第5話 パルツィ邸

 翌日、エスカはこれから出願できそうな大学と、もぐりの外科医を探すことに精を出した。ウリ・ジオンに貰ったタブレットが、大活躍である。

 大学は候補が見つかったものの、もぐりの外科医探しは、難航しそうである

「もぐりの外科医一覧表なんてないものなぁ。足で探すしかないか」

 と言いつつも、一応絞ってみる。大病院で、さすがにもぐりはないだろう。 

 個人経営の小さなクリニックでは、設備がないかも知れない。

 となると、ある程度小規模の病院か? その辺を中心に調べてみるか。

 昼を挟んで作業をしたエスカは、さすがに疲れて、机から離れた。買い出しにでも行って、気分転換を図ろう。

 外に出て、マーケットに向かったエスカは、市が開いているのに気づいた。

 そう言えば、五のつく日は、市が開くと聞いていた。

 人々が笑いさざめきながら、テントの下を覗いている。野菜や果物だけでなく、衣類や陶器、かわいらしい小物類まで売っている。

 日常の街並みですら珍しいエスカにとっては、知らないことばかりで楽しい。 

 おのぼりさんよろしく、エスカは木陰に設置されたテントを覗きこんだ。奮発してリンゴでも買おうかな。ホロ直伝のコンポートを作ってみようか。

 振り向こうとした時に、背後の人物にぶつかった。まるで壁のように厚い胸が立ちはだかっている。

「ごめんなさ」

 言いかけて、エスカは相手の顔を見上げた。瞬時に逃げの体勢に入ったが、時既に遅し。

 襟首を掴まえられて、足が宙に浮いた。

「離してよっ!」

「離せば逃げるだろ」

 サイムスは愉快そうに笑っている。

「逃げないから離して!」

 母猫に首根っこを咥えられた子猫のようではないか。周囲の人のクスクス笑いが聞こえる。

 サイムスは、すとんとエスカを地面に下ろした。

「なんで、俺見て逃げるんだよ?」

 エスカは襟を直すと、サイムスを睨みつけた。聞かなきゃわからないか、この野郎。

「俺たちがイヤだから、挨拶もしないで逃げ出したのか?」

 そうだと言うわけにもいかず、エスカは話題を変えた。

「なんで、こんなとこにいるの?」

「実家に帰る途中なんだよ。ここ通り道。一番下の妹が、熱出したっていうからさ、フルーツでも持って行こうかと」

 どうりで、手にオレンジの入った袋を持っている。

「風邪でも引いたの?」

「気管支の弱い子でさ、時々熱を出すんだ」

 エスカは少し考えた。

「僕も行っていいかな?」

「おう! 来い来い! 向こうに車を停めてある」

「警護はいいの?」

「SPに任せた」

 さっきの質問は、忘れてくれたようだ。ふたりはエアカーに乗り込んだ。エスカは助手席に座る。

「サイムスって、何人兄弟なの?」

「一応七人だよ。ラヴェンナでは、少なくはないけど、多いというほどでもない」

 エスカは目を丸くした。

「男、女、男、女、男、女、女。俺は五番目。熱が出たのは末っ子のゾーイだよ」

「何才?」

「十才。忘れた頃生まれた」

 サイムスは可笑しそうに笑った。

「それに、一時的にアルトスがいた」

「え」

「事情があって、お母さんがアルトスを育てられなくなってね。俺を産んだばかりで、母乳がホルスタイン並みに出る、俺のお袋が育てることになったんだ。

 俺の方が一ヶ月早く生まれたから、俺がにーちゃんだよ。乳兄弟ってわけさ。仲がよかった。

 ウチの者はみんな、アルトスも家族だと思っているんだ。だから本当は八人兄弟さ」

 それでエスカは、腑に落ちた。サイムスのアルトスに対する態度は、どう見ても、主人と護衛官ではなかった。

「アルトスは元気がよくて、明るくてお茶目で、兄たちや姉たちに可愛がられていた」

 意外である。今の姿からは想像できない。

「十二才位まで家にいたんだが、突然、城から迎えが来て、強引に連れていかれた。

 親父がいくら頼みこんでも、帰してもらえなかったんだ。お袋は、半狂乱状態だったな。

 あんまりしつこく言うもんだから、シルデスの駐屯地に飛ばされてね。国王陛下の護衛官だったんだけどなぁ。

 ふたりの兄貴は、当時ラヴェンナの士官学校にいたから、そのまま残った。あとは全員、シルデスに越したんだ。

 これが大正解。ラヴェンナの砂漠気候に比べて、四季はあるし、気候は温暖だ。

 永住権をとって、そのままシルデスで暮らしているのさ。教育も充実しているしね。

 親父は、今は新兵の訓練に当たっているよ。性に合っているんだとさ。家から結構近いんで、二週間に一度は帰って来てるそうだ。

 再びアルトスに会えたのは、ラヴェンナの士官学校に入った時だ。面変わりしていたよ。表情が、まるでなくなっていた。

 いくら誘っても、首を横に振るばかりで、決して家に来ようとはしなかった。 

 王宮で、どんな暮らしをしていたのか知らないが、幸せでなかったことは確かだな。

 だからマデリンとのことも、俺は反対しなかった。少しでも、アルトスの感情が動けばいいと思っていた。

 お前は嫌がるだろうけど、確かに効果はあったと思うよ。笑顔が出てきたもんな」

 エスカは頷いた

「だからと言ってはなんだけど、あんまりアルトスを嫌わないでくれよ」

「う」

 エスカは、口の中でもごもごと何ごとか呟いた。それにしても、サイムスは無口ではなかったんだな。

 サイムスの実家は、閑静な住宅街にあった。周囲の家々より、かなり広い敷地。手入れの行き届いた庭が、残暑の陽を浴びて、活気のある緑を見せている。

 インターホンを押し、暫く待つと中年のメイドが出てきた。

「サイムス坊っちゃん! お待ちしてましたよ!」

 メイドが嬉しそうに奥に声をかけた。

「奥様、お見えです!」

 奥の扉が開いて、上品な初老の女性が姿を見せた。ほっそりとして清楚な姿。不自然な若作りはせず、年齢相応のシンプルな姿が、美しい。

 ラヴェンナ人にしては色白で、濃いめの金髪に、サイムスによく似た青い目。とても、子どもを七人産んだホルスタインには見えない。

 サイムスは身を屈めて、母親の頬にキスをした。

「エスカだよ。ゾーイを診てくれるって。治療の知識があるんだ。エスカ、お袋のマリエだよ」

 サイムスは適当な紹介をした。

「エスカ……さん」

 マリエは、なぜか戸惑った様子を見せた。

「どうぞ、エスカと」

 エスカは丁寧に挨拶をすると、バスルームを使いたいと申し出た。

 念入りに手を洗い、サイムスとマリエに、ゾーイの部屋に案内してもらう。

 二階の子ども部屋。可愛らしい壁紙と、棚に飾られたぬいぐるみの数々。大切にされているのがわかる。

「やあ、具合はどうだい?」

 サイ厶スの問いかけに、うつらうつらしていた女の子は、目を開けた。青い瞳。熱のせいで、目が潤んでいる。

「来てくれたの、サイムス?」

 サイムスは、ゾーイの両頬にキスをした。

「友達を連れて来たんだ。エスカだよ」

 友達か?

「こんにちはゾーイ。僕はエスカ。ちょっとお喉にさわってもいいかな?」

 ゾーイはこっくりと頷いた。サイムスが椅子を差し出してくれた。

「ボタンを少し外すよ」

 ゾーイは興味深そうに、エスカを見つめている。

 エスカはパジャマのボタンを三つほど外し、右手で慎重に喉に触れた。

「冷たくて気持ちいいっ!」

 ゾーイが小さな笑い声をあげた。エスカは、喉から少しずつ手を下ろしていった。

「ここだな」

 小さく頷くと、喉と胸の間位の位置で手を止めた。そのまま掌をその部分に押し当てた。

 次第に、ゾーイに触れているエスカの手が、赤くなってきた。マリエとサイムスは、顔を見合わせた。

 赤みは、エスカの指先から肘に向かって広がっていく。エスカの額に汗が滲む。と、エスカは今度は左手に換えて、同じ動作を続けた。

 いつの間にか、ゾーイは眠っていた。深い眠りである。左手も肘まで赤みが伸びたところで、エスカは手を放した。

「今日は、ここまでですね」

 マリエは涙ぐんでいる。

「ありがとうエスカさん! この子、昨夜からほとんど眠っていなかったんですよ。ずいぶん楽になったみたい。本当にありがとう。あなたの手、大丈夫? こんなになるまでしてくださって」

「あ、平気です。しばらくすれば治りますから」

「さすがですわ、エスカさん」

 え、どういう意味?

