第6話 歓迎フェスティバル

 翌朝、エスカは早速教習所に向かった。待ちに待った十六才である。

 出かける前、ベッド脇に跪き、産んでくれた人に感謝の祈りを捧げた。

 教習所の受け付けには、若く元気のいい女性がいた。身分証明書を見て、エスカの年齢を確認し、てきぱきと事務処理をしてくれる。

 エスカは、二週間分の受講料を支払った。

「免許の試験受ける時の受験料は、その時に払ってね」

 なるほど、そういうものなのか。何も知らないエスカには、こうした一般常識のような事を覚えていくのが楽しい。

「今日からでも受けられるわよ。やってく? あと十分くらいで始まるけど」

「受けます!」

 エスカの勢いに、女性は笑って外に出てきた。

「実技の時は、あのロッカーに荷物を入れてね。実技の後で、交通法の講義があるの。さっきテキスト渡したでしょ、あれね。

 試験前に、過去問やっとくといいわよ。それも売ってるから」

「あ、それはあります」

 女性は、可笑しそうに笑った。

「中古ショップの人でしょう? あの人親切よね」

 売り物をくれたのか。ありがたいことだ。いずれにせよ、何も知らない顔をして、訓練を受けよう。

 昼前に部屋に帰り、タブレットを開いた。大学からメールが届いている。

『入学金他受領のお知らせ』

 タンツ会長か? そう言えば、入学金の振り込みをもって合格とするって書いてあったっけ。

 振り込んでくれたのは、入学金の他、一年分の授業料、教材費、実習費。こんなにかかるんだ。

 タンツ会長の悪口ばかり言っていたエスカは、申し訳なくて泣きそうになった。注意書きがある。

『実習には白衣が必要です。前もって購買部で購入しておいてください』

 なるほど。大学が近づいてきた気がする。

 サイムスは、いつもの時間に迎えに来てくれた。やや仏頂面のような気がする。無理もないか。

「傷痕とか、残ってる?」

 わざと謝らないことにした。三人で圧をかけなければ、あんな乱暴な事をしなくてすんだのだから。

「いや、残ってないよ。元々、蚊に刺された程度のものだったから」

「え、そうなの?」

「そうなのって、お前……」

「やったの、初めてだったから。どうなるかと思って」

「そうなのか? そりゃそうだよな。しょっちゅう、ああいう事があるはずはないな」

 サイムスは苦笑した。

「で、痛みは?」

「三十分くらいで治まったよ。びりびりして、結構効いたぞ」

「それは失礼。最弱にしたんだけど、至近距離だったせいかな。そうなると、十メートル離れているとすると……」

 エスカは考えこんだ。

「傷痕が小さかったのは、指先で攻撃したからかな。これでナイフを持っていると、痛みは電撃プラスナイフ。刺し傷もつくな。 

 三人の中では、サイムスが一番頑丈そうだから、受けてみる?」

 サイムスは、ぶるぶると首を振った。

「お前さ、しょっちゅう、そういう事考えてるわけ?」

「まさか。何かあった時に、ついでにシミュレーションしておくんだよ。そうすれば、いざという時にすぐに対処できるでしょ」

「なるほど。でもあれな、結果として軽かったけど、心臓を直撃してると、危なかったかもな」

「だから、肘から下を狙ったんだ。アルトスの事もあるし」

「アルトスの事って?」

「言ってなかったっけ? あの時、ちょっと心臓に問題が」

「大丈夫だって、言ったじゃないか!」

 エスカにみなまで言わせず、サイムスは顔色を変えた。

「心配させると、かえってまずいと思ったから。境界線だったんだよ。正常と異常の。今では大分回復しているはずだよ」

 サイムスは、大きく息を吐いた。

「道理でな。アルトスは歌う時『息継ぎがちょっと』とか言っていた」

「え、アルトスって歌うの?」

「ああ、いい声だぞ。でもなエスカ、本人に言いづらいことでも、俺には全部話しておいてくれよ。俺、あいつを護らないと」

 護衛官としてではなく、兄として、まるごとアルトスを護りたいのだ。

