第9話 遠雷

 合宿所に戻った翌日から、エスカは毎朝出かけるようになった。病院を絞り込んでから後は、直接医師を見て、判断するつもりだ。その力を与えてくれた女神殿に、感謝した。

 医師の出勤時刻に、病院前を見張る。退勤時刻は様々でも、出勤時刻は似たりよったりだと思ったからだ。

 病院の入り口の見えるコーヒーショップがない場合は、人待ち顔で、その辺で佇んでいたりした。一度など、補導したそうな警官が近づいて来たものだ。

 何日かあちこち通い、郊外にも足を延ばしてみようかと思った頃、その人は見つかった。もぐりではなく、普通の外科医。カルテを、一般的な病名に書き換えてくれそうな人。 論文で発表しそうにない人。

 エスカは、思い切って受け付けに行った。自身で、やらなくてはいけないことだ。迷うだけ時間の無駄というものだ。

「あの、手術のことで、ご相談にのって頂きたいのですが」

 中年の受け付けの女性が、顔を上げた。

「はい。どなたの?」

「僕ですけど」

「どんな手術?」

 エスカは、口ごもった。何度も、この場面はシミュレーションしてきたが、適切な言葉を思いつかなかったのだ。

 受け付け婦人は、はは~んという顔でエスカを見た。親に内緒で、性転換手術か中絶手術を受けようとしている、ボーイッシュな少女に見えたようだ。

「そういうのはね、大人と一緒に来なさいね。それも、学生じゃなくて社会人」

 エスカの年齢からして、相手は学生と踏んだのか。また成人か〜。

「分かりました。いつ来たらいいですか?」

 おや、本気なの? と婦人は、少し驚いたようだ。大抵、ここで引くんだけどね。婦人は、パソコンを操作した。

「時間のかかる相談ごとかしら」

「多分」

「それなら、診察が終わってからがいいわね。遅くなるけど」

「かまいません」

「では、明日の午後七時半でどう? 診察の具合で、待ってもらうかも知れないけど」

「かまいません。お願いします」

 婦人は、にっこり笑った。エスカの本気度が、伝わったようだ。名前だけ聞いて、キーボードに打ち込んだ。連絡先は聞かなかった。明日までに気が変わることを、期待したのかも知れない。

