第5話 パルツィ邸
翌日、エスカはこれから出願できそうな大学と、もぐりの外科医を探すことに精を出した。ウリ・ジオンに貰ったタブレットが、大活躍である。
大学は候補が見つかったものの、もぐりの外科医探しは、難航しそうである
「もぐりの外科医一覧表なんてないものなぁ。足で探すしかないか」
と言いつつも、一応絞ってみる。大病院で、さすがにもぐりはないだろう。
個人経営の小さなクリニックでは、設備がないかも知れない。
となると、ある程度小規模の病院か? その辺を中心に調べてみるか。
昼を挟んで作業をしたエスカは、さすがに疲れて、机から離れた。買い出しにでも行って、気分転換を図ろう。
外に出て、マーケットに向かったエスカは、市が開いているのに気づいた。
そう言えば、五のつく日は、市が開くと聞いていた。
人々が笑いさざめきながら、テントの下を覗いている。野菜や果物だけでなく、衣類や陶器、かわいらしい小物類まで売っている。
日常の街並みですら珍しいエスカにとっては、知らないことばかりで楽しい。
おのぼりさんよろしく、エスカは木陰に設置されたテントを覗きこんだ。奮発してリンゴでも買おうかな。ホロ直伝のコンポートを作ってみようか。
振り向こうとした時に、背後の人物にぶつかった。まるで壁のように厚い胸が立ちはだかっている。
「ごめんなさ」
言いかけて、エスカは相手の顔を見上げた。瞬時に逃げの体勢に入ったが、時既に遅し。
襟首を掴まえられて、足が宙に浮いた。
「離してよっ!」
「離せば逃げるだろ」
サイムスは愉快そうに笑っている。
「逃げないから離して!」
母猫に首根っこを咥えられた子猫のようではないか。周囲の人のクスクス笑いが聞こえる。
サイムスは、すとんとエスカを地面に下ろした。
「なんで、俺見て逃げるんだよ?」
エスカは襟を直すと、サイムスを睨みつけた。聞かなきゃわからないか、この野郎。
「俺たちがイヤだから、挨拶もしないで逃げ出したのか?」
そうだと言うわけにもいかず、エスカは話題を変えた。
「なんで、こんなとこにいるの?」
「実家に帰る途中なんだよ。ここ通り道。一番下の妹が、熱出したっていうからさ、フルーツでも持って行こうかと」
どうりで、手にオレンジの入った袋を持っている。
「風邪でも引いたの?」
「気管支の弱い子でさ、時々熱を出すんだ」
エスカは少し考えた。
「僕も行っていいかな?」
「おう! 来い来い! 向こうに車を停めてある」
「警護はいいの?」
「SPに任せた」
さっきの質問は、忘れてくれたようだ。ふたりはエアカーに乗り込んだ。エスカは助手席に座る。
「サイムスって、何人兄弟なの?」
「一応七人だよ。ラヴェンナでは、少なくはないけど、多いというほどでもない」
エスカは目を丸くした。
「男、女、男、女、男、女、女。俺は五番目。熱が出たのは末っ子のゾーイだよ」
「何才?」
「十才。忘れた頃生まれた」
サイムスは可笑しそうに笑った。
「それに、一時的にアルトスがいた」
「え」
「事情があって、お母さんがアルトスを育てられなくなってね。俺を産んだばかりで、母乳がホルスタイン並みに出る、俺のお袋が育てることになったんだ。
俺の方が一ヶ月早く生まれたから、俺がにーちゃんだよ。乳兄弟ってわけさ。仲がよかった。
ウチの者はみんな、アルトスも家族だと思っているんだ。だから本当は八人兄弟さ」
それでエスカは、腑に落ちた。サイムスのアルトスに対する態度は、どう見ても、主人と護衛官ではなかった。
「アルトスは元気がよくて、明るくてお茶目で、兄たちや姉たちに可愛がられていた」
意外である。今の姿からは想像できない。
「十二才位まで家にいたんだが、突然、城から迎えが来て、強引に連れていかれた。
親父がいくら頼みこんでも、帰してもらえなかったんだ。お袋は、半狂乱状態だったな。
あんまりしつこく言うもんだから、シルデスの駐屯地に飛ばされてね。国王陛下の護衛官だったんだけどなぁ。
ふたりの兄貴は、当時ラヴェンナの士官学校にいたから、そのまま残った。あとは全員、シルデスに越したんだ。
これが大正解。ラヴェンナの砂漠気候に比べて、四季はあるし、気候は温暖だ。
永住権をとって、そのままシルデスで暮らしているのさ。教育も充実しているしね。
親父は、今は新兵の訓練に当たっているよ。性に合っているんだとさ。家から結構近いんで、二週間に一度は帰って来てるそうだ。
再びアルトスに会えたのは、ラヴェンナの士官学校に入った時だ。面変わりしていたよ。表情が、まるでなくなっていた。
いくら誘っても、首を横に振るばかりで、決して家に来ようとはしなかった。
王宮で、どんな暮らしをしていたのか知らないが、幸せでなかったことは確かだな。
だからマデリンとのことも、俺は反対しなかった。少しでも、アルトスの感情が動けばいいと思っていた。
お前は嫌がるだろうけど、確かに効果はあったと思うよ。笑顔が出てきたもんな」
エスカは頷いた
「だからと言ってはなんだけど、あんまりアルトスを嫌わないでくれよ」
「う」
エスカは、口の中でもごもごと何ごとか呟いた。それにしても、サイムスは無口ではなかったんだな。
サイムスの実家は、閑静な住宅街にあった。周囲の家々より、かなり広い敷地。手入れの行き届いた庭が、残暑の陽を浴びて、活気のある緑を見せている。
インターホンを押し、暫く待つと中年のメイドが出てきた。
「サイムス坊っちゃん! お待ちしてましたよ!」
メイドが嬉しそうに奥に声をかけた。
「奥様、お見えです!」
奥の扉が開いて、上品な初老の女性が姿を見せた。ほっそりとして清楚な姿。不自然な若作りはせず、年齢相応のシンプルな姿が、美しい。
ラヴェンナ人にしては色白で、濃いめの金髪に、サイムスによく似た青い目。とても、子どもを七人産んだホルスタインには見えない。
サイムスは身を屈めて、母親の頬にキスをした。
「エスカだよ。ゾーイを診てくれるって。治療の知識があるんだ。エスカ、お袋のマリエだよ」
サイムスは適当な紹介をした。
「エスカ……さん」
マリエは、なぜか戸惑った様子を見せた。
「どうぞ、エスカと」
エスカは丁寧に挨拶をすると、バスルームを使いたいと申し出た。
念入りに手を洗い、サイムスとマリエに、ゾーイの部屋に案内してもらう。
二階の子ども部屋。可愛らしい壁紙と、棚に飾られたぬいぐるみの数々。大切にされているのがわかる。
「やあ、具合はどうだい?」
サイ厶スの問いかけに、うつらうつらしていた女の子は、目を開けた。青い瞳。熱のせいで、目が潤んでいる。
「来てくれたの、サイムス?」
サイムスは、ゾーイの両頬にキスをした。
「友達を連れて来たんだ。エスカだよ」
友達か?
