさえハスキーなエスカの声は、さらに枯れている。

「あたしたちの家よ。ウリ・ジオンとセダとあたしの。取りあえず、リフォームしたお部屋に、入ってもらったの」

「助けてくれたのは、アルトス?」

「そうよ。北の塔の奥で火の手が上がった時、セダが絶妙のタイミングでゴーサインを出したの」

 おのれセダめ。裏切ったな。

「アルトスが、真っ先に飛び込んで行ったんだって。セダとサイムスが援護に走った。アダとウリ・ジオンは、北門で退路を守ったのよ。

 アルトスが、ヘリにあなたを運んで来た時、あなたは虫の息だったの」

「僕、何日くらい寝てた?」

「今日で十日目よ」

 十日も。よく生きていたな。エスカは目を閉じた。まだ眠い。

「ずっと、お世話してくれてたの?」

「そうよ。当たり前のことだから、気にしないでね。食べる物を持ってくるわ。ひと口だけどね」

 エスカは、スプーンを持つ力もなかった。シェトゥーニャが、食べさせてくれた。眠い目をやっと見開いて、お粥を口に入れてもらう。あ。

「アニタが来てるの?」

「そうよ。元気なリディもね」

 では、あの声はリディだったのか。会うのが楽しみだ。エスカはふた口食べると、舟を漕ぎ出した。

 エスカの食事量は、少しずつ増えていった。それに正比例して、元気になっていく。時折り、リディのお昼寝タイムを利用して、アニタが様子を見に来てくれた。

「アルトスさんとサイムスさんは、エスカがもう安心の状態になってから、シボレスに帰って行ったよ。卒業試験だって。

 それが終わったら、サイムスさんは、こっちの法科の院に入るって。男子寮に部屋が取れたみたい。

 アルトスさんのことは、よく分からないの。本人も迷っているみたい」

 アルトスは、来ないかも知れない。想定内だ。なのにエスカは、肩透かしを食らったような気がした。

 なぜこんな考え方をするのか、理由は分かっている。背中や肩が、軽くなったような気がする。それに、この喪失感。自分には、何も残っていないことを感じたのは、ベッドの上に起き上がれるようになってからだ。

「ねえシェトゥーニャ。僕は、いつからからっぽになったの?」  

 食事を運んできてくれたシェトゥーニャに、思いきって聞いてみた。聞ける人は、シェトゥーニャだけだ。

 シェトゥーニャは、お盆を置くと、ベッドの側に椅子を運んできた。じっくり話す姿勢である。

「アルトスがあなたをヘリに運んで来た時には、生きているだけという状態だったわ。体力も霊力も、使い果たしたのね」

 木の下にへたりこんでからの記憶はない。

「あの時、僕は霊廟の怨念を吸い込んでしまって、随分苦しかったんだけど。その気配はあった?」

「いいえ、何も。あなたは、まっさらだったわ。ただ瀕死状態だっただけよ。あたしとアルトスには、その怨念を吐き出させることはできないはず」

「守護神がやってくれたのかも。僕から離れる前に、最後の仕事として」

 シェトゥーニャは頷いた。

「あのねエスカ。闘いの守護神が離れて行ったということは、エスカはもう闘わなくていいってことでしょ? 必要がなくなったのよ。

 霊力がなくなったのは、エスカが普通の人間になったということ。それでいいんじゃない?」

「あんまり、普通じゃないとこもあるけど」

 エスカは、涙声になっている。

「それね。エスカが眠っている時に、中を見させてもらったわ。前に比べて、男性部分が、随分小さくなってるの」

「え」とエスカは、シェトゥーニャを見た。

「それもね、闘わなくなったら、もう強い男性はいらないでしょ? だからかも、と思うの。

 このまま小さくなって、自然に消滅してくれるといいわね。女性の方が成長するかどうかは、分からない。でも、限りなく普通に近づいているのは、確かよ」

「じゃあ、喜ぶべきことなんだね」

「そうよエスカ! 前向きにいきましょ。いっぱい食べてね」

 食事量の制限は、なくなっていた。

 だがエスカはその晩、声を殺して泣いた。

「黙って出て行くこと、ないじゃないか。何年も一緒にいたのに、水くさいじゃないか」

 守護神と眷族たちは去って行った。霊力も消えた。僕は、ひとりぼっちだ。

 僕の人生で、やるべきことはすべてやってしまった。明日から僕は、何をして生きていったらいいんだろう? 以前にも感じた思いが、再びエスカの胸に甦った。

 数日後、サイムスが来た。エスカのリュックと、ボストンバッグを持っている。

「落ち着いて、聞いてほしい」

 楽しくなさそうな出だしである。

「俺が無職になったから、勝手にエスカの保証人をマーカス兄貴に変えたよ。そしたら、大学側から兄貴に連絡が来た。本人と連絡が取れないってな」

「そりゃそうだよ。タブレットも携帯も、リュックに入れっ放しだもん。おまけに僕、療養中」

「そうなんだよ。だから、兄貴が説明したんだ。それでも、今の段階で原級留め置きは決定だとさ。理由は、出席日数不足」

「原級留め置きって、なに?」

「留年だよ」

 サイムスは、気の毒そうに言った。エスカは、狼狽うろたえた。

「え。だって、夏休みにその分補講受ければ、大丈夫のはず……」

「今また欠席中だろ? もう無理だって」

 エスカは、呆然として顔を背けた。尽力してくださったラサリ先生に、申し訳なく思った。

「それでな。寮のことだけど。規則が厳しくて、ある程度の成績が取れないと、退寮になるんだ。だから、ここに来る前に荷物を引き取って来た」

 泣きっ面に蜂とは、このことか。エスカは、言葉が出なかった。

「僕、オンラインのは、全部単位取ったんだ。不足分の対面授業のだけ、取ればいいの?」

「そうだよ。ちゃんと進級しないと、次の学年のテキスト、もらえないからな。だから、来年度は楽だぞ。不足した対面授業だけ出ればいいんだ」

 エスカは、ちょっと微笑ほほえんだ。

「じゃあ僕、ここに居候いそうろうさせてもらって、農業手伝う!」

「そりゃあ、いいな」

 エスカの笑顔を見て、サイムスはやっと表情が和らいだ。

「でな、長期欠席するなら、医師の診断書を提出しておいた方がいいんだってさ。ヘンリエッタに頼んでおいたよ。

 ヘンリエッタは、ラヴェンナでの契約期間が終わって、シルデスに来た。今度は、シルデスの僻地へきちで働くそうだ。

 今夜にでも、そこの机にあるパソコンに連絡が来るから、オンライン診察受けてくれ」

「分かった。ありがとう、サイムス」

「それで、アルトスなんだが。お前、昏睡状態の時に、ウリ・ジオンの名を呼んだの、憶えてるか?」

 エスカは、首を横に振った。

「それを聞いて、アルトスはシボレスに帰った」

 エスカは、身が震えた。

「なに、それ」

「俺も、前から勘づいてたんだが。お前、ウリ・ジオンに惚れてるだろ? 無意識のうちに呼んだってことは、本気なんだよな? 

