第7話 事件勃発
翌日は、エアバイク免許の試験日だった。午前中にエスカは受験し、免許証をもらうとアニタに連絡した。予定を聞くと、午前中は母親が来てくれるから、いつでもいいと言う。早速、明日お願いすることにした。
明後日は、初めての対面授業で、実習である。どうやら間に合いそうだ。
約束の時間に、ショップ最寄りの駅前に行くと、アニタとウリ・ジオンが待っていた。アニタは『ごめんね』と言うように首をすくめた。どこかでバレたようだ。エスカは苦笑した。
「車で来てる」
ウリ・ジオンが、駐車場に案内しようとする。
「徒歩五分だよ」
「いいから」
ウリ・ジオンのペースにのるのはまずいが、仕方がない。
「おやおや、ふたり連れて来たね」
先日の店長夫人が、ご機嫌で出迎えてくれた。
「中古は、こっちのコーナーだよ」
「いや、新車で」
ウリ・ジオンが、にこにこして口を挟んだ。言うと思った。エスカは、ウリ・ジオンの袖を引っ張る。
「僕が買うんだから、口出さないでよ」
「金出すのは親父だ。僕は親父の全権大使」
怒りで息が詰まった。ここまで束縛されたくない。
「ついて来ただけでしょ。アニタがいれば十分だから、帰ってよ」
ウリ・ジオンは、急に耳が遠くなったようだ。
「一番高性能なのは、これ?」
ウリ・ジオンが、指さしたエアバイクを見たエスカは、何度も瞬きをした。イシネスで杉の木に衝突させ、マヌ川につっこませて破壊したのと、同タイプのものだったからだ。
第一巫女さまは、『はい、これあなたのエアバイクね』と渡してくれた。エスカは何も考えず、ありがたく受け取って使っていただけだ。
エアバイクが、降ってわくはずがない。タンツ会長から寄贈された物だったのか。
ゼロが幾つも付いている。うわああ。エスカは狼狽えた。
「ではこれで」
「待て待て!」
エスカは、全力でウリ・ジオンを止めにかかった。
「僕には、分不相応だよ。あっちの中古にする!」
「あのさ、こんな若い子がそんな上等なのに乗ってると、変なヤツに狙われるかもよ?」
ありがとうアニタ。
「その人の言う通りだよ。この子くらいの年なら、普及品の中古がいいよ」
「中古なんか買ったら、親父が」
「親父親父って、なんだよ。ちょっとは、自分を主語にして考えろよ。このファザコン!」
低い声で言ったつもりだったが、側で修理をしていた店員が、下を向いて笑った。夫人も、がははと遠慮なく笑う。
「かわいい顔して、言うじゃないか」
笑った後で、夫人は真面目な顔で考えた。
「では、落としどころということで、こんなのはどう? 新品で普及品」
「それだ!」
アニタが、手を打った。
「さすがプロは違うわ!」
夫人は得意そうである。エスカとウリ・ジオンは顔を見合わせ、頷いた。奥から店長らしき中年の、腹がやや出始めた男が出て来た。
「書類は俺がやるから、お茶をお出しして」
夫人は、書類仕事は不得手のようだ。嬉しそうに奥にひっこんだ。店長はパソコンをカタカタと操作した。店員が、売り物のエアバイクを押して来た。点検をするのだろう。
エスカは、嬉しそうにその様子を眺めた。
「うわぁ、ぴかぴかだ~!」
「やっぱり新車がよかったくせに」
呟いたウリ・ジオンの腹を、アニタが肘でつつく。
「やっとまとまったんだから、余計なこと言わないの!」
「……はい」
ウリ・ジオンは、今日も多難のようだ。
「お客さん、支払いはカードかい?」
「あ、はい。これで」
ウリ・ジオンの取り出したカードを見た店長は、目を真ん丸にした。胡散臭そうに、客一同を見る。
「これ、アンタの?」
「親父の」
「じゃあアンタ、タンツ会長の息子さん?」
ウリ・ジオンは頷いた。奥からお茶のトレイを持って来た夫人が、まじまじと三人を見つめた。
「で、アンタは?」
エスカを見る。
「いとこだよ」
ウリ・ジオンは、澄まして言う。嘘ではないし。
「あたしは、このお宅のコック」
これも本当だ。
「失敗した~!」
突然、夫人が叫んだ。
「一番高いヤツ、売りつければよかった~!」
「な、うちの奥さん正直だろ」
みんなで大笑いした。。三人はショップのみんなにお礼を言うと、ピザが美味しいと評判のレストランに向かった。
アニタとウリ・ジオンはエアカーで、エスカはエアバイクで。
初めての対面授業は、まる一日かかった。午前中は一般教養科目で、家ではできないことを学ぶ。
エスカは、体育なる授業を初めて受けた。女神殿では、体育は受けさせてもらえなかった。教室の隅で、主要科目だけは受けさせてもらえたが。それでも、貴族からクレームが来た。
『下僕を、貴族の令嬢と一緒に学習させるとは何ごとか』
これには第二巫女が、憲法を盾に論破して撃退したという。
「この科目の目標は、元気よく体を動かすことです」
なるほど。周囲を見回すと、初老の人も数人いる。入学に年齢制限はないようだ。
エスカは久しぶりに走った。この前走ったのは、健康診断の病院から逃げ出した時だ。あの時は全力疾走だったが、今回は軽い走りを楽しんだ。
「いい走りをするね」
教師が近づいて来た。まだ若い男性である。アルトスで学習していたエスカは、笑いを返してさり気なくその場を離れた。尻を撫でられそうな空気があった。
次は美術。何をするのかと思ったら、絵を描くという。草花のスケッチは、必要上よくやっていたので、草花を描くことにした。校内の建物や木を描く者もいる。