「こんにちはゾーイ。僕はエスカ。ちょっとお喉にさわってもいいかな?」
ゾーイはこっくりと頷いた。サイムスが椅子を差し出してくれた。
「ボタンを少し外すよ」
ゾーイは興味深そうに、エスカを見つめている。
エスカはパジャマのボタンを三つほど外し、右手で慎重に喉に触れた。
「冷たくて気持ちいいっ!」
ゾーイが小さな笑い声をあげた。エスカは、喉から少しずつ手を下ろしていった。
「ここだな」
小さく頷くと、喉と胸の間位の位置で手を止めた。そのまま掌をその部分に押し当てた。
次第に、ゾーイに触れているエスカの手が、赤くなってきた。マリエとサイムスは、顔を見合わせた。
赤みは、エスカの指先から肘に向かって広がっていく。エスカの額に汗が滲む。と、エスカは今度は左手に換えて、同じ動作を続けた。
いつの間にか、ゾーイは眠っていた。深い眠りである。左手も肘まで赤みが伸びたところで、エスカは手を放した。
「今日は、ここまでですね」
マリエは涙ぐんでいる。
「ありがとうエスカさん! この子、昨夜からほとんど眠っていなかったんですよ。ずいぶん楽になったみたい。本当にありがとう。あなたの手、大丈夫? こんなになるまでしてくださって」
「あ、平気です。しばらくすれば治りますから」
「さすがですわ、エスカさん」
え、どういう意味?
「お医者さまから、お薬をいただいていますよね。見せて頂けますか?」
「もちろんですわ」
薬を見たエスカは、満面の笑みを浮かべた。
「一級品です。信頼できるお医者様ですね。ゾーイの病気を治すのは、このお薬です。これに頼ってください。
僕は症状を和らげて、回復のお手伝いをするだけなので」
「そんなエスカさん、十二分ですわ。感謝の言葉もありません。
あなたはまだお若いから、理解できないかも知れませんけれど、我が子を救ってくださる方は、神様と同じなのよ。
さ、あちらでお茶を。冷たいのがよろしいわよね?」
ポケットからハンカチを出して、額の汗を拭いているエスカに、笑いかけた。
「あ、いえ、おかまいなく」
「美味しいクッキーをいただいたの。ぜひご一緒にね、サイムス」
「うん。テラスでどうかな」
「ご案内してね。ハンナ」
と、マリエは廊下から先ほどのメイドを呼びながら、階段を小走りに降りて行く。
エスカは、そっとゾーイの額に唇で触れた。サイムスは、少し不思議そうな表情をしている。
「エスカのそういう優しい顔、初めて見たよ」
「はは、天使みたいだろ」
「自分で言うな」
サイムスは軽く笑うと、エスカの赤くなった両腕に唇を当てた。母親が去るのを、待っていたふしがある。この野郎。
陽が傾きかけたとはいえ、まだ残暑は厳しい。日陰の風通しのいいテラスでお茶を飲むのは、エスカにとって初めてだ。
熱を引き受けたせいで、喉が渇いていたエスカは、冷たいお茶を一息に飲み干した。サイムスがおかわりを注ぐ。
「ありがとう。ああ、美味しい」
嬉しそうにお茶を飲み、クッキーを食べるエスカを、サイムスとマリエは微笑みながら見ていた。
「合宿所を出たんですって?」
どこから情報が入っているんだろう。
「あなたたちが、いじめたんじゃないでしょうね」
「そ、そんないじめたなんて」
はっきり否定できないサイムスは、口ごもった。
「こんな大男がいるだけでも、圧よね」
「自分で産んどいて、なんだよ」
「あら、私が産んだ時は、もっと小さくて可愛かったわよ」
誰に遠慮も気兼ねもいらない母と息子の会話を、エスカは嬉しそうに笑いながら楽しんだ。母親に勝てる者はいないのだ。
「明日も来てくださる?」
「はい。ゾーイが治るまでは」
「ありがとう。サイムス、送り迎えよろしくね」
サイムスは、ご機嫌で頷いた。
お土産にクッキーをいただいて、パルツィ邸を辞して帰路についた時は、夕闇が迫っていた。
「今日はありがとうな。ついでに夕飯食ってけよ」
「藪から棒になんだよ」
「あのな、アニタはあれからずっと、お前の食事も用意してるんだ。だから、いつでも食えるよ」
「アニタが……」
「お前が、俺たちを嫌って出て行った時のショックを、考えたことあるか? 罪悪感、半端なかったぜ」
エスカはうなだれた。
「僕、自分のことしか考えてなかった」
「年齢考えれば、無理ないよ。初日で逃げ出しても、仕方のない状態だったしな。
それなのに、お前はマデリンの後始末をして、アルトスに説明までしてやったろ? たいしたもんだよ。
ただな、人の好意はちゃんと受けな。そういうのが、幸せに繋がると思うんだよ」
エスカは頷いた。
「帰りは送らせてくれ」
キッチンの引き戸を開け、エスカを押し込むと、サイムスは音をたてないように、素早く引き戸を閉めた。
ワゴンに夕食を載せていたアニタが、目を丸くした。次の瞬間、エスカに抱きつく。
