第4話 逃走
一週間どころか、三日目に引っ越しできたのは、ありがたかった。
セダが、エアカーで迎えに来てくれた。三人組が出かけたのを確認してのことと、思われる。
エスカとアニタは、抱き合って別れを惜しんだ。
「寂しくなるけど、エスカはここにいない方がいいよ」
連日の騒ぎから、アニタが出した結論である。その後三日間、平穏だったのが奇跡に近い。
「平日のお昼はあの人たちいないから、食べにおいで」
新しい住まいは、同じ市内だそうだ。
「時々行くかも」
笑いあって別れた。
合宿所から二駅離れた住宅街に、住まいはあった。一棟建てのマンションである。
団地形式より、人付き合いがないというのが、選ばれた理由だそうだ。どの道、タンツ会長の持ち物であることに変わりはないが。
引っ越しと言っても、荷物はエスカ一人で持てる位しかない。住宅街だから高さ制限があり、五階建ての三階にエスカの部屋があった。
「この部屋は単身者用だよ。ファミリータイプの部屋もあるから、子どもの声がするかもな」
「全然平気だよ。ありがとう」
寝室が一つに、リビング兼用のダイニングルーム。小ぶりのソファが置いてある。家具付きということだが、急いで取り付けたのだろう。それに清潔なバスルーム。鍋やフライパンまで揃っているキッチン。
結局、誰かの世話にならなければ、暮らしていけないことにエスカは思い至った。
「ほら」
セダが紙袋を渡す。おしゃれなブティックのものだ。アニタに、街を案内してもらった時に見た店のロゴである。高級そうな印象を受けたっけ。
「ウリ・ジオンからだ。ざっと説明したら、ショックを受けていたよ。なぁ、何があったか知らんが、許してやれよ」
ウリ・ジオンが、しょげていたのだろうか。
「怒っているんじゃなくて、勝手に僕ががっかりしただけだよ。昨日今日、知り合いになった人間より、何年もの付き合いがある友達を大切にするのは、当たり前だからね」
「ははあ、加害者を庇ったわけか」
セダは察しがいい。
「二週間の間に、信頼しきった僕がどうかしてた。見習い巫女の件だって、信頼しきって、失敗した」
セダは、無言でエスカを見た。
「でも、この服は助かる。明日、大学の健康診断なんだ。これ着て行くよ。ウリ・ジオンに、お礼言っておいて」
「自分で言えよ。それは有効に使ってくれ。薄い色だと透けるかも知れないから、濃いめの色にしたって言ってたよ」
それからセダは、エスカを抱きしめた。
セダが帰ってから、キッチンの細長い戸棚を開けると、レトルト食品がたっぷり入っている。冷蔵庫には、冷凍食品。ありがたい。今日は引きこもって過ごせる。
備え付けのテレビを付けると、ニュースをやっていた。
『かねてから、闘病生活を続けていたイシネス国王が、逝去されました云々』
「やっとか」
もはや、何の感慨もない。もう一度、明日健康診断を受ける病院を地図で確認して、エスカは早めに床についた。
シボレス総合病院へは、電車とバスを乗り継いで、約四十分かかる。乗り物の乗り方を、アニタに教えてもらっていてよかった。
昨日、セダが持って来てくれたブティックの袋を開けると、五分袖のチュニックが、五枚入っていた。気前のいいことだ。
エスカは、自分の瞳と同じ暗紫色を選んだ。無難にいきたい。銀髪とよく合う。愛用のベルトを締め、細いタイプの黒いパンツをはく。
バスは病院前で止まった。患者らしき人たちがバスから降りると、次々と中に入って行く。
この病院にも、会長の支配が及んでいるかも知れないな。
エスカは、入り口の近くにある院内マップを眺め、頭に叩き込んだ。癖のようなものである。
大柄な男が声をかけてきた。腕には『案内係』の腕章を付けている。まるで、軍人か傭兵を思わせる風貌。この案内係は、タンツ商会の警備員かも知れない。