「お医者さまから、お薬をいただいていますよね。見せて頂けますか?」

「もちろんですわ」

 薬を見たエスカは、満面の笑みを浮かべた。

「一級品です。信頼できるお医者様ですね。ゾーイの病気を治すのは、このお薬です。これに頼ってください。

 僕は症状を和らげて、回復のお手伝いをするだけなので」

「そんなエスカさん、十二分ですわ。感謝の言葉もありません。

 あなたはまだお若いから、理解できないかも知れませんけれど、我が子を救ってくださる方は、神様と同じなのよ。

 さ、あちらでお茶を。冷たいのがよろしいわよね?」

 ポケットからハンカチを出して、額の汗を拭いているエスカに、笑いかけた。

「あ、いえ、おかまいなく」

「美味しいクッキーをいただいたの。ぜひご一緒にね、サイムス」

「うん。テラスでどうかな」

「ご案内してね。ハンナ」

 と、マリエは廊下から先ほどのメイドを呼びながら、階段を小走りに降りて行く。

 エスカは、そっとゾーイの額に唇で触れた。サイムスは、少し不思議そうな表情をしている。

「エスカのそういう優しい顔、初めて見たよ」

「はは、天使みたいだろ」

「自分で言うな」

 サイムスは軽く笑うと、エスカの赤くなった両腕に唇を当てた。母親が去るのを、待っていたふしがある。この野郎。

 陽が傾きかけたとはいえ、まだ残暑は厳しい。日陰の風通しのいいテラスでお茶を飲むのは、エスカにとって初めてだ。

 熱を引き受けたせいで、喉が渇いていたエスカは、冷たいお茶を一息に飲み干した。サイムスがおかわりを注ぐ。

「ありがとう。ああ、美味しい」

 嬉しそうにお茶を飲み、クッキーを食べるエスカを、サイムスとマリエは微笑みながら見ていた。

「合宿所を出たんですって?」

 どこから情報が入っているんだろう。

「あなたたちが、いじめたんじゃないでしょうね」

「そ、そんないじめたなんて」

 はっきり否定できないサイムスは、口ごもった。

「こんな大男がいるだけでも、圧よね」

「自分で産んどいて、なんだよ」

「あら、私が産んだ時は、もっと小さくて可愛かったわよ」

 誰に遠慮も気兼ねもいらない母と息子の会話を、エスカは嬉しそうに笑いながら楽しんだ。母親に勝てる者はいないのだ。

「明日も来てくださる?」

「はい。ゾーイが治るまでは」

「ありがとう。サイムス、送り迎えよろしくね」

 サイムスは、ご機嫌で頷いた。

 お土産にクッキーをいただいて、パルツィ邸を辞して帰路についた時は、夕闇が迫っていた。

「今日はありがとうな。ついでに夕飯食ってけよ」

「藪から棒になんだよ」

「あのな、アニタはあれからずっと、お前の食事も用意してるんだ。だから、いつでも食えるよ」

「アニタが……」

「お前が、俺たちを嫌って出て行った時のショックを、考えたことあるか? 罪悪感、半端なかったぜ」

 エスカはうなだれた。

「僕、自分のことしか考えてなかった」

「年齢考えれば、無理ないよ。初日で逃げ出しても、仕方のない状態だったしな。

 それなのに、お前はマデリンの後始末をして、アルトスに説明までしてやったろ? たいしたもんだよ。

 ただな、人の好意はちゃんと受けな。そういうのが、幸せに繋がると思うんだよ」

 エスカは頷いた。

「帰りは送らせてくれ」

 キッチンの引き戸を開け、エスカを押し込むと、サイムスは音をたてないように、素早く引き戸を閉めた。

 ワゴンに夕食を載せていたアニタが、目を丸くした。次の瞬間、エスカに抱きつく。

「わぁ、エスカだ!」

 まだ、十日位しかたっていないはずだが。エスカもアニタにしがみついた。

 アニタは、手際よくエスカの皿に食事を盛り付ける。

「食べてて。これ置いてくるから」

 ワゴンを押して廊下に出る。そそくさと戻って来て、今度はお茶を運んだ。

「ちゃんと食べてたの? まさかレトルトと冷凍食品だけじゃないよね?」

 ぎくり。

「食べながら聞いてね。いいことがあったの」

 エスカは、肉をほおばったまま顔を上げた。

「社員になったんだよ」

「へ? 今まで社員じゃなかったの?」

「パートだったの。採用された時、急だったからとりあえずパートで。そのままずるずると」

「え、マデリンは社員だったでしょ?」

「うん。あんな勤め方してたのにね。でもお金が絡むことだから、父さんも遠慮して、何も言えなかったんだよ。

 そしたら、ウリ・ジオンさんが気がついて、会長さんに話してくれたの」

 いいとこあるんだ、あのぼんぼん。

「でね、リディが、タンツ商会の保育所に入れることになってね。来週からお試し保育が始まるの。

 一週間かけて慣らすんだって。その後、午前中母さんがここの手伝いに来ることになったの」

「え、それいい考えだね」

「今まで、リディを見ててくれたから家にいたんだけど、まだ働きたいんだって。

 それにね、ここはプライベートな場所だから、気心の知れた人がいいんだって。マデリンで懲りたんだね」

 来てよかった。いい話を聞けた。

「それでね、またウリ・ジオンさんが、会長さんにしこたま怒られたんだってさ。

 あんたに掃除とか手伝わせていたって聞いて、怒鳴ったんだって。めったに怒鳴るような人じゃないんだよ。

 『あのお方に掃除をやらせるとは何事だ!』ってね」

 アニタは、エスカの顔を覗きこんだ。

「エスカ、あんた何者? 掃除みたいな作業は慣れてるのに、綺麗で上品だし。さっぱりわからなくなっちゃったんだよ」

 エスカは、返答に詰まった。引き戸がそっと開いて、サイムスが顔を出した。

「そろそろいいかな?」

 いいタイミングだ。エスカは立ち上がった。

「僕も、まだよくわからないのさ。はっきりしたら、必ず話すから」


 翌日には、ゾーイは少しだが快方に向かっていた。

「食欲が出て、今日はシチューを少し食べたの」

 マリエは嬉しそうである。エスカは丁寧に手を洗い、ゾーイの部屋に向かう。

「こんにちはゾーイ」

「エスカ」

 ゾーイの目に活気が出てきた。エスカが治療を始めると、ゾーイはじっとエスカの顔を見つめた。

「エスカって、本当にキレイね」

「ありがとう。ゾーイも可愛いよ」

 ゾーイは少し口を尖らせた。

「あたしはね、ちっちゃいから可愛いっていうのは、イヤなの。美人って、いわ……れ……」

 ゾーイは目を閉じてしまった。

「ゾーイは美人になるよ。僕が保証する」

 耳元で囁く。

 ふと背後に、マリエとサイムス以外の人の気配がした。エスカは敢えて気に留めず、治療に専念する。

 右腕が赤くなり、左腕に代える。背後の人物は覗き込んできた。年配の男性の気配。エスカは、治療を終えるまで無視した。