「とりあえず、火をつけられなくてよかった」

「味方にそんな事しないよ」

「味方……」

 サイムスの口元が緩んだのを、エスカは見た。

 パルツィ邸に着くと、廊下の奥から、十才にしては少し小柄で細っこい少女が、勢いよく走ってきた。

「エスカ!」

 すっかり元気を取り戻したゾーイである。可愛らしい花柄のワンピースを着ている。ゾーイは、わっとエスカにしがみついた。

「見て見て! こんなに元気になったの!」

 その場でジャンプして見せた。マリエとハンナ、サイムスが愉快そうに笑っている。

「あのね、さっきお買い物に行って来たの。はい、これエスカにプレゼントよ。あたしのお小遣いで買ったんだ」

「え」

 エスカは戸惑ったように、渡された小さな紙袋を見た。何かふっくらした物が入っているようだ。

「開けて見て! あたしの大好きなクマさんなの」

 丁寧に紙袋を開けて、中身を出したエスカの目から、涙が溢れ出した。白いクマのストラップが、エスカを見ている。

「ど、どうしたのエスカ!」

 ゾーイが、しがみついてきた。心配そうに、エスカを見上げる。

「あ、僕、プレゼントもらったの初めてで……」

 一同が、唖然とエスカを見た。

「ありがとう。とっても嬉しいよ、ゾーイ」

 後は言葉にならない。

「これね、お守りになるのよ。いつも身に付けておくと、効くんだって」

 ゾーイが、エスカのベルトのバックルに付けてくれた。そしてしっかり抱きしめてくれた。

 そのクマは、後日、本当にエスカを護ってくれることになる。

 帰りの車中、サイムスは、やはり無言だった。

「今日は真っ直ぐ帰るよ。アニタによろしく言っておいて」

 サイムスは頷いた。

 帰宅したエスカは、クマの入っていた紙袋を、丁寧に畳んで小さな食器戸棚に入れた。ベルトを外した時に、クマにキスをした。

 今日は百点満点だった。最高の誕生日だったな。また涙が出そうだった。 


 翌週は、入学式だった。オンラインでもいいそうだが、購入する物もあるので、エスカは出席した。

 学生課で学生証を受け取り、教務課で授業内容がすべて入っているUSBをもらう。履修届けは提出済みである。

 入学式の会場には、全員入場は学生数が多くて無理なので、各教室でテレビを見ることになっている。

 校内マップを見て、教室に行く。三、四十人ほどの新入生たちが、着席していた。エスカは、最後列の椅子に座った。

 最初に学長の挨拶、画面が切り替わって、担当学部長の挨拶。終わると、教卓近くにいた女性が立ち上がって、テレビを消した。

「入学おめでとうございます。担任のラサリと申します」

 三十才前後の、知的なすらりとした美貌の女性である。赤みがかった長い髪が、白い肌に映えて美しい。

 無駄のない式の進行、この教師の説明も分かりやすく、無駄がない。

 大学とはこういう所なのか。どたばたはあったけど、入学してよかった。

この教師が、四年間責任をもって受け持つと聞いて、エスカは安心した。

 この学部は、落伍する人が多いそうだ。『全員揃って、四年後に卒業しましょう』熱意のこもった言葉に、エスカは感動した。

 最後に白衣を買って、エスカは校門を出た。校門脇の欅の木の下に、会社員風の男性がいる。地味なストライプのスーツに、派手めのタイがお洒落である。

 エスカがそのまま通りすぎようとすると、男性が近づいてきた。

「おいおい、無視するなよ」

 セダだった。

「なんでそんな格好してるの?」

「わたしは、会社員だからね」

 話し方まで違う。魔女号にいた時は、シマシマのシャツにバンダナ巻いて、海賊にしか見えなかった。

 それが今のセダときたら、数人の部下をもつ管理職にすら見える。わけのわからん男である。

「昼時だな」

 誘われたのは、高級感のあるレストランである。エスカはびびった。

「大丈夫。ドレスコードはないから」

 そも、ドレスコードってナニ?

