第12話 前夜
それから二週間ほどして、エスカがシェトゥーニャ宅に行った時だ。ウリ・ジオンが、DNAの結果を知らせてくれた。
もちろん、検査官たちに誰のDNAかは教えていない。『極秘裏に、慎重に』という指示を与えたそうだ。時間がかかったのは、そのせいだろう。
やはり、アルトスにラヴェンナ王家の血は流れていなかった。シェトゥーニャとは、正真正銘の姉弟というわけだ。
「エスカ。どうして、こんなとんでもないことに気づいたの?」
「訓練してみて、アルトスがあまりに強かったから。片方だけの血脈ではないような気がして。
このことだけではないんだけど、最初の思い込みで、失敗したことがあってさ」
「そうだったのね。本当のことが分かってよかった。でもこれ、アルトスに知らせる?」
エスカとウリ・ジオンは、お互いに当惑した顔を見合わせた。
「僕としては、今のままがいいけど。でも、アルトスに嘘つくのも」
「あのさ、シェトゥーニャ。アルトスは、エスカに執着してるんだ。でもエスカは、それで困ってて。叔父と姪なら、歯止めが効くかもと」
「エスカは、アルトスが嫌いなの?」
そう言われると、少し違う気がする。
「あの、はっきり言って僕、アルトスを理解できない。愛してるような態度でちょっかい出してきたかと思うと、僕を傷つけるようなことを平気で言うんだ。
それでいて、全然へっちゃらで、まるで悪気はなかったみたいで。僕が家出したくなるほど、つらい思いしてるのに」
「そう。悪気はない。だから厄介なんだよ」
「困った子ね。自分を傷つける人には、近づかないのが一番だけど。今のところ、そうはいかないでしょう?」
さすがのシェトゥーニャも、困惑している。
「では、このことは、ここだけの話にしておきましょう」
「はい!」
ああ、よかった。エスカが、ひとまず安心してウリ・ジオンを見ると、何か複雑な表情である。シェトゥーニャも気づいた。
「ウリ・ジオン!」
異口同音に叫ぶ。
「まさかあなた、誰かに」
「あ、いや、だって……怒らないで聞いてくれる?」
「もう怒ってるよ!」
まぁまぁと、シェトゥーニャがエスカを宥める。
「僕が不肖の息子だから、タンツ商会から追い出されるってのは、周知の事実だからさ」
「不肖の息子?」
シェトゥーニャの目尻が、つり上がった。
「こちらが、見限って出て行くのよ!」
今度は、エスカが宥める。
「まあ、だから僕が依頼しても無駄だと思って、セダに頼んだんだ。アダは辞表出したっていうし。
セダなら、口は固いし。例の渋いオジさんの魅力で、若い検査官たちを手懐けたらしい」
「確かに、セダなら大丈夫。でもアダには言うよ。あのふたりの間に、秘密はないから」
「う。でもアダなら」
「アニタの直球攻撃見たでしょ!」
エスカは、情け容赦なくウリ・ジオンのトラウマを突いた。
「アニタからグウェンへ。グウェンからホロへ。あ、そこで止まるから平気か」
「そうそう。だから大丈夫だよ〜」
さっきまでの狼狽ぶりはどこへやら、ウリ・ジオンは、いつもの能天気ぶりを取り戻した。
エスカの脳裡に、ちらりとサイムスの姿が通り過ぎて消えた。
「サイムス」
思わず呟く。
「あ。そう言えばあの時、サイムスもいたしな。結果を知りたがるかも」
「仮にサイムスが知ったとしても、あの人は本当に口が固いわ」
シェトゥーニャの信頼を勝ち得ている、サイムス。
その後、数日は平穏に過ぎていった。エスカは、午前中はシェトゥーニャ、夜はアルトスの訓練で、忙しく過ごしていた。
合間をぬって、分校への転学手続きを進める。バレないように、自分のタブレットは使わなかった。
少し離れた図書館に行き、別のアカウントを登録。担任のラサリ教授に、転学希望をメールした。その返答次第で、直接教務課に行く方がいいかも知れない。
転学についての手続きについて、パンフレットに詳細は記載されていない。転学希望者が少ないからか。
できたら、学年末までは本校にいたいと思っていた。だがウリ・ジオンは、その前に合宿所を出て行くだろう。エスカは、さらにその前に出る。これ以上、迷惑はかけられない。
できるだけ、留年は避けたいと思っている。想定外のことが起きれば、それもいたし方ないと覚悟はしているが。まだ四月に入ったばかり。先はまったく見えない。
アルトスの訓練は、順調に進んでいる。先日、ついに交信の伝授を終えた。本格的に戦闘を教え始めたが、アルトスの我慢強いのには、舌を巻いた。決して音をあげないのである。
エスカは、どちらかと言えば戦士向き、アルトスは戦士そのもの、ということも分かった。毎晩の訓練は、面白いほど捗った。
一方、シェトゥーニャの憑依訓練も、順調に進んだ。今は、治癒法を教えている。立派なシャーマンができあがるだろう。
先日、シェトゥーニャが不思議そうにエスカに訊いた。治癒法に移る時である。
「エスカ。あなたって、惜しげもなく秘伝を伝授してくれるのね。なぜ?」
「なぜって?」