名も知らぬ小さい雑草が、黄色の可憐な花を付けている。エスカは、地面に腹這いになって、夢中で描いた。教師がやってきて、覗き込む。この人も男性。
「かわいいお尻だね」
と言うと、次の生徒の方に移動した。絵に対する助言はない。なんだ、ここの教師はセクハラ集団か。
音楽の教師は、女性だった。お天気がいいので、芝生の上で歌うと言う。教師を囲んで、車座に座った。
教師の持っている弦楽器は、合宿所の防音室にあった物と同じだった。ギターラというのだそうだ。
あれは、アルトスが弾くのだろうか。今度弾いてもらおうかな。
最初に教師が爪弾きで、子守唄のような曲を弾いてくれた。哀愁を帯びた音色が胸をうつ。
「楽しく歌いましょう。ダミ声でも音痴でも構わないから、声を出してね」
サイムスが聞いたら、大感激だろう。みんなで一緒に元気に歌った後は、男女に分かれて、掛け合いの歌をやるという。生徒たちから歓声が上がった。どうやら
エスカが男子側に行こうとすると、教師が女子側を指差した。くすくすと、笑い声が聞こえる。
「あなたのハスキーボイスは、女子向きよ」
僕みたいな声は、ハスキーボイスというのか。初めて知った。
昼を挟んで、午後は実習だった。初めて、白衣なる物を着る。初めてのオンパレードだ。何もかもが新鮮で、心が弾んだ。
第一回目なので、先ずは器具の説明である。エスカにあるのは、本の知識だけなのだ。試験管もビーカーも、実際に手にしたのは初めて。感動で胸が震えた。
全て終えて、家路についたのは、日暮れが迫っていた。季節が移ろいでいるのを感じる。
エスカは、極端な疲労を覚えた。一日中大勢の人たちと一緒にいたのは、初めてだった。
イシネスでは、何をするにも基本ひとり。見習い巫女と共に、作業をするにしても、短時間だった。授業を受けるのも、ひとり離れて教室の後ろ。巫女さまたちの特訓を受ける時は一対一。
そういうものだと思っていたが、どうやら違うようだ。勉強より人に慣れることが、先らしい。これが最もキツイのだが。
その夜、熱が出た。まるで知らないシルデスという国に来て、したことのないことばかりしている。知恵熱かもしれない。
翌日も熱は下がらず、エスカは自分の薬草を煎じて飲み、一日ベッドで過ごした。ひとり暮らしの気楽さ、冷凍食品とレトルトがあるので、食べ物には困らず、ゆっくり休めた。
そのせいか、翌日には全快した。朝のお茶を飲んで、勉強しようと思っていたら、ドアがノックされた。アダである。心なし顔色が悪い。
「まあ、座ってくれ」
どっちが客か分からない。
「悪い報告?」
頷いた。
「ここから五十キロほど離れた海辺に、トマという町があるんだが。一週間前、その海岸に若い女性の遺体が上がった」
エスカが、大きく息を吸い込んだ。
「顔が潰されていた。明らかに殺人だ。地元警察で、手に負える事件ではない。パルツィ大佐が、本庁から
結果、死因は溺死だった。だが、肺に残っていた水は海水ではなく、真水だった。つまり殺害現場は、海ではない。
早速、特別捜査本部が立ち上げられた。鑑識が、水の特定を急いでいるそうだ。水道水か、川か沼か。DNA 鑑定の結果が出たのが、昨日。マデリンと特定されたよ。
マデリンは、以前万引きしたことがあって、記録が残っていたんだ」
エスカは、床を見つめながら声をしぼり出した。
「マデリンをここから追い出したのは、まずかったかな」
「いや、薬のことだけじゃないからな。殿下にも、いい影響だけじゃなかっただろう?
あれはあれでいいんだ。ただその後で、警護をつけなかったことが、失敗と言えば失敗」
「あの後マデリンはどうしてたの? あれきり忘れてた」
「そうなんだよ。何でも、縫製会社に就職したのは、聞いたんだが。
手先が器用で採用されたそうだから、これで安心と高を括っていたら、これだ」
エスカは目を押さえた。
「そんな最期を遂げる人では、なかったのに」
「好き嫌いに関係なく、知っている人の死は、つらいものだな。
エスカ、お前この事を予言してたって、ウリ・ジオンが言っていたが」
「予言なんて、たいそうなものじゃないよ。可能性のひとつとして、言っただけだ。でもまさか……そこまでやるか」
涙と溜め息が、同時に出た。
「アルトスとアニタには、まだ言うなよ。ショックが大き過ぎる。それで会長から伝言だ。『合宿
所にお戻りください』と」
「え、なんで?」
「『殿下を護って頂きたい』とさ」
「僕には何もできないよ。買いかぶり過ぎだ」
「いや、こういう場合、一番頼れるのはエスカだ。
それにな、マデリンがクビになる直前に、エスカが合宿所に来た。で、その直後にお前が出て行った。軍警察にバレたら、調べられるぞ。
お前は、ずっと合宿所にいた。ここに居た形跡は、完璧に消せるよ。下手をすると、合宿所の全員が事情聴取されるかも知れない。
大佐はサイムスの身内だから、他の者が来るだろうし」
エスカは、逃げ出したくなった。
「ただ、容疑者が早い時点で特定できれば、それはないな。大佐に頑張ってもらおう。そういう事情もあるから、戻った方がいいんだ」
「分かった。戻ります」
エスカは立ち上がると、クローゼットの扉を開けた。ウリ・ジオンに買って貰った衣類。私物と言えば、これくらいだ。後は、元々ここに用意してくれていた備品。
イシネスから持ってきた薬草の箱から、エスカは短剣を取り出し、リュックに入れた。アダは無言で見ている。