 アルトスは、お前が姪だから一線を画していたわけだが。それでも、ショックは大きかったようだ」

 エスカの脳裡に、アルトスのあの慟哭が甦った。

「確かに僕は、ウリ・ジオンを愛しているよ。ウリ・ジオンは、僕の人生を切り拓いて、行く手を照らしてくれた、大恩ある人だ。

 でも、もう終わったよ。ウリ・ジオンも同じ気持ちでいてくれたのを、シェトゥーニャに見破られてさ。『キスなら許す』って言われたんだって。

 それで、一度だけキスをした。回数制限があったわけじゃないけどね。それが最初で最後だって、ふたりともわかってたんだ」

「そんな風に、割り切れるものか?」

「割り切るしかないでしょ」

 サイムスは言い淀んでいたが、白状する方がいいと判断したようだ。

「それでな。アルトスが、あんまり落ち込んでるもんだから、つい」

「つい?」

 いやな予感がした。

「お前が、その、ホントは、姪じゃないって」

 このバカ助が! シェトゥーニャも、サイムスを頭から信じ切っていたのに。

「で、明日来るってさ」

 サイムスは言うだけ言うと、逃げるように部屋から出て行った。『泣きっ面に蜂』プラス『弱り目にたたり目』みたいな気がしてきた。

 サイムスが言ったとおり、ヘンリエッタからビデオ電話が来た。硬質なタイプの美貌の女性。雰囲気が、ラサリ先生に似ている。コンサートで、挨拶だけはしていた。

「お久しぶりね、エスカ。体調はどう?」

「まあまあです」

「ちゃんと食べてる?」

「三分の一くらい。食べられるようには、なったんですけど」 

 ヘンリエッタは、じっとエスカを見た。

「大変なことがあったのは、聞いているわ。まだショックが、抜け切らないかしら?」

 どのみち、ヘンリエッタは事情を聞いているだろう。

「僕、シルデスに来た目的を、全部果たしちゃったんです。守護神は出て行ったし、霊力もなくなって。

 この先、どうやって生きていったらいいのか、分からなくなって。大学も留年だし」

 愚痴にしか聞こえないのが、自分でも情けない。

 ヘンリエッタは、時折メモを取りながら、エスカの話をじっと聞いていた。

「わかった。では、診断書をマーカスに送るわね。マーカスから大学に送ってもらうわ。一応『二ヶ月の休養が必要』とするけど、延長するなら、また連絡してね。

 そこは、環境がいいでしょう? 転地療養に最適よ。のんびり休むといいわ」

「あの、僕の病名は?」

「うつ病よ。うつはね、治るのよ。突然治る人もいる病気。考えこまないことね」

 その晩、エスカは寝込んでから初めて、ひとりでシャワーを浴びた。それまでは、シェトゥーニャとアニタに、介助してもらっていたのだ。

 いつまでも、いじいじしていないで、できることは自分でやろうと決めていた。自分で治す気持ちがなければ、治らないと思った。


 翌日、エスカはパジャマから普段着に着替えて、初めて部屋から出た。

 大きな農家のようだ。リフォームは、まだ未完成。取りあえず、完成した部屋に入れたと言っていたっけ。

 長い廊下。歩行訓練にちょうどいい。エスカは、ゆっくり歩を進めた。廊下の両端に、窓がある。エスカの部屋と反対側の窓の近くに、行ってみる。

 突然、近くの部屋のドアが開いた。出てきたのは、セダである。セダは、一瞬驚いたようだが、たちまち笑顔になった。

「お、だいぶ元気になったな」

「うん。歩く練習してるの」

「そうか。下で朝飯どうだ?」

「階段は、まだ無理」

「連れてくぞ」

 エスカはにこにこ笑って、首を横に振った。

「ひとりがいいのか」

 エスカは頷いて、セダにひらひら手を振った。元来た廊下を、ゆっくり戻る。問題は、弱った脚ではない。自分でも分かっていた。泣きたかった。

 夕方、エスカが自室のソファでぐうたらしていると、賑やかな声が聞こえて来た。アルトス到着である。

 ばたばたと足音がして、ノックもなしにドアが開く。

「よう! エスカちゃん、歩けるようになったって? 一緒に夕飯食おう。ウリ・ジオンが、みんなに話があるそうだ。アダも来てるよ」

「全員集合?」

「そうだ。行くぞ!」

 アルトスは、ソファのエスカを抱き上げようとした。

「僕、歩行訓練始めたんだ。ひとりで歩くよ。階段も降りてみる」

「そうか。落ちそうになったら、受け止めてやるぞ」

 嬉しいお言葉であります。この家に住んでいたのは、高齢者だそうだ。お陰で、階段に手すりがあるのは、ありがたい。

 手すりにしがみつくように、階段を降りる。何段か下で、アルトスが両手を広げて待っていた。

「何やってんの?」

「落ちたら、受け止めるんだよ」

 笑ってしまった。アルトスらしい。

 降りきった時に、エスカはアルトスにささやいた。

「見事なたたかいぶりだったよ。アルトスは強いね」

「鬼師匠に、地獄の特訓受けたからな」

 ふたりは、笑いあった。

 二度とアニタのごはんは食べられないと思っていたのに、みんなで食事とは。生きていてよかったかも。

 食後、ソファでお茶を飲みながら、ウリ・ジオンが話し始めた。

「いいニュースと、悪いニュースがある。いいニュースから話すよ。

 イシネスの、例の外交大臣の秘書な、殺人示唆さつじんしさの容疑で逮捕された。例の火事事件だ。

 イシネスはいまだ混乱状態だが、警察は働いているという、パフォーマンスを見せたとも言える。

 どさくさに紛れて、悪さをしようとしている輩を、牽制する目的もあるようだ。因みにこれらの情報は、オッタヴィアからだ」

「お袋さんか?」

 とセダ。

「それはヴィットリアさん。オッタヴィアさんは、妹さんだ」

 アダに教えられて、セダは頭を抱えた。

「覚えられないんだよ~」

 ウリ・ジオンは、笑いながら話を続けた。

「夏休みで、寄宿舎から帰ってきたんだ。それで、バイトで会長の秘書をしている」

 ウリ・ジオンは、もはや『親父おやじ』とは言わなくなった。

「特別仕様の例の補聴器を、どこからか手に入れたそうだ。それで、秘書室から会長室の会話を聞いていた」

「妹さんは、ウリ・ジオンの味方なのか?」

 と、アルトス。

「同情はしてくれたようだ。ここから、悪い話になる。

 マリンカ。エスカに大怪我おおけがをさせた女だが、医療刑務所から脱走したそうだ」

 室内が静まり返った。

「クーデターの少し前に、マリンカに一時外出許可が出たそうだ。但し、自宅から出ないという条件付きでな。

 普通なら、暴力性のある患者は帰宅させないはずだが、有能な弁護士が付いていたんだとさ。

 期限の二泊三日を過ぎても、戻って来ない。調べたら、帰宅したその日に、予約していた飛行機で母親とラドレイに行ったことが分かった。観光旅行と称してな。イシネスから近いからな。