 ゾーイの胸から手を放し立ち上がると、その人と目が合った。

 六十才前後のがっしりした体格、白髪混じりの短髪、浅黒い肌。その人は無言でエスカを凝視した。

 マリエとサイムスは、当惑している。

「ようやくお目にかかれましたな。サイムスの父、ルシウス・パルツィと申します」

 パルツィ氏は、頭を垂れて片膝をついた。

「お手をおあげください。僕はそのような者では」

 突然のことに、エスカは狼狽えた。

「あなたさまほど高貴なお方を、わたくしは存じ上げません」

「あなた」

 マリエが助け船を出す。

「あちらでお茶でも」

「うむ」

 パルツィ氏は立ち上がり、エスカに微笑みかけた。

 どうやら昨日と同じテラスで、お茶会のようだ。えらいことになった。エスカは、胃が逆流しそうである。

「いや、お見事な治療でございましたな。さすが女神殿でお育ちになられたお方」

 どこまで知っているんだ、この騎士どのは。

「その腕は、大丈夫ですかな?」

「あ、はい。すぐに治ります」

「そういえば、昨日も帰る途中で見た時には、治ってたな」 

 サイムスの言葉に、パルツィ氏は満足そうに頷いた。

「あなたのお好きな、レーズン入りのケーキを焼きましたの」

 マリエが、ゆったりとお茶を運んできた。エスカに冷たいおしぼりを渡す。エスカは恐縮して受け取った。

「三人で話がしたい」

「はい」

 マリエは、テーブルにお茶とケーキを並べると、会釈をして退出した。さすが騎士の妻、心得ている。

「ささ、どうぞ。マリエのレーズン入りケーキは、絶品ですぞ」

 パルツィ氏は、早速旨そうにケーキを食べ始めた。エスカに気を使わせない配慮にも思える。

 三人で、しばしお茶とケーキを楽しみ、静かな時間を過ごした。

 空になったグラスを置き、パルツィ氏は話し始めた。

「お幾つになられますかな?」

「もうすぐ十六になります」

 パルツィ氏は目を閉じ、納得したように頷いた。

「わたくしは、イシネスに行った事があるのですよ。今から十六、七年前の事ですがな」

 エスカが、きりりと背筋を伸ばした。

「最近亡くなられた、国王陛下の即位二十周年の式典に、王太子が招待されまして。現在のラヴェンナ国王ですが。わたくしは、当時王太子の護衛官を務めておりました。

 シルデスのタンツ氏も、お見えでした。イシネスとシルデスは、交易が盛んでしたので、その関係でね。タンツ氏とわたくしは旧知の仲でして、旧交を温め合いまして。

 離れた所からではございましたが、イシネスの国王陛下と、王妃陛下のご尊顔を拝することができました。

 王妃陛下は、実にお美しいお方であらせられましたな」

 そう言うと、パルツィ氏はエスカの顔を、穴のあくほど見つめた。サイムスが、息を飲んだようである。

「ですから何が何でも、あなたさまに幸せになっていただかなければならないのです」

 話が飛躍していないか? エスカは目を大きく見開いて、パルツィ氏を凝視した。

「サイムス、ムリでもヤリでもエスカ様のご希望を押し通せ」

 いくら何でも、無茶苦茶である。

「はっ」

 素直に頭を下げる息子。昨日の母親に対する態度とは、大違いである。父親の威厳というものだろうか。

「ところで、わたくしには、長年仕えてくれている従卒がおりましてな。老いてなお、カクシャクとしております。グスタフ・バランと申しますが」

 バラン? 聞き覚えがある。

「あっ! アダの!」

 パルツィ氏は満足そうに頷いた。

「そうですそうです! タンツ商会でお世話になっておりますよ。実に優秀な男でしてな」

 だから、何でも筒抜けだったのか。

「アダさんには、本当にお世話になっています。帰る前に、グスタフさんにご挨拶しても?」

「ぜひお願いしますよ。グスタフは喜ぶでしょう。自慢の息子ですからな」

 パルツィ氏は、相好を崩した。

 エスカは引き上げる前に、キッチンでケーキをほおばっていたアダの父親に、挨拶をした。

 アダより少し小柄で、所謂グレーヘアの温厚そうな、痩せぎすの初老の男である。エスカを見て目を見張ったが、にこやかに挨拶を返してくれた。

「我が息子ながら、デキがよくてね。何でも頼ってやってください」

 力強い言葉である。下手に謙遜しないところに、好感がもてた。

 帰りの車中、サイムスは無言だった。沈思黙考中のようだ。

 昨日のことで、サイムスが見た目ほど、石部金吉でないことはわかったが、相当な慎重居士である。

 ウリ・ジオンなら、コトが起きる前に騒ぎ出すだろう。だがこの男は、コトが起きても、腕組みをして考えこむのではないだろうか。

 これまで、ほとんど何も考えていなかったサイムスに、疑念が湧いたようだ。

 エスカは、疑念が確信に近づいた気がする。候補のひとりが消えたのだ。

 それにしても、パルツィ氏の登場は、計画的だったのではないか。マリエが連絡した可能性が、高い。

 以前から『エスカという者が来たら、連絡するように』とでも言われていたのではないか。

 一族郎党、間者のような気がしてきた。


 翌日の午前中、エスカは入学したい大学を選び、パソコンで願書を作成し始めた。

 この大学を受験して合格するのは、難しいらしい。だがオンライン学部だけは、高校の卒業証書のみでいいのだ。だから、ぎりぎりまで募集をかけているのだろうか。

 エスカは、シルデスのまるで知らない高校を卒業したことになっている。イシネスの女神殿学院の高等部を、飛び級で出ているから、学力的には問題はない。だが、イシネスの名を出すわけにはいかない。

 文句を言いつつも、タンツ氏には恩があるのだった。

 最後の欄を見て、エスカは頭を抱えた。『保護者のサイン *職業を持つ成人であること』

 アニタしか、思い浮かばない。だが、いくら何でもアニタはまずいのではないか。

 タンツ氏関連の大学を蹴って、他の大学に行こうとしているのだ。ホロ親子が、タンツ氏の不興を買うのはまずい。

 ひとまず書類はそのままにして、エスカは外に出た。午前中にもう一つ調べたいことがある。

 パルツィ邸訪問の際に、サイムスに送り迎えしてもらうのは、効率が悪い。大学に行くのも、電車とバスの乗り継ぎになる。

 とはいっても、エスカが目指しているのはオンライン学部で、通学は週に一日のみ。たいした負担ではない。エアバイクなど、なくても済む話なのだ。

 だが、イシネスでエアバイクに乗っていたエスカは、エアバイクに乗りたくてたまらなかった。

 機動力が欲しいと思ったのは、口実のようなものである。一番安いエアバイクが、買えるだろうか?