「使わないで済むといいけどね」
女物の細見の短剣。今は亡き母とエスカを繋ぐ、ただひとつのものだ。
それからエスカは、戸棚からきれいな紙袋を取り出し、丁寧にリュックに入れた。ゾーイから貰ったクマが入っていた袋だ。ご本尊様は、ベルトのバックルで揺れている。最後にタブレットを入れた。
「後は、部下が来て片づける。あ、それからな、今夜九時に会長のオフィスで面談だ。迎えに行くから」
「ついでみたいに軽く言うなよ! キャンセルできない?」
「いつかは、会わなくちゃいけないだろ」
それもそうだ。エスカは肚を括った。
「今出る。後は頼む」
アダは部下に連絡し、エスカを促して部屋を出た。
合宿所の屋上にエアバイクを置き、室内に入る。アダが、荷物を運んでくれた。
廊下の奥から出て来た中年の女性が、ふたりに気づいた。
「あらまあ、アダじゃないの」
「やあ、グウェン。エスカ、アニタの母さんだよ」
そういういえば、午前中来てくれると言っていたっけ。
「あなたがエスカね? グウェンよ」
エスカも挨拶を返した。アニタがそのまま年をとったような人だ。ほっとした。
エスカは、そっとキッチンの引き戸を開けた。アニタが振り向く。
「出戻ってきちゃった」
エヘと笑うエスカを、アニタは何も言わずに抱きしめた。アダとグウェンが、入り口で笑っている。
「アダ。そろそろ昼どきだから、食べていけば?」
アニタの言葉に、アダは相好を崩した。
四人で食卓を囲む。パスタをひと口食べたエスカが、呟くように言う。
「外で、いろいろ美味しいものをご馳走になってるけど、アニタのご飯が一番落ち着くな」
不意に、アニタが涙ぐんだ。グウェンが代弁した。
「料理人冥利に尽きるよね」
アダが頷いた。
夕方まで、エスカは会長との面談の心積もりをした。いい機会かも知れない。相談相手が欲しかったのだ。
パー三は論外。アダとセダは、これ以上巻き込みたくない。ほぼ全てを知り、総指揮を執っている人物が、適任だろう。売られそうになったことは、この際忘れよう。
夕方になって、パー三が帰って来た。
「おおエスカ、俺に会いたくて戻って来たのか?」
この人はこれでいいか。もはや悟りの境地である。
「ちょうどよかった。夕食の前に話しておこう」
ラヴェンナ行きの話だった。三ヶ月前に下話はあったのだが、今回、正式に招待状が届いたという。
王太子の結婚式だそうだ。式典は翌月下旬。断食開始は、その三日前だな。エスカは、密かに計算する。
「イシネスの王室は喪中だから、欠席だ。祝いの文書のみ。エスカを知っている者は、誰も来ないよ。安心しろ。
まずは、王宮で式典。その後は、祝賀パレード。夜は晩餐会だ。一応、王族として手当てを貰ってるからな、欠席の選択肢はない」
それは結構なことだ。エスカにとっては、千載一遇のチャンスである。
「式典と晩餐会に参列するのは、俺だけ。サイムスとウリ・ジオンは護衛官として、廊下あるいは外で待機。
エスカは小姓として行くから、好きにしていていい。王宮には俺の部屋があるから、そこでのんびりしててもいいし、街に繰り出して見て回るのもいい。露店がいろいろ出るから、見るだけで楽しいぞ」
ありがたいお言葉であります。
「パレードには誰が出るの?」
「オープンカーに王太子ご夫妻。他の王族は出ない。国王が出たがったが、王太子が霞むという理由で、遠慮していただくことになったそうだ。
後は近衛師団が総出。こちらは、馬と車に分かれるだろう。その他、旗持ちやら何やらで、通りを埋めつくす」
では、パレードを狙うのは無理だな。イシネスの国王を狙った時のようには、いかないか。何とか機会を作らないと。
「飛行機でもいいが、それだと帰りの時間が不明だからまずい。終わり次第、帰りたいんだ。強行軍になるが、エアカーで行こうと思うが、どうだ?」
サイムスとウリ・ジオンは、頷いた。
「よし。では前日の朝に出発、ラヴェンナに入るのは夜になるから、ホテルの手配を頼む」
サイムスが頷く。
「早朝にホテルを出れば、昼には王宮に着く。式典は午後だから、間にあうはずだ」
「時間的には余裕だね。午前中に着くんじゃないか」
アルトスは、よほど王宮にいたくないようだ
「高性能のエアカーを準備するよ」
アルトスは、何でも部下に丸投げする人ではなかったのか。エスカには、意外だった。
「ウリ・ジオンのお母さんも王族でしょ。行かないの?」
「一般人になったということで、欠席。招待状は、来てるはずだけどな。毎回、なんだかんだで欠席だ。よほど王宮が嫌いと見える」
アルトスが、誰にも聞こえない声で、何ごとか呟いた。
「それからな、エスカ。ヅラ買っとけ。ラヴェンナで、その髪色はまずい。もう少し濃い色なら、シルデス北部の出身で通るだろう」
「分かった。明日にでもアニタと買いに行くといい」
「わぁ! どんな色にしようかな」
「長い黒髪なら、白雪姫だな」
夢みるサイムス。
「エスカは、男の子として行くんだぞ」
ウリ・ジオンが、突っ込む。
「あ、そうだった」
それにしても、今日のアルトスは、機嫌がいい。エスカは、さり気なくソファのアルトスに近づいてみた。
「戻った」
アルトスがエスカを見上げて言い、視線を下げた。
「あ!」
理解した。
「よかった~! 早かったね!」
二ヶ月弱ではないか。
「若いからな」
アルトスは、得意そうである。
「よかった、本当によかった~!」