 院内に入る時は、夜間非常用玄関から入ること、必ずそこの受け付けを通すことなど、幾つか注意事項を説明してくれた。

 エスカはお礼を言って、病院を後にした。よしっ、一歩踏み出したぞ! 問題は、誰に頼むかである。社会人。知り合いにいるだろうか。

 パー三は、学生だからダメ。アニタには、荷が重いかも知れない。最初から説明するのも面倒だ。ある程度事情を知っている者。アダかセダか。

 アダは、来週魔女号だ。手術は多分、早くて来週。セダは、残ると言っていた。セダに頼んでみよう。連絡先を知らないから、ウリ・ジオンに聞くしかない。

 理由は言えないけど。パー三にバレたら、うるさいことになる。

 案の定、ウリ・ジオンに話を切り出した時点で、サイムスが反応した。アルトスと会話中だったので、聞いていないと思ったのだが。

「直接連絡したいんだ」

 ウリ・ジオンは、興味深そうにエスカを見た。イシネスかラヴェンナに関係することだと、思ったのだろう。

 そういうことなら、自分にもいずれ話してもらえる。これまで、そうだったのだから。ウリ・ジオンは、快く教えてくれた。

 セダは、軽いフットワークでやって来た。もう夕方で、パー三はリビングで夕食待ちである。エスカは、セダを自室に通した。

 やはりセダは、エスカの事情を殆ど知っていた。説明が簡単で助かる。

「思い切ったな」

 そう言うと、快く引き受けてくれた。明日の午後七時に、迎えに来てくれることになった。

「ウリ・ジオンとアダには、まだ言わないでね。これから魔女号だし。結果報告で。手術してくれるかどうかも、分からないんだし」

 セダは頷いた。

「夕ご飯、食べていってよ。キッチンになるけど。アニタに話して、多めに作ってもらったから」

「それはありがたい」

 アダもセダも、ひとり暮らしと聞く。多忙な人たちだから、作る時間はないだろう。

 ご機嫌でキッチンに行くと、アニタが帰り支度をしていた。ダイニングには、もう運んだらしい。

「あら、今日はセダさんなの」

 顔見知りのようだ。笑顔で挨拶を交わす。

「お世話になります」

 アニタを見送って、セダは嬉しそうに食べ始めた。

「今日は忙しくて、昼抜きだった」

「それなのに、来てくれたの?」

 申し訳ない限りである。

「そんなのいいよ。このマトンのシチュー美味いな」

 突然引き戸が開いて、サイムスが顔を出した。

「エスカ、夕食は」

 言いかけて、セダに気づく。セダは目礼した。

「あ、ごめん。こっちで食べるから」

「あ、そ、じゃあ」

 慌てたように、引き返した。こいつ、アプローチ下手だな。同情したくなるレベルである。セダはと言えば、サイムスに目礼した後、悠然とお代わりしている。

「ねえセダ、サイムスと何かあったの?」

「ん? 何で」

「サイムスが、緊張してるから」

 セダは、けらけらと笑った。

「何かあるほどの仲じゃないよ。会えば、目で挨拶する程度だったんだが。ま、気にしないでくれ」

「サイムスはセダのこと、知っていたのは顔だけみたいだけど。セダは、サイムスの名前も知ってたんだよね。調べたの?」

 セダは、にやりと笑った。

「職業柄な」

 いくらセダでも、会う人全てを調べるわけではあるまい。興味があるから調べたのだ。未来は明るいぞ、サイムス。

 セダはお茶もお代わりし、明日の約束を確認して、ご満悦の体で帰って行った。

 エスカが自室に引き上げると、ノックが聞こえた。ウリ・ジオンである。

「今日の午後なんだが、生化学研究所に行ってきた。副官のDNAが手に入ったんで、鑑定を依頼してたんだ」

 そう言えば、その件もあったんだ。このところのごたごたで、エスカはすっかり失念していた。

「やはり凍結精子は、副官のモノだったよ。エスカのカンが当たったな。で、見ている前で全て廃棄してもらった。危うく、とんでもない野心が王室に入るところだったよ」

 すると、あらゆる事件の黒幕は公爵か。考えたくもなかったが、認めざるを得ない。

「ありがとう。でも、なぜシルデス人の会長が、ここまでしてくれるの?」

 関係ないと言えば、関係ないのに。

「ウチの商会は、イシネスとの取り引きが多いから、安全を期しているのかも知れない。くらいしか分からないな」

 ウリ・ジオンは、言い淀んだ。

「今朝、親父に呼ばれてさ。例の銃撃戦について、聞かれたんだ。生存していた二名の傷に不審な点があると、ラヴェンナの王宮直属の機関から、問い合わせがあったと。

 近衛師団に聞いても、何も知らないという。僕がアルトスの護衛官を務めていたことから、ウチに連絡が来たらしい。

 何でも、鋭利な刃物で刺されたような傷の周囲に、スタンガンの痕のような傷があったそうだ」

「へ~、そうなるのか。見たかったな」

 お気楽な様子のエスカに比べて、ウリ・ジオンは、眉間にシワを寄せている。

「でな、親父が言ったんだ。『まさかエスカが、妙なことやったんじゃないだろうな』その言い方というか、雰囲気というか……違和感を感じた。風向きが変わったというか」

 エスカは、何の根拠もなかったが、理解した。そうだ、風向きが変わったのかも知れない。

「それで僕は、仕事のことで初めて親父に嘘をついた。『僕はエスカと反対側で撃っていたし、初めての実戦で、緊張していた。周囲に気を配る余裕はなかった。

 セダが近くにいたようだから、エスカを護っていたんじゃないかな』と。『怪しげなことに巻き込まれるなよ』と親父は言った。 

 『怪しげなことって何だよ』と聞いてみたが、親父はそれ以上何も言わなかった。

 僕が退室すると、ドアの近くにセダがいた。耳から補聴器を出して、笑ってみせた。アダとセダは、仕事用の補聴器を、別の用途にも使うことがあるのは知っていたけどね。親父は知らないはずだ。

 悪用しないことは分かっていたから、黙認していたんだ。

 『聞いた通りだ。仲間に連絡よろしく』そう言って、帰宅した。アルトスとサイムスにも、話したよ。だからエスカも、もし聞かれたらとぼけてくれ。エスカは、震えてセダの陰に隠れていたと」

 不本意だが、それが無難だろう。それよりエスカは、ウリ・ジオンの心の動きが気になった。本気でタンツからの離脱を考え始めたのではないかと。

 会長の気持ちに変化があったなら、先日のシミュレーションは意味がなくなる。

 それなら、エスカも今度こそ本当にここを出ることになるかもしれない。覚悟だけはしておこう。

 その日の夕方、セダは早めに合宿所に来た。一緒に夕食を済ませようという、エスカの提案である。

「珍しいね、セダさんが続けて来るなんて。アダさんは、よくランチに来るけど」

「図々しい奴だ」

 エスカとアニタは、顔を見合わせて笑った。ダイニングにワゴンを押して行ったアニタは、笑いながら戻って来た。

「皆さん、興味津々だよ。二日続けてセダさんが来て、これからエスカと一緒に出かけるって、煽ってやった」

 誰かさんが、さぞやきもきしていることだろう。サイムスには、刺激が必要だ。

 病院には、七時半少し前に着いた。指示されたとおり、夜間非常用玄関から入る。受け付けには、年配の男性がいた。

 案内されて、外科受け付け前の椅子に座った。診察は、既に終わっていた。照明が半分消され、廊下は薄暗い。

 ほどなく、中年男性が診察室のドアを開けて、ふたりを招き入れた。昨日の朝、エスカが見た男生である。

 黒髪に白髪が数本見えるが、肌は張りがあって、若々しい。

「初めまして外科医のプレイグと申します」

 にこやかに挨拶し、ふたりに椅子を勧めた。

「セダ・ドロワです。この子の叔父に当たります」

 本人以外は、みんながみんな信じるだろうと思われる、自然な態度。

「エスカ・オブライエンです。よろしくお願いします。事情は、僕から説明します」

 プレイグ医師は、最後まで無言でエスカの話を聞いていた。

「では、診察しましょう。その後で、レントゲンを撮ります」

 セダは、廊下で待機となった。エスカは数分で診察室から出て、医師と共に、レントゲン 室に向かった。

 技師でなく、直接プレイグ医師が撮影してくれた。極秘であることを、理解した上での行動と思われる。 

 セダは、再び診察室に呼ばれた。一通り診察が終わったので、エスカは緊張が解けた様子だった。

 医師は、レントゲン写真を見ながら、丁寧に説明してくれた。

「確かに、両方内蔵されていますね。外にも両方。エスカさんの説明は、実に的を射ていました。

 それで治療ですが、どちらかを切除することになります。こうした場合、より良く発達している方を残すことになりますね。そうなりますと、男女どちらを選ぶか、という選択肢はないことになります。