 ウェイターに案内されて、ふたりは奥の席に腰を落ち着けた。セダは入り口のドアが見える位置に腰をおろした。

 こじんまりとしているが、高級感のあるレストランだ。さりげなく飾られている装飾品や調度品が、格調高い。

「何にする?」

「わかんないから、お任せ」

 セダは苦笑した。

「ウリ・ジオンとアダが、お前にジャンクフード食べさせたと聞いた会長から、ポケットマネーが出た。というわけで、わたしも便乗することにしたのさ」

 なぁにが『わたし』だ。違和感満載と言いたいところだが、妙にさまになっている。

 軽いコース料理が出て、ふたりは、しばし食事を楽しんだ。肉は柔らかく味も薄口で、エスカの口に合った。

 セダは冷えかけたコーヒーを飲み干し、エスカを見た。

「例の事故の件な、調べてみた。王立警察の警官が、川の周辺にいた不審な二人の男を、その場で逮捕した。

 勤務時間を過ぎていたので、とりあえず留置場にぶち込んで置いたそうだ。翌朝、二人とも首を吊っていた。

 その前後、トリニタリア王女の側近の侍女が、事故死した。雪道で転倒して、石に後頭部をぶつけたと思われた。

 だが傷痕が、ぶつかったと思われる石とは、一致しなかった。それで、王立警察が調べている。他殺の疑いがあるそうだ。

 黒幕が直接、暗殺者に命令はしないだろう。その侍女が、中継ぎをしたと考えられる。証人を消したのか。

 今年のイシネスは、雪解けが早かった。早速、ヴァルス公爵が指揮をとって、川の周辺を捜索させた。

 愛しい小姓を一刻も早く見つけたい。無理もないな。だが、お前の遺体は見つからなかった」

 セダは、にやりと笑った。

「その代わりと言ってはなんだが、男の遺体が二体上がった。お前を襲ったのは、四名だと言ったよな?」

 エスカは頷いた。

「司法解剖の結果、肺に水はなかった。川に落ちる前に、死んでいたことになる」

 エスカは、コーヒーカップを両手で抱えたまま、考えこんだ。ややあって顔を上げた。

「僕が関係しているから、調べてくれたんだと思うけど、これで終わりにしてね。危険だから」

 とても危険だ。

「会長も同じ意見だよ。どの道、イシネスの国内問題だからな。

 ひとつだけ確認させて欲しい。純血主義は主神殿だろう? とすると、アルトス排除組だな。公爵の側だ。公爵は軍部のトップ。やはり軍部が絡むか。

 でも女神殿は、国を続けるためには、混血もやむを得ないと考えている。アルトス擁護派か」

「そう思っていたんだけど……でも、僕が大巫女さまから言われたのは『穏便にアルトスを辞退させるように』ってことだったんだよ。

 女神殿は、本当はアルトス排除組なんだろうか。じゃあ、誰がアルトスを支持してるの?」

「高位の貴族たちだそうだ。自分たちでは子孫が増えないことを、知っているんじゃないかな。数は少なくても、力があるだろう?」

「でも、誰も王女の気持ちを考えたりしてないよね? 唯一無二の直系だからってさ。僕は、王女があまりにもお気の毒だと思って」

「お前は、王女が黒幕だとは思っていないんだな」

「……とにかく手を引いてね」

 ふたりは、ひとまず外に出た。欅並木を並んで歩いて、駅に向かう。

「なぜ大巫女さまは、アルトスを辞退させようとなさったのだろう?」

 エスカには、納得できない。

「多分、アルトスに『砂漠の民』の血が流れているからだよ。婚約者候補に決まってから、知ったのかも」

「『砂漠の民』って?」

「ラヴェンナに、古くからいる民族だよ。発祥が砂漠だから、そう呼ばれている流浪の民だ。

 今では、何代も前から定住して、混血もしているから、純血の人はいないけどな。芸術面で優れた才能をもっていて、世界中で活躍している人も多い。

 それでも、賎しい民族として蔑む人もいる。アルトスはその末裔だよ」