「そういうのって、出し惜しみする人もいるのよ。或いは、伝統的に一子相伝とか」
そんなのケチってどうする。
「こういうの、誰でも受け取れるわけじゃないでしょ。素質のある人に渡したい。宝の持ち腐れにしたくないだけだ」
奇跡とも言える逸材に出会った。しかもふたり。エスカは、嬉しくてたまらないのだ。
「そうそう。ウリ・ジオンが、昨日会長に呼ばれてね」
当のウリ・ジオンは、一階で待機している。疲労困憊のシェトゥーニャを、介抱するためだ。
「会計士をひとり、解雇したそうよ。それで会長が、ウリ・ジオンに商会に留まるように言ったんですって。
ウリ・ジオンは『もう無理です』と言って、帰って来たの」
それはそうだろう。ウリ・ジオンの気持ちは、完全にタンツ商会から離れている。
「わたし、ウリ・ジオンの運命を曲げてしまったのかしら?」
弱気なシェトゥーニャを見たのは、初めてだ。
「そんなことはない。なるべくして、なったのだと思うよ。強いて言えば、僕のせいかも」
「そんなはずないでしょう!」
シェトゥーニャの語気が荒くなる。顔を見合わせて、ふたりは苦笑した。
昼前に帰宅すると、アルトスとサイムスがいた。そう言えば、今日は日曜日で、料理人はお休みなのだ。サイムスが、ランチを買って来てくれていた。
「ピザとポテトだ。夕食は、このビルの地下に行こう。新しい中華屋ができたってさ」
「食べながら聞いてくれ、エスカ。今朝、クリステル、いや陛下からテレビ電話があったんだ。
ラヴェンナの台所は、火の車でな。親子何代にも渡る、長年の散財の結果なんだが。
それで今後、財政を見直すことになったそうだ。まずは、無駄を省く。王族と貴族の数を減らすってさ。五十番目以降の子どもたちには、臣籍降下してもらう」
「じゃあ、アルトスは」
「やっと願いが叶うぞ!『準備期間を置いて、一年後を目途とする』と仰るから『早急にお願いします』と申し上げた。そしたら笑われてな。これまでの経緯をご存じだった。
『成人してから毎年、申請していたのだったな。先日襲われた件もある。婚約辞退も含めて、考慮しよう。ひと月ほど待ってくれるか』とあいなった」
「わぁ! よかったねアルトス。これで狙われることはなくなるね」
「それでな。臣籍降下したら、デ・ラヴェンナ姓は捨てることになる。新しい姓を考えておくように言われたよ。パルツィでいいか?」
サイムスは、跳び上がった。
「もちろんいいよ! そうか、やっとお前もパルツィか! 今度こそ、本当の家族だな!」
エスカは、サイムスがこんなにはしゃぐのを初めて見た。
「その流れで、王室の人事院から俺にもメールが来たぞ。『アルトス殿下の臣籍降下に伴い、護衛官の任務を解く』だってさ。それともう一通。『近衛師団に勤務を命ず』って、なんだこりゃ」
「お前、国家公務員だろ? 俺の護衛官辞めたからって、クビになるわけないだろうが。転属だよ」
「何ぃ? 俺、またラヴェンナに戻るの? そいでもって、マティアス兄貴の部下になるってか?」
「戻りたいか? 兄弟同じ職場だぞ。楽しそうじゃないか」
「ヤダよっ! 俺、辞表出す。シルデスで法科の院に行って、検事になるんだ」
「あのな、法科の院に行くのと、検事になるのとの間には、果てしない距離があるんだぞ。にーちゃん、頑張れ」
アルトスは、自分の幸先がよくなったので、随分とお気楽になった。
元々王族ではなかったことがバレたら、これまでに受け取ったお手当ては、返還するんだろうか。エスカは、他人事ながら心配になった。
その晩、担任のラサリ教授からメールが来た。赤紙である。出頭は、明日の午後一時。うわあ、転学の件、まずかったかなぁ。
翌日、エスカ、はシェトゥーニャの訓練を終えると、超特急で帰宅。ランチを丸呑みにし、エアバイクに跨がった。
ラサリ教授は、研究室にいた。周囲には誰もおらず、ふたりで落ち着いて話せるよう、配慮してくれたのが、覗える。
エスカは勧められるまま、ソファに座った。ラサリ教授は、向かいに座る。
「ラドレイ市のヴォード大分校に転学希望。間違いないわね? 理由を聞いてもいいかしら?」
「あの、家庭の事情で」
「あなたに家庭はないでしょ」
ぴしゃりと決めつけ、大きな目で睨んだ。怖い。
「すみません。あの、今いる所に居られなくなって。それで、シボレスを出たいと」
ラサリ教授は、じっとエスカを見つめた。ため息をつく。
「わたしね、新年度から、あなたを通学部に推薦しようと思っていたの」
エスカは驚いて、顔を上げた。
「推薦されて転部すれば、特待生待遇だから、授業料は全額免除になるの。その上、飛び級もできるわ。分校でも同じよ。推薦しておくわね」
エスカは驚いた。そんなシステムがあるのか。
「あなたは成績もいいし、実習も他の学生たちと仲良くやっていると聞いたわ。分校だから、オンライン授業の内容は本校と同じ。対面授業の場所が変わるだけだから。