イシネスにいた時、シェルターの女性の付き添いで、何度か病院に行ったことがある。案内は、看護師か事務員がしてくれるものだと思っていた。
「健康診断は五階です」
礼を言って、案内されたエレベーターに乗る。五階で降りると、『受験生控え室』と書かれた紙の貼ってあるドアがある。開きっ放しのドアから、中に入る。
室内には椅子が並べられ、受験生らしき若い男女が数人、腰かけている。
入り口近くに机があり、受け付け係らしい若い女性が座っていた。
机の上に箱が置いてある。ひとりの受験生が、中から問診票らしきものを受け取っている。
エスカが名乗ると、受け付けの女性は、背後の棚から書類を出してエスカに渡した。
「順番が来たら、これを持って隣の検査室にお入りください」
にこにこして、愛想がいい。違和感が膨らんで来た。さっきの受験生は、箱から書類を受け取っていたではないか。それに、ちらりと見た箱の問診票より、検査項目が二行多い。
受験番号順ではなく、受け付け順のようだ。エスカは最後尾の椅子に座った。渡された問診票を見る。名前が印字してあった。
隣の若者は、問診票に名前を記入している。妙である。自分の問診票にある余分な検査項目を見て、エスカは目を見張った。
『血液検査』『CT検査』。受験の健康診断に、こんなモノいるか?
おまけに、さっき一階の入り口付近にいた案内係の大男が、いつの間にか近くに立っている。視界にエスカを入れているのが、見てとれた。
「ねえ」
隣の若者が声をかけてきた。黒髪のラヴェンナ人である。整った気品のある顔立ち。貴族のぼんぼんか。
「君、ずいぶん若いね。飛び級?」
警戒警報。
「いや、顔で合否が決まるなら、君はトップ合格だと思ってさ」
「どうかしましたか?」
ほら来た。案内係である。若者は焦る風もなく、にこにこして首を横に降った。世慣れているようだ。
エスカはすっと立ち上がった。
「あの、外の空気を吸いたいんですけど」
「それでしたら、こちらへどうぞ」
バルコニーに案内された。掃きだし窓を開けてくれる。
「鍵はかけないでおきますから、いつでもお戻りください」
エスカは礼を述べて、バルコニーに出た。思い切り深呼吸をする。案内係は笑ったようだ。窓を閉めて、室内に入って行く。
エスカは下を見た。人通りはなく、建物の裏側らしい。乾いた樹木が並んでいる。エスカは、ひそかに反重力ベルトを操作した。
案内係の男は、ちらちらとエスカを見ている。受験生のひとりが何か質問したため、男はこちらに背を向けた。
次の瞬間、エスカは地面に飛び降りると、走り出した。左に曲がれば裏門。マップを見ていてよかった。
「君!」
裏門の守衛が声をかける。
「忘れ物です!」
叫んで、エスカは通りに出た。そこはバス通りで、折りよくバスが来た。とにかく、ここから離れよう。エスカは、バスに飛び乗った。
二つ目のバス停で降り、異なる路線のバスに乗る。公園らしきものが見えた時、エカは降車した。特に理由はない。
公園内をぶらぶら歩き、川辺に出た。母子連れや、保育園児たちが遊んでいる。安全のために、川に入れないよう柵が設置されていた。
見慣れない樹木が、光沢のある葉をつけている。この木は針葉樹ではないが、落葉はしないだろう。そういう木があることは、知識として知っている。
小鳥たちが、さえずりながら飛び回っている。見たことのないカラフルな鳥たち。
上空では、大型の鳥が旋回している。小鳥を狙っているのではないようだ。狙いは川の魚だろうか。
足元には、見たことのない虫たちが、這いずり回っている。弱肉強食の世界ではあろうけれど、みんな一生懸命だな。思わず微笑む。
エスカは携帯を見た。多分、この携帯に仕込まれているGPS は、ウリ・ジオンの携帯につながっている。
あの案内係から会長に連絡が行き、会長からウリ・ジオンに赤紙が飛ぶ。ウリ・ジオンが、焦って駆けつける。そんな所だろう。