「わぁ、エスカだ!」
まだ、十日位しかたっていないはずだが。エスカもアニタにしがみついた。
アニタは、手際よくエスカの皿に食事を盛り付ける。
「食べてて。これ置いてくるから」
ワゴンを押して廊下に出る。そそくさと戻って来て、今度はお茶を運んだ。
「ちゃんと食べてたの? まさかレトルトと冷凍食品だけじゃないよね?」
ぎくり。
「食べながら聞いてね。いいことがあったの」
エスカは、肉をほおばったまま顔を上げた。
「社員になったんだよ」
「へ? 今まで社員じゃなかったの?」
「パートだったの。採用された時、急だったからとりあえずパートで。そのままずるずると」
「え、マデリンは社員だったでしょ?」
「うん。あんな勤め方してたのにね。でもお金が絡むことだから、父さんも遠慮して、何も言えなかったんだよ。
そしたら、ウリ・ジオンさんが気がついて、会長さんに話してくれたの」
いいとこあるんだ、あのぼんぼん。
「でね、リディが、タンツ商会の保育所に入れることになってね。来週からお試し保育が始まるの。
一週間かけて慣らすんだって。その後、午前中母さんがここの手伝いに来ることになったの」
「え、それいい考えだね」
「今まで、リディを見ててくれたから家にいたんだけど、まだ働きたいんだって。
それにね、ここはプライベートな場所だから、気心の知れた人がいいんだって。マデリンで懲りたんだね」
来てよかった。いい話を聞けた。
「それでね、またウリ・ジオンさんが、会長さんにしこたま怒られたんだってさ。
あんたに掃除とか手伝わせていたって聞いて、怒鳴ったんだって。めったに怒鳴るような人じゃないんだよ。
『あのお方に掃除をやらせるとは何事だ!』ってね」
アニタは、エスカの顔を覗きこんだ。
「エスカ、あんた何者? 掃除みたいな作業は慣れてるのに、綺麗で上品だし。さっぱりわからなくなっちゃったんだよ」
エスカは、返答に詰まった。引き戸がそっと開いて、サイムスが顔を出した。
「そろそろいいかな?」
いいタイミングだ。エスカは立ち上がった。
「僕も、まだよくわからないのさ。はっきりしたら、必ず話すから」
翌日には、ゾーイは少しだが快方に向かっていた。
「食欲が出て、今日はシチューを少し食べたの」
マリエは嬉しそうである。エスカは丁寧に手を洗い、ゾーイの部屋に向かう。
「こんにちはゾーイ」
「エスカ」
ゾーイの目に活気が出てきた。エスカが治療を始めると、ゾーイはじっとエスカの顔を見つめた。
「エスカって、本当にキレイね」
「ありがとう。ゾーイも可愛いよ」
ゾーイは少し口を尖らせた。
「あたしはね、ちっちゃいから可愛いっていうのは、イヤなの。美人って、いわ……れ……」
ゾーイは目を閉じてしまった。
「ゾーイは美人になるよ。僕が保証する」
耳元で囁く。
ふと背後に、マリエとサイムス以外の人の気配がした。エスカは敢えて気に留めず、治療に専念する。
右腕が赤くなり、左腕に代える。背後の人物は覗き込んできた。年配の男性の気配。エスカは、治療を終えるまで無視した。
ゾーイの胸から手を放し立ち上がると、その人と目が合った。
六十才前後のがっしりした体格、白髪混じりの短髪、浅黒い肌。その人は無言でエスカを凝視した。
マリエとサイムスは、当惑している。
「ようやくお目にかかれましたな。サイムスの父、ルシウス・パルツィと申します」
パルツィ氏は、頭を垂れて片膝をついた。
「お手をおあげください。僕はそのような者では」
突然のことに、エスカは狼狽えた。
「あなたさまほど高貴なお方を、わたくしは存じ上げません」
「あなた」
マリエが助け船を出す。
「あちらでお茶でも」
「うむ」
パルツィ氏は立ち上がり、エスカに微笑みかけた。
どうやら昨日と同じテラスで、お茶会のようだ。えらいことになった。エスカは、胃が逆流しそうである。
「いや、お見事な治療でございましたな。さすが女神殿でお育ちになられたお方」
どこまで知っているんだ、この騎士どのは。
「その腕は、大丈夫ですかな?」
「あ、はい。すぐに治ります」
「そういえば、昨日も帰る途中で見た時には、治ってたな」
サイムスの言葉に、パルツィ氏は満足そうに頷いた。
「あなたのお好きな、レーズン入りのケーキを焼きましたの」
マリエが、ゆったりとお茶を運んできた。エスカに冷たいおしぼりを渡す。エスカは恐縮して受け取った。
「三人で話がしたい」
「はい」
マリエは、テーブルにお茶とケーキを並べると、会釈をして退出した。さすが騎士の妻、心得ている。
「ささ、どうぞ。マリエのレーズン入りケーキは、絶品ですぞ」
パルツィ氏は、早速旨そうにケーキを食べ始めた。エスカに気を使わせない配慮にも思える。
