第13話 エスカの手

 ラドレイ市に来て一週間。これまでの遅れを取り戻すべく、エスカは寮の自室で勉強に励んだ。

 通学部に転部するのは、新学期からだ。新しい環境に慣れるのには、いいタイミングで越して来た。ラサリ先生の配慮がありがたい。

 久しぶりに気分転換しようと、日曜日の午後、エスカは街に出た。

 徒歩十五分ほどの所に、図書館がある。身分証を呈示して、カードを作ってもらった。気軽に読めそうな本を借りて、付近の散策を楽しむことにした。

 初夏の心地よい風に当たりながら、川沿いを歩く。百日紅さるすべりの赤い花が、咲き初めている。オープンカフェのテーブルが並んでいるのを見つけ、休憩することにした。

 無職の学生の身分としては、贅沢だなと思いながら、木陰の席で冷たいお茶を楽しんだ。不意に、耳にイシネス語が飛び込んで来た。エスカの背後からである。

 肩越しにそっと見る。初老の女性、中年の男性、若い女性が三人。エスカは、サングラスを取り出した。

 ラドレイは、最もイシネスに近い。観光客も来るだろう。逆に、シルデスからイシネスに、観光客は滅多に行かない。イシネスは閉鎖的な上、観光地が少ないせいだろう。

 ラドレイに住むということは、イシネス時代の知人に会う可能性がある。

 エスカの知人など、数が知れているので、現実的な危機感はもっていなかった。なのに早速これか。エスカは、気持ちを引き締めた。

 初老の女性は、よく知っている。女神殿の元学院長イェルダ。伯爵令嬢マリンカのエスカ殺害未遂事件に連座した形で、解雇、破門された人だ。

 若い女性三人は、マリンカの金魚のフン。マリンカとともに、退学処分になったと聞いた。

 マリンカのように逮捕されたのではないから、転校できたかも知れない。

 残る男性について、エスカは、何となく見覚えがあるような気がする程度である。

「本当に奇遇ですわね。このような所でお会いできるなんて。モリス男爵閣下」

 モリス男爵。火だるまのエスカの黒幕ではないか。エスカは、身を縮めた。

「いや、元ですよ。男爵は勘弁してください」

 想像していたより、ソフトな声である。

「皆さんは、ご旅行ですか?」

「そう! あたしたち、卒業旅行なの」

「わたくしは、求職中でしてね。とある女子校で、校長を募集していると聞きまして。

 イシネスで探してみましたけど、誹謗中傷が酷くてね。ここなら、噂も届かないと思いましたんですの。男爵閣下もご旅行で?」

「いや、仕事です。今や一般人ですからね。働かないと」

「悔しくございません? 貴族でいらしたのに」

「いや、自業自得だと思っておりますので」

「そんなこと、ございませんわよ」

 イェルダは、身を乗り出したようだ。

「この子たちとは、飛行機で会いましたの。それで話が弾みまして。

 わたくしたち、みんな女神殿に酷い目に遭わされていますでしょ。一番悪いのは、あのエスカですけど。

 でも、死んでしまいましたからね。仕返しすることはできません。それなら、代わりに女神殿に」

 ひとり、立ち上がった気配がする。

「失礼。わたしたちは、出会いませんでした。何も話しあっては、おりません。今のお言葉を実行なさろうとするなら、通報させていただきます」

 モリスは、そのまま去ろうとした。エスカの横を通り過ぎる。直後、空気が激しく揺れた。後を追おうとするイェルダの手に、光るものがある。

 エスカは、咄嗟に片足を差し出した。イェルダが、つんのめって転倒する。気配に振り向いたモリスは、驚愕の表情を浮かべた。エスカを見てか、ナイフを見てかは、分からない。