「アルトスは、賎しくなんかないよ! むしろ王の風格があると思うよ!」

「エスカが、そう思ってくれるとはな」

 セダは、嬉しそうに微笑んだ。

「ラヴェンナでも、そういう扱いだったのだろう。前王が気まぐれに愛した女の息子」

 エスカが身を震わせた。セダは、欅の下のベンチにエスカを座らせた。

 エスカは頭を垂れて、地面を睨み付けた。

「イシネスでは、もっと偏見が強い。気づかなかったか?」

「そう言えば、学院の生徒たちは、全員貴族の令嬢だった」

「うん。例えば、アルトスの辞退が成功したとする。ラヴェンナでは、次に誰を送るか? 国王は、自分の息子を送りはしないだろう。

 すると、すぐ下の妹の息子、ウリ・ジオンになるはずだ」

 エスカは息を飲んだ。セダは続けた。

「ところが、そうはならないんだよ。イシネス側、つまり女神殿が拒否するからだ」

「なんで?」

「父親が商人だからさ。いくら金があっても、身分が賎しいということだろう。アルトスで懲りているから、今度は厳しい条件を付けてくるんじゃないかな。両親は、最低でも貴族とかな」

「行く人いるかなぁ。でも、ウリ・ジオンは無事なんだよね」

「ウリ・ジオンには恋人がいるしな」

 エスカは、目を輝かせた。

「やっぱり。そういう雰囲気だったものな」

「感づいてたのか」

「ウリ・ジオンてさ、会長に怒られたり、僕に八つ当たりされたりしてるでしょ? 踏んだり蹴ったりなのに、なぜか根本が揺らがないというか、安定してるというか。

 なんとなく、彼女がいるような気がしてたんだ。ひょっとしてその人、年上?」

 セダは笑い出した。

「おお、気っ風のいい姐御肌あねごはだの美女だ」

「ぴったりだね。それにしても、アルトスをなんとか辞退させる方向にもっていかなくちゃ。かわいそう過ぎる」

 

 翌日は、朝から教習所に行った。オンライン授業は来週からだから、今週は、もぐりの外科医を探そうと思っている。

 マンションの部屋の前に、誰かいた。ウリ・ジオンである。そう言えば、駐車場に見覚えのあるエアカーがあった気がする。

「待ってたよ、エスカちゃん」

 ろくでもないことになりそうだ。ウリ・ジオンはエスカの肩に手を回した。

「お出かけしようか」

「今帰ったところなんだ」

「まあまあ、そう言わず。ランチご馳走するよ」

「いらない。今日はひとりで食べたいきぶ」

 言い終わらないうちに、外に連れ出された。エアカーに誰か乗っている。

 後部座席に放り込まれて、先客を見ると、アルトスである。運転席にはサイムス。

 やられた。ウリ・ジオンは、助手席に乗るかと思いきや、エスカの隣に座った。アルトスとウリ・ジオンに挟まれて、護送される囚人さながらである。

「今日からうちの大学では、新入生歓迎フェスティバルなんだ。アルトスがソロやるから、聴かせてやろうと思ってな」

 得意そうなサイムス。

「ソロって?」

「アルトスは、グリークラブのサークルに入ってるんだよ」

「グリークラブって?」

「男声合宿団だよ」

 驚いた。アルトスがそういうグループに入るとは。ひとりを好むタイプだとばかり、思っていた。

「入学した時に勧誘されてな。歌いたいっていうんだ。俺も驚いた。音楽的な素養は、ないはずだし。ましてや歌が好きとは。

 そしたらぐんぐん頭角を表してさ」

「二年の時からソロなんだよ」

 ウリ・ジオンまで、ご機嫌である。それで、夏休みなのに毎日大学に通っていたのか。

「歌うのは午後だから、腹ごしらえに付き合え」

 アルトスが、エスカを抱き寄せた。調子に乗るなと言いたいところだが、そういうことなら、許してあげてもいい。

「サイムスは、歌わないの?」

「俺は稀代きたいの音痴だ」

 それにしても、三人がやたらとエスカを歓迎するのは、どういうことだ。昨日、エスカがアルトスに同情したのが原因か?