 激怒した刑務所側は、父親のセイン男爵を連行したそうだ。計画的なのは、明らかだった。弁護士が関与していたかどうかは、不明」

「おい、大丈夫か?」

 アルトスの声で一同が見ると、エスカが小刻みに震えている。隣のアルトスが、肩を抱いた。エスカの顔から、血の気が引いている。

「エスカを傷つけた、ただひとりの人物ってこと?」

 シェトゥーニャが呟く。

「天敵だな」

 サイムスの表情も、いつになく険しくなっている。

「それでセイン男爵な。元々は伯爵だったが、娘マリンカの保護責任を問われて、男爵に降格されていたんだ。

 尋問されて、白状した。王女殿下の命令で、エスカを襲撃した四人と、仲立ちをした侍女を、殺害したそうだ。例の杉の木事件な。

 クーデターを起こそうとしている反体制派を、牽制するためだと言っている。

 男爵が王女殿下に協力すれば、殿下が即位した際に、娘に恩赦が与えられる。無罪放免になると言われて、言うことを聞いたと。

 だが調べてみたら、精神疾患のある受刑者は、その限りではないことがわかった。それで遣り手の弁護士を雇って、娘を逃がした。自分は、どうなってもいいと言っているそうだ。

 薬草事件については、すべて女神殿が仕切っていたようだ。

 外交大臣の秘書を金で雇い、カナーロ父子を殺害。シルデス外務省の事務次官にも、金にモノを言わせて、ドディを利用して女性を殺した。

 この身元不明の女性の名前は、わかったそうだ。何年か前に、地方から家出してきた娘さんだと。親御さんが、遺体を引き取っていったそうだ。 

 神を祀る神殿が、殺人を犯すとはな。すべて口封じのためだったようだ。イシネスでは、神殿は治外法権になっている。これまでなら、何をやっても裁かれることはなかった。

 だが、この度のクーデターで、法改正をしなくてはならないことが、あれこれ出てきた。そのひとつに、神殿問題があがってきたのさ。

 貴族用の刑務所もな。すべて一般人と同様にすべきだという意見が出された。今まで口に出せなかったことを、言えるようになったのは、大いなる進歩だな。

 それで、ラヴェンナでの銃撃と、講堂での狙撃未遂のターゲットだが。やはりエスカだった。

 王女に示唆されたセイン男爵が、ラヴェンナの貧乏貴族に金をばらまいて、やらせた。

結果、貧乏貴族の配下の者数名が死亡したわけだ。

 と言っても、他国の王族を処刑するわけにはいかないからな。それでラヴェンナは、とっとと王女をイシネスに返したがっている。

 イシネスでは、王女を処刑はできないが、男爵は違う。死刑制度がないというのは、一般人に対してだ。軍部ならあり得るよ。他国の兵士を死なせたのだからな。

 それに、セイン男爵は軍人でもある。これから先は、考えないことにしよう」

「そこからは、俺が説明するよ」

 と、アダ。

「マリンカが逃亡したと同じ頃、モリスさんの母君がラドレイに来た。こちらは自家用機だから、機内で会うことはない。

 だが、行く先は山間部の別荘地。奴らもその辺だろう。近所かもしれないんだ。母親同士、顔ぐらいは知っている可能性もある。

 モリスさんは、まだイシネスから動けないしな。クーデター後、イシネスは出入国禁止だ。

 その連絡を受けて、昨日の真夜中にエヴリンと一緒に、別荘地に母君とメイドを迎えに行って来たんだ。

 市街地にある、セキュリティのいいホテルに移ってもらった。もちろん、そこにあの母娘おやこが泊まっていないことを確認してな」

「潜伏しているとすれば、山間部の貸し別荘か、リゾートホテルか、街中にあるホテルってか」

 セダは、励ますようにエスカを見た。

「大丈夫だ。こんな奥地にまでは来ないさ。仮に、エスカがシルデスにいると知っていても、探しようがないだろうよ。この農場から出なければ、安全だよ」

「でも、ウリ・ジオンとアダは、女神殿でマリンカに見られているよ。気をつけないと」

「俺は、今と違って無精髭ぶしょうひげにバンダナで、海賊スタイルだったんだ。スーツ姿だと、ちょっと分からないんじゃないかな。でもウリ・ジオンは」

 と言って、アダはくすくすと笑った。

「『あの巻き毛の坊や、今年も来てる?』とか言って、学院の子たち喜んでたっけ」

 エスカが話をつなぐ。一同、大笑いになった。ウリ・ジオンは照れていたが、シェトゥーニャは、はしゃいだ。

「そうだな。俺が女神殿に行ったのは、最後の一日だけだ。その頃マリンカは、塀の中だったはずだ。だから俺の面は割れていない。ウリ・ジオン、外へは俺が出ることにするよ」

 と、セダ。

「だけど念のため、エスカの側に誰かひとりはいることにしよう」

 サイムス、余計なこと言ってくれるな。うざいじゃないか。

「で、手配書が配られている。今のところ、捜査関係者と、ホテル関係者だけだけど。泳がせて、油断させるためだとさ」

「美人だな」

 コピーされた写真を見て、アルトスは意外そうだ。

「で、成績もいい方?」

 アダが、皮肉な笑いを浮かべた。

「だから、エスカは狙われたんだ」

 と、セダも言う。エスカは、怪訝けげんな顔をした。

「嫉妬だよ。そこそこ美人で、自信もある。頭脳にも自信があった。なのに、どうあがいてもかなわない相手がいた。

 しかも、その子は年下で身分は低い。格好の標的ターゲットだったな」

 俯いたエスカの目から、悔し涙がこぼれた。そんなことで、あんな酷い目に?