さて、どの程度話すべきか。いつまでもウリ・ジオンと話さないわけにはいかないようだ。折れるしかないな。
川辺にある日陰のベンチに座り、持参した水を飲んで、柵越しではあるが、川の流れを見て楽しんだ。肘から下に川風が当たって、心地よい。
イシネスでは、夏でも長袖で十分だったので、直接肌に風を当てるのは、初めてである。五分袖を買ってもらって、よかった。
しばし目を閉じて、ウリ・ジオンの到着を待った。
突然、頰に冷たい物が触れて、エスカは目を覚ました。眠っていたようだ。
「こんな所で寝るなよ。襲われるぞ」
ウリ・ジオンが、笑いながら立っていた。手に持った紙コップを渡してくれた。砕いた氷の入ったお茶である。
「ありがとう」
遠慮なく飲む。氷入りの飲み物は初めてだった。美味しい。
ウリ・ジオンは隣に座り、お茶を飲む。
「今から戻れば、間に合うぞ」
「健康診断のこと?」
ウリ・ジオンは頷く。
「戻る気があれば、最初から逃げたりしないよ」
エスカは、肩に掛けたバッグから問診票を取り出して、ウリ・ジオンに渡した。
「ほら、ここ」
「血液検査にCT? う~ん」
しばし考えこむ。
「血液検査は、入学後に受けた気がする。CTって、なんだこりゃ」
「タンツ氏が、僕を研究機関に売ったってことだよ」
ウリ・ジオンが、驚愕の目を向けた。
「大巫女さまはタンツ氏に、僕に極秘で手術を受けさせるよう頼んだと、言っておられた。だけどタンツ氏は、研究を優先したってことだ」
ウリ・ジオンは、目をぱちくりしている。
「最初から話してくれないかな」
「長くなるよ」
「かまわない」
「僕は、極秘出産で産まれたんだって。僕の母は、僕を見て手に負えないと感じ、女神殿に僕を託したんだ」
「なぜ?」
「両方付いてたからだよ」
「何がだよ?」
「その、男と女のモノが両方」
「なに? まさかお前、カタツムリやアメフラシの仲間なのか?」
バカタレ。
「あいつらは、完全雌雄同体だよ。僕は不完全体。だから手術が必要な体だった。
これからは、僕の勝手な憶測だと思って聞いて欲しい」
ウリ・ジオンは、思わぬ展開についていくのに苦労しているようだ。
「幼いうちに手術すれば、いわゆる普通になれるんじゃないかと。多分性別も選べるだろう。いいことかどうかはわからないけど。
第二次性徴期近くになると、どちらかに片寄って育っているとは思うけど、手術は間に合うんじゃないかな。元気な方を残せばいい。
でも僕は、もうすぐ十六才。年齢的に第二次性徴期は過ぎている。どちらも半端なままで出来上がってしまっているんだ。
お互いに成長を邪魔しあっているから、不完全体なんだよ。つまり、どちらも役にたたない」
「どういうことだよ、それ」
「表に出ているモノをどちらか切除する。あるいは縫合する。中に納まっているモノは、開腹手術をして取り出す」
「中に納まっているモノって?」
「睾丸と子宮、卵巣」
「な、何でそこまで……」
「不要なモノを大事にしまっておく意味、ないでしょ。運が良ければ、男か女のどちらかを残すことは、できるかもだけどね。
長期間縮こまっていたモノが、多少広くなったからといって、成長するとは思えないからね」
「なんだそれ」
ウリ・ジオンは、言葉が出ないようだ。
「女神殿では、そういう事を知っていたはずなんだ。でも、僕に霊力があることに気づいて、戦える巫女として育てることを優先したんだと思う。
で、戦士として出来上がった時には、開腹手術には遅すぎた。だから、せめて見た目だけでも普通にしようと、手術を依頼した。
つまり、僕の人生は女神殿に決められてしまったわけさ。育ててくれたことには、感謝してるけどね」
「あのさ、戦士としての教育の途中で手術っていうわけには、いかなかったの?」
「手術には、シルデスに行かなくてはならない。幼児に往復密航? 僕だって、やっとだったんだよ。