これで、この件については無罪放免だ~! サイムスとウリ・ジオンにも、伝わったようだ。
「いつ気付いたんだ?」
「今朝。どうだ、試してみるか?」
からかうように、エスカを見た。
「楽しそうだね。でも僕まだ未成年だから、あと二年お待ちください」
受けた。
「あのね、僕、今夜会長と面談するんだ」
「おおっ、ついにあの
アルトスは口が悪い。エスカも、他人のことは言えないが。
「駱駝って?」
「頭脳は剃刀、顔は駱駝って言うのが、会長の評判だぞ」
サイムスまで、楽しそうである。ウリ・ジオンは自分の親のことなのに、げらげら笑っている。
「母親似でラッキー!」
なんという親不孝息子だ。
「あのな、会長はちゃんと正規の手続きを踏んで、国王のすぐ下の妹君と結婚したんだ。
それなのに何故か『姫君をかっ攫った』と言われている。ひとえにそのツラのせいだよ」
サイムスが、説明してくれた。
「あのような美女が、駱駝に惚れるはずがないと思われているからさ」
ウリ・ジオンが、話を継いだ。
「お袋に聞いたんだが、とにかく王宮を出たかったそうだ」
アルトスが、ぴくりと動いた気がする。
「そこへ、異国の大金持ちが現れた。渡りに舟だったそうだ。あ、これ親父に内緒な」
一同、大喜びである。
「けど、結構巧くいってるぜ。お袋の性格だと、気に入らない相手と結婚するはずはないから、あの味のある顔が好みだったのかも」
「その会長夫人だが。タンツ商会採用試験の最終面接は、夫人が直々に顔で選んでいるってのは本当か?」
サイムスは、意外と情報通である。
「本当だよ。いい顔を選んでるんだってさ。いわゆるイケメンだけでなくな。ほらセダな、彼、中途採用なんだがいい男だろ?」
「うん。渋くていいおじさんだよね」
と、エスカ。
「ところがよく見ると、決して整った顔じゃないんだ。でもいい顔だろ? その頃から、親父のお袋を見る目が変わった。
最終面接は、お袋に全面的に任せるようになった。お袋も重要な仕事を任されて、張り切ってるよ。
親父は『ウチのカミさんは、男を見る目がある』って自慢してるし」
話は、盛り上がる一方である。
「そのセダだがな、実は困っている」
「へ、なんで?」
人を困らせる男ではないはず。
「エスカは知っていると思うけど、神殿関係の仕事は、魔女号が一手に引き受けている。守秘義務が絡んでくるからな。
高い所からカーテンを吊り下げたり、重い物を運んだり。巫女さんには無理な仕事が、結構ある。
主神殿の神官さんは、首から上にしか栄養が行き届かなかったような男ばっかりだし。
それで、作業に行くに当たって、主神殿のリーダーはセダ、女神殿のリーダーは、アダが務めていたんだ。
それが、この前の航海の時、エスカが密航した時だが。あと一日という時になって、セダがぐずり出した。もう限界だと言うんだ。
よく聞いてみたら、大分前から神官に言い寄られてたんだってさ。それがエスカレートしてきて、もうイヤだと」
わああ。無責任一同は、大はしゃぎである。
「それで、最終日はアダと交代した」
「それでか! 違う人が来たからって、みんな、最初は不思議がってたんだよ。
僕は午後から公爵邸に行って、その後密航する予定だったから、ちょっと耳にしただけだったけど。
中年の巫女さんだけでなく、学院の若い子たちまで、浮足立ってたな」
「だろ? 罪作りなヤツだ。そしたら、主神殿から帰って来たアダまで、機嫌が悪い。
言い寄られはしなかったが、気持ち悪い目で見つめられたと。こいつも、次からは絶対イヤだと」
「神官も、人間なんだな」
同情論が出て来た。
「困ってるんだよ~。人材がいなくなった」
「お前が行けばいいじゃないか」
アルトスが、名案を出す。
「そうだそうだ。お前セクシーだから、バックには気をつけてな」
ソファに座ったウリ・ジオンは、後退りしそうである。
「あ」
エスカが呟いた。
「そっか。そういうのを、セクシーって言うんだ。ウリ・ジオンて、何か雰囲気があると思ってたんだけど、そういうことなんだね」
パー三はコケた。
アダは九時五分前に、タンツ会長のオフィスのドアをノックした。室内にエスカを押し込む。
「グッドラック」
そう囁いた。
広い部屋である。窓際に大きな机、大きなソファセット、壁際には、やはり大きな書棚と、重厚な装飾が施されている飾り棚。
背の高い中年男性が、こちらを向いて立っていた。
「お会いできて光栄です。エスカさま。ルベル・タンツです」
柔らかく低い声で、にこやかに挨拶をしてくれた。大企業の会長として、貫禄は充分。 だがどこか親しみを感じさせ、決して堅苦しくはない。それにしても、駱駝は酷いな。せいぜい馬だろう。
エスカは、この挨拶に恐縮してしまった。会うことを拒否して逃げ回っていたのに、それを非難する素振りは、微塵もない。それに、『エスカさま』だって。
「エスカです。こちらこそ光栄です、タンツ会長。でも、エスカとお呼びください」
タンツ氏は愉快そうに笑うと、エスカにソファを勧め、お茶を淹れてくれた。
「何からお話ししましょうか。ご質問があれば」
この丁寧語はやめてほしい。エスカは、大きく息を吸い込んだ。
「では二点ほど。三婆さまは、僕がシルデスに渡った後、合宿所に行くことをご存知でしたか?」
「いや、安全な場所にお連れするとだけ」
やはり慎重なお人だ。三婆さまを信用していないのか?
