第8話 神の手

 ラヴェンナに出発する三日前から、エスカは何も食べなくなった。口にするのはボトルの水のみ。

 どうやら、心配したアニタがウリ・ジオンに連絡したようだ。

 ウリ・ジオンは、「大丈夫」とだけ言うに留めたと言う。

 エスカがラヴェンナ行きを願った時に、何か魂胆があることは、想像できただろう。観光目的のはずがないと。

 それでも、無言を貫いてくれたウリ・ジオンに、エスカは感謝した。

 出発当日、四人は早朝に合宿所を発った。たかだか二、三泊の割には、荷物が多い。

 アルトスには式服がいるし、ふたりの護衛官、サイムスとウリ・ジオンには、武器とマントがいるからだ。

 エスカのみ、気楽に普段着である。但し、一応よそ行き用を着た。

 ただ、黒髪のウィッグを被った姿を見たパー三は、どよめいた。

「白雪王子だ~!」

 サイムスが、珍しくはしゃいだ。よほど白雪姫が好きらしい。アルトスとウリ・ジオンは、顔を見合わせた。

「お前、間違っても兵士に笑いかけたりするなよ」

 気難しい顔色のアルトス。

「その目で、男を見つめるなよ」

 意味不明の助言をするウリ・ジオン。

「似合い過ぎかもな」

 と、サイムス。あらぬ心配をしているようだ。僕は、そんなにモテないって。

 エスカにとって、旅行は初めてだ。魔女号での旅は、旅行とは言えないだろう。

 エアカーの運転は、サイムスが一手に引き受けた。運転していないと、乗り物酔いするそうだ。でかい図体と体質は、関係ないらしい。

 少し離れて、SPのエアカーがついて来るのが見える。

 三人は、ランチをパブで取ったが、エスカは車に残った。不審がるふたりを引っ張るように、ウリ・ジオンは店内に入った。簡単に説明してくれるだろう。

 アルトスとサイムスは、このところ帰宅が遅かった。夕食の時間を過ぎて帰宅したため、エスカの夕食は、済んだものと思っていたのかもしれない。

 エスカは水を飲み、目を閉じた。余分なエネルギーは、使わないに限る。すると、誰かがエアカーの窓をノックした。

「タバコの火を貰えないかな」

 見ると、学生風の若者がふたり、立っている。見るからに未成年のエスカが、そんな物持っているはずはないだろう。下手な声がけである。

 自分で追い払うのは、簡単だ。だが、問題を起こしたくないエスカは、携帯でウリ・ジオンにメールした。『トラ』これで通じることになっている。

「何やってんだよ! 火を貸してくれと言っただけだろう!」

 若者たちは、ドアを蹴り始めた。直後、パブのドアが開いて、パー三が飛び出してきた。サイムスが手にした銃を見た若者たちは、途端に両手を上げる。SPは駆けつけようとしたが、大事ないと知って下がった。