 女性でよろしいですか?」

 よろしいも何も、選択肢はないのだ。

「はい」

 予想どおりだった。

「外のは切除するだけなので、これはすぐすみます。内部は、大腸手術ということにしましょう。内視鏡治療では角度的に無理なので、開腹手術を選んだということでね」

 なるほど。

「手術は、一週間後にしましょう。その二日前に、入院していただきます。本当は、前日でいいのですが。大腸ということなので、それらしくやらせていただきます。

 手術は二、三時間。全身麻酔で行います。その後、八日間入院になります。事務仕事のような軽いものなら、復帰まで一ヶ月、身体を使うものなら、二、三ヶ月。

 学生さんなら動くでしょうから、大事をとって、やはり二、三ヶ月かな」

 大学に、対面授業のことを相談しなくては。

「では、もう少し細かい話をしましょうか」

 話し合いが終わった頃は、九時を回っていた。帰りのエアカーで、セダは無言だった。エスカにかける言葉を探しているのが、分かる。

「ねえセダ、気にしないでよ。最悪の事態でも、想定内なんだからさ。

 はっきり言って、今の僕は異常でしょ。両方あるなんてさ。全部摘出してしまえば、僕の中では正常、つまり普通なんだよ。

 病気で全摘する人だって、いるんだし。僕は、普通になれればそれでいいんだ」

「せめて、第二次性徴前ならと、言っていたよな。あのクソ婆ァ巫女どもが」

 セダの方が、泣きそうだった。


 翌日は登校日ではなかったが、エスカは大学に行った。長期に、対面授業を欠席することになるからだ。できたら、留年は避けたい。

 教務課の若い男性事務員は、エスカを室内の簡易なソファセットに、案内してくれた。

「大腸の手術?」

 理由を聞いて、ショックを受けたようだ。癌だと思ったらしい。

「この若さで……」

 と、呟いた。本当は違うんです。ごめんなさい。

「その場合はですね。夏休み中に、何日か、出席して貰えば大丈夫ですよ。例年だと、怪我で欠席したり、単位を落として再受講したりと、何人かいますからね。そういう学生さんたちのための配慮は、します。