それに大巫女さまは、本気で手術を受けさせる気がなかったんじゃないかな。中については」
「なんでさ? 可愛がってくださったんだろ」
「うん。でもさ、男がいる方が強いからね。男って、腕力と体力だけはあるからなぁ」
「う」
それだけかも。
「だからね、自分の意志に関わりなく、人生を決められるのは、まっぴらなんだ。健康診断もね、学者さんたちが僕の体を調べて、人類の発展に貢献するとか言われても、協力する気にはなれないよ。
イシネス人が、他国人と結婚すると、こういう子ができるのか。僕が突然変異なのか。それとも、僕は過渡期の人間なのか。調べればわかると言われてもね」
「イシネス人は、他国人と付き合いたがらないからな。特にラヴェンナとは、宗教上の問題もあるみたいだし。
じゃあ、なんでラヴェンナ人との結婚話なんか出たんだ?」
「貿易とか政治的なことの他に、イシネス人は、目に見えて出生率が下がってきたからね。子沢山のラヴェンナ人が欲しかった。種馬扱いさ。
でも、ここで世論がふたつに割れた。何がなんでも、これまで通り純血主義を守れという意見。
優先すべきは生き残ることだから、この際、他国人の血が混じるのは致し方ないのではないかという意見。
そこでアルトス殿下が、婚約者候補にあがったんだよ。既に、ヴァルス公爵が、正式に婚約者として決まっていたにも関わらずだ」
「それな。その話が出た途端、アルトスの兄たちは、ばたばたと婚約したり結婚したりしたんだ。ツンドラの国には、行きたくないってさ。
で、ぼーっとして学生やってたアルトスに、白羽の矢が当たったのさ。なんたって、五十七番目の子だからな。つまり末っ子」
「学校ができそうだね」
エスカは笑ってしまった。
「まったくだ。もちろん、王妃の他に愛妾やら愛人やらいたわけだけども。
卒業してからでいいということだった。だからアルトスは、そのうち何とかなるだろうと暢気に構えていたんだが。まずかったな」
「マデリンのやったことは、知らなかったとはいえ毒殺未遂だよ? アルトス殿下を消そうとする者に、心当たりはないの?」
「ラヴェンナには、いないだろう。アルトスがスケープゴートになってくれれば、御の字の人間だけだと思うが」
「するとイシネスか。薬の出所もイシネスだし」
「おいおい、それはおいといてだな。今アダが調べてくれてるから、結果を聞いてから考えよう」
「マデリンはどうしてる?」
「真面目に就活してるって話だが」
「よかった。消されなかったんだね」
「なに?」
「甘いなぁ。マデリンが、こういう容貌のエスカという少年に、全部話しちゃったなんて言ったとする。そうなるとマデリンは今頃、身元不明の惨殺死体だよ。どこぞの海岸に打ち上げられているかも。
もちろん、僕の生存もバレる。当時同居していた三人やアニタまで、危ないことになる」
「そ、そう言えばそうかも」
今さらながら、ウリ・ジオンは気がついたように震えあがった。
「今無事だってことは、あれが効いたんだな」
「あれって?」
「見てなかったかも知れないけどね。別れ際に、僕がマデリンのおでこをつついたの覚えてる?」
「ああ、あれな。見てたよ。ずいぶん親しくなったんだなって思ったけど」
「んなわけないだろう。直近の記憶を消したんだよ」
ウリ・ジオンはきょとんとした。
「直近の、記憶を……?」
「そう。マデリンが、薬の箱がないと騒ぎだす少し前から、僕がおでこをつつくまで」
「そんなこと可能なのか?」
「可能だよ。催眠術より確実だ。やったの初めてだったから、ちょっと不安だったけど」
ウリ・ジオンは、納得したようだ。
「それで、マデリンを解雇した翌日な。ドディ氏が、親父の会社に押し掛けたそうだ。
『私が紹介したメイドを、一方的に解雇したのは、如何なる訳か』と。
今の話でわかった。記憶を消されたから、マデリンは解雇理由を説明出来なかったんだな。