 エスカは立ち上がり、その場を離れようとした。巻き込まれるのはまずい。その時、金魚のフンのひとりが叫んだ。

「あの人が、足を引っ掛けたのよ!」

 どこまで邪魔する気だ。


「何であたしが尋問されるの?」

 無駄と知りつつ、エスカは逆らってみた。相手は、まだ若い警官。『ニルズ』のネームタグを付けている。同僚から『曹長』と呼ばれるのを聞いた。

「傷害罪だよ。君に足を引っかけられた女性が、膝小僧を擦りむいたんだからな」

「あの人、ナイフを持って男の人を刺そうとしたから、止めたんですけど」

「それは、あの女性と男性の問題。君は学生だね。保護者は?」

「保証人は、シボレスにいます。電話したいんですけど」

「子どもに、その権利はないよ」

「未成年に、成人の同伴なしで尋問する権利、ないでしょ」

「なにぃ!」

 曹長殿は顔を真っ赤にして、椅子を蹴った。ドア付近に立っていた警官が近づいて、曹長に耳打ちする。曹長は、悔しそうに舌打ちをして、エスカに携帯を投げつけた。

 ふたりが退室したのを見て、エスカは大佐に電話した。この際、虎の威を借るしかない。モリスに鉢合わせする前に、ここを出たい。

 幸い、大佐はすぐに電話に出た。

「エスカです」

 のひと言で、大佐の声が弾んだ。

「おう! 元気か?」

「それが、ラドレイ署で尋問受けてて」

 言いながら、エスカはやっぱり自分はトラブルメーカーなんだろうかと思った。いきさつを説明する。相手は、イシネスでの知人だということだけを話した。

「後で説明します」

 と言って、口止めをした。

「よし、分かった。少し辛抱していてくれ。そこの署長に連絡する」

 やれやれ。エスカは目を閉じて、休憩することにした。電話が終わった頃を見計らって、曹長殿が戻って来た。

「気が済んだか? まったく可愛げのない小娘だ。そんなんじゃ、嫁の貰い手はないな」

「アンタにもらってほしいなんて、思ってないわよ。このカバ」

 思わず口に出た。

「な、なんだとォ!」   

 興奮して立ち上がった。気の短い男だ。その時、勢いよくドアが開いた。

「ニルズ曹長! 何をやっている!」

 おエライさんの登場か。曹長は、慌てて腰を下ろした。

「し、署長! こ、こいつが」

 署長は、手で曹長を制した。

「傷害事件を未然に防いだ方を、尋問する理由があるのか! 大変、失礼を致しました。どうぞ、お引きとりください」

 署長は、エスカに丁重に頭を下げ、手のひらで出口を指した。

「出口まで、ご案内させていただきます」

「それには及びませんよ。失礼します」

 エスカが、そそくさとその場を立ち去ろうとすると、署長が袖を引いた。

「パルツィ大佐に、よしなにお伝えください」

 エスカは、にっこり笑って頷いて見せた。ほっとひと安心の署長を後に、エスカは小走りで、廊下の角を曲がった。鬼大佐の名は、ここまで届いているらしい。

 前方に、モリスが立っているのが見える。待ち構えていたのだろうか。まずい! 見えなかったことにして、通り過ぎよう。

 すると、玄関の方からアルトスとサイムスが走って来るではないか。何でここにいる?