 セダは職業柄、エスカの言葉を、忠実にタンツ会長に報告したはずだ。会長も職業柄(?)そのまま受け止めた。ここまでは確か。

 その先、ウリ・ジオンが話を少々盛った。さらにその先、アルトスとサイムスが、勝手に脳内変換した。というところかな。伝言ゲームみたいなものだからな。

 まあ、今日のところは付き合うとするか。アルトスの歌も聴きたいし。

 連れていかれたのは、カレーショップだった。カレーは、ホロもアニタも作ってくれて、エスカの大好物のひとつである。

 ナンとサフランライスは、お代わり自由。カレーは甘口、中辛、辛口と三種類あり、食べ放題。

 お店は損しないのかなあ。エスカは心配になった。

 サフランライスを食べてみたかったので、ナンは少しだけにした。

 エスカの食べっぷりを見て、ウリ・ジオンは満足そうだ。

「食べられるようになったな」 

 アルトスは一通り食べると、お代わりはせずにチャイを飲んだ。

「もういいのか?」

「ほどほどにしておく」

 この後のことを考えているのだろう。エスカは少しだけ感心した。

 サイムスは、エアカーを大学近くの有料駐車場に停めた。

「学生は、校内に停められないんだ」

 エアカーから降りると、アルトスとサイムスは、トランクから何やら引っ張り出した。

 サイムスは、頑丈そうなベルトを締め、ホルスターを着けた。拳銃の弾を確かめ、ホルスターに差し込む 。

「護衛官だけ、武器の携行が許されているんだ」

 それから、黒いマントを羽織った。

「護衛官のマントは黒な」

 職業護衛官に見える。

 アルトスはと見ると、濃紺の表地に裏地が鮮やかなオレンジのマントを羽織っている。

 赤みがかった頭髪に合わせたのか、よく似合っている。思わず見上げるエスカに、アルトスはにやりと笑ってみせた。

「惚れなおしたか?」

 最初から惚れてないんですけど。

「こういう行事の時はな。王族は、濃い色の裏地付き、貴族は、淡い色の裏地付きのマントを着用と決まっているんだ」

 ウリ・ジオンが、説明してくれた。『めんどくさいな』というのがエスカの感想である。

 大学の門を入ると、内部はお祭り騒ぎだった。エスカの大学より、はるかに広い。

 受け付けで、アルトスはエスカを呼んだ。

「友人です」

 などと言っている。受け付けの警備員が、エスカに紐の付いた名札のような物を渡してくれた。『ゲスト』と書かれている。

「お帰りの際にお返しください」

 見ると、三人は、学生証を首からぶら下げている。

「ずいぶん厳しいね」

 エスカの大学では、こういう事はなかった。ウリ・ジオンが笑った。

「去年のフェスの時にさ、変な事件があったんだよ。女装した変質者が来て、トイレに立てこもったそうだ。警備員に逮捕されて、軍警察に引き渡されたんだってさ」

「それ以来、警備員の数は増えるわ、警官は巡回するわ」

 サイムスも笑っている。エスカは動揺して、ウリ・ジオンの袖を引っ張った。

「あの、僕、女装した変質者に見えない?」

 小声である。ウリ・ジオンは、呆れてエスカを見下ろした。

「お前、女装してないだろ。どちらかと言うと、男装した女の子だよ。問題なし」

 メインストリートでは、サークルの勧誘の声が飛び交い、ジューススタンドは、大にぎわいである。

 四人で、中庭の野外ステージに向かっていると、前方からアルトスを呼ぶ声がする。

「指揮者だ。ちょっと行ってくる」

 アルトスとサイムスは、その中年男性の側に行って、何事か打ち合わせを始めた。

 背後から、今度はウリ・ジオンが呼ばれた。女の子たちが数人いて、こちらに手を振っている。

「ごめん、すぐ戻る」

 結局、エスカはひとりになってしまった。心細い限りである。ゾーイにもらったクマを、無意識に撫で回す。