三人で、しばしお茶とケーキを楽しみ、静かな時間を過ごした。
空になったグラスを置き、パルツィ氏は話し始めた。
「お幾つになられますかな?」
「もうすぐ十六になります」
パルツィ氏は目を閉じ、納得したように頷いた。
「わたくしは、イシネスに行った事があるのですよ。今から十六、七年前の事ですがな」
エスカが、きりりと背筋を伸ばした。
「最近亡くなられた、国王陛下の即位二十周年の式典に、王太子が招待されまして。現在のラヴェンナ国王ですが。わたくしは、当時王太子の護衛官を務めておりました。
シルデスのタンツ氏も、お見えでした。イシネスとシルデスは、交易が盛んでしたので、その関係でね。タンツ氏とわたくしは旧知の仲でして、旧交を温め合いまして。
離れた所からではございましたが、イシネスの国王陛下と、王妃陛下のご尊顔を拝することができました。
王妃陛下は、実にお美しいお方であらせられましたな」
そう言うと、パルツィ氏はエスカの顔を、穴のあくほど見つめた。サイムスが、息を飲んだようである。
「ですから何が何でも、あなたさまに幸せになっていただかなければならないのです」
話が飛躍していないか? エスカは目を大きく見開いて、パルツィ氏を凝視した。
「サイムス、ムリでもヤリでもエスカ様のご希望を押し通せ」
いくら何でも、無茶苦茶である。
「はっ」
素直に頭を下げる息子。昨日の母親に対する態度とは、大違いである。父親の威厳というものだろうか。
「ところで、わたくしには、長年仕えてくれている従卒がおりましてな。老いてなお、カクシャクとしております。グスタフ・バランと申しますが」
バラン? 聞き覚えがある。
「あっ! アダの!」
パルツィ氏は満足そうに頷いた。
「そうですそうです! タンツ商会でお世話になっておりますよ。実に優秀な男でしてな」
だから、何でも筒抜けだったのか。
「アダさんには、本当にお世話になっています。帰る前に、グスタフさんにご挨拶しても?」
「ぜひお願いしますよ。グスタフは喜ぶでしょう。自慢の息子ですからな」
パルツィ氏は、相好を崩した。
エスカは引き上げる前に、キッチンでケーキをほおばっていたアダの父親に、挨拶をした。
アダより少し小柄で、所謂グレーヘアの温厚そうな、痩せぎすの初老の男である。エスカを見て目を見張ったが、にこやかに挨拶を返してくれた。
「我が息子ながら、デキがよくてね。何でも頼ってやってください」
力強い言葉である。下手に謙遜しないところに、好感がもてた。
帰りの車中、サイムスは無言だった。沈思黙考中のようだ。
昨日のことで、サイムスが見た目ほど、石部金吉でないことはわかったが、相当な慎重居士である。
ウリ・ジオンなら、コトが起きる前に騒ぎ出すだろう。だがこの男は、コトが起きても、腕組みをして考えこむのではないだろうか。
これまで、ほとんど何も考えていなかったサイムスに、疑念が湧いたようだ。
エスカは、疑念が確信に近づいた気がする。候補のひとりが消えたのだ。
それにしても、パルツィ氏の登場は、計画的だったのではないか。マリエが連絡した可能性が、高い。
以前から『エスカという者が来たら、連絡するように』とでも言われていたのではないか。
一族郎党、間者のような気がしてきた。
翌日の午前中、エスカは入学したい大学を選び、パソコンで願書を作成し始めた。
この大学を受験して合格するのは、難しいらしい。だがオンライン学部だけは、高校の卒業証書のみでいいのだ。だから、ぎりぎりまで募集をかけているのだろうか。
エスカは、シルデスのまるで知らない高校を卒業したことになっている。イシネスの女神殿学院の高等部を、飛び級で出ているから、学力的には問題はない。だが、イシネスの名を出すわけにはいかない。
文句を言いつつも、タンツ氏には恩があるのだった。
最後の欄を見て、エスカは頭を抱えた。『保護者のサイン *職業を持つ成人であること』
アニタしか、思い浮かばない。だが、いくら何でもアニタはまずいのではないか。
タンツ氏関連の大学を蹴って、他の大学に行こうとしているのだ。ホロ親子が、タンツ氏の不興を買うのはまずい。
ひとまず書類はそのままにして、エスカは外に出た。午前中にもう一つ調べたいことがある。
パルツィ邸訪問の際に、サイムスに送り迎えしてもらうのは、効率が悪い。大学に行くのも、電車とバスの乗り継ぎになる。
とはいっても、エスカが目指しているのはオンライン学部で、通学は週に一日のみ。たいした負担ではない。エアバイクなど、なくても済む話なのだ。
だが、イシネスでエアバイクに乗っていたエスカは、エアバイクに乗りたくてたまらなかった。
機動力が欲しいと思ったのは、口実のようなものである。一番安いエアバイクが、買えるだろうか?