「エスカ! 無事か?」

 アルトスの大馬鹿野郎! モリスが、エスカの行く手を阻むように、立ち塞がった。

「やはり、生きておられたのですね」

 泣き顔になっている。まずい。エスカは、声を張り上げた。

「遅いじゃないの! あたし、カバみたいな曹長から、さんざん意地悪言われたのよ! もう少しで殴られそうだったんだから!」

 声を聞きつけて、署長以下数名が駆けつけた。カバ曹長もいる。

 他の署員たちは、顔を見合わせて笑いを堪えている様子。曹長の顔は、カバに似ていなくもないのだ。エスカの悪口雑言は、常に正鵠を射ている。

「あなたたちは?」

 さすがに、署長は冷静である。受け付けをすっ飛ばして走りこんできた若者たちに、不審感を抱いたのだろう。

「アルトス・デ・ラヴェンナ」

 一同のけ反った。オレンジの髪の美貌の王族。見間違えようはずはない。

「この子は、俺の愛人だが」

「わたしは、アルトス殿下の護衛官サイムス・パルツィ」

 サイムスは、『パルツィ』を強調した。

「パ、パルツィさんと仰ると、大佐の……」

「弟です」

 署長は、卒倒寸前である。エスカは、アルトスの袖を引張った。

「もういいから、帰りましょ」

「ああ、お前がいいならな」

 呆然と立ち尽くす一同を尻目に、三人は向きを変えた。エスカはモリスに、目でついて来るよう合図をする。

 モリスは署員たちに会釈をして、共に警察署を後にした。

「どこか、落ち着いて話せる所ある?」

「なら、ホテルに行こう。部屋を取ってあるんだ」

「何で?」

「お前、俺との交信、断つなと言っとろうが! それを一週間も!」

「まだ一週間でしょ」

「さっき、マーカスから連絡があったんだよ。ラドレイ署にいるから、引き取りに行けって」

 サイムスが説明してくれた。アルトスは、エスカの手を引いてずんずん歩く。

「あのさ、夕食時だから、何か買って行こうよ」

 いつ何どきでも、食事を忘れないサイムスである。

「ご一緒にどうぞ」

 エスカは、笑顔でモリスを誘った。

 アルトスのホテルは、スイートルームだった。

「最後の贅沢だよ」

 サイムスも、ご機嫌だ。スイートルームで、買ってきたフィッシュアンドチップスを食べる。

「やはり揚げたては、美味しいですね」

 モリスは嬉しそうだ。

 エスカには、意外だった。もっと気の小さい男かと思っていたのだが。気兼ねや遠慮がなく、自然体である。

 食べ終えて、エスカがお茶を淹れようとすると、サイムスが手伝ってくれた。モリスは、お茶をひと口飲むとエスカを見た。

「申し遅れました。わたくしは、アーロン・モリス。『火だるまのエスカ』の元凶となった者です」

 アルトスとサイムスは、きょとんとしている。

「長くなりますが、お聞きください。

 二年近く前になりますか。わたくしが、女神殿近くの裏山を散策していた時です。女神殿の敷地内で、薬草摘みをしている若い巫女さんたちの姿が見えました。

 その中にひとり、なぜか少年がおりまして、たまたま目が合いました。

 その少年は会釈をしてくれました。わたくしは、その顔を見て愕然としたのです。

 わたくしはその頃、まだ男爵でした。下位の貴族ではありますが、成人式の折には、王宮で祝福を受けることができたのです。

 その折り、国王陛下に謁見させていただきました。王妃陛下も、同席しておいででした。つまり、わたくしは王妃陛下のお顔を見知っていたのです。

 女神殿で、人知れず育てられている子がいるという噂は、耳に入っておりました。ひと目見て、その少年だということが分かりました。亡き王妃陛下にそっくりだったからです。

 複雑な事情があるとは思いましたが、最初に感じたのは、怒りでした。子どもに重労働をさせる。これはないだろうと。

 それからというもの、わたくしは、礼拝日には必ず女神殿に通うようになりました。拝殿の陰から、こっそりあなたの働くお姿を拝見していたのですよ」

 モリスは、にっこり笑った。

「僕、気がつきませんでした」

 いつの間にか、『僕』に戻っている。

「どうしたら、あなたをお救いできるか。そればかりを、考えました。それで養子の申し込みをしたのですが、誤解されたようで」

「そりゃそうだろう。養子と称して、実は愛人にするってのが、一般的だからな」

「そのようなこと、考えたことは一度もありません」

 モリスは、苦笑した。

「ごめんなさい。僕その頃は、どうやってイシネスを出るかということで、頭がいっぱいで。イシネスに留まるという選択肢はなかったんです」

 モリスは頷いた。

「無理もありませんな。それで、わたくしの指示が曖昧だったため、あのような事態を引き起こしてしまいました。お詫びのしようもございません」

「それはもう、忘れてください。ひとつお聞きしたいのですが、僕を拉致しようとしたふたりは、どうなりましたか?」

「一旦拘置所に収監されましたが、金の力で保釈してもらいました。彼らの罪ではないと思いましたので」

 エスカは、ほっとした。『神罰が下った』などと言われては、生きた心地がしなかっただろう。

「わたくしは、ご承知の通り爵位剥奪、領地と金融資産は、半分ずつ没収となりました。一般人となり、それなりに静かに暮らしておりましたが、あの襲撃事件が起きました。

 あれは、わたくしの友人たちが、あなたを逆恨みして起こしたことです。まさか、四方向からのビームを躱せるとは誰も思わず、あなたの死亡は確実視されておりました。

 わたくしは、半年ほど鬱で精神科医のお世話になっていたのです。回復したのは、ごく最近です。

 最近と言えば、『女神殿のエスカ生存説』が、都市伝説のように囁かれ始めているのですよ」

 モリスは、可笑しそうだ。

「死亡認定が、近づいていますからね。なんの根拠もないのでしょうが、わたくしとしては、信じたい説ではあったのです。

 こうしてお会いできて、わたくしも生きていてよかったなぁと、つくづく思います」

 苦しんだのだろう。エスカは、うなだれて聞いていた。

「その狙撃者たちを殺害したのは、誰だとお思いですか?」

 途端に、モリスは口を閉じた。首を横に振る。言えないのだろう。

「狙撃を命じたわたくしの友人たちに、お咎めはありませんでした。証拠がなかったのです。死人に口無しですからね。しかし、殺害したのは、断じて友人たちではありません。

 このようなことをしでかした友人たちではありますが、わたくしは、縁を切ることはしませんでした。軍や貴族たちに対する情報源は、持っている方がよいと考えたのです。わたくしは、計算高いのです」