 そのエスカにも、声がかかった。振り向くと、見覚えのある顔があった。

「君、健康診断からトンズラした子だよね?」

 嫌な奴に会ってしまった。裏地が淡い色のマント。やっぱり貴族だったんだ。マントの色で区別できるから、案外便利なルールかもしれない。

 背後に金魚のフンが何人かいる。全員、淡い色のマントだから、貴族ってことか。

 こんなにラヴェンナからの留学生がいるとは、知らなかった。

「健康診断を受けなかったんだから、入試は落っこちちゃったんだよね?」

 意地の悪そうな笑顔で、話しかける。意地悪を言うのは、女子の専売特許かと思っていたのは、思い込みだったようだ。

「でも、未練がましくフェスに来たのか。君、知ってる? ここには関係者しか入れないんだよ。君、ツテはあるの」

 嫌みに慣れているエスカは、無視して通りすぎようとした。

「無視するなよ。僕を誰と思っているんだ!」

「ヴァニン子爵のどら息子、ラストゥスだろ」

 背後から、アルトスの笑いを含んだ声がする。どら息子たちは怯んだ。

 裏地付きの濃紺のマント。出自がどうであれ、王族は王族である。それになぜか貫禄がある。

「俺の歌を聴かせようと思って、小姓を呼んだんだが、まずかったかな」

 また小姓かぁ。エスカはげんなりした。サイムスはと見ると、肘でマントを払い、腰のホルスターに手を置いている。いつでも攻撃の構えである。

「し、失礼しました」 

 騎士の礼をとって、離脱の姿勢になる。

「殿下、お時間が」

 さすがサイムス、絶妙のタイミングだった。

「準備があるから先に行く。また後でな」

 言うとアルトスは、電光石火とも言える早業で、エスカの唇にキスをし、さっと尻を撫でた。

「ひゃっ」

 思わず声が出た。何をするこの野郎。アルトスは、余裕の笑いで背を見せた。サイムスが吹き出す寸前である。

「おやおや、御小姓が尻を撫でられたくらいで、びっくりするかなぁ?」

 引き上げかけた子爵のどら息子が、向きを変えた。執念深い男だ。

「僕は未成年だから、そういうコトしない約束なのに。あの御仁はまったくもう」

 嘘がつらつらと出てくるのは、パー助三人組と知り合ったせいに違いない。

「お待たせ」

 全部見ていたはずなのに、ウリ・ジオンがとぼけて戻って来た。手に飲料の入った紙コップを持っている。

「君、何者?」

 マントを着ていないから、平民だ。見下す態度が露骨である。おまけにウリ・ジオンは童顔のせいか、上級生には見えないようだ。

「この子の護衛兼世話係だよ」

 生来の穏やかな表情だ。なおも、つっこもうとするどら息子の袖を、仲間の一人が引っ張った。

「よせっ、理事長の息子だ」

「へ?」

「構うな、引き上げるぞ」

 どら息子一行は、逃げるように去って行った。

タンツ会長は、この大きな大学のおエライさんなのか。

「トラブル起こすんじゃないよ」

「見てたでしょ。僕が起こしたんじゃないよ」

「う、その、お前の周りの者が起こすとしてもだ。僕から離れるなよ」

「僕が離れたんじゃないし」

 ウリ・ジオンは、口の中でもごもご言った。

「あのさ、さっきの女の子たち、何なのさ。人目も憚らず、いちゃいちゃして。あれウリ・ジオンの彼女が見たら、どう思うと?」

「え? あんなの、シルデスでは普通だよ。イシネス人はおカタイからな」

 エスカは、のけ反った。

「ラヴェンナは、もっと凄いぞ。大通りでディープキスを」

「ディープキスって、ナニ?」

「……もういい」

 呆れられたようだ。

「あのどら息子に会ったこと、あるのか?」

「健康診断の時に、ちょっかい出してきた」

「ああ、あいつだったのか」

「知っているということは、あの案内係は、やっぱり元傭兵だったんだ」