それと、入寮希望なのね。これ、女子寮にチェックが入っているけど、間違いではない?」
「はい。僕、男の子として育てられましたけど、本当は女の子なんです」
今日び、様々な理由で性の変わることはある。ラサリ教授は頷いて、それ以上言及しなかった。
「では、女子寮に入寮希望と。保証人は、サイムス・パルツィさんのままでいいのね?」
本人に何も話していないが、構わないだろう。エスカは頷いた。
「年度代わりの前の夏休みは、七月と八月。その前の六月に、卒論発表があるの。
それが終わり次第、寮を引き払う学生がいるはずよ。空き次第、押さえておくように連絡しておくわね」
エスカは、ソファから滑り落ちそうになった。
「お願いします!」
通学部、通えるぞ! 人にも慣れてきたし。
「あの、なんでそんなに親切にしてくださるんですか?」
「担任だもの、当たり前のことよ。担任はね、学校での親なの。それにわたし、あなたが気にいっているのよ。あ、これは内緒ね」
ラサリ教授は、いたずらっぽく笑った。
「女の子になるなら、アドバイスをひとつ」
人差し指を、上に向ける。
「まずは、口紅を一本」
立ち上がり、右手を伸ばして、握手してくれた。
「グッドラック」
コンサート当日、アルトスとサイムスは、朝から出かけて行った。いろいろと準備があるのだそうだ。他の面々は、十二時半開場、十三時開演に合わせて、行くことになっている。
アダが、アニタ、グウェン、エスカの三人を、エアカーで送ってくれるというので、早めにランチを済ませた。支度をしていたエスカは、突然、漠然とした不安に襲われた。
遥か彼方から、エンジン音が聞こえる気がする。イシネス王立軍のヘリだ。
まだ早いよ、ディル。クーデターは、まだじゃないか。その前に拘束するってか?
エスカは、足首に短剣を括りつけた。リュックにウィッグを入れる。着替えも入れたいところだが、不審感を抱かれないためには、これが限度だ。
アルトスの歌は、聴けそうにない。あんなに楽しみにしていたのに。だが今は、身の安全が第一だ。あの牢獄には、二度と行くもんか。
「父さんはね、じゃんけんで母さんに負けたの。だから今日は、リディの子守りでお留守番よ」
アニタたちの楽しいお喋りに相槌をうつのも、つらい。どこへ逃げようか? 北部は駄目だ。ふたりの婆巫女が共鳴して、北部までなら探れることは、判っている。それよりまず、どうやって逃げ出すかだな。
受け付けでチケットを提示し、プログラムをもらう。ロビーに、パルツィ家の人々の姿が見える。ゾーイが駆け寄って来た。
「エスカ!」
しがみついてくれた。
「やあゾーイ。背が伸びた?」
「そうよ! あ、イモジェンは、初めてよね?」
エスカと同い年くらいの、活発そうな金髪の少女である。この子が、サイムスに十倍返しするのか。微笑ましい間柄ではないか。
少し離れた所にいる、ピエロを思わせる色調のパンツスーツの女性は、美大に通っているという、エヴリンだろう。顔だけ見れば、たいそう美しい。母親のマリエに、一番似ているかもしれない。
サイムスがやって来た。
「サイムス、護衛はいいの?」
「屋内だからな。席で見てていいってさ」
柱の陰で、セダがエスカに手を振っている。エスカだけにである。サイムスのことは、視界に入っていないような態度を見せている。
いい大人がなんだ! サイムスはサイムスで、何も見えなかったように、そっぽを向いている。
エスカは両足を踏ん張り、セダの方にサイムスの背中を押した。憎たらしいことに、サイムスは巨大な岩の如く動かない。
と、突然誰かの力強い手が、サイムスを押した。サイムスは、前に二、三歩つんのめった。セダが素早く進み出て、サイムスを支える。一緒によろめいたエスカの胴を、力強い腕が抱えた。
見ると、泣く子も黙る軍警察の鬼大佐ではないか。満面の笑顔である。
「姫君は、お節介がお好きと見えますな」
今日は私服だった。チェックのシャツの上に、髪の色と同じ褐色のカーディガンを羽織っている。腕に薄手のコート。なかなかダンディである。
「行きましょうか」
腕を差し出す。エスカは、大佐にエスコートされる形で場内に入った。アルトスが用意してくれたのは、指定席である。何の陰謀か、大佐の隣になっている。
中央の通路の左側である。通路に面して大佐、隣にエスカ、その隣がウリ・ジオン、シェトゥーニャ、アダ、アニタ、グウェン。
大佐の後ろにサイムス、隣にセダ。チケットを配ったのはサイムス。なんだ、心配することはなかったのか。エスカは、笑いを堪えた。
通路の右側は、パルツィ一家で占められている。通路側にパルツィ氏、隣にマリエ、子どもたちは、年齢の若い順と思われる。
ゾーイ、イモジェン、エヴリン、ラヴェンナの僻地で医師をしているというヘンリエッタ、マティアス。
隣にハンナ、グスタフ。ハンナとグスタフは、既に目が赤い。
エスカは、パルツィ氏とマリエに目礼した。その時、右前方に違和感を覚えた。上の階だ。照明係のいる辺りか?