「それくらいはしないと、生き抜けないだろう」

 アルトスは、モリスを責めなかった。サイムスも頷く。

「それで、あの襲撃の後、どうなさったのですか?」

「魔女号に乗せてもらって、シルデスに来ました」

「で、俺たちと合宿生活。楽しく暮らしていたんだが、解散しなくちゃいけなくなってな。エスカはひとまず先に、ここに来た。早速、騒ぎを起こしたようだがな」

 アルトスとサイムスは、豪快に笑った。

「エスカの周りの者が、トラブルを起こすことになっている。エスカは、いつも巻き込まれるんだ」

 モリスまで、笑っている。

「確かに。立ち直ったわたくしは、仕事をすることに致しました。昔から美術に興味がありましたので、イシネス特産の象嵌細工を広めようと思いまして。

 それでイシネスに工房を作りました。数は減っていますが、技術をもつ職人さんが健在なうちにと」

 目の付けどころがいいと、エスカは思った。 

「販路を拡げようと、ここラドレイに来ました。イシネスから最も近くて、行き来しやすいですからね。

 支店の工事の進捗状況を見に来た所、あの者たちに遭遇してしまいました」

「確か、モリスさんはレアメタルの鉱山をお持ちでしたね」

「その通りです。没収されたのは、平地の耕作地でした。配慮していただけたのだと、感謝しております。

 その折り、お口添えくださったのがヴァルス公爵閣下だと、聞き及んでおります」

 そういうお方だ。ディルの時も、何の見返りも求めず、ただ助けただけだった。

「それなら、あなたは尽きせぬ宝を持っておられるわけだ」

「はい。ついでと言ってはなんですが、支店を任せられる人物を、探すつもりでした。こちらにツテがないので、難航しております」

 エスカは、何か考えているようだ。

「ねぇサイムス。アダは、いつラドレイに来るの?」

「完全に引っ越すのは、一ヶ月後。でも今来てるはずだよ。やっぱり、工事の進捗状況を見るって言ってたな」

「アダか!」

 アルトスが、膝を打った。

「嫁さんの手伝いだけでは、宝の持ち腐れだからな」

「アダさんとは?」

「魔女号の船長をやっていた人なんです」

「魔女号の? 是非! お会いしたい!」

 モリスは、歓喜して身を乗り出した。

「それと、図々しいついでに、もうひとり。店舗に作品を並べて売るのですが、できたら美術に関心のある方をひとり。店番兼事務員として」

 サイムスが腕を組んだ。

「俺の姉が今年、美大の院を卒業するはずなんですが。留年したのか、卒業して就職が決まったのか、さっぱり分からん」

「え。姉弟なのに、連絡取らないの?」

「そんなもんじゃないのか?」

 エスカとモリスは、顔を見合わせた。

「わたくしは一人っ子なので、そういうのはさっぱり」

「俺んとこは、こいつ入れて八人です」

 と、サイムスはアルトスを指さした。モリスは、目を丸くしている。

「アルトスと俺、乳兄弟なんで」

「あ、それで納得致しました」

「姉は、今シボレスにいます。期待しないでください。変わり者だし。一応連絡はしますが。いつまでこちらに?」

「二、三日です」

「では急ぎましょう」

 アルトスは、サイムスとモリスが話している間に、アダに連絡していた。

「明日の午後、シボレスに帰るそうだ」

「直接お話ししても?」

 アルトスは、ほいっと、モリスに携帯を渡した。モリスは、喜び勇んで説明を始めた。

 一方、サイムスもエヴリンに電話中。エスカは、お茶のお代わりを淹れ始めた。エヴリンの声が、漏れている。

「象嵌細工のお店? 行く行く! これで、就職浪人を免れる〜!」

「採用されるかどうか、分からないんだぞ」

「分かってるわよ。面接受けさせてよ」

 モリスが、携帯を切った。

「明朝の九時に、いらしてくださるそうです」

「あの、姉が乗り気で」

「それはありがたい。今、シボレスにおいででしたら、オンラインでよろしいですか?」

「よろしいです!」

 モリスの声が聞こえたようで、エヴリンが叫ぶ。サイムスは赤面した。

「では、明日午後一時に、ご連絡致します」

 モリス以外はぐったりと疲れて、お茶を飲んだ。

「イシネスの情報が、手に入ると言っていたな? 近く異変がある可能性は?」

「はい。クーデターが起こるかと。陛下の喪が明けてからと思っていたのですが、早まるかもしれません。あなたの訃報が出る前にね」

 と、エスカを見た。

「亡くなったと報道される前に、実は生きていたとして、利用するためかと思います。あなたほど利用価値のある方は、いませんからね」

 またそれか。エスカは、逃げたい一心である。アルトスは、じろりとエスカを見た。

「だから、ちゃんと連絡しろと言ってるんだよ。それじゃ護れないだろうが」

「自分の身は、自分で護れるよ。過保護!」

「かわいい姪っ子の心配することの、どこが過保護だ」

「姪っ子?」

「そうなんです。ラヴェンナ繋がりでね」

 サイムスは、アルトスがいる手前、そう言うしかない。

「それで、その瞳なんですね。納得しました。しかし、素晴らしい血統ですね」

「いや、呪われた血統です」

 エスカの口調に、一同はびくりとした。

『一族の長を殺した罪が、孫子まごこの代であがなえると思うなよ』

 もはや、エスカの声ではない。目が半眼になっている。

『末代まで祟ると、覚悟せよ』

 そこで、エスカは目を見開いた。

「エヘ。だからね、ラヴェンナには、さっさと見切りをつけた方がいいよ。早く臣籍降下できるといいね、アルトス」

 初めて見たモリスは、呆然としている。

「やはり、あなたはシャーマン……」

 エスカは、人差し指を唇に当てた。モリスは頷いて、頭を下げた。

「ということだ。イシネスに動きがあったら、俺に連絡してくれ」

 モリスが、頭を下げる前にエスカが遮った。

「何で? イシネスの国内問題でしょ? 内政干渉は止めてよ。モリスさん、僕に連絡してください」

「なにィ!」

「本当でしょ。巻き込みたくない」

「お前ひとりで、何ができる?」

「できるだけのことをやるよ。何度も頭の中でシミュレーションしてきたんだ。少しは信用してよ」

 三人は、沈黙した。


 翌日、アルトスとサイムスは、飛行機でシボレスに帰っていった。アダとエヴリンは、モリスと面接。エスカは街に出て、白い下着を買い求めた。

 例年なら、魔女号が出航する季節である。船長と主要クルーを失った今、魔女号はどうなるのだろう。エスカの一周忌も近い。

 そんなある日、モリスから連絡があった

「友人からの忠告です。暫くイシネスから離れろと。取りあえず、母をラドレイ市郊外の別荘地に送りました。わたくしはここに残り、負傷者の対応に当たります」