「泣かすなよっ!」

 サイムスが立ち上がった。

「無神経じゃないか、セダ!」

「俺とエスカの間には、固い信頼関係があるんだ。これくらいじゃ、びくともしないさ」

 ふたりは、睨み合った。まずい展開になって来た。と、シェトゥーニャが割って入った。

「アルトス。エスカから受けた訓練の中に、証拠を残さずにヤる方法ってある?」

「あるある。幾つでもあるぞ」

「ひとつ教えて。あたしがその女をヤる!」

 エスカは呆れ果てて、涙が引っ込んだ。

「そんなの、ひとつも教えてないだろ。この大ボラ吹き!」

 結局、その夜は大混乱になった。


 翌朝、朝食を終えると、アルトスとサイムスは出かけて行った。アルトスの寮の部屋に、荷物を運びこむそうだ。

 昨日は、サイムスが空港にアルトスを迎えに行き、そのまま農場に来たのだ。

 アニタとリディは、アダと借りた部屋に行く。こちらの引っ越しは済んでいる。レストランには、通うそうだ。午後から、リディの保育所の面接があるという。

 明日は、新しいレストランにホロとグウェンが越して来る。アルトスとサイムスが、手伝うそうだ。サイムスはともかく、アルトスが役に立つのか?

 その三日後は、モリスの店が開店。ふたりは、またも助っ人である。みんなそれぞれ忙しいのだ。

 二軒の開店準備ができたところで、ふたりは農場に来て、農作業を手伝うという。夏休みのスケジュールは、ばっちり決まっているのだ。

 シェトゥーニャは、来週から一ヶ月の巡業に出るそうだ。

「帰るまでに、レッスン場は完成させておくよ」

 母屋の隣に、レッスン場を建てるのだ。廊下で繋げるそうだ。シェトゥーニャは、ご機嫌である。

 エスカは、新学期が始まる前に、事件が解決するよう願った。これ以上の留年は、ごめんだ。

 アニタが帰ったことで、新たな問題が発生した。食事である。本格的にレストランが開店したら、頼れなくなる。今までだって、頼り過ぎていたのだ。

 エスカが回復するまでは、といてくれたのだろう。シェトゥーニャは、時々留守になるから、数のうちに入れない方がいい。

 ウリ・ジオン、セダ、エスカのメンバーで、なんとかしようということになった。なんとかなるか?