「この辺の人間じゃないな。お前ら、ラヴェンナ人か?」

 続いて出て来たパブのマスターが、ふたりの顔を見て言った。

「お、俺たち、タバコの火を」

 言い訳を始めた若者たちを無視して、マスターは通報した。

「困るんだよ。こういうことされると、店の信用に関わる」

 ここはまだシルデス。ラヴェンナとの国境まで、まだ距離がある。

 ウリ・ジオンは、エスカを見た。エスカは険しい表情である。単なるゆすりたかりではないようだ。

 サイムスが電話をしている。電話を切った頃、所轄の警官がやって来た。ふたりに手錠をかけて、身体検査をする。そこに、警察無線で連絡が入った。

「本庁から警官が来るまで拘留。了解しました」

 パルツィ大佐は、仕事が速い。四人がエアカーに乗り込んだ時に、若者のポケットを探っていた警官が、声をあげた。

 「なぜ、こんな物を持っている!」

 手に小さな器具。爆発物のようだ。マスターは、茫然とした。

「ウ、ウチは、テロに狙われる覚えなんかないよ!」

 何も聞こえなかったふりをして、サイムスはエアカーを発進させた。エアカーは、そのまま空に舞い上がる。

 職質されて、名乗るのも面倒だ。王族がこんなところで襲われたとなれば、当然、テロが疑われる。テロでないことは、四人とも承知している。

「ラヴェンナに入る前に、消そうとしたか」

「そしたら、シルデスの責任になるからか?」

「爆発物を持っていたな。仕掛けようとしたらエスカがいたから、車から降ろそうとしたか。

 それとも、エスカを人質にしようとしたか。エスカが、アルトスの弱点だと知っていたかも」

 サイムスの頭脳は、図体の割に回転が速いようだ。エスカは、内心舌を巻いた。

「入学フェスの時に、絡んできたヤツがいただろう? ヴァニン子爵のドラ息子。

 その周りに、取り巻きがいた。その他に、見ていた学生もいただろう。

 エスカが、アルトスの御小姓だと思っている者は、結構いるぜ。お前、ウチの大学に来ないでよかったな」

 結果としては、そうなるだろう。

「尾行していた形跡はないから、出発時刻と車のスピードを計算して、待ち伏せていたか」

 とウリ・ジオン。

「爆発物は小さくても、空中で作動したら、車は空中分解。俺たち、一巻の終わりだったな」

「殺人未遂で、起訴しろ。金目当てで気軽に殺されたら堪らん」

 アルトスは、後部座席でエスカの肩を抱いた。

「この車は、装甲車仕様なんだよ。外からの攻撃には強いが、中で爆発されたら、打つ手なしだな」

「今夜のホテルは、大丈夫か?」

「ウチの系列なんだが。もう一度確認してもらおう」

 ウリ・ジオンは、携帯を取り出した。

 到着したホテルは、どことなく高級感を漂わせていて、落ち着いた雰囲気をもっている。常連が多いと思われる。

 フロントで、上品な年配の女性に、チェックインの手続きをしてもらう。部屋に案内してくれるホテルマンを見て、一同は吹き出すところだった。澄ました顔のアダである。

 考えてみれば、タンツ氏が、四人を警護も付けずに送り出すはずはないのだった。

 部屋は二つ。四人は少々戸惑った。

「ひとりずつより、安全です」

 アダの言葉に、納得する。

「じゃ、俺とエスカな」

 アルトスが、エスカの手を引っ張るようにして、部屋に入ろうとする。サイムスが、澄まして言った。

「俺の方が、安全です」

 アダが、下を向いて爆笑した。


 安全なサイムスと同室のエスカは、ぐっすり眠った。

 早朝、サイムスは着替えて廊下に出た。まだベッドにいるエスカの耳に、話し声が聞こえた。

「ずっと、ここにいたのか」

「当たり前でしょう。なんのために来たと思ってるんです?」

 エスカがドアから覗いて見ると、アダともうひとり、見知った顔の男がいる。魔女号のクルーである。

「え、ここで寝ずの番?」

「やあエスカ、よく眠れたかい?」

「お陰さまで。申し訳ない」

「昨日のパブの件は、悪かった。想定外だった。シルデス内で、攻撃が始まるとはな。無事でよかった」

 アダは、エスカの肩を叩いて、激励してくれた。

 サイムスはアルトスたちと食事だから、エスカはシャワーを浴びて着替えた。リュックの中身を確認し、アルトスたちの部屋に行く。

 室内に入ったエスカは、目を瞠った。知らない三人がいる。ふたりの護衛官は、頭の先からつま先まで全身黒づくめ。マントは、お決まりの黒。

 黒くないのは、サイムスの青い目だけだった。サイムスは、いつもどおりの短髪。ウリ・ジオンは、長めの巻き毛を肩の後ろで結んでいる。

 アルトスはと見れば、金糸銀糸で刺繍を施された、白い礼服姿。マントの色は、入学フェスの時と同じオレンジだが、生地が違う。光沢のある上質の絹だった。

 エスカは、思わず見惚れた。この人のどこが賤しいって? いつも、後ろで無造作に結んでいる長い髪を、今日は黒いリボン状の紐で丁寧に結んでいる。

「カッコいいだろう、俺たち」

 はい、否定はしません。護衛官以外は、王宮に武器を持ち込むことは、禁止されているため、アルトスは丸腰である。その代わり、サイムスは腰に拳銃と短剣を差している。

 ウリ・ジオンは、拳銃のみである。エスカは、内心この幸運に感謝した。

「ウリ・ジオン、これ持って行って」

 荷物検査をされるだろう。御小姓が武器を携行するのは、まずい。どうしたものかと、考えあぐねていたのだ。

「おお」

 気軽に受け取ったウリ・ジオンは、短剣をじっと見つめた。小ぶりながら、精巧な象嵌細工が施されている。アルトスとサイムスが、覗き込んだ。

「ほう」

 呟いたアルトスが、一瞬鋭い目でエスカを見た。

「イシネス特産の象嵌細工だな。しかも相当古い。由緒ある品だろう。なぜ、こんな物をお前が?」

 アルトスは、何も聞いていないのだろう。

「母の形見です」

 三人は、ショックを覚えたようだ。

「余計なことを言った」

 アルトスにしては、珍しく詫びた。

「それから僕、喘息持ちだからね」

 驚く一同を尻目に、リュックから吸入器と吸入薬を取り出して見せた。

「中身は、睡眠薬だけどね」

「お前、用意周到だな」

 サイムスが、唸った。

「何があるか、分からないからね」

「可能性か? お前の可能性は、当たるからな」

 その後、アダたちに見送られて予定通りに出発。

 王宮に到着したのは、予定より大分早い時刻だった。これなら、アルトスの部屋でひと休みできるだろう。

 王宮の門を抜けた所で、検査があった。荷物には問題なし。喘息の器具と薬も、難なく通過した。

 エスカは身体検査に怯えて、アルトスの後ろに隠れていた。身体中まさぐられたら、どうしよう?