 エスカがシルデスに来た時に、ウリ・ジオンに通帳なる物を渡された。タンツ氏が作ってくれた物だ。0がたくさんついていて、高額なのはわかった。

 十八才になるまで働けないのなら、あと二年間、これで暮らすことになる。

 お金という物を初めて手にしたエスカには、それをどうやって運用したらいいのかわからない。なるべく使わないのが、安全だろう。

 大学構内にバイク置場があるのは、ネットで確認した。車は不可だが、バイク通学は許可されている。

 ぶらぶらと街中を散策するのは、楽しい。ついでに、バイクショップを探してみよう。

 銀杏並木は、まだ青々とした葉をつけていて、心地よい日陰を作ってくれている。それでも、夏の終わりは近いのを感じる。

 ふと、エアバイクの大きな看板が目に入った。見ると、中古ショップである。

 中古ショップという物があるのか! 何も知らなかったエスカには、ありがたい発見だった。

 店頭に、修理の済んだエアバイクが、並べられている。エスカは、値札を見た。高いのか安いのか、さっぱりわからない。

 一番安いのは、どれかな? 中年の愛想のいい女性が、声をかけてきた。

「エアバイクが欲しいの?」

 エスカは頷いた。

「あんたいくつ?」

 どうやらこの店の店員らしい。

「もうすぐ十六です」

「じゃあね、十六になったら、教習所に通うんだよ。そこで二週間訓練を受けて、試験受けて、免許を取ってからもう一度おいで」

「え、免許がいるんですか?」

 女性は、呆れたようにエスカを見た。

「当ったり前でしょう! あんた、何にも知らないんだね。どこのぼんぼんだい?」

 ぼんぼんに見えるのは、ウリ・ジオンの買ってくれた服が、高価な品だからだろう。女性は店の奥に行った。

 呆れられたのかも知れない。エスカが、諦めて店から離れようとした時、女性が戻って来た。手に書類を持っている。

「これ、免許を取るまでの流れが、書いてあるから、後で読みなさいね。

 これは教習所の申し込み書。十六になったら、必要事項を記入して、保護者のサインをもらう」

 ここでも保護者かぁ。イシネスでは、十三の時からエアバイクに乗っていたのに。ひょっとして、あれは女神殿特権だったのか?

「で、提出する日に、日付を書くといいよ」

 女性は、二枚の書類をエスカに渡した。それからさほど厚くない本も渡してくれた。

「これは過去問」

「過去問って?」

 女性は笑った。

「これまでに出た、試験の問題集だよ。これ一冊やれば、大抵合格できる。ウチは教習所の指定店だから、こういうもんがあるの」

 え、この人って、ここの店長か、店長の奥さん?