エスカがシルデスに来た時に、ウリ・ジオンに通帳なる物を渡された。タンツ氏が作ってくれた物だ。0がたくさんついていて、高額なのはわかった。
十八才になるまで働けないのなら、あと二年間、これで暮らすことになる。
お金という物を初めて手にしたエスカには、それをどうやって運用したらいいのかわからない。なるべく使わないのが、安全だろう。
大学構内にバイク置場があるのは、ネットで確認した。車は不可だが、バイク通学は許可されている。
ぶらぶらと街中を散策するのは、楽しい。ついでに、バイクショップを探してみよう。
銀杏並木は、まだ青々とした葉をつけていて、心地よい日陰を作ってくれている。それでも、夏の終わりは近いのを感じる。
ふと、エアバイクの大きな看板が目に入った。見ると、中古ショップである。
中古ショップという物があるのか! 何も知らなかったエスカには、ありがたい発見だった。
店頭に、修理の済んだエアバイクが、並べられている。エスカは、値札を見た。高いのか安いのか、さっぱりわからない。
一番安いのは、どれかな? 中年の愛想のいい女性が、声をかけてきた。
「エアバイクが欲しいの?」
エスカは頷いた。
「あんたいくつ?」
どうやらこの店の店員らしい。
「もうすぐ十六です」
「じゃあね、十六になったら、教習所に通うんだよ。そこで二週間訓練を受けて、試験受けて、免許を取ってからもう一度おいで」
「え、免許がいるんですか?」
女性は、呆れたようにエスカを見た。
「当ったり前でしょう! あんた、何にも知らないんだね。どこのぼんぼんだい?」
ぼんぼんに見えるのは、ウリ・ジオンの買ってくれた服が、高価な品だからだろう。女性は店の奥に行った。
呆れられたのかも知れない。エスカが、諦めて店から離れようとした時、女性が戻って来た。手に書類を持っている。
「これ、免許を取るまでの流れが、書いてあるから、後で読みなさいね。
これは教習所の申し込み書。十六になったら、必要事項を記入して、保護者のサインをもらう」
ここでも保護者かぁ。イシネスでは、十三の時からエアバイクに乗っていたのに。ひょっとして、あれは女神殿特権だったのか?
「で、提出する日に、日付を書くといいよ」
女性は、二枚の書類をエスカに渡した。それからさほど厚くない本も渡してくれた。
「これは過去問」
「過去問って?」
女性は笑った。
「これまでに出た、試験の問題集だよ。これ一冊やれば、大抵合格できる。ウチは教習所の指定店だから、こういうもんがあるの」
え、この人って、ここの店長か、店長の奥さん?
「免許を取るには、実技試験と筆記試験を受けるんだよ。ほら」
女性は店先に出て、右方向を指さした。
「ここから十五分歩くと、教習所がある。大きい看板が出ているから、すぐ分かるよ。そこで申し込んでね。
今時、紙なんてと思うだろうけど、これヘタすると事故に繋がるからね。お役所でも、きちんと本人確認をするの。
エアバイクは十六で取れるけど、エアカーは、十八にならないと取れないんだよ。十六はまだ子どもだからね。
免許取ってエアバイク買う時は、大人と一緒でないと買えないからね。
その際は、ぜひ当店にどうぞ」
エスカは笑って頷いた。
「それからね、あんた、ずいぶんと綺麗だから気をつけな。世の中には、ウチの旦那みたいな、いい人ばかりじゃないからね」
近くで作業をしていた若者が笑い出し、店の奥に声をかけた。
「店長~、奥さんが誉めてまっせ~」
「ウチの奥さんは正直者なんだよ~」
奥から、元気のいい声が答えた。エスカは礼を言って、笑いながら店を出た。
エスカは、女神殿のシェルターで、悲惨な目に遭った女性の話を数多く聞いてきた。だから、こういう楽しい話を聞くと、心の底から喜びが湧く。
それに、知らない人に親切にしてもらった。幸せな気持ちになれるって、ちょっとしたことなんだな。来てよかった。
保護者のことは、アニタに相談してみよう。
来た道を戻っていると、銀杏の木に凭れてアダがいた。よう、と手を上げる。
「昼時だな」
先に立って、バーガーショップに入った。奥の席に着くかと思いきや、ドア近くで、外の見えるテーブルに、エスカを案内する。
エスカを待たせてレジに並び、トレイを二つ運んできた。
「ハンバーガー、食ったことあるか?」
エスカは首を横に振った。
「まず、食べてからだな」
トレイには、何かはさまっているパン、細く切って、油で揚げたらしきじゃがいも、オレンジジュースが載っている。
「美味しい!」
エスカが食べるのを見て、アダも嬉しそうにハンバーガーにかぶり付く。
食べながら、アダはちらちらと外を見ている。尾行者はいないから、これは癖のようなものだろう。
多分、この店には裏口がないのだ。ここならいつでも逃げ出せる。
先に食べ終えると、アダは話し始めた。
「食いながら聞いてくれ。報告が遅くなって悪かった。例の件だが、やっぱり二人の見習いさんたちは、騙されていたよ」
エスカはジュースを飲みながら、アダを見つめた。
「二人の見習いさんを騙したのは、ヒルダっていう巫女だ。知ってるか?」
「三婆さまの次が、学院長のイェルダさん、その下のナンバー五だね」
「その学院長さんは、例の殺人未遂事件に関わったかどで、解雇・破門になったんだが」
「そうだったんですか」
初耳である。エスカに聞く気がなかったのだから、当然なのだが。
「問題の伯爵の遠縁に当たるそうだ。だから、伯爵令嬢たちがお前をいじめていても、見て見ぬふりをしていたことが、バレた」
「尋問したのは第二巫女さまでしょう? 騙されるはずないものな」
「ああ。巫女たち全員と、学院の生徒たち全員に聞き取りを行なったそうだ。三婆さまは、怒り心頭だったってさ」
「解雇は厳しいね。地方の小さな女神殿に異動くらいかと、思っていたけど」
「人ひとりの命を中断するのに、加担したことになるからな。三婆さまには許す気はなかっただろう。
で、ヒルダは見習いたちに『痛み止めの薬を買えない人たちに配るから、一箱自分に渡して欲しい。
エスカには了承を得ている。廃棄する物だから、問題はないだろう』それで、見習いたちは信じたと」
「僕、聞いてない」
「うん。ところで、カナーロという商人を知っているか?」
「全然。僕、商売関係はさっぱり」
「そのカナーロは、イシネスでは結構大きい商売をしていてな、年は七十前後かな。こいつに息子がいる。
その息子が、ヒルダに近づいた。もちろん、利用するのが目的だった。ヒルダは、商人たちと女神殿の、中継ぎのような役についていたから、難しくはなかっただろう。
その息子がヒルダに、還俗して結婚しないかと口説いた。まだ四十代前半だから、子を産むこともできるよと。
女の幸せを目の前にちらつかされて、ヒルダは動いたわけだ」
エスカは唇を噛みしめた。怒りで体が震えた。
「むごいことを」
手で目を覆った。
「お前同情してるようだけどな、あのままいったら、殿下の命が危なかったんだろう?