で、ドディ氏は、人払いを頼んだそうだが、『この者は大丈夫です』と言って、親父は譲らなかった。秘書のふりをして、セダがいたそうだ。
『自分が仕える人を誘惑するような身持ちの悪い女性を、雇い続けるわけにはいきませんな』という返事を、親父はしたと。
ドディ氏は真っ青になって、言い訳を初めた。『それは存じませんでした』みたいな。
『そもそも、あなたの愛人だったそうではないですか。お古を他人に押し付けるとは、恥知らずの極みですな』と、親父は攻撃したそうだ。
『このまま大人しく引き下がってくださるなら、多少縮小しても、取り引きを続ける気でいましたが、これで決心がつきました。
取り引きは、一切終了させていただきます。お帰りはあちら』で完結したって。薬については触れなかったそうだ」
「賢明だね。ありがたい」
ほっとしたのはエスカである。
「だからもう忘れよう。ところで、イシネスの国王が亡くなったのは、知ってる?」
「ニュースで聞いた」
「となると、すぐに王女が即位するの? ラヴェンナではそうだけど」
「いや、王族は一年間の喪に服する。即位は、喪が明けてからになるよ」
「その間政務はどうするの?」
「王女の称制」
「称制って?」
「即位せずに、政務を行うことだよ。国王が病気になってから、ずっとなさっていたようだから、そのまま続けられるのだろう。
王女殿下は非常に優秀だそうだ。腕の見せどころだよ」
「公爵は、政務に関わっているのか?」
エスカは首を振った。
「いつ解消されるかわからない婚約者の立場だし、単にひとりの公爵というだけだからね。
王女殿下に、補助をお願いしますとでも言われない限りは、なんとも」
「仲が悪かったのか?」
「それが、さっぱりわからないんだよ。いとこ同士だから、幼い頃はよく一緒に遊んでいたそうだ。
亡き王妃が姉、公爵の母君が妹なんだって。つまり、おふたりはいとこ同士なんだよ。
王女が十六才になって成人された時に、正式に婚約なさった。何故かその後、少しずつ会う頻度が、減っていったそうだ。
三年程前に前公爵が亡くなって、公爵夫人がうつ状態になられた。
それで僕が、薬草と温室で栽培したお花を持って行かされた。それまでは、裏山以外は外出禁止だったから、嬉しかったな。
たまたま、第一巫女さまが風邪気味でね。他に薬草の説明ができる者がいなかったのさ。
夫人が、僕を気にいってくださってね。それ以来、公爵邸には僕が行くことになった。当然、跡を継いで公爵になったカシュービアンさまとも、お会いするようになったんだよ。
その頃からかな。僕の亡命話が出てきて、ふたりでこそこそ話をしていた。それを見た侍女が誤解して、『ふたりはデキている』ことになってしまったのさ。
それ以来、ふたりでいると他の人たちは遠慮して近づかなくなった。内緒話をするには都合がよかったから、あえて訂正しなかったんだ。
その頃から、王女は殆ど公爵に近づかなくなったみたい。噂を信じたのかな。結果、僕が邪魔しちゃったことになるね。申し訳ない。
ほぼ同時に、アルトス殿下との婚約話が、持ち上がった。今度は、公爵が遠慮したみたいになって、全く王宮に近づかなくなっちゃったんだよ。僕が知っているのは、それくらいだな。
だから一年の間に、アルトス殿下を何とかしないとね」
「何とかってなんだよ。お前、三婆さまからアルトスについて何か指令受けてるのか?」
「『穏便に辞退していただくように』ってさ。子どもにそんな抽象的なこと言われてもなぁ」
「都合のいい時だけ、子どもになるなよ」
ウリ・ジオンは苦笑した。
「あのな、アルトス殿下が大事なら、絶対にイシネスに送るなよ。早死にするぞ」
「なに?」
「砂漠の国からツンドラの国へ。気候に慣れるだけでも大変だ。でもそれは、いつかは慣れるだろう。
でもああいう狭い所では、えてしてよそ者に対して排他的になるのは知ってるよね?