「では、僕がアルトス殿下の薬による弊害を見つけるかどうかは、不明だったでしょうね」
「確信しておられたのではないかな。あなたの能力なら」
タンツ氏は、まだエスカの質問の意味を掴みかねているようだ。
「ウリ・ジオンが、殿下と友人なのはご存知だから、あなたが殿下に紹介されて気づくかもと、予想はされておられたでしょう」
「いえ、三婆さまは、僕を過大評価してはおられません」
タンツ氏は首を傾げた。
「正直、僕は薬を見たので気付いたんです。ただ外で会ったくらいでは、気づかなかった可能性が高いと思います。
だから女神殿では、アルトス殿下が助かっても助からなくても、かまわなかったのではないかと」
「未必の殺意……」
「そうです。女神殿でも主神殿でも、最優先事項は、神殿を護ることなんです。個人の幸不幸、生死はその後になります。僕を放置しておいたことでも、お分かりでしょう」
タンツ氏は、大きく頷いた。
「せっかく画期的な案を出して、他国の王子と縁組をする手筈を整えた。だが、その相手の出自が問題だった。そのことが反対派に知られると、女神殿の沽券に関わると、そういうことか」
「はい。僕なんかには理解できない価値観ですけどね」
タンツ氏は、くすりと笑った。
「で、もうひとつの質問とは?」
「はい。ヴァルス公爵の件です。僕には、公爵が野心的なお方には見えないんです。軍部のトップではありますが」
タンツ氏は、可笑しそうに笑い声を上げた。
「失礼ながら、あなたには女性の要素がおありだ。男を理解しきれないのは、無理もありませんな。
『女王の夫』と『国王』では、地位も権力も、圧倒的に違うのですよ。男には野望、名誉欲、出世欲、等というものがありましてね」
そういうものなのか。やっと腑に落ちた。そんなもの、カマドの足しにもなりゃしない。
「何となく分かりました」
少し、胸のつかえが下りた。
「ではこちらから。よろしいですかな?」
「はい。僕で分かることなら、何なりと」
「あなたは、王女の身が危ないとお考えですか? 公爵が、王女に全ての罪を着せて葬ると?」
「そういう事をなさるお方ではないと、思いますけど……」
エスカは、自信がなくなってきた。
「もしそうだとして、手順としてはどのように?」
「王族を裁判にかけたりはできませんから、問答無用で、北の塔送りでしょうね」
「北の塔……」
「罪を犯したり、気狂いしたりした王族を、幽閉する所です。一度入れられたら、生きて出ることはできないと言われています」
タンツ氏は、額に縦じわを寄せ、考えこんだ。
「大巫女さまですら、お救いすることはできなかった……」
「それは、大巫女さまがご高齢だったからです。当時でも、既に百才を超えておられたはずですから。単なるパワー不足ですよ。そうは言いたがらなかったでしょうけど」
「あなたならできると?」
「はい。僕は若いし、男が入っていますから」
「なるほど。それは頼もしい限りです」
「そうならないうちに、王女を亡命させることはできますか?」
「その場合は、『国民を見捨てて逃げた』と非難されるでしょうね」
「あ、そうか」
「生命の危険に晒されるまでは、何もできないということになります」
エスカは頷いた。
「あの、もうひとつ質問よろしいですか?」
「お幾つでもどうぞ」
「あなたにとって、イシネスは他国です。その他国のために、なぜここまでご心配いただけるのでしょうか?」
タンツ氏は、少し言い淀んだ。
「あなたの出生に責任があるからですよ。でも、これはわたしとパルツィ氏との問題ですので、お気になさらず。
それと、ウチの子会社がイシネスに幾つかありますので、いざとなったら引き揚げさせることも考えております」
「それほど
「喪が明けてからになるとは、思いますが」
タンツ氏は、エスカを凝視した。この人にごまかしは効かないな。
「クーデターが起きるかも」
タンツ氏は、満足そうに頷いた。エスカから、その言葉を聞きたかったようだ。
「では、考えられる限りの可能性を予測し、対策を講じるとしましょうか」
話は、やっと本題に入ってきた。面談は深夜に及んだ。
翌日は日曜日。アニタもグウェンも休みである。エスカは、朝寝坊を楽しんだ後、屋上に出た。
アニタの植えたプランターの花に、水をやるためである。ついでに、イシネスから密かに持ってきた薬草の種を、植えた。ようやく植える気になった。この合宿所に住み着く覚悟ができたとも、言える。
ウリ・ジオンが、欠伸をしながらやってきた。
「植えたのか」
弾んだような、安心したような声である。
「昨夜は、遅かったようだな」
「うん。これからも、必要に応じて会うことにしたんだ」
昨夜の今日である。さすがに、ウリ・ジオンに連絡はないだろう。それに、全て話すことはできない。タンツ氏との約束だ。
「信頼できる人で、安心した」
「そうか」
ウリ・ジオンはしゃがみこんで、花を眺めたりしている。思い詰めているように見える。
「何かあったの?」
「今に始まったことじゃないんだけど」
立ち上がって、遠くの空を見た。
「僕は将来、タンツの姓を捨てるかもしれない」
エスカは無言で、ウリ・ジオンの端正な顔を見つめた。
「お袋がさ、シェトゥーニャを毛嫌いしててさ」
シェトゥーニャか。随分と美しい名だ。
「いや、毛嫌いとも違うな。軽蔑してて、会おうともしない」
「ひょっとして、シェトゥーニャさんは、砂漠の民?」
「うん。付きあうのは自由だが、結婚となると話は別だって」