「免許を取るには、実技試験と筆記試験を受けるんだよ。ほら」

 女性は店先に出て、右方向を指さした。

「ここから十五分歩くと、教習所がある。大きい看板が出ているから、すぐ分かるよ。そこで申し込んでね。

 今時、紙なんてと思うだろうけど、これヘタすると事故に繋がるからね。お役所でも、きちんと本人確認をするの。

 エアバイクは十六で取れるけど、エアカーは、十八にならないと取れないんだよ。十六はまだ子どもだからね。

 免許取ってエアバイク買う時は、大人と一緒でないと買えないからね。

 その際は、ぜひ当店にどうぞ」

 エスカは笑って頷いた。

「それからね、あんた、ずいぶんと綺麗だから気をつけな。世の中には、ウチの旦那みたいな、いい人ばかりじゃないからね」

 近くで作業をしていた若者が笑い出し、店の奥に声をかけた。

「店長~、奥さんが誉めてまっせ~」

「ウチの奥さんは正直者なんだよ~」

 奥から、元気のいい声が答えた。エスカは礼を言って、笑いながら店を出た。

 エスカは、女神殿のシェルターで、悲惨な目に遭った女性の話を数多く聞いてきた。だから、こういう楽しい話を聞くと、心の底から喜びが湧く。

 それに、知らない人に親切にしてもらった。幸せな気持ちになれるって、ちょっとしたことなんだな。来てよかった。

 保護者のことは、アニタに相談してみよう。

 来た道を戻っていると、銀杏の木に凭れてアダがいた。よう、と手を上げる。

「昼時だな」

 先に立って、バーガーショップに入った。奥の席に着くかと思いきや、ドア近くで、外の見えるテーブルに、エスカを案内する。

 エスカを待たせてレジに並び、トレイを二つ運んできた。

「ハンバーガー、食ったことあるか?」

 エスカは首を横に振った。

「まず、食べてからだな」

 トレイには、何かはさまっているパン、細く切って、油で揚げたらしきじゃがいも、オレンジジュースが載っている。

「美味しい!」

 エスカが食べるのを見て、アダも嬉しそうにハンバーガーにかぶり付く。

 食べながら、アダはちらちらと外を見ている。尾行者はいないから、これは癖のようなものだろう。

 多分、この店には裏口がないのだ。ここならいつでも逃げ出せる。

 先に食べ終えると、アダは話し始めた。

「食いながら聞いてくれ。報告が遅くなって悪かった。例の件だが、やっぱり二人の見習いさんたちは、騙されていたよ」

 エスカはジュースを飲みながら、アダを見つめた。

「二人の見習いさんを騙したのは、ヒルダっていう巫女だ。知ってるか?」

「三婆さまの次が、学院長のイェルダさん、その下のナンバー五だね」

「その学院長さんは、例の殺人未遂事件に関わったかどで、解雇・破門になったんだが」

「そうだったんですか」

 初耳である。エスカに聞く気がなかったのだから、当然なのだが。

「問題の伯爵の遠縁に当たるそうだ。だから、伯爵令嬢たちがお前をいじめていても、見て見ぬふりをしていたことが、バレた」

「尋問したのは第二巫女さまでしょう? 騙されるはずないものな」

「ああ。巫女たち全員と、学院の生徒たち全員に聞き取りを行なったそうだ。三婆さまは、怒り心頭だったってさ」

「解雇は厳しいね。地方の小さな女神殿に異動くらいかと、思っていたけど」

「人ひとりの命を中断するのに、加担したことになるからな。三婆さまには許す気はなかっただろう。

 で、ヒルダは見習いたちに『痛み止めの薬を買えない人たちに配るから、一箱自分に渡して欲しい。

 エスカには了承を得ている。廃棄する物だから、問題はないだろう』それで、見習いたちは信じたと」

「僕、聞いてない」

「うん。ところで、カナーロという商人を知っているか?」

「全然。僕、商売関係はさっぱり」

「そのカナーロは、イシネスでは結構大きい商売をしていてな、年は七十前後かな。こいつに息子がいる。

 その息子が、ヒルダに近づいた。もちろん、利用するのが目的だった。ヒルダは、商人たちと女神殿の、中継ぎのような役についていたから、難しくはなかっただろう。

 その息子がヒルダに、還俗して結婚しないかと口説いた。まだ四十代前半だから、子を産むこともできるよと。

 女の幸せを目の前にちらつかされて、ヒルダは動いたわけだ」

 エスカは唇を噛みしめた。怒りで体が震えた。

「むごいことを」

 手で目を覆った。

「お前同情してるようだけどな、あのままいったら、殿下の命が危なかったんだろう?

 ラヴェンナなら死刑モノだぞ。それを、お前が止めたんだ」

「いや、だから元々あの薬は」