大劇場は無論のこと、大学の大講堂も、エスカは初めてである。
行ってみるか。エスカは、シェトゥーニャに合図を送ると、立ち上がった。開演前にトイレに行くかのように、さり気なく。
少し間をおいて、ウリ・ジオンが立ち上がるのが見えた。気づいた大佐、サイムス、セダ、アダが続く。ロビーと二階、他の人々がいる付近では、エスカはごく普通の歩調で進む。
大佐が、ロビーの客のひとりに目配せしたのを、エスカは見た。三階に出た途端、エスカは走り出した。
対面授業の体育で、エスカは自分が俊足であるのを初めて知った。その俊足で、エスカは、目的のドアにたどり着いた。ノック抜きで、いきなりドアを開ける。
「ごめんなさい。ここトイレじゃなかったんだ」
後に続いた者たちに聞こえたのは、それだけだった。
エスカは、肩を竦めてドアを開けたまま、一歩下がった。大佐に目配せをする。
内部を見た大佐の目に入ったのは、倒れている二人の男たちと、ひとりの女性。素早く脈を確かめる。
「救急車!」
大佐が呼ぶと、ロビーで談笑していた男女が、数人駆けつけた。警官だったのだ。
倒れている男たちのうち、ひとりはぴくぴくと痙攣している。足元に組み立て中の狙撃銃。エスカは、大佐に囁いた。
「狙撃者と思われます。痙攣は、小一時間で治まるはず」
「この前のより強いヤツか?」
サイムスが覗きこむ。頷くエスカ。
「では、尋問は一時間後に」
大佐は苦笑した。エスカのことは聞いているのか、すぐに理解したようだ。
「他の二名は、眠らされているようです」
調べた警官は、ほっとした様子だ。
「ここの責任者に連絡を取れ。照明係の代替要員はいるか?」
指揮する大佐が多忙なのを幸い、エスカは、ウリ・ジオンを柱の陰に呼び出した。
「イシネスから、僕を連れ戻しに来る。逃げるつもりだけど、行く所がない。北部以外だと、どこがいいかな?」
ウリ・ジオンは、大層驚いたようだが、黙って聞いてくれた。エスカがウリ・ジオンを信用するのは、こういうところなのだ。お茶目な言動をしているようで、肚が据わっている。
「南部の、この前泊まったホテル。行けるか?」
「もちろん」
「では連絡しておく。移動手段は?」
「列車を乗り継いで」
「着くのは深夜だな。ヅラは持ってるか?」
頷くエスカ。
「コンサートは、無理か?」
「残念だけど。王立軍のヘリが、もうすぐ到着する。アルトスに謝っておいてね」
「分かった。行け!」
エスカは、裏階段目指して走り出した。
ウリ・ジオンの提示したホテルに着いたのは、予想通り深夜だった。従業員には、連絡が行き届いていた。エスカは、部屋に入ると同時にウィッグを取り、シェトゥーニャに交信を試みた。
『聞こえる?』
『聞こえるわ』
『よかった。今着いた。おやすみなさい』
『おやすみなさい、エスカ』
この距離で、シェトゥーニャと交信できるなら、何ら問題はない。アルトスが、ちゃんと訓練してくれていたのだ。エスカはその晩、ぐっすり眠った。
翌日、エスカは、シェトゥーニャからの交信を受けた。
『ウリ・ジオンから、話があるそうよ。わたしが仲立ちして、会話を進めるということでいい?』
『もちろん。よろしく』
『やあ、元気? あれからのことだけど。コンサートは、大成功だったよ。スタンディングオベーションでね。盛り上がった。
コンサートの後、アルトスは打ち上げがあるから、大学に残った。サイムスも一緒だ。
アダは、シェトゥーニャ、グウェン、アニタを送って行った。大佐は、尋問のため警察署へ。
結局、僕とセダが合宿所に向かった。ディルが待ち構えていたよ。他には、パイロットがひとり。
〈大巫女さまが、エスカをお呼びです〉と言う』
『それなら平気だ。想定内という意味だよ。〈女神殿〉と言ったら想定外。そう決めておいたんだ』
『そうか。それで〈エスカは家出しました〉と答えた。するとセダが〈エスカは家出の常習犯でね。先日も黙って出て行ったし〉などと言う。
〈また殿下が虐めたんじゃないかなぁ〉僕も調子に乗って〈きっとそうだよ〉と盛り上げた。
ディルは、エスカがいなくて、むしろほっとした様子だった。
〈大巫女さまは、なぜエスカをお呼びなのかな?〉
〈まだ伝授しきれていない技が残っている。白分が元気なうちに、全て渡したい〉そうだ。
エスカは満点主義だから、そう言えば戻ると思ったのだろう』
『残念だったね。僕、六十点主義に転向したんだ。それに、大巫女さまにそんな力が残っているとは思えない』
『では、何のために?』
『僕を利用するためかなぁ』
『それとな、狙撃手がいたことを、話した。なぜかディルは、ターゲットはエスカだと確信していたよ。