側近を何名か連れて行くにしても。あ、そうなればサイムスも行くだろうけど。多勢に無勢。いつかメンタルやられるよ。だから絶対に阻止しろ」
「何かいい方法はあるか?」
「ないから困ってるんじゃないか。あ、ところで、密輸入した精子と卵子はうまくいってるの?」
「簡単にうまくいくなら苦労はないよ。密輸って言っても、人工受精禁止してるのは、イシネスだけだからな」
「それがうまくいって、王女が懐妊すれば、殿下の話は消えてくれるんだけど」
「一般人のも、預かってるしな。両親のを使うわけだから、道徳的には問題ないはずだし。頭の固いのは主神殿か?」
エスカは頷いた。
「僕の頭で考えられるのは、ほら、今殿下はアッチがダメになってるだろ?」
「治るのか?」
「一時的なものだよ。だから、それで診断書を書いてもらう。女に騙されてっていうのは酷だから、事故に遭って、脊椎を損傷したとか言ってね。
しばらく、特別室に入院させてもらうとか。偽の診断書なんか楽勝でしょ。種馬にならないとなったら、イシネスは納得して引くよ。ラヴェンナ側も諦めるでしょ」
「その理由は、男が最も嫌うんだよ」
「恥をかくのと、苦労した挙げ句に自殺するのと、どっちがマシなのさ。どのみち、僕が思い付くのはそれくらいかな。
その話が持ち上がった時に、嘘でもなんでも、『恋人がいます』とかでっち上げて、口実作ればよかったんだよ」
「あのな、貴族や王族の恋人なんて当たり前過ぎて、言い訳にもならないぞ。本命じゃないのが複数いても、おかしくない世界だ。せめて婚約してないとな。
ましてやアルトスは成人したばかりで、ガールフレンドもいなかったし。
そんな王子いたっけ? みたいな反応が大半だった気がする。何しろ五十七番目だからなぁ」
頭を抱えるエスカを見て、ウリ・ジオンは時計を見て、立ち上がった。
「そろそろ昼時だな。向こうにクレープ屋があったぞ。食うか?」
「クレープってなに?」
ウリ・ジオンはご機嫌になった。
「見るだけでも楽しいぞ」
エスカは、クレープ職人が薄く焼いた丸い生地を手際よくさばくのを見て、目を丸くした。
リンゴとシナモンのクレープを嬉しそうに頰ばるエスカを、ウリ・ジオンは、にこにこと見ている。
「いつもそんなだと可愛いのにな。綺麗な顔して、憎たらしいことばっかり言うんだもんな。お前は」
「僕は、自分の顔が綺麗なのは知ってるよ。でも、それって僕の手柄なわけ?」
ウリ・ジオンは、返答に詰まった。
「ご馳走さま。ああおいしかった」
エスカはご機嫌で、ウリ・ジオンのゴミも一緒に、ゴミ箱に捨てに行った。
「さて、ちょっと聞いてもらいたい話があるんだけど」
「おおっ、何でも聞いてやるぞ」
「火だるま事件だけど、全部話してないんだよね。
モリス男爵の使用人に怪我をさせたのは、僕じゃないんだ。僕は呼んだだけ」
「誰を?」
「僕の守護神の眷族。あの時は
それで、直接の加害者に雷を落とした。もうひとつは、黒幕の所に落としたんだ。三婆さまが、早い時期に主犯を特定できたのは、そのせいだよ」
ウリ・ジオンは、目をぱちくりして聞いている。理解できたのか?