「それはもう考えるなって」

「で、ヒルダさんはどうなったの?」

「やっぱり解雇。殺人未遂に加担したからな。見習いたちから、薬の効能について聞いていたから、毒性を知らなかったはずはないよ。破門にならずに済んだのは、情状酌量があったのだろう。

 見習いたちは、地方の小さな女神殿に異動。推薦状をもらったそうだ。まだ子どもだから、考慮してもらったんだな。

 これが最近のことだからな、ヒルダの後任はまだ決まっていない」

「そのカナーロという人と、シルデスの事務次官の間にまだいるでしょ?」

「イシネスの外交大臣の秘書だということは、わかった。その前に」

 アダは言いよどむ。

「公爵か王女? もしくはどちらかの神殿?」

「う。正確には、公爵のグループではないかと。会長の意見だが」

「公爵は、軍のトップだからね。軍部が絡んでいるんだ」

「何が何でも、公爵を女王の夫にしたい奴らがいるんだな。異国の王子など真っ平ご免だと。女神殿とは真逆の考えだ」

「女王の夫……そっか。国王じゃないのか」

「ここから先は、イシネスの国内問題だからな。俺たちの調べは、ここまでだよ。俺たちにできることは、アルトス殿下をお守りすることだけだ」

 エスカは頷き、ためらいつつも話し始めた。

「あのさ。これから僕が話すことは、僕の勝手な想像でしかないかも知れないから、参考程度にして欲しいんだけど」

「おう、何でも参考になるぞ」

「僕がイシネスにいる時、よく公爵にお会いしていたのは、知ってるよね? その時は気づかなかった。他に男の人を知らなかったから、違和感はなかった。

 疑いをもち始めたのは、アルトスを見たからだよ。

 初めてアルトスに会った時、妙な既視感があった。なんと言うか、言葉にするのは難しいけど、雰囲気というか、ニオイというか……いや、実際にニオったわけではないんだけど」

「エスカらしくないな。いいからはっきり言え」

 エスカは、ごくりと唾を飲みこんだ。

「あの、アルトスは、今ちょっと不健康なの知ってるよね?」

「ああ、あの馬鹿娘のせいでな」

「公爵と共通する空気なんだ」

 アダは、大きく息を吸い込んだ。

「公爵が?」

「アルトスのは一時的だけど、公爵は」

「一生?」

「多分ね。そう考えると、子どもの時は仲良しだったのに、最近は疎遠だというのは、納得できるんだよね」

「それじゃ、王女と結婚しても子宝は望めないと」

「その際は、養子をもらうんだろうね。高位の貴族には、王族の血が流れているから、何とかなるでしょ」

「亡き王妃と前公爵夫人は姉妹だよな。そのご両親は、やはり高位の貴族?」

「そう。近親結婚みたいなことを続けてきたんだよ。長い間に弊害が出るのは当然だ」

「ちょっと待て。この前の魔女号で、俺たち凍結した卵子やら精子やらを運んだんだよ。

 王女と公爵のも、その中に入っていたはずだ。ふ~ん、もう一度DNAを調べ直した方がいいな」

「公爵の副官のもね。ディル・ミューレン中尉とか言ったかな」

「副官?」

「僕が公爵と一緒にいる時、必ずあの人は自分の視界に僕たちを入れていたよ。

 副官だから、いつでも上司の元に駆けつけられるように、そうしているんだろうと思っていたけど……

 今にしてみれば、執着が強過ぎるような気がしてきた。あ、僕にじゃないよ。

 何より、公爵がそうした野心をもつようなお人には見えなかったんだ。だから身近にたきつける人がいるのかも、とか思って。でも、これってイシネスの国内問題でしょ」

「いや、シルデスで作成した受精卵が、イシネスの陰謀に関わっていたとなると、こちらにも責任が発生する可能性があるからな」

 アダは腕組みをした。

「副官な、調べる。参考になったよ、ありがとう。やはり内部にいた者は役にたつな」

 アダはにやりと笑った。

 パルツィ邸に送ってくれる時、サイムスは、ちらりと笑顔を見せたものの、やはり寡黙だった。昨日の帰りと同様である。

 元々、こういう男なのだろう。初日に饒舌だったのは、奇跡に近い。自身の家族の話をしたかったのではなく、アルトスの好感度を上げたかっただけだ。

 エスカは、サイムスが思うほど、アルトスを嫌っているわけではない。怖れているのだ。あの馬鹿力を。

 ソファーに腰を下ろした姿勢で、あれだけの衝撃。アルトスよりさらに逞しく、脳ミソ以外は全て筋肉のサイムスに本気で殴られたら、一発でジ・エンドだろう。 

 ウリ・ジオンは、二人よりほっそりして見えるが、鍛え上げた筋肉の持ち主である。低栄養で細いのではない。着痩せする体質のせいもある。ただこいつなら二、三発は保つかも。