よく聞く話だ。
「僕は、もうすぐ十九になるけど、それにしても、結婚には早すぎるだろ? でもお袋は、既に候補を探しているんだよ。然るべき家柄のご令嬢を。
何考えてんだ。自分は元王族だとしても、現在は一般人。王宮から大金持ちの屋敷に来て、外の世界なんか何も知らないんだ」
「シェトゥーニャさんは、なんて言ってるの?」
「とても言えないよ。先の話はしていない。ただ、結婚願望はあんまりないかな。舞踊団の花形ダンサー、続けたいみたいだな。
近隣の国を回って公演やってるから、しょっちゅう留守でね。そういう生活を続けるとなると、結婚は無理かな。
でも僕は、シェトゥーニャ以外には考えられないし、シェトゥーニャも僕がいいんだってさ」
「シェトゥーニャさんのお母さんも、ダンサーだったの?」
ウリ・ジオンは、頷いた。エスカは、ウリ・ジオンの目を覗き込む。
「で、お父さんは歌手?」
ウリ・ジオンは、笑い出した。
「お見通しだな。その通りだよ。でも僕は、そのことは後で知った。アルトスの姉さんだから、付きあったんじゃない」
「アルトスは、それ知ってるの?」
「いや、サイムスは知ってるけどな。シェトゥーニャも承知だ」
「シェトゥーニャさんのお父さんは?」
ウリ・ジオンは、溜め息をついた。
「長い話になるよ。
シェトゥーニャのお母さん・アイラの舞踊団が、ラヴェンナに公演に行った時、当時の国王が、お忍びで観に行ったんだ。それでアイラを見初めて、王宮で踊るよう命じた。
アイラはそれを断り、座長だったお父さんと相談して、公演を予定より早く切り上げることにしたんだ。
そしたら王宮から使者が来た。王命に従わないと、舞踊団の安全は保証できないと言ったんだってさ。
それでアイラは、泣く泣く王宮に行った。幼いシェトゥーニャは、お父さんに預けられたんだ。
アイラが夫の事故死を知ったのは、アルトスを産んだ直後だったそうだ」
「事故死?」
「そう。国家憲兵隊は、ろくに調べもしないで、事故死と断定した。代々、砂漠の民の
だが砂漠の民は、誇り高い民族なんだよ。シルデスだのラヴェンナだの、周辺の国々が建国する遥か前から、砂漠の北部に住み始めていたんだ。数が少ないこともあって勢力が弱く、軽く見られていたけどね。
それでアイラは、離縁を願い出た。既に他の女にうつつを抜かしていた国王は、快諾したそうだ。
但し、アルトスを置いて行くことが条件だった。男子だったからな。
うつ状態だったアイラは、それを飲まざるを得ず、ひとりで王宮を出たそうだ。
ところが、アルトスはまだ乳飲み子。それで、サイムスのお母さんのマリエが、乳母に選ばれた。
マリエには、乳飲み子のサイムスの他に幼児もいたため、王宮でなく自宅であるパルツィ邸で、アルトスを育てることになったのさ。
国王は、アイラがアルトスと会うことを、固く禁じていた。だがアイラは、気持ちを抑えることができなくて、密かにパルツィ邸に行った。
ところが、国王の手の者に尾行されていたんだ。それでアイラは、国外追放になった。
行く当てもないアイラは、それでも昔の伝手を頼って、あちこち転々としていた。
それをパルツィ氏が見かねて、親父に頼みこんだ。商売で王宮に行った折り、顔が合えば挨拶程度はしていたらしい。
親父は、ここシボレスの住居を世話した。その頃、シェトゥーニャを預かってくれていた舞踊団の仲間が、彼女を連れて来てくれた。それで、ふたりは一緒に暮らし始めたんだ」
「では、アルトスのお母さんは、今どこに?」
「この市内にいるよ。最初の家にずっと」
「アルトスは、それ知ってる?」
「いや、アイラの意思で伝えていない。アルトスを捨てた自分に、母親の資格はないとさ」
エスカが泣き始めたのを見て、ウリ・ジオンは狼狽えた。
「話題を変えよう。僕は商会を受け継ぐつもりで、経営学を学ぼうとしてたんだけど、そうでないなら、別の道を探さないとな。それでちょっと悩んでるとこ。
他に、僕にできそうなことあるかな。踊り子さんのヒモっていうのも、なんだかなぁ」
ウリ・ジオンは、エスカを笑わせるのに成功した。
数日後、アダがやって来た。前回より、少しは明るい表情にも見える。
「急転直下、一応解決した」
「え、早かったね」
「一応だぞ。ここで一旦収めるしかない、ということだ。
詳しい解剖の結果、マデリンは泥酔状態だったようだ。肺の水は、水道水だった。
そこで警察は、マデリンの写真を手に、聞き込みをした。すぐに、マデリンが通っていた酒場は見つかったってさ。
バーテンが、覚えていた。『ああ、あの胸のでかい姉ちゃんね』だとさ。
このところ、よくひとりで飲みに来ていたそうだ。帰りには、必ずそこで知りあった男と一緒だった。それも、毎回違う男だったと。
売春婦ではないようだが、相当な男好きに見えた。遺体が上がった前日の夜も、やはりひとりで来ていたそうだ。
同じカウンターで飲んでいた男が、誘いをかけて来た。で、いつもの通り、ふたりで出ていった。
酒場の中にある監視カメラは、ダミーでな。バーテンが言うには『本物なんか付けてた日には、客は来ません』だと。だが、裏口には付けてあった。それに、駐車場の様子が写っていた。
そこから追跡してみると、ふたりは安ホテルに入っていった。ホテルの監視カメラは故障中だったが、道路のカメラから、確認できたそうだ。
その後間をおかず、男のふたり連れが入っていった。今日び珍しいことでもない。