 アルトスは、情け容赦なくエスカを係官の前に押し出した。

「俺の小姓だ」

 アルトスの目が、笑いを含んでいたせいか、係官は微笑した。お陰で、検査はエアタッチで済ませてくれた。助かった。

 アルトスの居室は、エントランスから遠い。王宮の僻地といったところか。五十七番目の王子だから、無理もない。長い回廊を歩きながら、エスカは王宮の地図を頭に入れた。

 部屋に入ると、エスカはウリ・ジオンから短剣を受け取った。足首の近くに、持参した紐で括り付ける。

「それで今日は、いつもより緩めのズボンで来たのか」

 三人は、理解したようだ。

「可能性だよ」

 直後、扉をノックする音が聞こえた。エスカは、素早くズボンの裾を下ろした。

 扉が開き、騎士が現れた。

「国王陛下が、お見えです」

 騎士の顔に、既視感がある。サイムスより若干細い印象だが、肩の線がそっくりである。近衛師団長をしているという、サイムスの長兄だろう。

 すっと、国王グンナルが入ってきた。まだ平服である。扉を押さえるサイムスの兄に「外で待て」と、扉を閉めさせた。

 酒池肉林をしている割には、顔も身体つきも崩れていない。五十代と思われる。白髪混じりの黒髪に、浅黒い肌。やや下腹は出ているものの、まだ男の魅力は残っているように見えた。

「やあ、アルトス。久しいな」

 野太い声。アルトスより、やや小柄である。大仰な動作で、末弟を掻き抱く。アルトスは、身動きひとつしなかった。

「そなたが、美形の小姓を連れてきたと聞いてな。ひと目拝んでおこうと」

 言葉の途中で、エスカを見た。目と口が丸くなった。

「これはこれは」

 ご満足いただけたようである。エスカは唇を引き結び、鋭い目でグンナルを凝視した。誰が美形を連れてきたとか、そんなことをご注進に及ぶのは、どこのバカだ!

「なかなか、蠱惑的な目をしているではないか。どうだ、今宵」

「これは、わたしの小姓ですので」

 アルトスが一歩前に出て、エスカをマントの後ろに追いやった。グンナルは興味深そうに、アルトスを見やった。

「生意気な物言いをするようになったではないか。

 ではこうしよう。今宵祝宴の後、三人で楽しい時を過ごすことにしよう。旨いワインがあるぞ。

 では、十一時に迎えを寄越すからな」

 問答無用である。言いたいことを言うと、国王グンナルはからからと笑いながら出て行った。

 サイムスの兄が、僅かに首を振って、拒否の所作を見せる。

 扉が閉まると、アルトスは窓際のミニテーブルに行き、両手をついた。テーブルが、かたかたと揺れる。

 アルトスは、テーブルの表面を睨みつけながら、絞るように声を出した。

「式典の後、祝賀パレードがあるから、人の出入りが激しくなる。どさくさに紛れて、ウリ・ジオン、エスカを連れて脱出しろ。サイムスは、悪いが最後まで俺につき合ってくれ」