 ちゃんと受講すれば、留年はしなくてすみますよ」

「ああ、よかった~」

 エスカの笑顔を見て、事務員も嬉しそうだった。

「登校できるようになったら、医師の診断書を、教務の窓口に提出してくださいね」

 幸せな気持ちで、エスカは大学を後にした。

 合宿所に帰ってみると、平日なのに何故かパー三がいる。

「僕、今日の講義は午後からなんだ」

 とウリ・ジオン。

「行ってみたらさ、教授が『流行性感冒』だと。何のこっちゃ。伝染るらしいから、今日は休講」

 アルトスとサイムスはご機嫌である。

「昨日、大佐が来たんだが。エスカに会えなくて、残念がってたよ」

 へ~。

「お前、この頃留守が多いからな」

 だからナニ。

「ほら、ラヴェンナに行く途中で、絡んできた二人組だけど」

 忘れてた。ウリ・ジオンが、説明してくれた。

「某大学の学生だった。持っていた爆発物は、ダミー。脅しに使うつもりだったそうだ。目的はエスカ、お前だよ」

 サイムスが、その可能性を示唆していたような気がする。

「単位を落としそうな学生ふたりに、教授が提案したんだってさ。

 『家出している甥っ子が、家に帰ろうとしない。君たちなら、年齢が近いから、油断してついて来るかもしれない。その甥っ子を、この研究室に連れて来てほしい。

 そうしたら単位をくれてやる上に、他の科目の成績にもゲタを履かせてあげるよ。何より人助けになる。両親から感謝されるだろう』って言われたんだとさ」

 アルトスとサイムスが、大笑いした。

「俺たちより、デキの悪いヤツがいたか」

 え、デキ悪いの、このふたり。

「それで、結果は気の毒に単位を落とした上に、停学処分だ。拉致未遂だからな。重罪の一歩手前だ。けど、騙されたわけだから、情状酌量してもらって、退学は免れたんだ

 それで、その担当教授に事情聴取をした。最初は否定していたが、結局白状した。エスカのことを小耳に挟んで、研究意欲が湧いたんだとさ。

 エスカについて、詳しいことは聞いていないという。とにかく、非常に珍しい症例の子だと。

 聞いていても、知らないふりをしてとぼけたのかもしれない。結局、その教授は懲戒解雇」

「どこから、その話が出たの?」

「お前の健康診断しようとした、研究所からだろ」

「会長が、基金出してるとこ?」

「そう。いずれ親父にも、捜査が及ぶかもな」

「でも、健康診断から、何ヶ月も経ってるよ。何で今頃?」

「それは、まだ分からん。研究所長は、まだ泳がせている。証拠不充分だそうだ」

「それはそうと、ウリ・ジオン。魔女号の出港はいつだっけ?」

「明後日だ。アダは大忙しだよ。僕は暫く通えないから、今夜、射撃場に行って来る」

「射撃場? それで、あんなに射撃がうまかったんだ。百発百中だったもんね」

「最初、親父に言われて始めたんだけど、これが意外に性に合っててさ」

 エスカに誉められて、ウリ・ジオンは、満更でもなさそうである。

「そう言えばサイムス。最近、フェンシングに行ってないんじゃないか?」

「え、サイムスは、フェンシングやってるの?」

 エスカは、自分がパー三について殆ど知らないことに、今更ながら気付いた。

「う、まあ、な」

 口ごもるサイムス。ははん。セダとの接点は、この辺だな。

「セダも、フェンシングに?」

「いや、彼は古武術」

 そんなに簡単に白状していいのか。

「コブジュツってなんだ?」

 アルトスは、きょとんとしている。

「むかしからある武道のことみたいだが、よくわからん」

「セダと、お友達だったとはな」

「お友達なんかじゃない。顔見知り程度だ。同じフロアに、フェンシングと古武術の教室があるんだよ。で、シャワールームが一緒でさ」

「おおっ!」

 アルトスとウリ・ジオンの目が、期待に輝いた。

「その、ラヴェンナに行く一週間ほど前に、ちょっとしたアクシデントがあって」

 ここでサイムスは、言い淀んだ。が、三人の期待に逆らえず、サイムスは続けた。

「見られた」

「はっ?」

 目をまん丸にする、アルトスとウリ・ジオン。

「何を?」

 間抜けな質問をしたのは、エスカである。

「なるほどな。それはきつかったな」

 アルトスが笑いを堪えて、慰めるふりをする。

「見られただけか?」

 ウリ・ジオンは、多少は同情しているようにも見える。

「いや、俺も見た」

「はぁ?」

「じゃあ、お互いさまなんだから、落ち込むことないじゃないか」

「だ、だってさ。俺、幼児の時以来、他人に見せたことはないんだ。

 それにセダのヤツ、廊下で会っていつも目礼してる時みたいに、全然へっちゃらだったんだぜ。俺が、こんなに動揺してるってのに」

 サイムスは、泣かんばかりである。

「それだから、あれ以来、行けなくなったんだよ」

「馬鹿か、お前は!」

 さすがに、アルトスも呆れたようだ。

「だったら、シャワーしないで、帰って来ればいいだろう。フェンシングそのものを休むほどのことか」

 サイムスは、驚いて顔を上げた。

「あ、そっか」

 何をか云わんやである。

「第一、男が男のモノを見たからって、大騒ぎするようなことか?」

「そうそう。女の子同士ではどうだ?」

「僕に、一般論振らないでよ」

「あ、そのことだけどな」

 名案を思い出したように、アルトスは身を乗り出した。

「三人で相談したんだよ。もぐりの医者探してるっていうから」

 う、もう見つかったとは言うまい。少なくとも一名、多ければ三名が、騒ぎ出すだろうからだ。面倒は避け、静かにコトを済ませたい。

「でな。俺、メス並みに切れる短剣持ってるんだ」

 アルトスは、得意そうである。

「で、お前は、催眠薬や痛み止め持ってるだろ?」

 サイムスまで、仲間になっている。

「取りあえず、それで切り落としてしまえば、無理にもぐりの医者探さなくていいと思うんだ」

 ウリ・ジオンも、信じられないことに大乗り気である。エスカは、後退りした。

「大丈夫。他のとこは見ないから」

 サイムスは、一応気を使ってくれているようだ。

「そんなの無理でしょ! 隣接してるんだよ!」

 もはや悲鳴に近い。三人とも本気なのが怖い。

「雑菌が入って化膿でもしたら、対処できるの?」 

 三人は、顔を見合わせた。

「あ、そっか」

 うすらとんかちども。でも、心配してくれているのは、確かなようだ。

「気持ちだけ、いただいておくよ。この話はおしまい!」

 言うと、エスカは自室に駆け戻った。


 翌日の晩、即ち魔女号が出港する前夜だが、送別会と称して、アルトスが歌を歌ってくれるという。

 防音室から、ギターラを持って来た。アルトスが楽器演奏をご披露するのは、初めてのようだ。

「まだ下手だけどな」

 などと言いながら、何やら、U字型の金属を振った。音叉というのだそうだ。ギターラの弦を爪弾き、耳を傾けて音を確かめる。

 アルトスは、耳がいい。やはり、音楽をやる人は違うな。エスカは、内心感心することしきりである。

 指先で弦を弾きながら、アルトスは歌い始めた。ラヴェンナ語のようである。だが、見えた風景はラヴェンナではなかった。

 エスカは突然、身体中を熱風で包まれたような感覚を覚えた。見ると、ウリ・ジオンとサイムスは、歌に聴き入っている。特にそういうものを感じてはいないふうだ。

 シャーマン。不意にそんな言葉が、エスカの脳裡に浮かんだ。最古の民族・砂漠の民の血が流れているアルトス。本人は、自覚していないだろう。      

 となると、シェトゥーニャの踊りにも、その要素があるかもしれない。まあ、コトが踊りと歌なら、危険性はないだろう。

 入学フェスの時は、あまりに微少だったせいか、エスカは気づかなかった。今は距離が近いせいか、アルトスの力が高まったせいか、はっきりと分かる。アルトスとエスカは、共鳴しあっている。

 二曲目は、打って変わって、穏やかな田園風景を思わせる歌だった。地平線まで広がる葡萄畑。点在するオリーブの木々。遠くに横たわる茶色っぽい山々。望郷の想いを募らせる歌である。