ところが暫くして、その男たちが、裏口から大きいトランクを運び出す様子が、写っていたんだ。素人だな。
軍警察が捜査に行くと、マデリンの連れは、翌日の昼まで眠りこけていて、ホテルマンに不審がられた。
記憶も曖昧だったから、睡眠薬を使われたのだろう。利用されただけだったようだ。
で、翌日遺体発見となる。軍警察は、再就職先の縫製会社に聞き込みに行ったが、何も出ない。
勤め始めて日が浅いことから、まだ友だちと呼べるほどの者はいなかった。
次は普通の手順なら、合宿所に行くはずなのだが、『ラヴェンナのアルトス殿下』の名にビビった。というよりパルツィ大佐に遠慮した、ということだろう。
それで、先にドディの家に行くことにした。それを耳にした小心者のドディは、震え上がり自首してきた」
「え、そいつが黒幕?」
「誰も本気にしちゃいないがな。今のところ、これで納得しておこうということだ。大元を辿れば、イシネスに行き着くだろうが、シルデスの軍警察にできるのは、ここまでだな。証拠もないのに、事務次官に事情聴取するわけにはいかないしな。
ドディも、暗殺されるより刑務所の方がマシだと判断したのだろう。ドディは動機として、マデリンのせいでタンツ商会から取り引きを切られた。
その関連で、取り引き先が激減して、大損をしたことによる怨恨だと。
実行犯たちは、ドディの自供ですぐに逮捕されたよ。懐事情が苦しくなったドディが、素人同然のチンピラを雇ったんだ。まぁ、それが軍警察には、幸いしたわけだ。
会長が、薬草の件を一切出さなかったから、事件が単純化されたんだ。賢明なお人だ。
いずれ、事務次官とイシネスのエライ人との関連が出てくるかもだが、それは時を待つしかない。ともあれ、一件落着だ」
「ありがとう、アダ」
報告が済んで、アダはほっとした様子を見せた。
「もうすぐお昼だから、食べていけば?」
「そうだな」
たいそう嬉しそうである。狙って来たか。ターゲットはランチか、はたまた……エスカの楽しみが増えたかもしれない。
二、三日後、アニタの妹ペニラが、ウリ・ジオンに呼ばれて、やって来た。アニタより少し背が高く細い。栗色の髪の、愛嬌のある二十代半ばの女性だ。
エスカは、伸びてきた髪を無造作に後ろで結んでいたのだが、これがパー三に大不評。『女の子に見える』というのだ。対外的には男子となっているので、これはまずい。
急遽、美容師をしているペニラが、駆けつけたというわけだ。エスカの希望もあり、髪は無惨にもベリーショートとなった。後ろは刈り上げてもらった。
超短髪になったエスカを見て、姉妹は笑い転げた。
「これなら長持ちするよね」
鏡を見たエスカは、満足そうだ。これまでの肩より短い程度のボブよりは、男の子に見えるだろう。
生まれ変わったようなエスカを見て、パー三は仰天。悪評さくさくだったが、切ってしまったものは仕方がない。
「ざまぁみろ」
と、エスカが内心、溜飲を下げたことには気づかない。あれこれ指図するからだ。新しい髪型も、似合わなくはないし。
翌日、エスカはアニタと買い物に出かけた。ウィッグを買うためである。ショッピングセンターの中に、専門店があるという。
女神殿の巫女さんたちは、皆一様に頭巾を被っていた。エスカは頭髪に関して 、一切興味がなかった。皆同じだったからだ。
シルデスに来て、行き交う人々を見て、驚いたものだ。髪の色は微妙な違いを含めて様々。長さや形もお好みのまま。それを見て、いつかイメージチェンジしたいとは、思っていた。
店内には、様々な色とヘアスタイルのウィッグが陳列されている。アニタも、興味津々である。見ていると、店員がやってきた。
「この子のなんですけど、イメージチェンジしたいんですって」
「どうぞ、お試しになってくださいな。意外なものがお似合いなこともございますので」
「淡い金髪は無難だけど、イメージチェンジには足りない気が……」
アニタは、楽しそうに濃い目の金髪やら赤毛やらを、エスカにあてがってみた。
「あの、思い切ってこれは如何でしょう?」
店員が差し出したのは、漆黒のボブである。
「ちょっと極端かも」
言いさしたアニタが、目を見開いた。
「これだ!」
と叫ぶ。
「これだね」
「これですね」
三人の意見が一致した。店員に案内されて店の奥に行く。
そのまま被ってもいいが、確実にするためには、ネットを付けると地髪が出にくいこと、ピンで留めると安定することなど、教わった。ネットとピンはサービスしてもらった。
帰り道、ふたりはご機嫌で、気軽に入れるタイプのレストランに入った。ウリ・ジオンから、ランチ代の提供も受けている。好意はありがたく受けることにしたふたりである。
食後のコーヒーを飲みながら、エスカはアニタに聞いてみた。一応、確認しておきたかった。
「アニタの旦那さんって、どんな人?」
アニタは、フンと鼻で笑った。
「あの人はね、大工だったの。仕事中に事故で足を骨折して、暫く働けなくなったんだ。 であたしは、まだ三ヶ月だったリディを母さんに預けて、合宿所に働きに来たの。
旦那は、せっせとリハビリに通ってた。早く回復して、仕事に戻りたいからだとばっかり、思ってたんだけどね。
そのリハビリの療法士と、デキてたんだよ。あたしもバカだね。まるで気がつかなくて。せっせと尽くしてたのに。
ひょんなことから、浮気がバレた旦那の言うことにゃ『あいつの方が稼ぎがいい』だって」
エスカの目が、つり上がった。