 エスカは礼を言って、電話を切った。モリスは、アルトスにも同じ連絡を入れるだろう。連絡したところで、シルデスもラヴェンナも、手の出しようがないのだが。

 まだニュースでは、何も言っていない。口止めされているのか、クーデターはこれから起こるのか。さて、誰が迎えに来るだろう。

 遠くに、ヘリの爆音が聞こえてきた。エスカは、シャワーを浴びて身を清めた。

 先日買い求めた白い下着を、身につける。ここシルデスでは夏だが、イシネスでは、極寒の季節に向かう。厚手の上着を着た。

 暫くして、ノックの音。ドアを開けると、ヒルダがいた。さすがに巫女姿ではなく、街着を着ている。しかつめらしい顔をしていた。

「大巫女さまが,お呼びです」

 エスカは頷いて、コートを手にすると、ヒルダの後に続いた。

 少し歩いて、港近くのヘリポートに行く。待機していたのは、イシネス王立軍の小型ヘリである。操縦席に男がひとり。

 誰も口を開かない。話すことはないから。突然、シェトゥーニャから通信が入った。しまった。切るのを忘れていた。

『エスカ、今どこ?』

『言えない』

 それだけ応えて、通信を切った。お願いだからシェトゥーニャ、放っといて。

 このヒルダにしてからが、結婚話につられて、還俗しようとした巫女である。エスカは、自分の勘を信じるしかない。

 案の定、ヘリは女神殿の裏門近くに着地した。パイロットは、そこで帰された。

 エスカは、ヒルダの案内で裏門をくぐり、奥殿の庭に出た。正門から入らないのが、そもそも怪しい。

 見覚えのある奥殿の一室に、第一巫女と第二巫女がいた。ヒルダは、礼をして出て行く。信用されていないと感じた。人材がいないから、使われているだけのようだ。

「よく戻って来てくれた」

 第一巫女が微笑む。エスカは、丁重に頭を下げた。

「これからこの国には、大変なことが起きる。それに当たって、エスカには重要な任務についてもらわねばならんでな」

「と、おっしゃいますと」

「そなたは、大層運がよい。これからわたくしが、三つの選択肢を与えよう。いずれを選ぶも、そなたの自由。

 しかも、これまでの暮らしより、遥かに恵まれたものになることは、わたくしが保証しよう」

 これまでが、酷過ぎただけではないのか。

「お待ち下ください。その前に、大巫女さまに会わせてください」

 ふたりの婆巫女は、顔を見合わせた。

「無理もない」

 第二巫女が理解を示した。さすが、人々に癒やしを与える巫女である。

「いいでしょう。但し、お会いしたことを、誰にも言ってはならぬ」

「承知致しました」

 エスカは、奥殿の更に奥の部屋に、案内された。

「暫し、ふたりきりで過ごすがよい」

「ありがとうございます」

 エスカは、部屋に取り残された。部屋の中央に置かれたベッドに、大巫女はいた。夜具の中に人がいるとは思えないほど、そのベッドは平らだった。

 微かに、呼吸音が聞こえる。今年百二十三か、四か。終末は近い。脳は、既に死んでいるのが、エスカには分かった。

 何が『大巫女さまのお呼び』だ。名前を借りて、あのふたりがやろうとしていることは、何なのだ。

 エスカは跪いた。暫くしてドアが開く。

「お別れは、済んだか?」

 エスカは頷いて、赤い目をして立ち上がった。長年育ててくれた大巫女だ。いろいろあったにせよ、エスカは、愛情の片鱗を持ち合わせていたのだ。

 再び、先程の部屋に連れて行かれた。問答無用で、三択のひとつを選ばなくてはいけないらしい。いずれにせよ、逃げやすい案を選ぼう。

「一つ目、次の大巫女になること」

 はぁ?

「それは無理でしょう。僕は、巫女としての教育を受けていません。それに年齢の問題もあります」

 女神殿は、完全なる年功序列。仮にエスカが巫女になるとしても、一番下っぱの見習い巫女のはず。

「そなたが、技のひとつも披露すれば、みな納得するであろう」

 そんな無茶苦茶な。

「二つ目、そなたが王女殿下になること」

 エスカの身体が、硬直した。

「以前のようにカラーコンタクトを付け、髪を伸ばせば、疑う者はおらぬ」

 幼稚園の学芸会か。ディルも、そんなことを言っていたっけ。

「そなたであれば、公爵が妻への務めを果たさずとも、不満は抱かぬであろう」

 公爵の事情を知っているのか? それにしても、人権無視なのは相変わらずである。

「考えたことも、ございません」

 なぜか、ふたりの巫女は満足そうである。相手が受けそうにない提案するな!

「三つ目、国王陛下のご相談役として、常にお側に侍ること」

 これがメインか。昔に戻り、権威を振るいたいのだ。だから、言いなりにならない王女を、排除したかったのか。

「恐れながら、その場合の国王陛下とは、どなたのことで?」

「ヴァルス公爵。トリニタリア王女の次に、王族の血が濃いお方である」

「公爵閣下が、僕の言う事に耳を傾けられるとは思いません」

「その場合は、閣下に催眠術をかければよかろう」

 それなら、王女殿下に催眠術をかければいいじゃないか。アンタたちが。さてはできないのか。口ばっかりなのか。

「お聞きしたい事があるのですが」

「申してみよ」

「アルトス殿下を毒殺しようとなさったのは、巫女さまたちのお考えでしょうか?」

「聞こえの悪い事を申すでない。下賤の血が混じらぬよう、配慮しただけである」

 エスカは、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えた。見破られないよう、下を向いたまま言葉を続けた。

「では、僕を襲った四人を殺害したのも、巫女さまたちで?」

「それは心外じゃな。それについては、我らは関与しておらぬ」

「では、何者の仕業でありましょうか?」

「言えぬ」

「……分かりました。では、王女殿下の処遇は、どのように?」

「それそれ。そなた、『神の手』を使えるな?」

「はっ? いえ、あれは大巫女さまのご命令がないと、使えないものです」

「大巫女さまにお会いしたであろう? 到底、ご無理なのは分かるな? 今は、第一巫女のわたしが、代理を務めておる。だから使えるのだよ」

 この阿呆が。代理では駄目なのだ。せめて第一巫女が、正式に大巫女の座についてからでないと。

 それを知らないとは。そんなに言うなら、自分でやれよ。他人のふんどしで相撲取ることしか考えていないのか。

「王女殿下に『神の手』を使えと? しかし、殿下はそれほどの罪を犯されましたか?」

「そなたの知らぬところで、いろいろとな」

 果たして、これは真実か、あるいは誹謗中傷の類いか? まさか、一連の殺人事件と関わりがあるのか?