 感動で、エスカは身動きできなかった。


 翌日、魔女号は予定通り出港した。その夜、エスカはニュースで、イシネスのヴァルス前公爵夫人の死を知った。心不全だという。

 お優しい方だった。元々、心の臓がお弱かった。息子カシュービアンの野心が、夫人の心を傷めたのだろうか。

 唯一の弱点を失った公爵に、怖いものはないはずだ。喪が明けた後、何をするつもりだろう。

 もう一度、イシネスに行くことになるかもしれない。王女を救うなら、その時だ。もはや、タンツ氏には頼れない。自分で考えるしかない。

 エスカは跪き、前公爵夫人のために祈った。


 入院の前日は、対面授業だった。暫く欠席することになる。いつもの通り、夕刻に授業が終わると、エスカはエアバイク置き場に向かった。ふと、いつもと空気が違うのに気づく。

 見ると、エスカのエアバイクに、見知らぬ男が腰かけている。サングラスが不気味である。物陰から、四人の男たちが出て来た。

 ひとりがあろうことか、片手でアニタを後ろ手に押さえている。もう一方の手には、ナイフ。アニタの喉に当てている。

 エスカの目尻が、つり上がった。

「アニタを放せ」 

 男のひとりが、鼻で笑った。こいつがリーダーか。

「ついて来てもらおう」

「アニタを放せ」

 エスカは、繰り返した。無駄と思われる言葉を紡ぎながら、エスカの頭脳は、最大出力で回転する。

「エスカ!」

 混乱したアニタは、卒倒しそうだ。エプロン姿なのを見ると、合宿所から連れて来られたのだろう。夕刻だから、グウェンはいない。パー三も帰宅していなかったのか。

「これ、何だか分かる?」

 エスカは、腰のクマに触れた。ゾーイのクマだ。

「小汚いクマだな。それがどうした?」

 確かに小汚いクマである。白熊ホッキョクグマだったはずなのに、埃と手垢で今や灰色熊グリズリーと化している。

「ふん」

 エスカは、鼻で笑ってみせた。

「この中に、爆発物が入っているんだよ」

「デタラメも、いい加減にしろ!」

 アニタに突きつけられたナイフは、今にも喉を傷つけそうに見える。

「じゃあ試してみる? これは小さいから、爆発してもアンタたちに影響はない。せいぜい、僕の腹部が吹っ飛ぶくらいかな」

 男たちは、顔を見合わせた。やっぱり。生きて連れて来るよう、命令されているのだ。

「そんなことをしたら、お前は死ぬじゃないか」

「実験材料にされて死ぬより、今、ここで死ぬ方がマシだね」

 男たちの顔色が変わった。そこまでは聞いていなかったのか。

「ただ、アニタを解放してくれるなら、おとなしくついて行ってもいいよ。その人は、僕の母同然の大切な人だ」

「エスカ!」

 アニタが、泣きながら叫んだ。

「嘘は言わないな」

「もちろんだよ。僕の母の名にかけて」

 通り名を、『火だるまのエスカ』から『ハッタリのエスカ』か『千三つのエスカ』に換えた方がいいかもしれない。

「いいだろう。女を放せ」

「エスカ!」

 アニタが抵抗する。

「できないよ。あんたを置いていくなんて!」

 エスカは、アニタの懇願に耳を貸さなかった。

「アニタが、この駐輪場から見えなくなったら、言うことを聞くよ。それまで待って」

「分かった。女、早く行け!」

「イヤだ、エスカ!」

「行けよ。リディがいるじゃないか!」

 この言葉で、アニタには選択肢がなくなった。

「ごめん、エスカ。ごめんなさい!」  

 アニタが転げるように、駐輪場の角を曲がりかけた時、エスカは誰にも聞こえない声で呟いた。

「出でよ」

 間髪を入れず、突風が周囲を襲った。風刃ふうじんが来たのだ。

 後ろ向きに倒れた男たちは、後頭部を強打。脳震盪を起こしただろう。前向きに倒れた者は、鼻の骨と頬骨が折れたのではないか。同情の余地はないが。

 角を曲がりかけたアニタが、くるくると三回転して尻もちをつくのが見えた。エスカは無傷で、その場に立っている。

「アニタ!」

 エスカは大声でアニタを呼ぶと、エアバイクに走り、エンジンをかける。よろよろしながらも走ってきたアニタに、ヘルメットを被せた。

「乗って! しっかり掴まるんだ!」

 エアバイクは、夕闇迫る空を疾走した。目指すは、アニタの家だ。門前で、アニタを降ろす

「よく聞いて、アニタ。今から三十分したら、軍警察に連絡して。パルツィ大佐を呼ぶんだ。サイムスの兄さんね。

 そして、さっきあったことを正直に全部話す。嘘ついてもどうせバレるから、正直に話すのが一番だ。それから、ウリ・ジオンに伝言。今いないけど、何とか連絡して」

 そうだ。ウリ・ジオンがいないのだ。ああ、どうしよう。ウリ・ジオン。

「『二ヶ所攻撃』そう言えば分かる。ウリ・ジオンにしか、分からないんだ」

「『二ヶ所攻撃』……」

「そう。僕は暫く身を隠すから、探さないでね。アニタ、家に入ったらしっかり鍵をかけるんだよ」

「エスカ!」

 エスカは、アニタの頬にキスをすると、夜空に舞い上がった。大急ぎで合宿所に戻る。屋上に着くと、リビングから灯りが漏れているのが見えた。まずい。ふたりは帰宅していたのか。