ラヴェンナなら死刑モノだぞ。それを、お前が止めたんだ」
「いや、だから元々あの薬は」
「それはもう考えるなって」
「で、ヒルダさんはどうなったの?」
「やっぱり解雇。殺人未遂に加担したからな。見習いたちから、薬の効能について聞いていたから、毒性を知らなかったはずはないよ。破門にならずに済んだのは、情状酌量があったのだろう。
見習いたちは、地方の小さな女神殿に異動。推薦状をもらったそうだ。まだ子どもだから、考慮してもらったんだな。
これが最近のことだからな、ヒルダの後任はまだ決まっていない」
「そのカナーロという人と、シルデスの事務次官の間にまだいるでしょ?」
「イシネスの外交大臣の秘書だということは、わかった。その前に」
アダは言いよどむ。
「公爵か王女? もしくはどちらかの神殿?」
「う。正確には、公爵のグループではないかと。会長の意見だが」
「公爵は、軍のトップだからね。軍部が絡んでいるんだ」
「何が何でも、公爵を女王の夫にしたい奴らがいるんだな。異国の王子など真っ平ご免だと。女神殿とは真逆の考えだ」
「女王の夫……そっか。国王じゃないのか」
「ここから先は、イシネスの国内問題だからな。俺たちの調べは、ここまでだよ。俺たちにできることは、アルトス殿下をお守りすることだけだ」
エスカは頷き、ためらいつつも話し始めた。
「あのさ。これから僕が話すことは、僕の勝手な想像でしかないかも知れないから、参考程度にして欲しいんだけど」
「おう、何でも参考になるぞ」
「僕がイシネスにいる時、よく公爵にお会いしていたのは、知ってるよね? その時は気づかなかった。他に男の人を知らなかったから、違和感はなかった。
疑いをもち始めたのは、アルトスを見たからだよ。
初めてアルトスに会った時、妙な既視感があった。なんと言うか、言葉にするのは難しいけど、雰囲気というか、ニオイというか……いや、実際にニオったわけではないんだけど」
「エスカらしくないな。いいからはっきり言え」
エスカは、ごくりと唾を飲みこんだ。
「あの、アルトスは、今ちょっと不健康なの知ってるよね?」
「ああ、あの馬鹿娘のせいでな」
「公爵と共通する空気なんだ」
アダは、大きく息を吸い込んだ。
「公爵が?」
「アルトスのは一時的だけど、公爵は」
「一生?」
「多分ね。そう考えると、子どもの時は仲良しだったのに、最近は疎遠だというのは、納得できるんだよね」
「それじゃ、王女と結婚しても子宝は望めないと」
「その際は、養子をもらうんだろうね。高位の貴族には、王族の血が流れているから、何とかなるでしょ」
「亡き王妃と前公爵夫人は姉妹だよな。そのご両親は、やはり高位の貴族?」
「そう。近親結婚みたいなことを続けてきたんだよ。長い間に弊害が出るのは当然だ」
「ちょっと待て。この前の魔女号で、俺たち凍結した卵子やら精子やらを運んだんだよ。
王女と公爵のも、その中に入っていたはずだ。ふ~ん、もう一度DNAを調べ直した方がいいな」
「公爵の副官のもね。ディル・ミューレン中尉とか言ったかな」
「副官?」
「僕が公爵と一緒にいる時、必ずあの人は自分の視界に僕たちを入れていたよ。
副官だから、いつでも上司の元に駆けつけられるように、そうしているんだろうと思っていたけど……
今にしてみれば、執着が強過ぎるような気がしてきた。あ、僕にじゃないよ。
何より、公爵がそうした野心をもつようなお人には見えなかったんだ。だから身近にたきつける人がいるのかも、とか思って。でも、これってイシネスの国内問題でしょ」
「いや、シルデスで作成した受精卵が、イシネスの陰謀に関わっていたとなると、こちらにも責任が発生する可能性があるからな」
アダは腕組みをした。
「副官な、調べる。参考になったよ、ありがとう。やはり内部にいた者は役にたつな」
アダはにやりと笑った。
パルツィ邸に送ってくれる時、サイムスは、ちらりと笑顔を見せたものの、やはり寡黙だった。昨日の帰りと同様である。
元々、こういう男なのだろう。初日に饒舌だったのは、奇跡に近い。自身の家族の話をしたかったのではなく、アルトスの好感度を上げたかっただけだ。
エスカは、サイムスが思うほど、アルトスを嫌っているわけではない。怖れているのだ。あの馬鹿力を。
ソファーに腰を下ろした姿勢で、あれだけの衝撃。アルトスよりさらに逞しく、脳ミソ以外は全て筋肉のサイムスに本気で殴られたら、一発でジ・エンドだろう。
ウリ・ジオンは、二人よりほっそりして見えるが、鍛え上げた筋肉の持ち主である。低栄養で細いのではない。着痩せする体質のせいもある。ただこいつなら二、三発は保つかも。
エスカは、勝手に三人の腕力測定をし、接近戦は避けることに決めた。
今回はゾーイの治療があるから、やむを得ず近づいたが、これでおしまい。