ラヴェンナの王宮でのことも、エスカだと。何で話してくれなかったんだ? 知っていればやりようがあったのに。セダは、青くなっていた』
ディルめ、余計なことを。
『ごめん。他の人たちには、黙っていてくれる? 僕、考えをまとめたいから、時間がほしい』
『分かった。少しだけだぞ。ディルは〈次回は、必ずイシネスにお連れします〉と、機嫌よく帰っていった』
エスカは、シェトゥーニャにお礼を言って、交信を切った。
その後、エスカは外出した。昨日汗びっしょりかいたのに着替えがなく、気持ち悪かったのだ。ホテルの従業員が、この日は市が立っていることを、教えてくれた。
ここは港町で、ラヴェンナ行きのフェリーも出ている。観光客も、多く訪れるそうだ。前回は、ラヴェンナに行くために立ち寄っただけだったため、そういう話を聞くゆとりはなかった。
少し楽しんでみようか。ディルが引き上げてくれれば、すぐに帰れるはずだし。
市は賑わっていた。海産物のような食料品の他に、衣類や日用品も扱っている。
エスカは、ピンクやレースでない下着と、五分袖のシャツ、涼し気な素材のパンツを買った。首都シボレスより遥か南に位置するこの町は、四月だというのに、既に真夏である。
ふと耳に、記憶にある声が届いた。存在するはずのない声。肩越しに振り向くと、その人はいた。
エスカは、先ほど通り過ぎた店の中に、サングラスを扱っていた所があったのを思い出した。
さり気なく、今来た道を戻る。黒髪にサングラス。分からないかも知れない。
エスカを憶えていない可能性もある。たった二日。それも、夕方から夜までの付き合いだった。
さっきの場所に戻ってみると、その声の主はまだいた。オープンカフェで、中年の男と談笑している。絡みつくような甘い声、しなだれ掛かるような姿勢、完璧な胸。
エスカは、マデリンと背中合わせになるように、テーブルに着いた。ジュースを飲みながら、チャンスを覗う。ふたりの男女は、上機嫌である。
「観光用のフェリーで、この辺りの島々を巡るんだ。最終的には、ラヴェンナに着く。そこのホテルでは、カジノもあるんだよ。行ってみる?」
「わぁ、行く行く!」
マフィアの中ボスをイメージさせる風貌の、中年の男。金だけはありそうだ。どうやら、長い付き合いではなさそうである。夏のアヴァンチュールってか?
「船のチケットを買ってくるよ」
男はマデリンにキスをして、席を立った。こんな男にキスされるなんて。エスカは、悪寒がした。
男の姿が、視界から消えたのを確認して、エスカは、マデリンの前に立った。
「久しぶりだね、マデリン」
マデリンは、はっと顔を上げた。どうやら、久しく使っていない本名を聞いたようだ。
案の定、エスカに見覚えはないらしい。
「君の代わりに殺された女性の名前、知ってる?」
エスカは少し身を屈めて、マデリンの耳元に囁いた。
「な、何のことよ。アンタ誰?」
「合宿所で会ったよね?」
思い出せないまでも、一抹の不安が湧き起こって来たようだ。
「ホテルでの溺死事件」
マデリンは
さすがにびくりとして、怯えた顔をした。
「その女性の名前だよ。知ってる?」
「知らないわよ、なんのこと? 変なこと言うと、人を呼ぶわよ!」
「呼ばれて困るの、マデリンだと思うけどなぁ。もう死んでるはずでしょ」
この点について、エスカは他人事ではないのだが。
「その女性の名前を教えてくれれば、僕は退散するよ」
「そんなの知らない! ただのそこいらの売春婦よ!」
エスカの眉が、吊り上がった。
「ただの、そこいらの、売春婦? なら、アンタと一緒だね」
そう言うと、エスカは人差し指で、マデリンのおでこを突いた。そのまま、元の席に座る。マフィアが戻って来た。ご機嫌である。
「三十分後に出港だよ。無人島を、何ヶ所か回るんだってさ。珍しい鳥がいるそうだ。どうした? ぼんやりして」
「ごめん。ちょっと、ぼうっとしちゃった」
直近の記憶を抜かれたのだから、無理もない。
「ラヴェンナ到着は、十七時半。ホテルも予約したから」
それを聞いて、エスカはホテルに帰った。早速、シェトゥーニャと交信を始めた。逮捕するなら、ラヴェンナ到着時だろう。
『マデリンに会ったよ』
『なに!』
さすがに、ウ
リ・ジオンは驚いたようだ。
『間違いない。パパ活してた。自分の代わりに殺された女性のことを、こう言っていたよ。〈ただの、そこいらの、売春婦〉と。名前を知らなくても、自分の身代わりになる人がいることを知っていた。これって、共犯になる?』
『なるんじゃないか? それに、DNAのデータを操作したヤツがいるはずだ。大佐は怒るだろうな』