「ほぼ同時期に、モリス男爵の敷地内の納屋が燃えた話は、聞いている?」
「いや」
「次は、僕が事故った時ね。エアバイクが川に突っ込んだ際に、
その直後、僕が足掻いたと思われる辺りの、川下の氷が派手に割れた。追跡者たちの注意がそちらに逸れたから、僕は逃げられたのさ」
徐々に、ウリ・ジオンは理解してきたようだ。しきりに頷いている。
「僕についている守護神は、戦いの神だからね、戦いが終われば、離れていくはずなんだ。でもまだいるってことは、まだ戦いがあるのかも知れない。
だから、何かあった時のために覚えていて欲しい。『二ヶ所攻撃』。それが眷族の攻撃の特徴だ。実行犯は目の前にいるが、黒幕は別にいるってこと。水刃のような時もあるけど。
僕が、いつも一緒にいるわけじゃないから、承知していてね」
「一緒にいてくれなくちゃ困るよ。心細いじゃないか」
「子どもみたいなこと、言うなよ」
エスカは苦笑した。
「あ、これ内緒だからね。親父さんにもアダたちにも、言うんじゃないよ」
「大丈夫。僕は口が固い」
「そうみたいだね。頑張ったそうじゃないか」
「そうなんだよ~! だのにアニタの奴~!」
ふたりは大笑いした。
「ま、エスカが、アルトスのことを嫌っていないことがわかって、安心したよ」
「嫌ってるわけじゃないけど、あの顔見てると、なんかハラ立つんだよ。整っているだけに、なんというか……」
「身内なのに?」
エスカがびくんとした。初めて優位に立ったウリ・ジオンは、立ち上がり、そっくり返った。
「僕が気づいていないとでも、思ったの?」
「……いつから?」
「魔女号で、お前がカラコンを外した時さ。その暗紫色の瞳が、僕のお袋と妹にそっくりだったんだ。
それでシルデスに帰ってから、お袋にカマをかけてみた。『ラヴェンナの王族の女性は、ほぼこういう瞳なの』と言ったよ。
だからお前は、ラヴェンナの王族に繋がる者であり、女の子だ。間違ってる?」
エスカは首を横に振った。
「まだ憶測でしかない。だからラヴェンナに行く時に、連れていってくれないかな。確認したい」
「わかった。早くはっきりするといいな」
「はっきりしたからって、これまでと変わらないけどね。気持ちの問題だけだよ」
「アルトスは国王の弟、僕は国王の妹の息子だから、アルトスは僕の叔父にあたる。
年齢からいって、お前は僕のいとこじゃないかな。となると、アルトスはお前の叔父さんでもあるんだな」
エスカは一瞬きょとんとしたが、理解した途端、吹き出した。
「それ言われるとアルトスは嫌がるだろうから、言うなよ」
「僕が、殿下に嫌がらせするの好きなの、知ってるでしょ」
「ほんっと、お前性格悪いな。綺麗な顔が泣くぞ」
「ふん。まだしばらくは内緒だから、言えないのが残念だよ」
「ところでだな、ちょっと見せてみろ」
「何を?」
ウリ・ジオンは、エスカの下腹部を目で示した。
「はぁ?」
「確かめてやるからさ」
「だから何を?」
「男のモノが、ちゃんとしてるかどうか」
「さっき、僕は女の子だって言ったばっかりじゃないか。男の子にも、こういう瞳がいるってこと?」
「そいつは聞くの忘れた」
阿呆。
「だけどな、お前が女の子なら、なぜ男の子として育てられたんだ? 女神殿の巫さまたちは、男のモノを見たことがあるのか? 離婚経験のある第一巫女さまを除いて」
そう言われれば、そうかも。
「だから、お前もよくわからないんじゃないのか? だから、よくわかってる僕が見てあげようと」
ウリ・ジオンの目を見ると、真剣である。まずい。
「いやいや、それには及ばないよ」
エスカは逃げの一手である。
「とにかく、お前の部屋に行こう。ここではまずい」
「どこでだってまずいよ! あ、これなら見せられる」
エスカは、左腕の袖を捲り上げた。ウリ・ジオンは、呻いて数歩後ずさった。
肌が白いだけに、傷痕が生々しく浮き上がって見える。
「そ、それって例の箝口令のヤツ?」