「考えさせてください」

「そなたの一生に係ることだからな。いいでしょう。ひと晩時間を与えよう」

 エスカは、以前暮らしていた部屋に案内された。懐かしくも何ともない。外から鍵を掛ける音がする。今だに、鍵で閉じ込められると思っているのか。

 エスカは、三婆たちに自分を過小評価されるよう仕向けてきたのは、正解だったと知った。

 粗末なベッドに腰掛け、エスカは考えを巡らせた。どの案を取っても、女神殿に損はない。まずい事態になったら、エスカのせいにできるのだし。

 兎にも角にも、王女を排除したいようだ。王女を幽閉するまでは、反乱軍の味方のふり。その後は、王立軍の味方のふりをして、公爵を温存する。浅知恵にしか見えない。 

 女神殿が目指すのは、古代の神権政治か。国王の側にいて、思うように政治を操る。代々の大巫女の悲願か、今現在、死にかけている大巫女の悲願か。はたまた第一巫女と第二巫女の陰謀か。何れにせよ、結果は同じにしなくてはならない。

 その夜、エスカはぐっすり眠った。

 

 翌早朝、エスカは、第一巫女に叩き起こされた。クーデターが起きたという。想定内である。

「状況は?」

「反乱軍は、南の塔を占拠。王女殿下は、北の塔に幽閉された。王立軍は、ヴァルス公爵指揮のもと、西の塔を守っている」

「首謀者はどなたで?」  

「ドゥエ准男爵。頭は切れるが、気性の激しい御仁のようだ」

「王女殿下は、北の塔に幽閉されたのなら、すぐに殺されることはないでしょう。公爵閣下のお手伝いに、行かせてください」

 婆巫女たちは、この返答が気にいったようだ。反乱が終息した後、エスカが、三案を選ぶと思ったのだろう。

「エアカーを、お借りできますか?」

「そなた、運転はできるのか?」

「できます」

 免許はないけどね。エアカーには、何度も乗せてもらっている。助手席で、ちらちら見て覚えたのだ。車庫入れのように難しいのは無理だが、前後に進むくらいはできるハズ。

 イシネスのエアカーは、殆どがシルデス製である。見知っている仕様だ。エスカは、エアカーで楽々と空に舞い上がった。杉の木に衝突して、大破させる可能性がないとは言えないが。

 そのまま、王城に向かう。目指すは、西門だ。さっきから交信の催促が激しい。アルトスだ。こいつはうるさいので、シェトゥーニャだけ開いた。

『やっと繋がった〜。エスカ、今どこ?』

『エアカーで、王城の西門に向かっているところ。そちらは?』

 隠しても仕方がない。どうせばれている。

『軍警察の大型ヘリで、イシネスに向かっているの。あと一時間で着く。時間を稼いで。

それで、モリスさんのお屋敷が西門に近いそうよ。医療チームが待機しているって』

『了解。結局、頼ることになってしまったね。でも正直助かる。ありがとう。着いたら、王城内に入るのはアルトスひとりということでよろしく』

 大佐は、どういう口実でヘリを持ち出したのだろう。あと一時間で着くということは、クーデターのニュースの前にシルデスを出発したのだ。モリスの報告を受けて、すぐに動き始めたのだろう。