未練がましく、リュックにタブレットを入れてはきたが、大学の保証人の件は諦めている。
エスカの周囲に、タンツ会長に関わっていない人はいないのだから、それこそ、これでジ・エンドである。
ここシルデスにきてからは、何の心配もなく、遠慮もなく、深呼吸のできる暮らしをしている。これ以上は欲というものだ。
せめてアニタに頼んで、教習所の保証人になってもらう。それで十分だ。
ゾーイは、予想通り微熱が残っている程度に回復していた。
「あのね、ご飯を普通に食べられるようになったの」
嬉しそうにエスカに報告する。
「よかった。明日は全快だね。走れるかも」
マリエに振り向く。
「少し芯のところに残っていますので、確実に消します」
マリエは頷いて、エスカの手元をじっと見る。少し手首の辺りが赤みを帯びてきたのみで、エスカは汗もかかない。
背後で、サイムスがなにやらごそごそやっているようだったが、エスカは気に止めなかった。
「あの、明日もいらしてくださいな。ゾーイの走る姿を見てほしいの」
「はい。僕も見たいです」
お茶を飲みながら、マリエは少し口ごもった。
「昨日のこと、ごめんなさいね。びっくりしたでしょう? 私が主人を呼んだのよ。
以前から『エスカという人が来たら、すぐに連絡するように』って言われていたの。ご迷惑だったでしょう?」
「いえ、あの」
この人に間者は無理だな。母親の真っ直ぐな気質を、サイムスは受け継いだ。
「ずいぶん長い間、主人は、重いものを抱えているような日々を過ごしていたの。
でも、昨日あなたにお会いしてから、何か吹っ切れたようでね。晴れ晴れした様子で、帰って行きました。ありがとうございます」
マリエは、深々と頭を下げた。苦しむ夫を見ながら、何も言えなかった妻も、つらかったことだろう。
合宿所の屋上でエスカを車から下ろしたサイムスは、やたらにご機嫌だった。母親の安堵した様子に、ほっとしたのだろう。その時はそう思った。
アニタがいつも通り仕事を終え、帰り支度をする前に、エスカは教習所の保証人の件を話した。
アニタは二つ返事で承諾すると、サインをしてくれた。
「大丈夫? ちょっと心配。それにエアバイク買えるの?」
「中古の一番安いのなら、なんとか」
「一番安いのはダメだよ、エスカ。下から二番目のにすれば?」
「え、どう違うの?」
「わかんないけど、うちはいつもそうしてる」
ふたりで笑っていると、いきなり引き戸が開いて、ウリ・ジオンが顔を出した。
「あ、やっぱり来てたんだ。このところアニタの機嫌がいいから、変だと思ってたんだ」
エスカは、唇に指を当てた。
「聞いてくれよ。アニタときた日には、お前が出て行ってから、ずっと俺たちにツンツンしててさ。まるで、俺たちがお前をいじめたみたいじゃないか」
え、違うの? エスカは立ち上がった。
「ご馳走さま、アニタ」
エスカは、アニタにサインしてもらった書類をリュックに入れると、キッチンを出た。サイムスは、まだリビングから出て来ない。
今日は電車で帰ろう。エアカーの置いてあるバルコニーではなく、エレベーターに向かう。
驚いたことに、エレベーターホールに、アルトスがいた。振り向くと、サイムスが、申し訳なさそうに頭をかいている。
「お前たち、ふたりで何こそこそやってんだ?」
「ゾーイの治療に行ってたんだよ。明日も行くけど、一緒に行く?」
アルトスは、目に見えて狼狽した。
「ごめん。もう言わない」
その狼狽ぶりが、尋常ではなかった。家族なのに。
「じゃ送るよ」
サイムスも、突っ込む気はないようだ。だが、エレベーターホールを出てバルコニーに向かうと、アルトスもついて来るではないか。
ウリ・ジオンが、キッチンから出て来た。結局、四人でエアカーに向かうことになった。
「何なんだよ」
「お前の住まいを確かめるだけさ」
アルトスは立ち直っている。
「俺だけ知らないのは、不公平じゃないか」
知らなくていいんだよ。男三人に囲まれて、護送される囚人の気分である。パー助三人組の機嫌がよかったのが、救いだった。
三人は、建物の外で手を振って別れてくれた。意外に紳士的ではないか。
部屋に帰ってから、リュックから書類を取り出す。よしっ、これでいい。明日の午前中に、申し込みに行こう。ちょうど誕生日である。
誰にも言わなかったのは、イシネスで誕生祝いをする習慣がなかったからだ。
シルデスでは、サプライズパーティーなどと言って、大騒ぎをするらしいのは知っている。イシネス流でいきたかった。
リュックからタブレットを取り出し、机に置いた。青い光が着信を知らせている。
心当たりはないが、一応開いてみた。願書を出そうとしていた大学からである。
『入学願書確かに受け付けました。詳細は以下の通りになります。ご一読の上、来週の開講に備えてください云々』
なにこれ。よく見ると、願書は送付済みになっている。送った覚えはない。どうなっているんだ?