 今年、小麦の収穫は望めない。老夫婦に、植え付けをする元気がなかったからだ。

 そのお陰で、安く農場を買えたということもある。秋の種蒔きに備えて、今は土作りをしている。

 来年の収穫時期には、夏休みに入るアルトスとサイムスが、来てくれることになっている。

 エスカは、裏庭に小さな菜園の跡を見つけた。小麦農家だが、家族で食べる野菜は、栽培していたようだ。

「ねえ、あそこで野菜とお花、育てていい? 女神殿でやってたんだ」

「もちろんだ。好きに使いな」

 ウリ・ジオンもセダも、二つ返事でゴーサインを出してくれた。エスカは歓喜して、種の買い付けに、セダと行くことになった。

 その夜、サイムスから電話が来た。今夜は、寮に泊まっているはず。

「マーカス兄貴から、電話があった。エスカの担任の先生に呼び出されたそうだ。それで、コテコテに怒られたって。

 分校の学生課から連絡が入って、エスカの病名を聞いたそうだ。

 『中程度のうつ病? こんなになるまで、気がつかなかったんですか? あなた、保証人といっても実質保護者でしょう?』って調子でな。『おっかなかった』と言っていた」

 サイムスは可笑しそうだ。

「あのマーカス兄貴を怒る人がいるとはな」 

 同感である。

「それでな。マーカスは、この前イシネスに行くにあたって『拉致された自国民の救出』という名目で、軍用ヘリを持ち出したんだ。

 それが成功したし、これまでの功績もあって、准将に昇進したとさ」

「さすがマーカス!」

 エスカも嬉しい。


 翌日には、モリスからもその後の情勢について、エスカに連絡が来た。

「クーデターを起こしたドゥエ准男爵は、あの戦闘の後、南の塔で自害していました。数名の仲間と一緒にね。

 大破たいはした北の塔は、瓦礫がれきを片付けるだけで、再建はしないそうです。王族だけの牢獄は不要ということです。

 元々は、武器庫だったのですが、いつの間にか牢獄になってしまって。

 上階だけ焼けた南の塔は、無事だった部分のみ修復。やることに無駄がないのは、公爵閣下が、陣頭指揮をっておられるからでしょう。

 女神殿は、老朽化していたせいもあり、修復は不可能。もはや危険家屋状態で、立ち入り禁止。取り壊す以外の選択肢はなし。

 巫女さんたちは、学院の宿舎で寝泊まりしています。学院そのものも、継続は無理でしょうね。

 ただ、信徒さんたちがお手伝いしてくれているので、生活はなんとかなっているようです。

 シェルターは、今後は国で管理するようです。全面的に建て替えるほどの財力は、さすがの女神殿にもないそうで。せいぜい粗末な拝殿が精いっぱいかと思われます。

 わたくし的には、それで十分かと。元々、野辺の祈りから始まったことですし」

 エスカも、そう思う。

「主神殿の被害は、大したことはなかったようですが、元々、お金持ちではない所なので」

 モリスは苦笑した。


 二軒の引っ越しが済んで、アルトスとサイムスは、農場に帰って来た。役に立てたということで、ふたりはご機嫌だった。

 ただ、ホロの店でホールに人手が欲しいと言う。厨房にホロとグウェン、ホールはアニタが仕切っていたが、想定外の客入りだったためだ。

 ウリ・ジオンが適任かと思われたが、農場ではやることが山積みである。

「僕やってみたい!」

 エスカが手を上げたが、全員に即座に却下された。

「ここから出るなって、言ったろ! それにお前、未成年じゃないか」

 アルトスが睨む。

 結局、ウリ・ジオンが行くことになった。アルトスとサイムスでは、圧が強すぎて、客の食欲が減退するのではないかというのだ。

 農場での肉体労働は、ふたりに任せることになった。

「明日の午前中に、お前の畑を耕すよ。機械でやるから、簡単だ。午後仕入れに行こう。種とか買いに」

 セダが張り切っている。

「出て、大丈夫か?」

「農業組合のマーケットは、広い倉庫を使ってるんだ。観光客が来るような所じゃないよ」


 翌日、ウリ・ジオンは出かけていった。セダが畑を作っている間、アルトスとサイムスは、鶏小屋と納屋を修繕することになった。

「鶏は、夜小屋に入れるんだよ。狐が狙って来るんだ。綺麗な銀狐でな。いつも腹を空かせているんだが、鶏を差し出すわけにはいかんだろ」

「狐って、イヌ科だよね。ドッグフード食べるかな?」

「腹が空けば、食べるんじゃないか?」

「じゃあ、今日ドッグフード買って来ていい?」

「いいよ。お前、狐好きなのか?」

「僕はただ、動物がお腹空かせてるの、我慢できないだけだ」

 セダは、嬉しそうに微笑んだ。

 今日の作業は、アルトスが板を釘で打つ。サイムスは、レンガを積み立てるそうだ。

「アルトスは、あれで器用なんだよ。俺が釘を打つと、なぜか曲がるんだ」

「ほう。釘の根性が曲がっているから、とでも?」

 セダが、皮肉混じりに言う。『バカッ』と、エスカは声を出さずにセダを叱りつける。セダは、鼻で笑った。

 モルタルをコテでねていたサイムスは下を向いたまま、それでもはっきり答えた。

「いつだって、俺は素直に話しているよ。それを曲げて取る方が悪い」

 空気が動いた。セダがサイムスの胸ぐらを掴んで、立ち上がらせたのだ。エスカが止める間もない、素早い動きだった。

 セダは突然、サイムスにキスをした。エスカは仰天して、その場から転げるように逃げ出した。見てはいけないものを、見てしまった気がした。

 そのまま、アルトスの作業現場に行く。アルトスは、リズミカルに金づちを振るっている。エスカは、まだ胸の動悸が収まらない。

「ん? どうした」

「あ、サイムスとセダが」

「喧嘩か?」

 エスカは、首を横に振った。

「お!」

 と、アルトスは金づちを放り出した。何事か、察知したようだ。ふたりで、そうっとサイムスの作業現場に行ってみた。

 物陰から覗いて見ると、ふたりは仲良く地面に座り込んでいる。セダがサイムスの肩を抱いて、何事か話しかけていた。

 エスカとアルトスは、そっとその場から離れた。元の場所に戻り、ふたりは大きく息を吐いた。

「よかった。やっとくっついたか」

 アルトスの嬉しそうな顔を見て、エスカの表情も緩んだ。この人、心配していたんだ。そういう素振りは、見せなかったけど。

 午前中の仕事は、はかどらないのだけは、予想できた。結果、買い物は翌日に延期になった。

 シェトゥーニャのレッスン場工事だけは、予定通りに進んだ。業者がやっているからだ。

 夕暮れ時、セダが鶏を小屋に入れて、一同は住まいに帰った。アルトスは、ひとり外に残った。広い所で歌うと言う。ここなら、どんなに声を張り上げても、近所迷惑にはならない。

 エスカが、シャワーを浴びていると、アルトスの美声が聞こえた。着替えて外に出てみると、草むらで歌っているアルトスが見えた。

 周囲の枝に、小鳥が集まっている。地面では、リスやウサギ、野良猫が座りこんで、拝聴していた。少し離れた所で、白っぽい毛色の狐の姿が見え隠れしている。セダが言っていた狐だろう。

「あの子、ひとりぼっちなんだ」

 エスカが呟く。

「なんだ、あの鳥や動物は?」

 頭の上から、セダの声が聞こえた。

「アルトスが、シャーマンだからだよ」

「さすがアルトス」

 サイムスも来ている。ふたりは、手を繋いでいた。はいはい。

「ねえセダ。なんて言って、会長に辞表受け取ってもらったの?」

「こうなったら、正直に言うしかないと思ってな。『恋人について行きます』と言ったんだ。

『恋人?』 

『サイムスです』

 と言うと、驚かれた。

『上手くいっているのか?』

『半分は決まっています』

『半分とは?』

『ふたりのうち、ひとりの気持ちは決まっているのだから、半分です』

 と言ったら、大笑いされたよ。それで『グッドラック』と」  

 エスカも大笑いした。駱駝もいいところあるじゃないか。

「ふたり決まっていたんだけどな」

 サイムスは、口の中で何やらぼそぼそ呟いている。嬉しそうだ。

 その時、エスカの携帯に着信があった。ウリ・ジオンだ。エスカはその場を離れて、屋内に入る。

 階段を登りながら、エスカは電話に出た。

「やあ、仕事終わった?」

「まだまだ。今休憩中。モリスさんから連絡が来た」

 モリスとディルからの連絡窓口は、ウリ・ジオンが引き受けている。

「五日ほど前に、イシネスの王女と侍女が、ラヴェンナからイシネスに護送されて来た。それで三日前に、王女が亡くなったそうだ。服毒自殺だった。安らかな死に顔だったそうだ」

 エスカは沈黙した。やはり、その道を選んだか。

「嫌な質問して悪いけど、お前、何もしてないよな? あの、王女が短剣持って狙ってきた時さ」

「してない。僕、そういうのはしないことに決めたんだ。自分で判断することだから」

「分かった。ごめんな。それで、あの侍女だが。王女が亡くなる前日に、脳内出血で倒れた。異常な苦しみ方で、まだ生きてるってさ。

 出血の具合からして、生きているのが不思議だと、医師団は言っているそうだ」

「……その侍女が、王女を焚きつけていたんだと思う。罪は重いな。でも、決断したのは、王女だから」

 真の黒幕は、霊廟の怨念。だが、浄化された。これですべて終わった。重い沈黙の中、エスカは気を取り直して言った。

「こちらは、いい報告があるよ。セダとサイムスが、うまくいってる」

「そうか! やっとか!」

 ウリ・ジオンの声が、弾んだ。

「アダにも、教えてやろう」

 一応、明るい気分で通話を終えた。

 その夜、エスカは枕に突っ伏して、大泣きした。ただひとりの身内である姉を亡くして、完全に天涯孤独になった。自身が死に追いやったも同然である。鬼畜の所業ではないか。いずれ神罰が降されるだろう。覚悟はできている。