 エスカはそっと自室に入ると、クローゼットから大きめのバッグを取り出した。入院に必要な品が入っている。

 昨夜のうちに用意しておいて、よかった。例の短剣も入れてある。お守り刀だ。

 そっと廊下を抜け、エレベーターに乗る。素知らぬ顔で、受け付けを通った。外に出て、ウィッグを被る。銀髪より目立たないからだ。

 取りあえず駅に向かい、電車に乗った。あのまま合宿所にいて事情聴取されたら、入院のタイミングを逃すかもしれない。

 極秘の手術だ。エスカは、このチャンスを逃すわけにはいかないのだ。

 さて、どこに行こう? 季節は冬に入っている。いくら北国育ちのエスカでも、野宿は避けたい。

 軽犯罪をやって、留置場泊まりというのもまずい。保護者が呼ばれるだろうし。

 思いついたのは、ただひとつ。ダメ元で行ってみよう。明日入院する予定の病院に着いたのは、午後八時過ぎていた。夜間非常用玄関から入る。外科外来の廊下は、暗い。診察室に、人の気配がする。

 エスカは、深呼吸してドアをノックした。


 翌朝、エスカがのんきにストレッチをやっていると、息せき切ってセダが駆け込んで来た。

 セダは安堵のあまり膝が砕けて、床に尻もちをつくところだった。

「ここに泊まったのか」

「うん。昨夜から入院ということにしてもらった。看護師長さんが、親切な人でね。あのお医者さんの奥さんだってさ」

 エスカは、けろりとしている。

「ご飯ももらえたよ。で、どうなったの?」

「他人事みたいに言うなよ。俺は途中で駆けつけたから、その前のことは大佐から聞いたんだが。

 エスカに言われたとおりに、アニタは三十分後に大佐に連絡した。エスカを拉致しようとした男たちは、病院に搬送されていたそうだ。エスカのエアバイクが去ったすぐ後に、駐輪場に行った学生が通報したって。