「承知しました」

 エスカが、すっとアルトスの背後に回る。背伸びをして、そっと肩を抱いた。

「大丈夫。僕がいる。僕が護る。だから大丈夫」

 それから、聞き取れないくらい小さな声で、何ごとか囁いた。アルトスは力の抜けた操り人形のように、エスカに導かれるように、ソファに腰をおろした。

「まだ時間があるから、少し眠ろうか」

 エスカは、自分の膝にアルトスの頭を乗せると、再び何ごとか囁いた。アルトスは子どものように素直に目を閉じ、眠りに入った。安らかな眠りだった。

「今、何て言ったんだ?」

「イシネスの古語。祈りの言葉だよ」

 エスカは、静かにアルトスの髪を撫で続けた。サイムスが頭を抱えて、低い声で呻いた。

「だから、親父もお袋も、あんなに取り乱したんだ。どういうことが起きるか、想像がついたんだ。

 マティアスをラヴェンナに残したのは、やはり意図的だったのか。少しでも、アルトスを護るために」

「大丈夫だよ。僕がいるじゃないか。『神の手』は確実に仕込んだし」

「『神の手』って?」

「イシネスの国王に使ったヤツ。あの時は、第一巫女さまが付き添ってくれた。初めてだったし、僕がちゃんとできるか、確認するために。

 建国何十周年だったかな、祝賀パレードの時だよ。僕たちは、路上で群衆に紛れて見物していた。

 馬車が通り過ぎる時、一瞬だったが目が合った。真芯に捉えたよ。

 『神の手』はね、目が合うか、直接触れるかしないと、仕込めない。さっきは、じっくり見つめてくれたからね。確かな手応えがあった」 

「イシネスの国王って、数ヶ月前に亡くなったんだろう?」

「そう。仕込んでから発現まで、一ヶ月近くかかったな。発現してからは、三ヶ月で終わった。時間がかかるのが欠点。でも確実に死に至る」

「お前、国王殺したの?」

「うん。大巫女さまのご命令でね」

「なぜ?」

「生かしておけないほどの罪を犯した、ということだね。法に触れる罪は、人が裁くだろう? 『神の手』が裁くのは、法には触れない罪」

「と言うと?」

「例えば、人を苦しめて自殺に追い込むとか、道徳的な罪。

 イシネスの国王は、もっと早くに裁かれるべきだったけど、王女が幼かったから、これまで延ばされちゃったんだ。それで僕がやるハメに。大巫女さまは、年を取り過ぎたからね。