 これでマリンカの件が片づいたら、エスカは完全にイシネスと縁が切れる。それは、いいことかも知れないのだが。


 翌日の午後、エスカとセダは、組合に買い物に出かけた。エスカはエアバイクで、セダはエアカーで。

「大きい買い物するなら、セダひとりで乗る方がいいでしょ。僕、久しぶりにエアバイクに乗りたい」

 全快したのだ。

「杉の木に衝突するなよ」

 セダはご機嫌で、エスカをからかった。シブいオジさんの魅力全開である。

 エスカは、セダのエアカーの後に付いて飛んだ。絶好調だ。組合は、農場から一時間半の距離にあった。市街より、やや近い程度である。

 エスカは、駐輪場にエアバイクを停めた。駐車場にエアカーを停めたセダに付いて、店内に入る。

 巨大な倉庫には、大型の農機具から小さな種や球根まで、さまざまな農業関係の品が、陳列されていた。

 エスカは、目を輝かせた。いくらイシネスから離れたいと思っても、これまで受けた影響は、否定できないのだ。そのひとつが、植物に対する興味である。

 セダと顔馴染みの中年の店員が、エスカを見て目を丸くした。

「えらい美形だな」

「知り合いの子を、預かっているんだ」

「へぇ。で、どっちだ?」

「当ててみな」

 ふたりの会話を背中で聞いて、エスカは店内を見て回った。お目当ての物は、すぐに見つかった。

「ねえ、これ買っていい? 納屋を調べたけど、なかったんだ」

「土壌酸度計? 何に使うんだ?」

「土のペーハーを測るの」

「何だかよく分からんが、欲しい物はみんなこのカートに入れな」

 そんなに甘くていいのか? 幾らまでとか、幾つまでとか、制限した方がいいと思うけど。

 サイムスとうまくいってるせいか、セダは落ち着いて、エスカとの買い物を楽しんでいるようだ。

「消石灰いるか?」

「多分いる」

「じゃあ、多めに買っておこう。あのふたりがいるうちに、ビニールハウスも作ろうな」

 エスカは案内板を見て、種と球根の売り場に行った。高い棚の陰になり、セダの姿は見えなくなった。

 レジの横に置かれたラジオから、軽快な音楽が流れている。エスカは、この平和を楽しんだ。

 突如、ラジオの音楽がニュースに切り替わった。

『臨時ニュースを申し上げます。先ほど、ラドレイ市内の美術品店に強盗が押し入り、人質を取って立てこもっているということです』

 エスカは、手にした種の袋をそっと元に戻した。強盗ではない。生来の勘とでも言おうか。エスカのアンテナに、引っかかるものがあった。

『続報が入りました。その店は、イシネスの美術品を扱う、開店したばかりの……』

 エスカはみなまで聞かず、倉庫を飛び出して、エアバイクに跨がった。慌てて飛び出して来たセダの姿が、目に入った。

 空中を飛ぶエアバイクに乗ったエスカに、力がみなぎって来た。切望していた、懐かしい力だ。だが、まだまだ戦えるレベルではない。完全に復活するには時間がいる。霊力に頼らずに解決しなくてはならない。  

 現場に近づくと、人だかりが見えた。黄色の規制線が張られている。少し離れた所にエアバイクを停め、携帯を取り出した。

「准将? エスカです。立てこもり事件の現場にいます。准将の携帯そのままにしておいてね。ライブ中継するから」

「こらこら」

 と言う声を聞いて、エスカは携帯をポケットに入れる。規制線をくぐろうとすると、警官に止められた。

「関係者です。通してください」

 折しも、店内から甲高かんだかい女性の声がした。

「だから、エスカを呼びなさいって言ってるのよ! シルデスにいるのは、分かってるんだから!」

 あの、シルデスは、イシネスよりうんと広い国なんですが。それに、エスカって名前の人は、一人じゃないと思いますが。

 エスカは、騒ぎの真ん中に、署長と曹長を見つけた。

「署長〜!」

 エスカは、馴れ馴れしく署長を呼んだ。ぎょっとして振り向く署長。そう言えば、あいつもエスカだったと、思い出したようだ。 署長に促されて、カバ、ではないニルズ曹長がやって来た。

「野次馬根性なら、お断りだよ」

「関係者だって。同級生だから、僕のこと言ってるんだと思うよ。説得するから、通してください」

「一般人に、危険なことはさせられん」

 ご尤もではありますが。

「じゃあ、何かいい考えあるの?」

 曹長が、ぐっと詰まった隙をついて、エスカは規制線を潜り抜けると、店に向かって走り出した。

「おい、コラ!」

 向うから、署長が叫ぶ。

「止めろ!」

 エスカは、人だかりと店の中間辺りで止まった。

「やあ、マリンカ。来たよ。中に入れてくれる?」

 数秒の沈黙。やがて、ドアがわずかに開いた。エスカは走り寄り、するりと中に入りこんだ。

 案の定、マリンカが拳銃を手に、ドアに向かって仁王立ちしている。エスカは、さっと店内を見回した。三人の女性が、床に座らされている。

 店員のエヴリンが、大きく目を見開いて、エスカを見た。困惑しているが、恐怖の色はない。さすがサイムスの姉である。

 頭髪の中央は白、左右は赤と青に染め分けられている。三色旗か? 自由、平等、博愛ってか?

 弟のサイムスに恥をかかせる姉だが、真面目の上に何かが付くモリスと意気投合したと言うから、世の中分からない。

 人質は、あとふたり。エスカは、一瞬、信じられない光景を見た気がした。

 エスカとそっくりな瞳の、ふたりの女性。何で、こんな時にこんな所に、旅行になんか来るんだよ! ウリ・ジオンの母親と妹である。

 やはり、怯えてはいない。おとなしくしているだけの知恵がある。肚も据わっている。生まれと育ちが、モノをいっているようだ。

 妹のオッタヴィアは、謂わばウリ・ジオンの女の子版。黒いくるくる巻き毛と、バンビみたいな愛嬌のある瞳。この子、モテるだろうな。

 隣のヴィットリアは、体型こそ若い頃のままを維持しているが、眉間の縦じわに、剣呑な色が漂う。

 若い頃は、オッタヴィアとそっくりだったかも知れない。あの駱駝が陥落したと思うと、いっそ痛快である。

「早速出て来たのは、感心ね」

 マリンカは、得意満面である。

「僕が来たんだから、人質は解放してよ」

「ふん。逃げる時は、あんたひとりでいいけど、それまでは大事なコマよ」

 半端に頭がいいと困る。

「そこのおふたりは、ラヴェンナ王室ゆかりの方だよ。解放した方がいいと思うけどな。ラヴェンナに死刑制度があるの、知ってる?」

「脅迫する気?」

「とんでもない。事実を言ってるだけ。それに、タンツ商会の会長夫人とご令嬢でもある。人質としては、大物すぎない?

 それにそこの女性は」

 エスカは、准将が聞き耳を立てているのを知っているから、少し声を上げた。

「シルデス軍警察の、泣く子も黙るエラ〜イ鬼准将の妹さんだ。解放してあげた方が、警察の心象がいいんじゃないかな」

 エヴリンは、下を向いた。笑っているようだ。

 准将の携帯を通じて、署長もこの会話を聞いているだろう。これで、人質の人数と名前は分かったはずだ。

「お母さんと一緒じゃなかったの? マリンカ」

 だから、捜査の目をくぐり抜けられたのだ。警察は、母と娘のセットで探していただろうから。

「あたしのやること為すこと、何でも反対してうるさいから、刺してきちゃった」

「さ、刺してって、自分のお母さんを?」

 信じられない。母親のいない子だっているのに。

「そう。家庭問題だから、口出ししないで」

 そういう問題か?