 エスカは、勝手に三人の腕力測定をし、接近戦は避けることに決めた。

 今回はゾーイの治療があるから、やむを得ず近づいたが、これでおしまい。

 未練がましく、リュックにタブレットを入れてはきたが、大学の保証人の件は諦めている。

 エスカの周囲に、タンツ会長に関わっていない人はいないのだから、それこそ、これでジ・エンドである。

 ここシルデスにきてからは、何の心配もなく、遠慮もなく、深呼吸のできる暮らしをしている。これ以上は欲というものだ。

 せめてアニタに頼んで、教習所の保証人になってもらう。それで十分だ。

 ゾーイは、予想通り微熱が残っている程度に回復していた。 

「あのね、ご飯を普通に食べられるようになったの」

 嬉しそうにエスカに報告する。

「よかった。明日は全快だね。走れるかも」

 マリエに振り向く。

「少し芯のところに残っていますので、確実に消します」

 マリエは頷いて、エスカの手元をじっと見る。少し手首の辺りが赤みを帯びてきたのみで、エスカは汗もかかない。

 背後で、サイムスがなにやらごそごそやっているようだったが、エスカは気に止めなかった。

「あの、明日もいらしてくださいな。ゾーイの走る姿を見てほしいの」

「はい。僕も見たいです」

 お茶を飲みながら、マリエは少し口ごもった。

「昨日のこと、ごめんなさいね。びっくりしたでしょう? 私が主人を呼んだのよ。

 以前から『エスカという人が来たら、すぐに連絡するように』って言われていたの。ご迷惑だったでしょう?」

「いえ、あの」

 この人に間者は無理だな。母親の真っ直ぐな気質を、サイムスは受け継いだ。

「ずいぶん長い間、主人は、重いものを抱えているような日々を過ごしていたの。

 でも、昨日あなたにお会いしてから、何か吹っ切れたようでね。晴れ晴れした様子で、帰って行きました。ありがとうございます」

 マリエは、深々と頭を下げた。苦しむ夫を見ながら、何も言えなかった妻も、つらかったことだろう。

 合宿所の屋上でエスカを車から下ろしたサイムスは、やたらにご機嫌だった。母親の安堵した様子に、ほっとしたのだろう。その時はそう思った。

 アニタがいつも通り仕事を終え、帰り支度をする前に、エスカは教習所の保証人の件を話した。

 アニタは二つ返事で承諾すると、サインをしてくれた。

「大丈夫? ちょっと心配。それにエアバイク買えるの?」

「中古の一番安いのなら、なんとか」

「一番安いのはダメだよ、エスカ。下から二番目のにすれば?」

「え、どう違うの?」

「わかんないけど、うちはいつもそうしてる」

 ふたりで笑っていると、いきなり引き戸が開いて、ウリ・ジオンが顔を出した。

「あ、やっぱり来てたんだ。このところアニタの機嫌がいいから、変だと思ってたんだ」

 エスカは、唇に指を当てた。

「聞いてくれよ。アニタときた日には、お前が出て行ってから、ずっと俺たちにツンツンしててさ。まるで、俺たちがお前をいじめたみたいじゃないか」

 え、違うの? エスカは立ち上がった。

「ご馳走さま、アニタ」

 エスカは、アニタにサインしてもらった書類をリュックに入れると、キッチンを出た。サイムスは、まだリビングから出て来ない。

 今日は電車で帰ろう。エアカーの置いてあるバルコニーではなく、エレベーターに向かう。

 驚いたことに、エレベーターホールに、アルトスがいた。振り向くと、サイムスが、申し訳なさそうに頭をかいている。

「お前たち、ふたりで何こそこそやってんだ?」

「ゾーイの治療に行ってたんだよ。明日も行くけど、一緒に行く?」

 アルトスは、目に見えて狼狽した。

「ごめん。もう言わない」

 その狼狽ぶりが、尋常ではなかった。家族なのに。

「じゃ送るよ」

 サイムスも、突っ込む気はないようだ。だが、エレベーターホールを出てバルコニーに向かうと、アルトスもついて来るではないか。

 ウリ・ジオンが、キッチンから出て来た。結局、四人でエアカーに向かうことになった。

「何なんだよ」

「お前の住まいを確かめるだけさ」

 アルトスは立ち直っている。

「俺だけ知らないのは、不公平じゃないか」

 知らなくていいんだよ。男三人に囲まれて、護送される囚人の気分である。パー助三人組の機嫌がよかったのが、救いだった。

 三人は、建物の外で手を振って別れてくれた。意外に紳士的ではないか。

 部屋に帰ってから、リュックから書類を取り出す。よしっ、これでいい。明日の午前中に、申し込みに行こう。ちょうど誕生日である。

 誰にも言わなかったのは、イシネスで誕生祝いをする習慣がなかったからだ。

 シルデスでは、サプライズパーティーなどと言って、大騒ぎをするらしいのは知っている。イシネス流でいきたかった。

 リュックからタブレットを取り出し、机に置いた。青い光が着信を知らせている。

 心当たりはないが、一応開いてみた。願書を出そうとしていた大学からである。

『入学願書確かに受け付けました。詳細は以下の通りになります。ご一読の上、来週の開講に備えてください云々』

 なにこれ。よく見ると、願書は送付済みになっている。送った覚えはない。どうなっているんだ?