『怒ってくれ。マデリンたちは、観光フェリーで無人島巡りの後、ラヴェンナ到着は十七時半。ヤバい感じの中年男と一緒だ。手配できる?』
『大佐に連絡しよう。ラヴェンナの第五十七王子の毒殺未遂事件も、付け加えていいかな?』
『今さらだ。構わないよ』
『第五十七王子でも、王子は王子。王宮は、黙っていないな。特にクリステル陛下は、アルトスに好意的だってさ』
『ドディだけど〈マデリン殺害容疑から、身元不明女性殺害容疑〉に変更だね。マデリンも含めて、この件は司直に委ねようと思うんだけど』
『それがいいな』
『ところで、僕もう帰っていい?』
駅の待ち合い室や、列車内の掲示板のテロップで、『指名手配犯、国家憲兵隊により、逮捕される』というニュースが流されていた。早速、大佐が動いてくれたようだ。
あの胡散臭いおっさんが、指名手配犯とは知らなかった。覚醒剤の過剰摂取で死亡した前王太子に、クスリを斡旋していた疑いがあるという。
連れがいれば目につかないと、高を括っていたのかも知れない。おまけに一緒にいた女は、王子毒殺未遂事件の実行犯である。憲兵隊は大手柄。シルデスの軍警察に、感謝状を送ってもいいくらいのものだ。
エスカは、未明に合宿所に着いた。一階から直通のエレベーターに乗り、降りたところで、アルトスと鉢合わせしそうになった。
ベッドから、急いで飛び出して来たのだろう。オレンジの髪はボサボサ。さながら、パジャマを着たライオンである。
「やあエスカちゃん。俺との交信を遮断するなんて、ひどすぎないか?」
忘れてた。
「俺とだけは、繋がるようにしといてくれよ。ん〜」
甘い声で言うと、エスカの髪にキスをし、いきなり抱き締めた。このバカ力。背骨が折れそうじゃないか。
抗議しようとしたエスカの胸に響いてきたのは、アルトスの深奥からの叫びだった。
『愛してる。愛してる。愛してる』
動転したエスカに、平静なサイムスの声が聞こえた。
「お帰りエスカ。何やってんだアルトス」
「いや、歓迎のハグを」
サイムスは苦笑した。
「まだ早いだろ。もうひと眠りしようぜ」
「そうだな。じゃまた後でな、エスカちゃん」
欠伸をしながら、ふたりは引き上げた。アルトスは、口とお腹が違うんだ。今さらのように、エスカは知った。
アルトスの慟哭は、暫くエスカの胸に留まった。
エスカは、昼近くまで眠っていた。身支度をしてキッチンに行くと、案の定、アダがいる。あのふたりは、出かけた後だった。
「お帰り。お手柄だったな」
まずは、腹ごしらえが先ということで、エスカは、数日ぶりにアニタのご飯を食べた。自然と、頬がほころぶ。アダが説明してくれた。
「マデリンは、一緒にいた男の巻き添えをくった程度の感覚でいたらしい。それが、殺人の共犯だと言われ、泡を食った。その罪から逃れるために、ベラベラと喋ったそうだ。
『言われたことをしただけです。薬草のことだって、そうよ。ドディさんに言われた通りにしただけなの。あたしは、全然悪くないわ』みたいな調子でな。
ラヴェンナにとっては、シルデスでの殺人の共犯より、もっと重大な事実が発覚したわけだ。王子毒殺未遂事件。
当然、ドディの再調査も行われるだろう。ドディがあっさり自首したのは、マデリンを殺してはいないのだから、いずれは釈放されるだろうと、見込んでいたんじゃないかな。
大佐は、激怒してるよ。データ改ざんのせいで、とんだ捜査ミスをしたからな。
ラヴェンナとシルデスの間には、犯罪人引渡し条約があるんだが、ドディを渡すのはもう少し先になるだろう。
ドディは、殺人を命じた主犯なのか、例の事務次官が命じたのか、はたまた大元は、イシネスか。
イシネスとは、引渡し条約を締結していないから、手は出せないな。元をたどれば、女神殿に行き着くだろうが、神殿は治外法権だろう?」
「そう」
「後は、捜査待ちだな」
それから一週間後、大佐がエスカを訪ねて来た。個人的な話だと言うので、エスカは個室に通した。
「この度は、ご協力ありがとう。お陰で捜査は捗っているよ」
本題は、別にあるようだ。
「君が、コンサート会場から出て行った二、三日後、その携帯に電話があった」
大佐は、机の上の携帯を指差した。そう言えば、携帯を置いて行ったんだった。
「たまたま、近くにいたわたしが受けてね」
なんだか、言い訳がましい口調である。エスカは、胸騒ぎを覚えた。
「『エスカさんの携帯でしょうか?』
と言う。女性の声だ。
『はい』
とわたしは答えた。本当だからな。
『わたくしは、担任のラサリと申します。あなたは?』」
まずい! エスカは、過呼吸寸前である。
「『パルツィと申します』
『パルツィさん。ああ、保証人の方ですね』
『その通りです』」
大嘘じゃないか!