 エスカは、西門の近くにエアカーを停めた。門の前で、王立軍の兵士たちが守りを固めている。エスカは、臆せず近づいた。

「ヴァルス公爵閣下にお目通り願います」

「何者か!」

「女神殿のエスカ」

 兵士たちの間にざわめきが起きた。『火だるまのエスカか?』『閣下の御小姓の?』『生きていたのか?』などと言う声が混じる。

「暫し待て」

 ひとりが、奥に走る。傍受を避け、通信機器は使わないのだろう。数分で、その兵士は戻って来た。

「失礼致しました。こちらへ」

 西の塔に登る階段を、駆け上った。八階くらいまで登っただろうか。ドアの前で、兵士は上官にエスカを託し、階段を駆け下りて行く。上官と思しき男は、ドアをノックした。

「お見えになりました」

 公爵と副官が、待っていた。

「エスカ! 背が伸びたな」

 公爵は、大きく腕を広げて、エスカを抱きしめる。ディルが、微笑んで見ていた。

「お久しぶりです」

 ディルも、ハグをしてくれた。

「戦況は?」

「思わしくないな。圧倒的に、数が及ばない」

「敵の司令塔は?」

「南の塔。上階から指示を出している」

「どこを攻撃すれば、効果的ですか?」

「南の塔で、騒ぎを起こせば」

「分かりました。では行きます」 

 さらりとした返答に、ふたりは驚いたようだ。

「そんなに簡単にいくか?」

「お任せください。それから、アルトスが来ます。西門から入れるように、手配してください。

 モリス元男爵の屋敷で、負傷者を引き受けるそうです。医療チームが待機していますので、こちらもよろしく」

「モリスか! ありがたい」

 ディルが、廊下の将校に指示を与えると、将校は階段を駆け下りて行った。

「では」

 エスカは、二度と会えないかも知れないふたりに、軽く手を上げて挨拶すると、司令室を後にした。未練は、とうに断ち切っている。

 階段の途中で、アルトスの大音声だいおんじょうが聞こえた。

「ご開門願いたい!」

「何者か!」

 続く誰何すいかの声。

「アルトス・パルツィ」

 高らかに誇らかに、アルトスは名乗った。臣籍降下成ったのか! エスカの胸に、喜びが溢れた。

 西の塔から出ると、アルトスが走って来た。

「みんなは?」

「西門の外で、待機している。シェトゥーニャは、大佐とヘリにいるよ。謂わば、通信係だ」

「それは助かる。ちょっと走るよ。南の塔の見える所まで」

 ふたりは、ひたすら走った。イシネスは初冬。地面はまだ凍結していないため、走りやすい。

 南門が近づくにつれ、ぱらぱらと敵の姿が見え始めた。エスカとアルトスは、腰の短剣を抜き、応戦した。

 短剣の先から、電撃が走る。敵方は、ばたばたと倒れていく。暫く痺れて動けないはずだ。 

「アルトス、力加減してね。強すぎないように」

「おう!」

 褒め言葉と受け止めたアルトスは、縦横無尽に射ちまくる。エスカは苦笑した。アルトスは、本当に強いのだ。

 南の塔が見えて来た。

「ここでやるよ。援護よろしく」

 エスカは短剣を鞘に収めると、背筋を伸ばした。右手を上にまっすぐに伸ばす。

「出でよ」

 呟くような声。直後、上空にきらりと光るものが走り、南の塔を直撃した。

 激しい炎が上がる。周辺は、たちまち大混乱となった。少し離れた東の方角でも、爆発音が聞こえた。女神殿だろう。

「やっぱりな」

 エスカが呟く。

 一様に、今居る所から逃げ出そうと、反乱軍の兵士たちが走り回る。上階で指揮を執っていた司令部も、下階に降りようとする。

 燃え盛る炎と、崩れ落ちる煉瓦。火の粉と煉瓦は、なぜかエスカとアルトスを避けて飛んで行く。

 逃げ惑う兵士たちの前で、王立軍の兵士たちが、銃を構えて待っていた。

 反乱軍の兵士たちの士気は、著しく低下したようだ。次々に両手を上げて、投降していく。戦況は一変した。

「西門に戻るよ! エアカーは?」

「外に二台」

 ふたりは、元来た道を走り出した。今度は、邪魔する者はいない。走りながら、アルトスが聞いた。

「さっきの雷みたいなヤツ、お前がやったのか?」

「そうだよ。これからは僕のこと『お師匠さま』と呼びなさい」

「はい。お師匠さま」

 素直なアルトスに、エスカはコケそうになった。

 西門の前で、一台のエアカーに、アダとウリ・ジオン。もう一台には、セダとサイムスが乗って待機していた。既にエンジンはかかっている。ふたりは分乗した。

「北門にお願い! 外から回ると、数キロあるから」

 エアカーで北門に近づくにつれ、下方からの銃撃が増えてきた。北の塔は、王女が幽閉されているだけなので、南の塔よりは手薄である。

 ウリ・ジオンが狙撃銃で、的確に敵を倒していく。アダとセダは、巧みにエアカーを運転。アルトスとサイムスも、参戦している。

 エスカは「ちょっと休憩」と言って、後部座席で横になった。余力を残しておく必要がある。

 北門の前で待機していた反乱軍の兵士が、狙ってきた。門の中からも、エアカーに銃撃してくる。エスカは、もそもそと起き上がった。内部の兵士に、電撃を食らわす。

 エアカーが着地すると、エスカとアルトスが飛び降りた。

「そこで待っててね」

 門から入ると、塔が目の前に見えた。エスカは塔を睨み付け、先程と同じ姿勢をとると、文言を唱えた。

 ほぼ同時に、凄まじい突風が北の塔を襲った。老朽化した建物は、ひとたまりもなくぼろぼろと崩れ落ちていった。

 遥か離れた後方からも、煉瓦の崩れる音が聞こえた。主神殿である。主神殿も絡んでいたのか。

「喰えない爺さまたちだ」

 エスカは、アルトスが反重力ベルトをしているのを確認した。

「登るよ!」

 崩れる煉瓦は、やはりふたりを避けていく。兵士たちは、ほぼ塔から逃げ出したようだ。行手を阻まれることなく、ふたりは王女が幽閉されている部屋に、辿り着いた。

 鍵を破壊して、扉を開ける。トリニタリア王女と年配の侍女がひとり、窓際に立っていた。

「女神殿のエスカです。参りましょう」

 王女はにこりと微笑んで、エスカを見た。視線をアルトスに移す。

「婚約者候補だった、アルトスです」

 アルトスは朗らかに名乗り、王女の手を取ってキスをした。王女は、嬉しそうに微笑む。

『僕の時と、全然違うじゃないか』

 エスカは、内心面白くない。が、そんなことを感じている場合ではない。

「アルトス、反重力ベルトを最大にして。バルコニーから降りるよ」 

 エスカは、王女を抱き抱えた。

「しっかり掴まっていてくださいね」

 アルトスも、重量級の侍女の腰に腕を回した。

「行くよ、おばさん!」

 ふたりは、いや四人は、同時に飛び降りた。ふわりと着地する。アルトスは、初めてとは思えないほど的確にベルトを操作した。元々、運動神経がいいのだろう。

 門を開けて、ウリ・ジオンたちが待っていた。他に何台かエアカーが停まっている。おまけに、マティアスまでいるではないか。何時でも何処でも何にでも、口と手を出すと評判のラヴェンナ。