「それで、どこにいるの? 君のお母さん」

「山の中のホテルよ。ビューなんとか」

「部屋番号は?」

「七〇二。生きてるかどうかは、知らない」

 これで、ラドレイ署が動くだろう。

「ねえ、こんなことした目的を教えてくれない?」

「あんたを抹殺するために、決まってんでしょ! あんたのせいで、人生狂わされたんだから」

 意味不明である。人生を中断させられそうになったのは、エスカである。

「あの、僕、君に大怪我させられたんだけど」

「ああ。あれは、いい気味だったわよね。ちょっとは懲りた?」

「そのせいで、君、医療刑務所に入れられたんじゃないの?」

「そう! それで人生設計、狂っちゃったのよね」

 人質の三人にも、マリンカの異常さが分かってきたようだ。顔を見合わせている。

「何で、僕が生きてるって分かったのさ?」

「学院長が、ラドレイの留置場から連絡くれたのよ」

 イェルダのクソ婆ぁ。

「あんたさえいなければ、あたし今頃、カシュービアンさまと結婚していたはずなのに!」

 何を言っているんだろう?

「あたし、ずっと狙っていたのよ。婚約者の王女殿下と、上手くいっていないって聞いて。あたし、その頃は伯爵令嬢だったから、望みはあったのよ。

 だのに、あんたが横入りして御小姓になったでしょ? その時のあたしの気持ち、分かる?」  

「それは、単なる噂だよ」

「うるさい! それなのに、あんたに怪我させたことぐらいで、刑務所に入れられるわ、お父様は男爵に降格させられるわ。踏んだり蹴ったりよ!」

「で、でも、公爵閣下は独身主義だと聞いたけど?」

 マリンカは、高笑いした。

「そんなの、このあたしに会えば、気が変わるに決まってるでしょう!」

 我慢の限界に達したエスカは、堪え切れずに笑い出した。かっとなったマリンカが、引き金に力を込めようとした時、奥の事務室のドアが静かに開いた。一筋の光が、音もなく走る。

 マリンカは、背後から電撃を受けて、俯せに倒れた。同時に発射されたマリンカの弾丸をのけ反って避けたエスカは、仰向けに倒れた。

「エスカッ!」

 エヴリンが駆け寄る。その時、軍警察の突撃隊が、ドアを蹴破って突入してきた。

 一瞬遅れて、事務室のドアから五人の男が乱入する。アルトス、ウリ・ジオン、サイムス、アダ、セダである。

 どこから入ったのだ? モリスに、秘密の隠し通路でも教えてもらったのかもしれない。

 全員丸腰である。アルトスは、身体そのものが武器だからいいとしても、無謀ではないか。

 突撃隊の後から、曹長と署長が駆け込んで来た。倒れているマリンカを見て、警官が駆け寄った。

「生きています。何かの発作のようです」

「救急車に運べ!」

 既に、救急車は待機していたようだ。アルトスが狙ったのは、足首の目立たない部分である。さすがとしか言いようがない。せいぜい蜂に刺されたぐらいの痕跡だろう。指先を使っただけだから。

 マリンカは意識はあるが、全身が痺れていて言葉も出ない。びくびくと痙攣している。

 エスカは、エヴリンに支えられて上半身を起こした。床に上等な絨毯が敷かれていたため、脳震盪のうしんとうは起こさずに済んだ。なんとか防御もしていたから、せいぜい小さいコブだろう。

「テンカンかしら?」

「突然、倒れたのよね」

 人質たちは、不思議そうである。

「き、君たちはなんだね!」

 きつい調子で、五人の男に詰問した署長の袖を、ニルズ曹長が引いた。

「まずいです。ほら、この前の」

 と、アルトスとサイムスを指さした。すっと、アダが前に出た。

「わたしは、店長のアダ・バランです。こちらは、店員のエヴリン・パルツィ。お騒がせして、申しわけありません」

「パ、パルツィ」

 と、引く署長と曹長。本当に准将の妹だったのか。

「僕は、ウリ・ジオン。そのふたりの家族です」

 愛想よく自己紹介する、ウリ・ジオン。

「わたくしは、ヴィットリア・タンツ。この子は、娘のオッタヴィアですの」

「は、はい。そのようで……」 

 めんどくさいことになったと、署長と曹長の顔が歪む。

「俺は、アルトス・パルツィ。臣籍降下したんでね」

「パルツィ……」

 王族の方がマシだったと、署長と曹長の顔に書いてある。

「わたしは、この前挨拶したよね。サイムス・パルツィ。エヴリンの弟だよ」

「で、そちらは?」

 署長は、セダに視線を移した。

「セダ・ドロア。こいつのパートナーだ」

 言いながら、サイムスの肩を引き寄せた。署長より、二十才以上年下かと思われるセダだが、なぜか署長の上司に見えた。

「人質の方も含めて、これから事情聴取を行ないますので、皆さん署までご同行を」

 言いかけた署長に、電話が入った。店の隅っこで、小さくなって応答する署長。

 オッタヴィアが、さり気なくアルトスに近づくのを、エスカは見た。オッタヴィアは、背伸びをしてアルトスに囁く。

「さっき、何かしたでしょ。あたし、見たんだから」

 アルトスは、余裕の笑みを浮かべ、オッタヴィアの唇に人差し指を立てた。内緒だよ。オッタヴィアは、目をいたずらっぽく動かすと、素早くアルトスの人差し指にキスをした。見事なアプローチである。エスカなら、あかんべえをするところだ。     

 一部始終を見ていたエスカは、呆れていた。今、この時この場所で、挑発ごっこなどやってる場合か! 