「ラサリ先生は、納得されたようだ。
『エスカさんに代わっていただけますか?』
『それが実は、現在家出中でして。少しごたごたがありまして。二、三日で戻ると思いますが』
『保証人の方が、守ってあげられませんの?』
と、きつく言われた。
『ご尤もです。申し訳ない。で、ご用件は?』
『はい。では伝言をお願いします。
ラドレイ市にある本校の分校の女子寮に、空きが出る予定です。来週引き払うそうですので、再来週にはいつでも入寮できます。入寮の前日までに、入寮日を分校の学生課にご連絡ください』
と、いうことだ。これ、連絡先ね」
大佐は、メモを渡してくれた。エスカは、恨みがましい目で大佐を見上げた。内緒にしていたのに。ひとりで、こっそり身を隠すように、行くつもりだったのに。
「忙しくて、今日まで時間が取れなかった。連絡が遅れて、悪かった。
だからエスカ、来週になればいつでも越せるんだよ。君を狙うヤツがいることも、分かった。
一日も早く行くといい。行き先は、誰にも言わないから」
この人は、善意でしてくれたのだ。
「ありがとうございます、大佐」
「アニタに、チョコレートケーキを渡してあるよ。おやつに食べるといい」
本当に忙しいのだろう。大佐は、エスカの髪にキスをすると、身を翻して出て行った。
エスカは、連絡を受けた旨、ラサリ教授にメールして、お礼を言った。そうか。北部にいる方が、イシネスに近い。有事の際は、行きやすいだろう。
エスカは、クローゼットに目をやった。準備は、既に整っている。引っ越しといっても、手荷物だけですむ。念のため、ネットで、通帳の残高を確認したエスカの顔色が、変わった。
減っているはずの残高が、増えている。しかも、一生暮らせるほどの金額が、最近振り込まれている。タンツ氏である。ここまでしてもらう理由はない。
シルデスに来る時に受け取ったお金だって、返したいくらいなのに。返してしまったら、生活できないから、そのまま借りているだけだ。
エスカは、返金手続きをした。
その日の午後、アダがやって来た。
「セダは、まだ宮仕えだからな、身動きがとれないんだ。捜査の件だが、立ち場上、大佐は漏らせない。それで時間がかかった。
ドディが吐いたよ。『ラヴェンナに引き渡す』と言われて、
事務次官に、商売に便宜を図ると言われたそうだ。薬草を渡すから、何らかの方法で、アルトス王子に服用させること。
身元不明の女性殺人は、それに付随して起きたものだ。指示した者を伏せるためにな。
そこで、事務次官の名が出た。殺人も毒殺未遂も、言われたからやっただけだ。
主犯は命令した事務次官で、自分の罪は軽いはずだと、ドディは言っている。
事務次官に事情聴取したところ、こいつはこいつで、イシネスからの依頼だと言う。それ以上、シルデスでは捜査困難だと知っているからだ。
大佐は、引かなかった。イシネスの外交省に連絡を取り、カナーロ父子の焼死事件も合わせて、捜査するよう依頼したそうだ。シルデス人の女性が殺されているんだからな。
これで捜査終了になるかも知れないが、ドディは、ラヴェンナ行きだろう。蜥蜴の尻尾切りだが、何もしないよりはマシだと思ってくれよ。
事務次官も、ラヴェンナに送りたいところだと、軍警察では言っている」
「ありがとう、アダ。面倒くさかったね」
エスカの中では、既に過去の出来事になりつつある。
その夜、久しぶりにウリ・ジオンがやって来た。シェトゥーニャが、巡業に出かけたそうだ。やはり合宿所は、ウリ・ジオンいてこその合宿所なのだ。エスカは、それを痛感した。
年上の王族相手でも臆する事なく、オーナーの息子だからと驕る事がない。王の器と言えるだろう。
こうして過ごすのは、その夜が最後だと知っているエスカにとって、大切なひと時だった。
「引っ越しが決まったよ」
ウリ・ジオンが言った。ウリ・ジオンには、エスカに隠す理由はない。エスカが隠すのは、ただひとりになりたいから。それだけだ。
「北部の中核都市ラドレイから、エアカーで二時間ほどの農場を買ったんだ」
なにぃ。
「お前、農業やるのか。まるで未経験だろう。大丈夫か?」
能天気なアルトスすら、心配そうである。
「セダと共同経営だよ。セダは農家出身。シェトゥーニャも、田舎大好きだしな。穀倉地帯なんだ。小麦を育てる」
「セダが」
サイムスが、小声で呟いた。
「手間取ったのは、ローンの申し込みをしていたからだ。僕とセダと、半分ずつ金を出して、残りはローンを組むことになっていた。
そしたら昨日、僕の通帳に農場の購入金額の全額が、振り込まれていたんだ。それで、今日親父の所に行った。『余計な事するな。自分たちだけでやる』って言いにな」
エスカは、黙って聞いていた。タンツ氏は、罪悪感に駆られたのだろうか。野心的な男の讒言を信じて、最愛の息子を失う破目に陥ったことを、後悔しているのだろうか。
「そしたら親父は『せめて、それくらいはさせてくれ』と言った。それで終わり。
正直、すごくありがたい。古い農家だからな。リフォームが必要なんだ。
問題は、親父がセダの辞表を受け取ってくれないことだよ。企画二部のツートップに辞められるのは、痛いだろうからな。