送付済みの願書を見る。保護者欄にサイムス・パルツィのサインがある。続柄には『友人』、職業欄には『公務員』とある。
はっと思い当たった。エスカはゾーイの治療をする際に、リュックをサイムスに持っていてもらう。
今日リュックを渡した時、サイムスが何か反応した気がした。タブレットが入っている分、重かったはずだ。
エスカが治療をしている間、背後でがさがさ音がしていたのは、これだったのか。
それにしても、他人のリュックを無断で開け、他人の通信に勝手に書きこんで、送信までするとは! 犯罪に近いのではないか。
ありがたいと思う前に、腹が立った。イシネスでいうイノシシ年生まれのエスカは、リュックにタブレットを突っ込むと、外に飛び出した。
駅まで走り、足踏みをしたい心境で、電車を待つ。どちらの住まいも駅から近いので、助かった。
エレベーターで上がり、サイムスの部屋のドアをノックした。時刻は夜の八時。少し遅いかも知れないが、頭に血がのぼっているエスカに、それを考えるゆとりはない。
ドアが開くと同時に、室内に駆け込んだエスカは固まった。パー助三人組がいたのである。
「な、来るって言ったろ?」
得意そうなサイムスと、嬉しそうなアルトスとウリ・ジオン。あっさり引き上げたのは、このせいだったのか。
「まあまあ、座って」
エスカは憤懣やるかたなかったが、多勢に無勢、諦めてソファーに腰を下ろした。
サイムスの部屋は、エスカの部屋より少し広い気がする。飾り気はないが、整頓されていて、心地よい。
「エスカちゃんよ。何でも俺に言いなさいって、親父に言われただろ?」
サイムスは、良心の呵責をまるで感じていないようだ。
「誰も頼んでないっ! やり過ぎだよ!」
「お前、何か思い詰めてたじゃないか。お兄さまにバレないと思ったか?」
「タンツ会長の大学、蹴ったんだってな」
アルトスまで知ってるのか。
「蹴ったわけじゃないけど、最終まで行きつけなかったんだ」
「で、タンツ関連の人に、保証人頼みづらかった?」
エスカは頷いた。アルトスは笑った。
「最初から、サイムスに言えばよかったんだよ」
「え、だってサイムスは学生でしょ?」
「シルデスではな。ラヴェンナでは、国家公務員だよ。俺、二重国籍あるの。アルトスは留学生だけどな」
エスカは、今いちのみ込めない。そこへ、ウリ・ジオンがお茶を運んできた。
「俺は、一応騎士なんだよ。で、ラヴェンナ王室に雇われて、王子殿下の護衛官をしている。安月給ではあるがな」
「収入があるなら、何で居候やってんだよ」
「うっ」
サイムスは詰まった。ウリ・ジオンが吹き出した。
「エスカ、通り名を『リベンジのエスカ』に変えるか?」
「変えるって、他のがあるのか?」
とアルトス。
「『火だるまのエスカ』」
エスカが澄まして言う。サイムスとアルトスは、ぎょっとしてウリ・ジオンを見た。
「だから、こいつを怒らせるのはやめろって」
「火だるまになるのは、エスカではないってことか?」
「怖いじゃないか、エスカちゃん」
からかいモードのお馬鹿トリオから、いかにして逃げ出そうか。そも、こいつらの目的はなんだ?
だが、サインしてもらえたのは、ありがたかった。妙なことをする前に、説明してもらいたかったけど。
「ありがとう。助かりました」
ここは下手に出て、早いとこ逃げよう。見ると、なぜかドアの前にウリ・ジオンがさりげなくいる。
立ち上がったエスカは、行き場を失って立ち往生状態である。振り向けば、アルトスとサイムスの巨体。
アルトスとサイムスは、悠然とエスカとの距離を縮めて来た。三方から厚い胸の壁に囲まれて、圧死しそうである。
「戻ってこいよ」
いたずらっぽい目でウリ・ジオンが言う。目的はこれか?
「そんなに嫌だったか?」
アルトスが、耳元で甘く囁く。普通の女性なら、これだけでノックアウトのところである。だが、まだ成熟していないエスカには、くすぐったいだけだった。
無言のサイムスの方が怖い。
「何で、今になってそんなこと言うのさ? ゴーサイン出したのは、タンツ会長だよ」
「まあ、その、お前ひとりで寂しくないか?」
「僕は、ひとりが好きなんだよ。第一、僕たち上手くいってなかったじゃないか」
「そんな事ないと思うけどな」
張本人が言うな。エスカは、ふと思いついた。
「パルツィさんの指示?」
サイムスが、微妙に反応した。
「指令系統は、一貫してもらわないと困るよ」
「お前には、人とのふれあいが必要だと。俺もそう思うよ」
「それでな、パルツィ氏がエスカに会ったと聞いて、親父が羨ましがってるんだ」
呆れて言葉もない。
「自分が売ろうとした相手に、会いたいだって? どのツラ下げて、僕に会うつもりなのさ。タンツ会長のツラの皮は、千枚張りだな」
ウリ・ジオンは爆笑した。この親不孝息子が。
「あのね、僕は一生かけても返せないほどの恩を、タンツさんから受けているよ。でも実験台になって、自分を潰す気はないから」
「実験台って、何の事だ?」
アルトスとサイムスが、身を乗り出した。聞いていないのか。まあ、言いづらいだろうな。
「ウリ・ジオンに聞いてよ」
逃走準備。ドア前にいるウリ・ジオンが邪魔だ。このところ、親父さんに怒られてばかりのようだから、ひとりだけ攻撃するのは気の毒だな。
この際、公平にいくか。エスカは右手の人差し指を差し出しながら、くるりと一回転した。
途端に、三人から悲鳴が上がった。よろめいたウリ・ジオンを突き飛ばし、ドアを開けて室外に出る。
ひたすら走ってエレベーターで降り、一階に着くと、何事もなかったかのように、エントランスから外に出た。ご丁寧に、守衛に会釈までした。
結局、今夜のこの騒動はなんだったんだ。ウリ・ジオンが、エスカの事を話すきっかけができただけか。
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