 ただ『神の手』は、女神殿最高位の方の命令がないと、仕込めない。自分勝手にやると、こちらに倍返しで返って来るという、怖い技だよ。

 なぜ、大巫女さまが他国の王にまで手を出そうとしたのか。僕に、仇を討たせてくれようとしたのかもしれないけど。悪行の数々を見過ごせなかったというのもあるかな」

「仇……」

 サイムスが呟く。

「前回も今回も、命令がなくても、僕はやっていたよ。その場合は、僕自身のやり方になるけど」

「なぜ?」

「僕の母を、死に追いやった人たちだからだよ。

 僕の母は気狂いしたことにされて、鉄格子の中に幽閉されたんだって。

 夫である国王が、侍女と戯れるのを見ても反応しなかったから、普通じゃないと言われて。

 母は、自分には嫉妬する資格がないと思っていたんじゃないかな。そう思うだけの事があったようだ。うつ状態だったんだと思う。

 ある時、見廻りに来た将校が侍女と話していた。その一瞬の隙をついて、将校の腰から剣を抜き、自身の頸動脈を断ち切ったそうだ」

 ウリ・ジオンとサイムスは、俯いたままだ。話の内容を咀嚼するのに、苦心している様子だった。重苦しい空気が辺りを包む。

 暫しの沈黙の後、エスカが口を開いた。

「ごめん。しょうもない話をしてしまった」

「しょうもないなんて。エスカ、ずっとそれ抱えてきたんだろう?」

 サイムスの言葉に、ウリ・ジオンが頷く。

「うん。でも話してちょっとすっきりしたから、忘れて。それより、今日の事だけど」

「それな。その『神の手』って、今日のに間に合わないだろう? どうするんだ」

「大丈夫。睡眠薬持ってきたし。もし薬を仕込むチャンスがなくても、僕、眠らせることはできるから。

 平気だ。その場で逮捕されるようなことはしないよ」

 ふたりは眠っているアルトスを見て、安堵したようだ。

「ところで、お腹が空いた。何かない?」

「冷蔵庫に、何かあるだろう。大勢の客に配るの大変だから、軽食を入れて置くと言っていた」

 サイムスが、冷蔵庫をあさっている間に、ウリ・ジオンがお茶の支度をした。

「もう、食べていいんだな」

「大仕事は、終わったからね。もうひと仕事できたから、腹ごしらえしとかないと」

 暫くして目覚めたアルトスは、すっかり落ち着いていた。肚が決まったようだ。軽食もしっかり食べた。

 三人が式典に出かけている間、エスカはソファで横になった。大技の後は、心身共に過労状態になる。少しでも回復しておこう。パレードを見る必要がなくなったのは、助かる。

 パレードの間に、一同は冷蔵庫の食料を平らげた。

 「ここの料理長は、ウチの者だ。その他に数人厨房にいるから、安全だよ」

 ウリ・ジオンの言葉を待つまでもなく、エスカがパクついているので、誰も疑ってはいない。

「大イベントだから、臨時の作業員が大勢雇われているはずだ。でも厨房には入れないから」

 十一時少し前に、ドアがノックされた。廊下の部下に「そこで待て」と指示して入室して来たのは、先ほどの騎士だった。

 騎士は、ウリ・ジオンとサイムスに目礼し、エスカに丁寧な挨拶をした。

「マティアス・パルツィと申します。近衛師団長を務めております。以後お見知りおきを」

 エスカは恐縮して、挨拶を返した。マティアスは、大股でアルトスに歩み寄ると、抱きしめた。

「アルトスボーイ!」

 歓喜の声である。全身全霊で、アルトスを抱き締めているのが分かる。

おお兄さん!」

 アルトスも、しがみつくようにマティアスを抱いた。声が湿っている。

「立派になったな」

 よしよしと、アルトスの背中を撫でる。幼いアルトスを、こうして抱いていたのだろう。暫し抱き合った後、マティアスは心配そうにアルトスを見た。

「逃げなかったのか?」

「エスカがいてくれる」

「お任せください」

 エスカは、微笑んで見せた。

 王宮の長い回廊を、三人は無言で歩いた。マティアスが、頑丈そうな扉の前で立ち止まる。左右に、数人の護衛官がいる。

「お見えになりました」

 言うと、マティアスはふたりを入室させ、扉を閉めた。

 グンナルは既に平服で、ソファで寛いでいた。祝宴の後なだけに、かなりきこしめしている様子だ。ふたりを見て、相好を崩した。

「絵になるのう」

 等と言いながら、自らワインのボトルを運ぶ。期待の大きさが、うかがわれた。その時、窓の外が光り、花火の音が聞こえた。

「わぁ!」

 花火を初めて見たエスカは、嬉しそうに窓辺に寄った。アルトスも、エスカに寄り添う。どうやら、片時もエスカと離れたくないらしい。

「素晴らしいだろう。ラヴェンナの花火は、特別でな」

 グンナルが、何やら粉末をアルトスのグラスに入れる姿が、エスカの目に入った。ご丁寧に振っている。

 グンナルは、何もなかったかのように窓辺に来て、ふたりの肩を抱いた。

「あ、せっかくですけど、僕未成年なので、お酒ダメなんです。お水いただいてもよろしいですか?」

「固い子だな。好きにしなさい」

「ありがとうございます」

 エスカは冷蔵庫に向かう途中で、グンナルとアルトスのグラスの位置を、すっと換えた。ちらりと、アルトスがそれを見る。

 グンナルは、自分より体格のいいアルトスを抑えれば、エスカなど赤子の手をひねるようなものだと思っているのだろう。

 目的を達成したエスカは、楽しそうに窓辺に戻った。グンナルは上機嫌で、エスカの肩を抱き寄せる。

 アルトスが見ると、エスカは手のひらを上にして、片手を後ろに差し出している。

 アルトスは突然くしゃみをした。

「失礼いたしました」

 アルトスはその場を離れながら、エスカの手中の小さな薬瓶を受け取った。テーブルの端に置いてあるティッシュで、盛大に鼻をかむ。

 グンナルは苦笑し、エスカにラヴェンナの花火についてレクチャーを続けた。

「花火は何時までですか?」

 などと、エスカは無邪気な顔で聞いている。