もちろん、金を全部出してもらっても、経営権は僕とセダで半分ずつだ。セダに、半額を振り込んだよ。
何しろ、セダに教えてもらわないことには、何も始まらないからな。
売り主は高齢の女性で、去年ご主人を亡くしている。仕事はもう無理なので、農場を売って施設に入りたいそうだ。
なるべく早くということで、来週決済だよ」
「よかったじゃないか。俺たちも片付け始めるか」
「え、まだ片付けてないのか」
サイムスが呆れる。
「士官学校での躾は、無に帰したな」
「あの、僕にも振り込みがあったんだ」
エスカが、小さくなって言う。
「一生遊んで暮らせるくらいの額。で、返金した。ウリ・ジオンは親子だから、もらっていいと思うんだ。
でも僕は他人でしょ? そんなことしてもらう理由ないし。シルデスに来る時のお金だって、働けるようになったら、少しずつでも返し」
「必要ないよ」
サイムスが、遮った。
「会長は、エスカに責任を感じてるんだ。罪悪感を軽減してやると思って、せめてそれぐらいはもらってやりな」
エスカは頷いた。サイムスの言葉には、なぜか説得力があった。
「それにな、昨夜マーカス兄貴が妙なことを言った。『転学するなら北部がいいぞ』って。
兄貴は知ってたのかなぁ。そのウリ・ジオンたちが北部に行くこと。俺は、転学するなんて言ってないのに」
「そう言えば、シェトゥーニャも北部推しだったな」
ウリ・ジオンとサイムスは、エスカを見た。アルトスは、面白そうに三人の様子を眺めている。
大佐の嘘つき。誰にも言わないなんて言って、たっぷり匂わせているじゃないか。この調子だと、ラドレイ市に全員集合になる。
それも悪くないかも。ふとエスカは思った。自分は、この人たちと一緒にいたいのだ。それが今分かった。
「ほらほら、エスカちゃん。そろそろ吐きな。最初に、北部行きを決めたのは、エスカちゃんじゃないかな?」
アルトスは、やはり鋭くなっている。まずい。エスカは、アルトスの隣に座っている。同じソファの、ドアから離れている方。逃亡し難い席だ。
アルトスはぐいっと近づいて、エスカの肩を抱いた。例のバカ力である。ウリ・ジオンが、剣呑な顔つきになってきた。
くっついていると、考えが見透かされそうだ。不意に、アルトスが腕に力をこめた。
「いたたたた! 痛い方の腕じゃないか! 放してよ!」
ウリ・ジオンが、立ち上がった。ものも言わず、エスカからアルトスの腕をもぎ取った。
「痛い方の腕って、何だ?」
アルトスは、きょとんとしている。サイムスも、立ち上がる。
「エスカ、怪我でもしているのか?」
「もう二年近く前にね。強く押されると、今だに。ウリ・ジオン、話してないの?」
「う。話しづらくて。エスカ、一度見てもらうといい。後で話しておくから」
エスカは、上目遣いにウリ・ジオンを睨んだが、諦めて腕まくりをした。薄手のシャツだから、楽に肩付近まで捲れた。
アルトスとサイムスが、息を飲む気配がした。アルトスが、エスカの傷痕に唇をつけようとした時だ。ウリ・ジオンが、いきなりアルトスを引き離した。直後、エスカのシャツの袖を引き下げた。
「見ただろ? はい、おしまい」
「なんだそれ? 俺は、かわいい姪っ子に」
姪っ子。サイムスとウリ・ジオンが、顔を見合わせる。
「エスカ。ゾーイの治療した時、腕が熱をもらって赤くなっただろう? そこ、痛かったんじゃないのか」
「ちょっとだけね。それで大佐だけど」
話題を変えたいエスカ。
「僕が留守の時に、担任の先生から電話があったんだって。保証人のパルツィだと言って、全部聞き出したんだ」
「マーカス兄貴が?」
サイムスが、目をまん丸にしている。
「やるじゃないか、兄貴!」
ガッツポーズをした。何なの、その反応。
「で、大佐は何て言ってるんだ?」
「誰にも言わないって言ったのに、全部、喋ってるじゃないか」
「あ、いや。兄貴は、ただ北部がいいと言っただけで、その」
今度は、必死に兄を庇うサイムス。
「僕の通っているヴォード大学の分校が、ラドレイ市にあるんだ。担任のラサリ先生が、推薦状書いてくださった。女子寮の手続きも」
「女子寮?」
「うん。分校には、最初から女の子で行くつもり。早めに部屋空いたって、連絡してくださったんだ。
僕、狙われているしね。早い方がいいって。だから、月曜の午後発つ」
「月曜って、明日じゃないか!」
「うん。お世話になりました」
エスカは立ち上がって、お辞儀をした。
「何で早く言わないんだ! 知ってたら送別会を」
「やめて。僕泣きたくないから」
パー三は、絶句した。既にエスカの目には、涙がいっぱいだ。
「エスカ、僕たちも一ヶ月後には行く。すぐに会えるからさ」
ウリ・ジオンの言葉に、エスカは涙を拭った。
「ラドレイ市は、北部の中核都市だから、法科の院もあるだろう。調べてみるよ」
「俺も音楽科の」
「音楽は、首都にいる方がいいんじゃないか」
「根拠のないこと言うな」
「それより、セダを穏便に辞職させる方法を考えてあげてよ。じゃアルトス。これから最後の訓練やるよ」
「最後?」
アルトスは、未練がましそうにエスカを見た。
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