「う。で、でも彼、エスカのこと褒めてたぞ。見事な逃げっぷりだったって」

 褒められて、悪い気はしない。

「逃げるのは得意なんだ」

「だな。合宿所からも、見事に逃げてくれたもんな。親父ときた日には、なんにも教えてくれなかったんだ」

 『信用されてないんじゃないの』とは、気の毒だから言わずにおこう。

 広めの芝生の庭に、特設会場が設置されていた。舞台の前に、椅子が並べられている。 

 開演まで二十分近くあるのに、椅子は八割方、埋まっている。何とか空きを見つけて、二人は腰を下ろした。ウリ・ジオンは、真ん中寄りの椅子をエスカに勧めてくれた。

 椅子に座ってからエスカは、何か胸につかえていることに気付いた。さっきのアルトスと、どら息子との一件だ。

 アルトスは、迷いなく相手の身分と名前を言い当てたが、知り合いというわけではなさそうだった。

 相手はと言えば、アルトスのマントを見て肝を冷やし、新鮮な人参のような頭髪を見て、初めて相手の正体に気付いたようだった。

 ひょっとして、アルトスはラヴェンナからの留学生を、全て把握しているのではないか。どら 息子と共にいた貴族の息子たちの氏名も、知っているかもしれない。

 王族も、留学しているだろう。年齢からいって、アルトスの甥や姪が。なぜ? ここシルデスで、アルトスを狙う者がいるのだろうか。

 イシネスからうまい話を聞いて、行動に移す者が。無論、中継ぎがいるだろうが。 

「ねえウリ・ジオン。ラヴェンナの貴族で、お金に困っている人っている?」

「掃いて捨てるほどいるよ。貴族のプライドを保つのって、難しいらしいぜ。贅沢に慣れてて、働く選択肢はない人が多い」

 暗殺を警戒しているのか。贅沢な暮らしをしたいから、イシネスの女王になる女性と結婚したいのか。だからアルトスを排除しようと?

 エスカは、どうやらアルトスの能力を見誤ったようだ。マデリンとカップルだったため、同程度の頭脳だと判断したのが、間違いの元。見た目、いいとこの御曹司だし。

 いきなり、エスカの前に大男が座った。トイレにでも行っていて、席を外していたようだ。舞台は、まるで見えなくなった。

「僕、後ろで立って見るから」

 ウリ・ジオンは、前を見て納得したようだ。

「僕も立つよ」

 腰を上げる。

「いいから、ここにいれば」

「お前をひとりにすると、すぐ虫がつくからな」

 笑って、最後列の椅子の背後に陣取った。ここなら安心。ふと見ると、ウリ・ジオンが、小さく手を振っている。

 並べられた椅子から少し離れた、桜らしき大木の陰に、ひとりの制服警官がいた。目立たないように、その警官も僅かに手を振って返した。

 左胸に、幾つか略綬りゃくじゅを付けているところを見ると、偉い人のようだ。

「知ってる人?」

 エスカは、唇を殆ど動かさずに聞いた。

「軍警察のパルツィ大佐だよ」

「パルツィって……え?」

 思わず大佐を見た。大佐は、悠然と帽子に手をかけ、エスカに挨拶をする。エスカも、反射的に会釈を返した。

 大佐は、三十才前に見える。その年で大佐とは、キャリアかも知れない。

「サイムスとアルトスのにーちゃんだ。アルトスが会いたがらないから、巡回という名目で、見に来たのさ」

 そう言えば、あの木の陰なら、舞台からは見えないだろう。さすが警官。

 サイムスの兄で警官なら、エスカの件は、ほぼ聞いているだろう。これだけ大勢の人たちに知られているなら、秘密などないに等しい。

 エスカの体の詳しい事は、さすがに聞いていないと思いたい。

「他の人たちは?」

「来ないよ。ここは狭いし明るいから、アルトスに見つかる危険性が あるだろ。春先に、ここの講堂でコンサートがあるんだ。その時に、こっそり来る。舞台が明るい時、客席は暗くなるから」