「目出度い晩だからな。シンデレラタイムまでだよ」

 アルトスは、薬をグンナルのグラスに注ぐと、何食わぬ顔で戻って来た。

「では、ワインと水で乾杯するとしようか」

 酩酊しているとはいえ、グンナルの足取りはしっかりしている。

「乾杯!」

 三人とも、上機嫌でグラスを掲げた。ふたりの若者は、グンナルの企みには、全く気づかないふうに見える。

「おや、このワイン、少し苦味があるかな?」

 大真面目に、ワインの香りを嗅いでみるアルトス。グンナルは、僅かに焦った様子を見せたが、そこは王者の貫禄。

「なに、そんなはずはないぞ。今宵のために、特別に取り寄せた極上のワインだからな」

 ひと口飲んで頷くと、残りを一気にあおった。

「うむ、旨い!」

「ではわたしも」

 もっともらしく、アルトスも残りを飲み干す。目的を達したグンナルは、愉快そうに大笑いした。

「よしよし、ふたりとも近う寄れ」

 近う寄る間もなく、グンナルはソファに崩れ落ちた。

「うわぁ、凄い効き目だなぁ」

 自分でやらかしておいて、エスカは驚いている。

「この御仁は、一体何の薬を使ったんだか」

「最初にこいつが何か入れたから、グラスを取り替えたのか? 睡眠薬とか?」

「眠らせちゃったら、つまんないでしょ。媚薬の類かも。即効性の」

 アルトスは、身震いした。

「いやらしいヤツだ。で、お前のは睡眠薬だろ?」

「うん。でもその前に、自分でも何か飲んでるかも。ほら、男性を奮い起たせるようなの」

「え、じゃあ、三種類飲んだのか? どうなるんだ?」

「さぁ……相乗効果で、どうなるかな。僕、実験したことないからなぁ」

「目が醒めなければ、どうでもいいんだが」

「一気に効き過ぎて早く目覚めたとしても、薬はまだあるから。退場前に、もう一度飲ませておくかな」

「さて、もっともらしい現場を作るか」

「どうやるの?」

「本来なら、現場は寝室がいいんだが。運ぶのは無理だな。お前は当てにならないし」

 アルトスは、可笑しそうに笑った。

「では、このソファ周辺ということで。証拠隠滅からやるかな」

「このワイン、残りは全部捨てていいか?」

「少し残して。薬飲ませる時に使う」

 アルトスが、トイレにワインを捨てに行った。エスカは、自分が飲んだ水のグラスを洗った。DNA検査などやらないだろうが、念をいれた。

 それからクローゼットから、毛布を取り出した。

「待て待て」

 グンナルに毛布をかけようとすると、アルトスから、ストップがかかった。

「リアルでないとな。胸のボタンを、幾つか外せ。乱れていないと、不自然だろ?」

「僕がやるの?」

 エスカは、恨めしそうにアルトスを見たが、諦めた。ボタンには、いい思い出がない。二つ三つ、ボタンを外す。

「次は、ちょっとズボンを下げろ」

「はぁ?」

「だから、リアリティが」

 仕方がない。アルトスは、死んでもやりたくないだろう。だが、限度というものがある。

「腰持ち上げるの、重くて無理!」

「全くお前は」

 などと愚痴りながらも、手伝ってくれた。 ズボンと下着を、臍が見える位置まで引き下げた時、エスカが素っ頓狂な声を上げた。

「なにコレ」

 ズボンの下から、何かが屹立している。アルトスは大笑いした。

「お前、何にも知らないんだな」

 何か、いかがわしい雰囲気だけは伝わった。

「見苦しい。隠そう」

 ふたりで、グンナルに毛布を掛ける。アルトスはナプキンを持ってきて、グンナルの髪をぐしゃぐしゃにした。

 よほど触れたくないようだ。無理もない。それから、手を洗いに行った。エスカも続く。

「これで、犯罪現場完成?」

 アルトスは、にやりと笑ってエスカの黒髪を、ぐしゃぐしゃにした。自分のオレンジも、同様にする。

「ボタン、外しておこう」

 それぞれ胸のボタンを、二つほど外す。ご乱行の痕完成。

「後は、シンデレラタイムまで待つ。あと三十分くらいか。本当は二時間位いるといいんだが、いやだろ? 俺もいやだ」

「アルトスって、役者なんだね。あのくしゃみといい、ワインといい」

「オペラやってるせいかな。面白かったな」

「うん。楽しかったね」

 ふたりは、笑い転げた。グンナルが、身動きをして呻く。

「やっぱり、睡眠薬は早く切れそうだね。そう強い薬ではないから、もう一度使っておこう」

 最後の花火が打ち上げられると、エスカはアルトスに手伝って貰って、再度グンナルに睡眠薬を飲ませた。ワインで流し込む。

 グラスを洗い、よく拭くと、数滴ワインを注いだ。まるで空では、不自然だからだ。

 その後、ふたりはぐったりした様子で、扉を開けた。廊下で足踏みをしていた体のマティアスが、青褪めた顔でふたりを見つめた。

「陛下はおやすみだ。朝まで起こすなとの仰せだ」

 アルトスが、弱々しい声でマティアスに伝える。大奮闘の後に見えなくもない。エスカは、笑いを堪えるのに精一杯だった。

「お送りしてくる」

 マティアスは部下に言うと、ふたりに付き添って廊下を歩き出した。角を曲がった途端、ふたりは声を出さずに笑い出した。

「無事だったようだな」

 マティアスは、やっと人心地がついたようだ。

「朝まで眠るってさ。いや、自信過剰って怖いな」

 部屋に帰ると、待ち構えていたサイムスとウリ・ジオンが、大歓迎してく

れた。アルトスとエスカが戻り次第、出立することにしていたのだ。

 取り敢えず、乱れた姿を直す。マティアスが、駐車場まで先導してくれた。エアカーに一同が近づいた時、不意にエスカが叫んだ。

「伏せて!」

 直後、銃声が響いた。弾は、エアカーのボディに当たる。マティアスとサイムスは、アルトスの身体を地面に押し付け、腰の銃を抜いて、応戦した。

 エスカが跪いて、足首の短剣を抜くまでの間、後方から誰かが援護してくれている。ありがたい。マティアスの部下か?