 マティアスは、笑顔で敬礼をした。

「ラヴェンナ近衛師団長のマティアス・パルツィです。王女殿下のお身柄を、お預かりさせていただきます」

 あ、いいかも。エスカは思った。この混乱が収まるまで、ラヴェンナに避難していてもらう。一番安全だ。しかも、ラヴェンナはイシネスに恩を売れる。

 ウリ・ジオンたちを見ると、同じ考えのようだ。シルデスでは、王族の扱いに困惑するかも知れない。シルデスに、王族はいないからだ。

「恐れ入ります。よろしくお願い致します」

 王女と侍女は、丁寧にお辞儀をすると、ラヴェンナのエアカーに向かった。港で、ヘリが待機しているはずだ。

 エアカーに乗り込む寸前、王女は踵を返し、小走りで戻って来た。

「エスカ!」

 感動の姉妹の抱擁かと、一同が見守る中、突然エスカが左手を上げた。王女の右手首を掴んでいる。王女の右手には、鋭い短剣が握られていた。

「やはり、あなたでしたか」

 となると、真の黒幕と言えるものは、他にいる。ひと仕事増えたかな。それですべて終わるだろう。

「放して! お放し!」

 近衛兵が、王女の右手から短剣を奪い取る。他の兵士が、王女の両手を後ろに回した。

「無礼者! お放しなさい!」

 侍女が、怒り狂って叫んだ。侍女の手も、後ろに回されている。思い通りにならないと知った侍女は、矛先を弱そうなエスカに向けた。

「この、下僕が!」

 一瞬、辺りが静まり返った。この程度の罵倒では、エスカはびくりともしない。侍女を見向きもしなかった。ひとこと冷静な言葉が洩れた。

「うるさい、デブ」

 最初に笑い出したのは、アルトスだった。抱いて降りる際に、実感していたのかも知れない。

 豪快な笑いは、たちまち周囲に広がった。アダたちも、大喜びである。

 ラヴェンナの若い騎士たちからは、やんやの喝采を浴びた。ラヴェンナの王宮で、共に戦った騎士の顔も見える。

 マティアスは、苦笑。侍女の頼みの綱の王女まで、横を向いて笑っている。

「あなたという方は、マーカスの言ったとおりだ」

 笑いを収めて、マティアスがエスカに近づいた。耳元で囁く。

「悪口雑言のエスカ」

 マティアスの目は、痛快そうに笑っている。エヘと、エスカは笑った。

「王女殿下は、早い時期にイシネスにお返しください」

 エスカは、囁き返す。

「そのつもりです」

 厄介事を、いつまでも引き受ける気はないようだ。周囲は、まだ騒然としている。 

 エスカはセダに目配せをして、木陰に行った。小声で、手短に話す。

「もうひとつ、やることがあるんだ。三十分で戻るけど、仮に僕が戻らなくても、帰還してほしい」

 セダの目が、大きく見開かれた。首を横に振る。

「いくらクーデターが収まりそうだといっても、それ以上ここに留まるのは、危険だ。僕ひとりなら、なんとでもなるから。お願い」

 セダは、頑固に首を縦に振ろうとしない。エスカを睨みつけた。

「俺たちは、エスカを助けるために来たんだ。置いて帰れると思うか?」

 人選を誤ったか。アダよりセダの方が冷静かと思ったのに。この駄々っ子ぶりは、どうしたことだ。

「心配いらない。お墓参りするだけだから」

 やっと、セダの表情が少し緩んだ。

「今しかない。最初で最後のチャンスなんだ。ではよろしく」

 エスカは、セダの返答も聞かず、走り出した。時間がない。冬の夕刻である。既に宵闇が、迫っていた。

 エスカは、北の塔の横を走り抜け、さらに奥へと走った。地図で確かめてある、王族の霊廟目指して。

 さすがにここまで来ると、人の姿はない。遠くに、雷刃の残り火が見える。時折り、銃撃と兵士たちのざわめく声。

 手前に、鬱蒼とした針葉樹の林がある。霊廟は、その奥だ。エスカは林を抜けると、深呼吸をして霊廟に近づいた。

 難なく鍵を破壊し、扉を開けた。途端に、窒息しそうなほどの怨念が、エスカにまとわりついた。手刀で振り払う。

 この怨念は、長らく続いた王や王妃のもの。裏切りや謀叛で、果てた者もいるだろう。やっと、浄化することができる。

 代々の王と王妃の柩が、並んでいる。さすがに手入れが行き届いており、埃は払われ、黴臭くもない。

 母の柩は、すぐに見つかった。新しい方から二つ目。エスカは、跪いた。

「ようやく、参ることができました。お見事なご最期と、聞き及んでおります」

 エスカは、柩の前に額づいた。

「ですが、そのお怨みは、わたしの身でお晴らしください。どうか、我が身ひとつに受けさせてください。ひらに、お願い申し上げます」

 返答はない。エスカは立ち上がると、短剣を抜いた。

『愛しい我が子よ。ここではない。外でなさい』

 アルトスに言い聞かせた時の、柔らかい声が聞こえた。

『来てくれてありがとう。行きなさい、エスカ』

 限りなく優しい声。だが逆らうことを許さない、力強い声である。エスカは、よろめきながら霊廟の外に出た。怨念が出ないよう、すぐに扉を閉める。 

 数歩歩いて、霊廟から少し離れた。再び短剣を抜く。手を伸ばし、切っ先を天に向ける。鎮魂の祈りの言葉を唱えた。古代イシネス語である。

 短剣を鞘に収めた瞬間、どーん! という地響きがした。同時に、霊廟に火が着いた。火は霊廟一箇所のみ。全体を包みこむように、激しく燃え盛った。

 霊廟全てが灰になるまで、焼き尽くす浄化の炎。

 両軍の兵士たちは、駆けつけては来ないだろう。今は、自分たちが生き残るだけで、精いっぱいのはずだ。

 エスカは、針葉樹の幹に寄りかかった。そのまま、ずるずると滑り落ちる形で、尻もちを着いた。

「守護神か。ありがとうございます」 

 もはや、体力も霊力も残っていない。少量だが、吸い込んだ怨念で息苦しい。

 霊廟の中で、炎に包まれて一緒に死ぬはずだったのに。だが、できることはすべてやった。これでいっか。エスカは、目を閉じた。


 


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