「それであたしは、未練も何も吹っ飛んで、
それで実家に帰ったら、父さんと母さんは大喜び。リディと一緒に暮らせるって。エスカが来るちょっと前の話だよ。
だから、親には本当に感謝しなくちゃいけないのは、よく分かってるけど。こんなこと思ったら、バチ当たりだとは思うんだけど。
手放しで単純に喜ぶ親を見て、なんだか腹が立っちゃったんだよ。あたしは、地獄にいたのに。悩んで苦しんで、やっと決断したのにって」
アニタの目から涙がこぼれた。エスカは、アニタの向かいの席から隣に移動し、アニタの手を両手で包んだ。言ってあげる言葉が、見つからなかった。
「でも、時間が解決するって本当だね。喉元過ぎたら、楽になってきちゃって。結果、これでよかったんだって思えるようになってきたの」
明るいだけのアニタじゃなかったんだ。
「つらいこと聞いちゃって、ごめんね」
アニタは涙を拭いて、笑顔を見せた。
「再婚は考えてないの? まだ若いんだし」
「もうこりごり」
シェルターの女性たちもそう言っていたっけ。『男は、もうこりごり』
アダ、道は険しいぞ。
合宿所に帰ると、騒ぎが勃発していた。廊下にまで、アルトスの大声が響き渡っている。
「なんだ、このニュースは! 殺害されたマデリン・フォーサイスって、あのマデリンか?」
「え?」
アニタの顔色が変わる。まずい、バレたか。
「さ、殺害って……」
アニタは、がたがた震え出した。キッチンの引き戸が開いて、グウェンが顔を出す。ありがたい。まだいてくれたんだ。
グウェンはエスカに『任せて』と合図をすると、アニタの肩を抱いて、キッチンに引っ込んだ。
エスカはベッドにウィッグの箱を放り投げると、リビングに走った。アルトスは、サイムスによってソファに座らされていた。ウリ・ジオンが、宥めながら説明している。
アルトスは、エスカを睨みつけた。
「お前も知っていたな! なんで俺にだけ言わないんだ!」
どうやら、怒っているのは、内緒にされていたことのようだ。
「アルトスが、傷つくと思ってさ」
「でも、俺が、一番親しかったんだぞ! 最初に教えるべきじゃないのか!」
はい、それはご尤もです。どうやら泣くのは、後回しにしたようである。
「だから、薬の件は誰にも言ってないわけで。商売が傾いてきたドディの逆恨みと言うかさ」
ウリ・ジオンの説明は続く。アルトスが反応した。
「なんで薬の件が問題にならないんだよ? 俺、酷い目にあったんだぞ!」
解決したと思ったのは、甘かったようだ。
「申し訳ありません」
エスカは体を二つに折って、頭を下げた。
「薬は、イシネスの物です。僕が管理していたのですが、流用されていたのに気づきませんでした。僕の責任です。本当に申しわけありません」
アルトスは、唖然としてエスカを見た。エスカは、顔を見られたくなかったので、下を向いたままの姿勢をとり続けた。
ウリ・ジオンが、割って入る。
「薬の件はな、ドディの先に外務省の事務次官、その先に何人かいる。さらにその先には、シルデス人が手出しできない人がいるんだ。
これ以上は危険だということで、捜査は一旦終了したことになった。パルツィ大佐は、よくやってくれたよ」
アルトスは、俯いて頷いた。
「エスカが謝ることはないよ。流用したヤツが悪い。この話は、これでおしまいにしよう。興奮して悪かった」
随分と素直になったな。エスカは、ようやく顔を上げた。それにしても居づらいので、部屋に引き上げようとして、アルトスを見た。とんでもない光景が見えた。
衝撃を受けたエスカは、口を押さえてよろめいた。倒れる寸前に、ウリ・ジオンが抱え込む。エスカは、苦しそうに短い呼吸をしている。
「どうした!」
「大丈夫か!」
アルトスとサイムスが、走り寄る。サイムスが、エスカの背中を大きな手でゆっくりとさする。
「過呼吸だ。エスカ、ゆっくり息を吸って吐くんだ。ウリ・ジオン、水を」
ウリ・ジオンが、キッチンに走る。アルトスはエスカの前に回り、肩を抱いた。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
アルトスの心の底の温かさのようなものが、エスカの胸に滲み込んできた。
アルトスが周囲の者から大切にされているのは、王子だからというだけではないのを、エスカは知った。こういうお人だったのか。
「ごめんなさい、僕が悪かった。アルトスは、何も悪くない。僕が、無神経だった」
エスカは、しゃくりあげた。だからアルトスは、エスカがボタンを留めようとした時に、激怒したのだ。ああいうことをされた後だったから。
何年も、あんな生活を強いられていたのに、この人の心は多少歪んだにしても、壊れなかったのだ。エスカは、初めてアルトスに敬意を抱いた。
「おいおい、エスカが謝ることなんて、何もないだろ。そう言われると、俺がエスカの前で、三べん回ってワンと言わなくちゃならなくなるじゃないか」
「あ、ごめんなさい。涙と鼻水付けちゃった」
サイムスが笑いながら、ティッシュで拭いてくれた。
キッチンから、アニタとグウェンが、ウリ・ジオンと一緒に走ってきた。グウェンが、エスカの首筋に手を当てる。
「熱があるね。寝かせた方がいい」
育児のベテランの意見である。水をひと口飲んだエスカは、アルトスにお姫さま抱っこをされて、自室に運ばれた。
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