 エスカは、短剣を両手で構えると、最大級の電撃を、屋上に向かって放った。たちまち、ひとりがのけ反って倒れるのが見えた。続く攻撃でふたり目。

 ウリ・ジオンが、別の建物の屋上を狙う。狙撃銃を手にしていた。最初の一発でひとり。次の弾でまたひとり。

いい腕だ。

 ウリ・ジオンの背後にも、援護する者がいる。いつの間にか、SPも参戦していた。

 エスカとウリ・ジオンが屋上の狙撃手を倒している間に、地上の敵は、マティアスとサイムスの手で倒されていた。

 やれやれと、エスカは立ち上がった。自分を援護してくれた人物を、振り返る。庭師らしき男が銃を腰に戻し、チュニックで覆った。エスカを見て、笑顔を見せる。

「セダ!」

 来てくれてたんだ。セダは、そのまま背を向けて去ろうとした。ふと思いついたように肩越しに振り向き、エスカの背後に向かって、にやりと笑った。

 セダの後ろ姿を見送りながら、エスカは自分の背後を、さり気なく見た。呆然としたサイムスがいる。

「あれが、セダ……」

 サイムスは、セダを知らなかったのか。連絡員が、直接アルトスやサイムスに報告することはまずないから、知らなかったのかも知れない。

 以前、アダとふたりで合宿所に来てくれた時には、サイムスは既に自室かリビングにいたのだろう。

 名を知らなくても、顔だけは見知っていたとは。ワケアリかも。セダとサイムスかぁ。エスカは、楽しくなってきた。

「何で、俺にだけ何にもやらしてくれないんだよ!」

 アルトスが、駄々をこねている。

「お前は護られる立場なんだから、それでいいんだよ! 大体お前はな」

 平静を取り戻したサイムスに、叱られていた。

「お怪我がなくて、幸いです」

 マティアスは、これについては満足そうである。

「誰も、怪我はないな?」

 ウリ・ジオン側で援護してくれていたのは、マティアスの若い部下たちのようだ。実戦は初体験だったのか、一様に興奮している。

「遺体処理班と、救護班を」

 マティアスは、これから忙しくなりそうだ。

「ったく、王宮で銃撃戦とはどういうことだ」

 腹が立つのも無理はない。門前にひとだかりがしているのを見て、さらにマティアスの機嫌が悪くなった。

「カメラと携帯を没収して、追い払え。事件を拡散したら、厳罰だと承知しているはずだ」

 地上戦で倒されたのは五名。全員死亡しているようだ。取りあえず、地面に横たえられた。

 屋上からも、運び込まれた。銃で撃たれた二名は即死。エスカが倒した二名は、命に別状はないようだ。元々、殺傷能力はない上に距離が離れていたから、怪我は軽いはずである。ただ身体中が痺れて、全く動けないらしい。

「こいつらから、聞き出せるな。生存者がいてよかった」

 マティアスはご満悦だが、生存者たちにとっては、どうかな。エスカは、考えないことにした。

 タイヤが、一つパンクしていたので、車両班が呼ばれた。ふとエスカはエアカーに近づくと、ドアを開けて中を覗き込んだ。

「ねぇ、ウリ・ジオン。ダッシュボードの中に、時計入れてある?」

「ないはずだが」

「でもなんか、チク、タク、チク、タク……」

 マティアスの顔色が、変わった。

「全員離れろ! 爆発物処理班を呼べ!」

 怒り心頭のご様子だ。周囲は、さらに騒然となった。エスカとパー三は、縁石に腰掛けて待つことになった。

「いつになったら出発できるんだ。もうラヴェンナには、二度と来ないぞ」

 アルトスは、ご立腹である。

「来ない言い訳ができて、よかったじゃないか。死ぬところだったんだからな」

 ウリ・ジオンの言葉に、サイムスが頷いた。

 処理班は、宇宙旅行にでも行くような重装備で、到着した。手慣れたもので、ほどなく時限爆弾を発見、手際よく解除した。念入りに車内を調べ、異常ない事を確認してくれた。

 マティアスが、エスカの側に立ち、耳元で囁いた。

「ありがとうございます。エスカさま」

「こちらこそ。お世話になりました」

 エスカは、殆ど唇を動かさずに答えた。

 エアカーが王宮を出発したのは、明け方近かった。マティアスは、エアカーがラヴェンナの領空を出るまで、前後左右に四機の護衛を付けてくれた。下を、SPのエアカーが飛んでいる。