 そこで、大佐は搬送先の病院を調べた。五人とも、怪我は大したことはなかった。で、そのまま本庁に送られて、事情聴取と相成った。

 『先に真相を話した者の刑は、軽くなる』と言ったら、口々に喋り出したそうだ。根性なしめ。

 前金をくれた男の顔は見たが、名前も連絡先も聞いていない。ハンドルネームしか知らなかった。どのみち、一度だけの仕事だからと、気にしなかったそうだ。

 連れて行く先は、港のコンテナだったと言う。

 だから、その男が何者なのかは不明。貧弱な体格で、インテリっぽい爺さんだった。妙に貫禄があったと言うから、どこかの管理職かもしれない。

 エスカが、ベルトに付けていたクマの話になると、サイムスが吹き出した。

『あのゾーイのクマか? あれが役に立ったのか』 

『えらいハッタリだな』

 深刻な事態だったが、この時だけは盛り上がったそうだ。

 俺が到着したのは、その頃だよ。アニタに、大佐が手を焼いていた。エスカからウリ・ジオンに、伝言を頼まれたと言う。

 大佐が『代わりに聞くよ』と言ったら『ウリ・ジオンさんに伝言なんです』と言ったきり、口をつぐんでしまった」

 エスカは笑い出した。さすがアニタである。セダも笑った。

「あの大佐を困らせるとはな。いつもと違ったのはアルトスだ。一番にぎゃあぎゃあ騒ぐはずの御仁が、沈黙している。

 大佐が『家出少年の捜索』とか言い出してから、おもむろに口を開いた。

『暫く身を隠す。探さないでと、エスカは言ったんだな?』

『はい』

『では待とう。時至れば、戻って来るだろう』

 見せたかったぜ、あの貫禄。まさに王者の風格だった。本来、ああいうお方だったんだな。

 さっきまで『アルトスボーイ』とか言っていた大佐が『では、そのように致します』と一礼して引き上げて行った。

 それで俺は、アニタに魔女号まで緊急ヘリで飛んでもらうことにした。アニタは、エプロンをかなぐり捨てたよ。それで俺は、エアカーでヘリポートまでアニタを送った。

 魔女号はまだ洋上で、シルデス寄りにいた。アニタは今朝がた、ウリ・ジオンの返事を持って、帰って来た。その足で、大佐に連絡に行ってくれたよ。

『突風が吹いた頃、風による被害を受けた建物を捜査してほしい。そこに黒幕がいるはずだ』

 その建物は、すぐに見つかった。唯一、被害を受けた建物だったから、見つけ易かったそうだ。会長が資金を援助している、研究機関だった。

 逮捕された五人の男たちに、その研究所の職員の写真を見せたら、すぐに例の爺さんの正体が判明した。

 今頃署に連行されて、事情聴取を受けているだろう。DNA関係の重鎮だという教授だった。

 最近まで、招待されて海外に行っていたそうだ。あちこちで講演していたそうだから、それなりに実績のある人物なんだろう。

 エスカが、健康診断の会場から脱走したのを聞いて、会長は研究の中止を指示したそうだ。それで教授のチームは、エスカの件については、触れずにいた。

 帰国した教授は激怒。行き違いがあったようで、知らなかったそうだ。無論、ラヴェンナに行く途中で、他の大学が手を出そうとしたことも、知らなかった。

 だが、教授にこのチャンスを逃す気はない。それで、今回の事件が起きた。会長にも捜査が入るかもな」

「会長は怒るね。またエスカ関連かと」

 セダは、エスカを見つめた。

「お前のせいじゃないだろう。それより、手術に備えて体力を蓄えておけよ」

「それが、明日から絶食だってさ。大腸の手術に見せかけないと」

「気の毒にな」

 セダは苦笑した。

「俺、ちょっと忙しいんで、明日は来られないかも。手術に間に合うようには、来るから」

「手術の後で、結果をお医者さんに聞いて貰えれば、それでいいよ」

「いや、前に来る。どうせ、仕事なんか手につかないよ」

「なんでセダもアダも、僕にそんなに良くしてくれるの?」

「エスカが大切だからだよ」

 セダは、エスカを抱き締め、髪にキスをした。それから陽気に手を振り、出て行った。この無償の愛の行動を、何と呼べばいいのだろう。


 翌々日、エスカが手術着に着替えている時、セダが来た。。セダを見て、エスカが微笑む。やっとこの日が来た。そういう笑みだった。

 セダは、手術室の前で久方ぶりに祈ったそうだ。手術は、予定通り終わった。だが医師は、複雑な表情を浮かべていたと、エスカは後で聞いた。その晩、エスカは集中治療室で過ごした。

 翌朝、エスカが目覚めた時、最初に目に入ったのは、枕元の椅子で仮眠しているセダの姿だった。一晩中いてくれたのか。セダはエスカが身動きすると、すぐに目を覚ました。

「痛くないか?」

「痛み止めが効いてるから」

 その後看護師が来て、前日と同じ病室にストレッチャーで運んでくれた。まもなく医師が来てくれた。

「どうですか、気分は?」

 医師の方が、具合が悪そうだった。医師は、言いにくそうに口を開いた。

「手術は成功しました。但し、あなたの望んでいた結果ではないかもしれません。

 事前の話し合いでは、癒着していたら切り離して男性部分を取り除き、女性部分を残す。

 癒着部分が広範囲に渡り、切り離しが不可能だった場合、全摘する。そういうことでしたね」

 エスカの顔に、不安が浮かんだ。セダは聞いていられないかのように、俯いた。

「結果、切り離しは不可能だったのです」

 それなら想定内だ。

「これから先は、言い訳になるかもしれません。もしあなたが、出産年齢を過ぎていたなら、わたしは迷わず全摘したでしょう。

 でもあなたは若い。身体の成長も遅い。もし、これからもっと成長して一人前になったら、女性としての幸せを追求して、生きていける可能性があるのではないかと。

 そう思ったら、わたしには全摘する勇気がありませんでした。ですから、そのまま縫合しました。

 事前のお約束を、たがえてしまいました。申し訳ありません。

 ただ、外見は女性になりました。傷は可能な限り、小さくしたつもりです。時間が経てば、目立たなくなるはずですので」

 エスカはベッドに寝たまま、天井を睨みつけるように医師の話を聞いていた。医師が話し終えても、暫くは無言だった。

 明らかに、エスカの希望とは異なる選択だったことを、医師とセダは感じとった。

「僕は、普通になりたかったんです」

 それだけ言うと、エスカの大きい目から大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。エスカは声をたてず、ただ、ぽろぽろと泣き続けた。

「この選択が、あなたの将来に幸せをもたらすことを、祈ります」

 そう言うと、医師は出ていった。


 退院の前日、お茶をもらおうと、エスカは給湯室に行った。隣接しているロビーから、テレビの音が聞こえて来る。

『今、新しいニュースが入りました。ラヴェンナ国王が、急病で倒れたそうです。医師団が、治療にあたっているということです』

「まだ三週間弱。早かったな」

 エスカは呟く。病室に戻りながら、考え込んだ。これで、イシネスを出た目的は全て果たした。明日から、僕は何をしたらいいんだろう?


 退院の日、セダが迎えに来てくれた。医師と妻は、エントランスまで送ってくれた。セダが、丁寧にお礼を言う。エスカも、笑顔で挨拶をした。入院していた術後の七日間で、エスカはなんとか気持ちを立て直すことができたと言えよう。

 割り切ったのである。中なんか、どうせ見えないもんね。一応外見は、女性だもんね。

 エアカーの助手席に、アニタがいた。アニタが、泣きながら抱き締めてくれた。

 帰宅して、パジャマに着替える。ベッドに潜り込んでほっとした時、キッチンの電話が鳴った。グウェンが、エスカの枕元にいるアニタを呼ぶ。

「大佐さんなんだけど、これから来るって。エスカに用があるそうだけど、なんで帰ったのが分かったのかしらね」

 そりゃあ、刑事がこの建物を見張っていたからだよ。事件は、解決したのではなかったのか。今日退院してきた者に、聴取に来るほどの緊急性は、あるのだろうか。横になっていたかった。

「無理。せめて明日にしてもらえないかな」

 アニタは頷いて、電話に向かった。

 深夜、エスカは夢を見た。ふたりの男が、足音を忍ばせて部屋に入ってきた

「いるか?」

「いるいる。よく眠ってるぞ」

「ああ、よかった。本当に帰ってきたんだな」

「起こすなよ」

「キスは諦めるか」

 ふたりは声をひそめて笑うと、そっとドアを閉めて出ていった。


 翌朝、グウェンが様子を見にきた。

「昨夜、あのおふた方は遅いお帰りだったみたいだね」

 温かいスープを持っている。

「もう痛みはないの?」

「すっかりだよ。まだ起きたくないけど」

 グウェンのスープも、美味しかった。ここでの食事は、なぜか元気が出る。

 暫くすると、賑やかにおふた方がお見えになった。

「やぁ、具合はどうだ?」

「うん。眠いだけで、元気」

「寝てろ。俺は朝練があるから、早めに出るよ。来月、スプリングコンサートがあるんだ。それまでに治せよ」

 サイムスは、アルトスの傍らでにこにこしている。突然、アルトスはエスカの頬にキスをして、出て行った。サイムスも、やはりキスをして出て行った。肩越しに振り向いて、にやりと笑う。