 送付済みの願書を見る。保護者欄にサイムス・パルツィのサインがある。続柄には『友人』、職業欄には『公務員』とある。

 はっと思い当たった。エスカはゾーイの治療をする際に、リュックをサイムスに持っていてもらう。

 今日リュックを渡した時、サイムスが何か反応した気がした。タブレットが入っている分、重かったはずだ。

 エスカが治療をしている間、背後でがさがさ音がしていたのは、これだったのか。

 それにしても、他人のリュックを無断で開け、他人の通信に勝手に書きこんで、送信までするとは! 犯罪に近いのではないか。

 ありがたいと思う前に、腹が立った。イシネスでいうイノシシ年生まれのエスカは、リュックにタブレットを突っ込むと、外に飛び出した。

 駅まで走り、足踏みをしたい心境で、電車を待つ。どちらの住まいも駅から近いので、助かった。

 エレベーターで上がり、サイムスの部屋のドアをノックした。時刻は夜の八時。少し遅いかも知れないが、頭に血がのぼっているエスカに、それを考えるゆとりはない。

 ドアが開くと同時に、室内に駆け込んだエスカは固まった。パー助三人組がいたのである。

「な、来るって言ったろ?」

 得意そうなサイムスと、嬉しそうなアルトスとウリ・ジオン。あっさり引き上げたのは、このせいだったのか。

「まあまあ、座って」

 エスカは憤懣やるかたなかったが、多勢に無勢、諦めてソファーに腰を下ろした。

 サイムスの部屋は、エスカの部屋より少し広い気がする。飾り気はないが、整頓されていて、心地よい。

「エスカちゃんよ。何でも俺に言いなさいって、親父に言われただろ?」

 サイムスは、良心の呵責をまるで感じていないようだ。

「誰も頼んでないっ! やり過ぎだよ!」

「お前、何か思い詰めてたじゃないか。お兄さまにバレないと思ったか?」

「タンツ会長の大学、蹴ったんだってな」

 アルトスまで知ってるのか。

「蹴ったわけじゃないけど、最終まで行きつけなかったんだ」

「で、タンツ関連の人に、保証人頼みづらかった?」

 エスカは頷いた。アルトスは笑った。

「最初から、サイムスに言えばよかったんだよ」

「え、だってサイムスは学生でしょ?」

「シルデスではな。ラヴェンナでは、国家公務員だよ。俺、二重国籍あるの。アルトスは留学生だけどな」

 エスカは、今いちのみ込めない。そこへ、ウリ・ジオンがお茶を運んできた。

「俺は、一応騎士なんだよ。で、ラヴェンナ王室に雇われて、王子殿下の護衛官をしている。安月給ではあるがな」

「収入があるなら、何で居候やってんだよ」

「うっ」

 サイムスは詰まった。ウリ・ジオンが吹き出した。

「エスカ、通り名を『リベンジのエスカ』に変えるか?」

「変えるって、他のがあるのか?」

 とアルトス。

「『火だるまのエスカ』」

 エスカが澄まして言う。サイムスとアルトスは、ぎょっとしてウリ・ジオンを見た。

「だから、こいつを怒らせるのはやめろって」

「火だるまになるのは、エスカではないってことか?」

「怖いじゃないか、エスカちゃん」

 からかいモードのお馬鹿トリオから、いかにして逃げ出そうか。そも、こいつらの目的はなんだ?

 だが、サインしてもらえたのは、ありがたかった。妙なことをする前に、説明してもらいたかったけど。

「ありがとう。助かりました」

 ここは下手に出て、早いとこ逃げよう。見ると、なぜかドアの前にウリ・ジオンがさりげなくいる。

 立ち上がったエスカは、行き場を失って立ち往生状態である。振り向けば、アルトスとサイムスの巨体。

 アルトスとサイムスは、悠然とエスカとの距離を縮めて来た。三方から厚い胸の壁に囲まれて、圧死しそうである。

「戻ってこいよ」

 いたずらっぽい目でウリ・ジオンが言う。目的はこれか? 

「そんなに嫌だったか?」

 アルトスが、耳元で甘く囁く。普通の女性なら、これだけでノックアウトのところである。だが、まだ成熟していないエスカには、くすぐったいだけだった。

 無言のサイムスの方が怖い。

「何で、今になってそんなこと言うのさ? ゴーサイン出したのは、タンツ会長だよ」

「まあ、その、お前ひとりで寂しくないか?」

「僕は、ひとりが好きなんだよ。第一、僕たち上手くいってなかったじゃないか」

「そんな事ないと思うけどな」

 張本人が言うな。エスカは、ふと思いついた。

「パルツィさんの指示?」

 サイムスが、微妙に反応した。

「指令系統は、一貫してもらわないと困るよ」

「お前には、人とのふれあいが必要だと。俺もそう思うよ」

「それでな、パルツィ氏がエスカに会ったと聞いて、親父が羨ましがってるんだ」

 呆れて言葉もない。

「自分が売ろうとした相手に、会いたいだって? どのツラ下げて、僕に会うつもりなのさ。タンツ会長のツラの皮は、千枚張りだな」

 ウリ・ジオンは爆笑した。この親不孝息子が。

「あのね、僕は一生かけても返せないほどの恩を、タンツさんから受けているよ。でも実験台になって、自分を潰す気はないから」

「実験台って、何の事だ?」

 アルトスとサイムスが、身を乗り出した。聞いていないのか。まあ、言いづらいだろうな。

「ウリ・ジオンに聞いてよ」

 逃走準備。ドア前にいるウリ・ジオンが邪魔だ。このところ、親父さんに怒られてばかりのようだから、ひとりだけ攻撃するのは気の毒だな。

 この際、公平にいくか。エスカは右手の人差し指を差し出しながら、くるりと一回転した。

 途端に、三人から悲鳴が上がった。よろめいたウリ・ジオンを突き飛ばし、ドアを開けて室外に出る。

 ひたすら走ってエレベーターで降り、一階に着くと、何事もなかったかのように、エントランスから外に出た。ご丁寧に、守衛に会釈までした。

 結局、今夜のこの騒動はなんだったんだ。ウリ・ジオンが、エスカの事を話すきっかけができただけか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る