 そういうものか。

「バレないように、別々に来るんだ。ロビーで会っても、他人のふり。マリエとハンナは一緒だけどな。街の主婦みたいな恰好で来て、泣きながら帰る」

 あのふたりは、さぞアルトスを抱き締めたいことだろうな。でも、見られるチャンスがあるだけでも、幸せだ。

「ラヴェンナにいる上のふたりは、来られない。長兄のマティアスは、ラヴェンナ軍の近衛師団長なんだ。

 すぐ下の姉のヘンリエッタは、ラヴェンナの僻地で医師やってる。その下がマーカス、あの大佐な。私服でとぼけて来る。

 その下がエヴリンで、美大の院でわけわからんオブジェを作ってるよ。その下がサイムス、アルトスと続く。

 あれ、どこかで名前と順番違ったかも知れない。下の女の子ふたりには、内緒だ。

 イモジェンは、舞台に駆け上がって、アルトスを抱き締める可能性があるしな。ゾーイはアルトスを知らないけど、お喋りだし」

 そう言えば、元気になった途端、楽しい話をたくさん聞かせてくれたっけ。思わずエスカの顔が綻んだ。

「パルツィ氏は?」

「それが気の毒なことに、家族全員の反対を受けて、お留守番だとさ」

 ウリ・ジオンは、愉快そうに笑った。

「あの御仁は恰幅が良すぎて、どう見ても普通のおっさんには見えない。アルトスにバレるから、絶対にダメだって」

 エスカも笑ってしまった。

 しばらくして、男子学生たちが、ぞろぞろと舞台に上がり始めた。アルトスは上背があるので、最後列だった。ふたりを見つけて、にやりと笑う。

 サイムスは舞台の下、袖に当たる位置に、目立たないように佇んでいる。

 エスカは、歌といえば神殿音楽しか知らない。気候のいい夏になると、学院の開け放たれた窓から、軽快な音楽が聞こえてきたものだ。貴族を羨ましいと思ったのは、そういう時だけだ。

 夜が更けて音楽がやみ、部屋の灯りが消えるまで、エスカは窓の下の木の根元に座りこんで、曲を愉しんだ。そういう世界に行ける日が来るとは、夢にも思わなかった。

 一曲目は、エスカ以外の者なら誰でも知っているらしい、軽やかな曲。次は二部合唱、三部合唱、コミカルな輪唱。飽きさせないプログラミングである

 エスカは、手が痛くなるほど拍手をした。今、自分は夢の世界にいるに違いない。

 歌が一段落したというタイミングで、アルトスが前に出て来た。深く一礼する。客席が静まりかえった。

 第一声で、エスカは度肝を抜かれた。このような美しい声は、聞いたことがない。知らない言葉だが、恋の歌であることはわかった。全身全霊をかけた恋の歌。

 アルトスは、こういう感性の持ち主だったのか。胸に迫るものがあった。感動すると、なぜ涙が出るのだろう。ウリ・ジオンは、見ないふりをしてくれたようだ。

 その日は、合宿所でディナーだった。エスカは、初めてダイニングルームで食事をした。それを知ったアニタの喜びようったら、なかった。

「エスカが来るっていうから、レモンケーキ焼いたんだよ」

 食後は、男たちの談笑を楽しんだ。アルトスに誘われるまま、ソファの隣に座る。

「おとなしいじゃないか」

 ウリ・ジオンが、エスカに話をふる。

「僕は、元々おとなしいんだよ」

  三人が大笑いした。


 



 



 

 

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