 エスカが、頬を撫でて幸せな心地でいると、サイムスの不機嫌そうな声が聞こえた。

「朝っぱらから、なんだよ!」

「この時間しか、空いてないんだ。もうお出かけか」

 大佐の声か? やれやれ。 

「昨日、退院したばっかりなんだぞ。少しは気を使えよ」

「え、入院してたのか?」

「知らなかったのか。大丈夫かよ、軍警察」

 サイムスは、兄に遠慮する気はないようだ。

「帰宅したという報告を、受けただけだよ。手短に済ませる。それよりコンサートの練習か? チケット貰えるかな」

 アルトスの様子を見て、これまでと違うように感じたらしい。

「手配しておくよ。必要枚数を、サイムスに連絡しておいてくれ」

「え? いいのか?」

「毎年来てるくせに」

 アルトスが笑っている様子が、伝わってくる。バレていたようだ。大丈夫か、この刑事。

「去年は、早朝から列んだんだぞ。手に入れるのが大変なんだ。助かる」

 大佐の声が、弾んでいる。ラヴェンナでの一件で、アルトスは何か吹っ切れたのだろうか。サイムスの軽い笑い声が、聞こえる。

 若者ふたりは、ご機嫌で出かけたようだ。

「おはようございます。アニタはまだですけど」

 水を差すようなグウェンの声。

「あ、いや、今日はアニタに聞くことはないんだ」

 焦る様子の大佐。早朝に来た理由が分かった。アニタの出勤前を狙ったのか。先日の一件で、惨敗したらしいから。

 直後、控えめにドアがノックされた。制服姿の大佐である。

「早朝から失礼します。お加減は如何ですか?」

「おはようございます」

 エスカは、口の中でもごもご言って、起き上がろうとした。グウェンが来て、背中にクッションを当て、肩にガウンを羽織らせてくれた。

「軍警察のパルツィ大佐です」

 手慣れた仕草で、机の前から椅子を運んで来ると、腰を下ろした。長居するつもりじゃないよね? 直後、またドアがノックされた。セダである。助かった。

「おはようございます。エスカは未成年ですから、わたしが立ち会いますよ」

 今日のセダは スーツを着込み、会社員風である。サイムスが見たら、ニ度惚れするかも。こちらも、出勤前に立ち寄ったのだろう。

 セダは、キッチンから椅子を運んできた。

「先ずは、お礼を申し上げます。ふたりの弟たちの命を救ってくださったこと、心より感謝致しております」

 大佐は、深々と頭を下げた。ああ、ラヴェンナでの爆発物の件ね。

「あの銃撃戦には、このセダも参戦してくれたんですよ」

 セダが会釈をした。大佐が微笑む。

「それは羨ましい。わたしも参戦したかったですな。

 では、二点ほど質問にお答えいただければ、すぐに退散いたします」

 大佐の目が、いたずらっぽく動く。

「一点目。あなたが襲われた理由をお聞きしたい。誰に聞いても、釈然としませんでね」

 大佐は、エスカのことをどこまで知っているのか。職業柄か、ポーカーフェイスでさっぱり分からない。

「僕が、イシネスからの亡命者であることはご存知で?」

「承知しております。ただ署では、それを知るのはわたしのみ。ご安心ください」

「僕がイシネスを出る前に、大巫女さまがタンツ氏にお願いしたそうです。僕の身体に異常があるので、手術を受けさせてほしいと。タンツ氏はそれを快諾。 

 しかし結果として、タンツ氏は、研究機関に連絡することを優先したのだと思います。それを僕が拒否したので、タンツ氏は研究の中止命令を出した。そのことで、行き違いがあったと聞いています。

 でも僕は手術を受け、正常な身体になりました。もはや狙われることはないはずです」

 どこが正常だ。エスカは、自分の心がまだ完全には立ち直っていないことを知った。

「あなたは、研究の対象ではなくなった、ということですね。しかし、そのことを研究者たちは、どうやって知るんです?」

「最初にリークした人が、またリークすればいいんじゃないですか」

 なるほど、と大佐は頷いた。

「では二点目。突風が吹いたことについて、教えていただきたい。あの風は、なんだったのか」

 エスカは冷めた目で、大佐を見た。

「あなたは、僕を精神病院に入れたいんですか?」

 大佐は驚いたようだ。

「そのようなことは、考えたこともありません。なぜ?」

「僕が正直に話せば、そうなるからです。妄想性の精神疾患だと」

 エスカは、じっと正面の壁を睨みつけた。

「この事件は、解決したことになっているはずです。関係書類は決裁箱に入れられ、既に文書保管庫に運び込まれた。例の風は、気象予報士が『ところにより、突風の吹く可能性あり』と予報していたはず。それでこの一件はクローズした」

 大佐は、呆然とエスカを見つめた。セダが立ち上がる。

「なぜ、あなたは来たんですか? しょうもない話をしに?」

「エスカという人に、会って見たかったんですよ」

 エスカの詰るような口調に、大佐は穏やかに答えた。

 それまでベッドに寄り掛かっていたエスカは、身を起こし、背筋を伸ばした。目を半眼にすると、身体を前後に揺らし始めた。

「そこまで!」

 セダの緊迫した声が遠くに聞こえた。



 

 

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