 エスカは、肚を括って店内に入って来たのだ。それが、このお気楽さ。真剣だったのは、自分だけか。自分が道化師にでもなった気分である。何もかも馬鹿馬鹿しくなった。

 アルトスはと言えば、鷹揚な笑顔で手を振り、オッタヴィアから離れた。オッタヴィアは、今度はウリ・ジオンに近づいた。

「ねえ、アルトスって素敵ね?」

 ウリ・ジオンは、柔和な笑みで妹を見た。

「そうだね。でも、叔父さんと姪っ子だからなぁ」

「あ、そっか。残念」

 オッタヴィアは、屈託なく笑った。なんと平和なことか。エスカはがっくりと力が抜けて、近くの椅子にへたり込んだ。肩に誰かの手が触れる。

「ありがとうエスカ。疲れたでしょう?」

 エヴリンが、労ってくれた。アダも来た。

「本当にありがとう。みんな無事だったのは、エスカのお陰だよ」

 その時、奥で電話が鳴った。

「あ、社長に報告しないとな」

 アダが奥に引っ込むと、ニルズ曹長がやって来た。

「お疲れさん」

 ぽんぽんと、エスカの肩を叩く。見ると、大して大きくない目が、さらに細くなっている。思いのほか、優しい目である。

 エヘと、エスカは笑顔を見せた。この人をカバと言うのはやめよう。入り口の近くにいる警官が、エスカを見て笑顔で頷いた。曹長の相棒である。目礼を返すエスカ。

 署長が、電話を終えて戻って来た。

「ええっと。今日のところはこのへんで。皆さん、お疲れでしょうから、明日お話を伺います。連絡先を教えておいてください」

 さっきの電話は、准将からだったようだ。

「あの、マリンカのお母さんは無事でしたか?」

 署長が煩そうにエスカを見た。

「出血多量で死亡していたそうだ」

「マリンカは、イシネスに強制送還だな」

 とセダ。

「兄貴のことだから、着払いだろうな」

 とサイムス。

 「仮釈放なしの終身刑だな」

 とアルトス。

 タンツ会長夫人が、こほんと咳払いをした。

「わたくしたちは、弁護士に立ち会ってもらいますわ。シボレスから参りますので、午後にお願い致します。それから、あなた」

 と、ヴィットリアはエヴリンを呼んだ。

「あの猫脚のテーブルと、あちらの飾り棚、いただくわ。明日、ラドレイ支社の者が契約に来ますから、よろしくね。シボレスまで運んでいただけるわよね?」

「もちろんでございますわ。送料無料でお運びさせていただきます」

 テーブルも飾り棚も、一般人の平均年収ほどの価格である。それを、本を買うような感覚で買った金持ち母娘は、ご機嫌で帰ろうとした。

「ねーちゃん、ちゃんとした挨拶できるんだな」

 エヴリンは背伸びをして、ぴしゃりとサイムスの頭を叩いた。

「お待ち下さい」

 セダの声が響く。

「おふた方、命の恩人にお礼の言葉ひとつもなしで?」

 一同、唖然とした。そうだった、忘れていた、という雰囲気である。オッタヴィアが振り向いて、エスカに丁寧に頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました」

 ヴィットリアは振り向きもせず、店を出て行こうとした。アルトスのことも、完全に無視している。甥なのに。

「ヴィットリア!」

 叱咤の声が店内に響き渡った。

「自身の命のみならず、ふたりの子どもたちの命も救ってくれた大恩人に、感謝の気持ちはないのか! それでも母親かっ!」

 一同は、唖然とウリ・ジオンを見た。ウリ・ジオンの怒号を聞いたのは、初めてだったのだ。サイムスとセダは顔を見合わせた。『あいつ、怒鳴り方を知っていたのか?』とふたりの顔に書いてある。

 ニルズ曹長と相棒の警官が、我が意を得たりとばかりに頷くのを、エスカは見た。立ち上がろうとして、エスカはふらついた。エヴリンが後ろから支えてくれる。

 会長夫人はゆっくり振り向くと、エスカに向かって丁寧にお辞儀をした。さすが元王族。実に美しいお辞儀だった。それから、何事もなかったように出て行った。

 エスカは、あのウリ・ジオンのひとことで、これまでの苦労が報われた気がした。 

「お開きにしようか」

 アダの声がけで、座の空気が和らいだ。

 アダとエヴリンは、店の片付けがあるから残ることになった。残るみんなは、ホロの店で腹ごしらえをしてから帰ることに、話がまとまった。。辺りは、薄暗くなり始めている。

「あ!」

 エスカは思い出した。

「僕帰る。鶏を、小屋に入れなくちゃ」

「それなら俺がやるから、お前はホロの」

 セダの言葉をみなまで聞かず、エスカはエアバイクに乗った。

「ドッグフード、買ってきてね」

 エスカは、あっと言う間に飛び去った。

 みんなで食事は楽しい。だが、それどころではない。何か落ち着かない。早く帰らなくてはならない。何かがエスカをせっついた。

 農場に着く頃には、完全に陽が落ちていた。感心なことに、五羽の鶏たちは自ら小屋に入っていた。安全な場所を知っているのだろう。

 エスカはドアを閉め、餌を与えた。外に出て、鍵をかける。狐は利口だから、ドアを開けると聞いていた。

 周囲を見渡すと、鶏小屋を囲む柵の外に、くだんの狐がいた。じっとエスカを見ている。何となく、この狐は空腹にも関わらず、鶏を狙っているのではないような気がした。

 エアカーの音がする。セダが、ドッグフードを買って帰って来たのだ。

「アルトスとサイムスが、ホロの飯持って来てくれるぞ」

 セダはフードの他に、餌と水の容器をはめ込む仕様になっている、テーブルのような物を買ってきてくれた。食器も、ボウル型である。

「狐は口吻が長いから、この方が食べやすいだろう」

 セダは、よく気がつく。エスカは早速、中身入りのテーブルを狐の元に運んだ。見ていると食べないかもしれないから、エスカはすぐに引き下がるつもりだった。

 だが狐は、じっとエスカを見つめ、フードの匂いを嗅ぐと食べ始めた。カリカリと、フードを咀嚼する音。エスカは、その場にしゃがみこんだ。

『待っていたぞ』

 突然、懐かしい声が脳裡に響いた。

『帰って来たの?』

『いや、別れの挨拶に寄っただけだ』

『別れ……』

『そうだよ。ここでのわたしの仕事は、終わった。次に行かねばならない』

『もう闘いは、ないってこと?』

『わたしが出張るのはな。あとは、そなた自身で対処できるはずだ。その狐は、お袋さまからのご褒美だよ』

『オーランさまから?』

『そうだ。そなたはよくやったからな。

 その狐は、もうじき一才になる女の子だ。霊峰オーランの麓で生まれた。生まれつき、左後ろ脚が動かない。

 春になって巣穴から出て来た時に、母狐に置いていかれた。他の三匹は連れて行ったがな。

 母狐の苦渋の決断だったことを、分かってほしい』

 エスカは、無言で頭を下げた。置いていかれた子。母親の苦渋の決断。

『お袋さまが、その子の成長を見守ってきた。ここが落ち着いたので、わたしが預かってきたのだよ。

 その狐は、うんと長生きをする。ずっとそなたと一緒だ。そなたは、その狐を守る。その狐は、そなたを守る』

 エスカは頷いた。涙が零れた。

『ありがとうございます』

 エスカは、名も知らぬ守護神に、心からの礼を言った。

『なんの。礼を言うのは、わたしの方だ。見事な生きざまを見せてもらった。

 では行く。達者で暮らせ。

 さらば、エスカ』

 エスカの背が、軽くなった気がした。

「おーい。飯が届いたぞー!」 

 アルトスの声。エスカは、涙を拭った。この子が慣れたら、獣医さんに診てもらおう。ワクチンも打ってもらって。

 たっぷり食べて、お腹がいっぱいになったのか、狐はエスカの足元に寝そべった。エスカが共に暮らす相手だと、初めから知っていたかのように。エスカは、そっと腹を撫でる。

 そうだ、名前をつけないとな。

 ナントカ姫とか、カントカ王女とか言うのが似合う名前にしよう。

                     

                               完

                                

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二つ名のエスカ @muchas_hojas

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る