 ウリ・ジオンが、昨日のホテルに連絡を入れた。

「昼少し前に着く予定なんだけど、夕方まで休めるかな? それはありがたい。軽いランチを頼みます。夕方発つので、その時に軽食を持ち帰りたいのでよろしく」

 機内で、ウリ・ジオンとサイムスは、アルトスに眠っていた間のことを説明した。主に、『神の手』について。アルトスは、無言で聞いていた。

 ラヴェンナとシルデスの国境近くで、護衛機にはお帰り願った。四人は、前日にチェックアウトしたホテルに戻った。まだアダと仲間たちが、いてくれた。

「お疲れ様です。ご無事で何よりです」

 既に、報告を受けているようだ。

「セダが、ラヴェンナに潜入していた者たちを連れて、飯食って行きました。今頃、シボレスに向かってまっしぐらですよ」

 エスカは、サイムスをちらりと見た。いささか動揺しているのが、笑える。

 レストランには客がいたため、ランチはルームサービスにしてもらった。エスカとアルトスは、ラザニアを頬張った。ウリ・ジオンとサイムスは、食欲がないようだ。

「僕、初めて人を撃った……」

「俺もだ」

「それっくらい、何だよ。僕なんか、国王ふたり殺してるんだよ」

 途端に三人は「シーッ、シーッ」と、口に指を当てた。

「いいか。その件は、墓場まで持って行く。承知しておけ。それから、エスカがラヴェンナについて行ったのは、小姓だからだ。他意はない」

 こういう場合、アルトスは何故か貫禄を見せる。それが全く不自然ではないのが、不思議である。いつもの駄々っ子の姿はない。

「承知しました」

 異口同音に、ふたりは返答した。エスカはフォークを置き、一礼した。

「午後五時に起こす。休憩は、一度だけ取る。後は、一直線にシボレスだ。相当な強行軍だが、いけるか?」

「問題なし。早く帰りたい」

 意見は一致し、一同はそれぞれ休息に入った。

 数時間眠り、出かける頃には、みんな元気を取り戻していた。駐車場に行くと、アダと数名の男たちがいる。

「俺たちも引き上げます。護衛を兼ねますんで、ご安心を」

 ありがたいことである。帰りの車中は、グンナルの居室での出来事で盛り上がった。一通り話が落ち着いたところで、アルトスが話し始めた。

「俺な、ウリ・ジオンの意見を受けて、婚約辞退を申し出たんだよ。大分、前の話だ。ウリ・ジオンとこの弁護士呼んで、書類作ってもらって」

 ウリ・ジオンが、可笑しそうに聞いている。

「俺、見栄っ張りだからさ。本当は全然そうじゃないんだけど、健康なんだけど、断るための口実として、みたいなこと言ってな。弁護士は、大真面目に聞いてたな。

『そういう理由なら、先方も了承するしかないでしょうな』てなことになったんだ。

 ところが、ラヴェンナの返事は『黙っていれば分からない』だった」

「あの時受け入れてくれれば、今日の銃撃はなかったんだよな。まったく、人の命を何だと思ってるんだ」

 サイムスも、当時相当怒ったらしい。

「もう一度、申請してみるよ。臣籍降下の申請書もくっつけてな」

「臣籍降下……」

「うん。成人してから、毎年申請してるんだが、認めてもらえない」

「その書類作る時も、同じ弁護士だったな。そしたら、会計士がくっついて来た。たっぷりレクチャーされたよ」

 と、サイムス。

「そうそう。『殿下は、臣籍降下されると、王族手当てが出なくなるので、無収入になります。サイムスさんは、護衛官の任務を解かれて、転属になるはずです。その後の生活設計は、できておいでですか?』みたいな」

「で、ウリ・ジオン。俺たち、いつまで合宿所に居られるんだ?」

 サイムスが聞く。

「無期限だって、親父は言ってたよ。今さら他の使い途は、考えていないみたいだ。ひとりでも残っているうちは、コックも付けるそうだ」

「ありがたい! 会計士もな、『甘えられるうちは、甘えなさい』と言っていた。朝飯と夕飯は食える。最悪、昼だけ我慢すればいいんだ」

 心弾むサイムス。

「おいエスカ。このふたり、昼飯抜きで生き延びられると思うか?」

 エスカは大笑いして、首を横に振った。

「それからな、僕は来週から、暫く留守になる」

「ああ、魔女号か。もうそんな時期か。エスカが来てから、半年経ったんだ」

 そう言えば、シルデスに来たのは、夏も半ばを過ぎた頃だった。夢中で過ごして来たが、気がつけば、足元には落ち葉が敷きつめられている。

 冬が近付いている。エスカにとって、シルデスでの初めての冬である。

「ウリ・ジオン、どれくらい留守になるの?」

「往復するのに二週間ずつ。イシネスに滞在するのは正味二週間。計六週間だよ」

 そんなに長く? このふたりと?

「平気だエスカ、俺たちがいるじゃないか」

 エスカは、ウリ・ジオンが、緩衝材の役目をしていてくれたことに、今さらながらに気付いた。

「今回は、セダは置いて行く。連絡員を一手に引き受けてくれることになった。何かあったら、セダに連絡してくれ」

 エスカとサイムスの目が、合った。サイムスは目を逸らしたが、下手な芝居にしか見えなかった。


 

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