「そう。アダたちが調べているかも知れないけど、中止してもらって。もう済んだことだし、僕の判断ミスに過ぎないんだから」
「一応説明して欲しいな」
「説明するには、僕のミスを思い出さなくちゃいけないから、気が重いんだよ」
それでもエスカは話し始めた。
「ショートカットで話すよ。僕を嫌っている貴族の令嬢が、乗馬鞭で僕を殴ろうとした。顔を狙ってきたから、左腕で避けたんだ。
もちろん防御をかけてね。それなら大して痛くはないはずだった。一発位は受けてみせないとね。あれやこれや言われて、結果、僕が飯抜きになるのがオチだと思ったからさ」
「飯抜きって、なんだそれ」
「いつものことだよ。僕に与えられる罰。修行と言われることもある。ここで、僕は判断ミスをした。普通の乗馬鞭だと思ったら、特殊な繊維が編み込まれていたのさ。
顔に当たれば、当たった部分が吹き飛ぶ。腕も骨が両断される。そういう強力な代物だったんだって。
一応防御したから、肉がえぐられて骨が見える程度で済んだ。
血が吹き出して、僕は後ろに倒れ込んだ。積み上げた薬草の上だったから、薬草は血まみれ。もったいなかったな」
「そういう問題か!」
ウリ・ジオンの顔から、血の気が引いている。
「令嬢の後ろには、いつも三人、金魚のフンがついて来ていて、そのフンたちが悲鳴を上げた。
令嬢が、次の攻撃の構えをとったから、僕は無事な右手で金縛りをかけた」
「金縛り……」
「悲鳴で、第二巫女さまと数名の巫女たちが、駆けつけてくれた。たまたま近くにいたそうだ。
第二巫女さまは、咄嗟に僕に駆け寄った。金縛りには目もくれずにね。僕のことを真っ先に考えてくださったのだと、その時は思った。けど違ったね。
金縛りを解く力を、持っていなかったからだ。戦士ではないから。
他の巫女が、令嬢から鞭を取り上げようとしているのを見て、僕は無事な右手で金縛りを解除した。
覚えているのはここまでだよ。目覚めたのは、女神殿の自分の部屋だった。
女神殿の医務室では対処できなくて、病院に搬送されたそうだ。第一巫女さまが付き添ってね。
緊急手術が行われて、その日は入院したんだって。第一巫女さまが、一晩中付き添ってくださったって。
他の看護師は誰も寄せ付けなかった。僕には見られて困るモノがあるからね。それに、第一巫女さまは、看護師の資格がある。資格って役に立つんだね。
深夜、大巫女さまがひそかに駆けつけて、枕元で泣いておられたそうだ。
翌朝には、強引に僕を女神殿に連れ帰って、第一巫女さまと第二巫女さまが、交代で看病してくださった」
「その加害者はどうなった?」
「詳しいことは、聞いていないよ。聞きたくもない。ただ、箝口令と言ってもね、病院に搬入されるところを、一般人が見ている。
女神殿の第一巫女さまを知らない人なんて、いないよ。だから、大巫女さまか、第二巫女さまに異変があったと、思われたらしい。まさか、下僕に大騒ぎするとは思わないからね。
問題を起こした張本人と金魚のフンたちは、即日退学処分になったって。
腹の虫が収まらなかった巫女さまたちは、例の乗馬鞭の製造元と発注者を調べて証拠を固め、貴族院に届け出た。
許可されていない、殺傷能力のある武器の製造と使用。殺人未遂と見なされた」
エスカはため息をついた。
「でもさ、いくら僕のこと嫌いでも、殺意を抱くって異常でしょ? 小耳に挟んだんだけど、その令嬢は少し前からヘンだったって。青春期に発病することの多い、精神疾患だったかも知れないな。妄想性の」
「でも、こちらは命の危険に晒されたわけだからな」
エスカは頷いた。
「これでおしまい。結局、僕の判断ミスだった。ミスばっかりでイヤになるよ」
「はっ? 誰にもできないことを、ちゃちゃっとやって、何を言う」
エスカは、
「ひょっとして、お前完璧主義? それって、自分を追い詰めるよ。
僕さ、カウンセリングの講義受けたんだよね。その時に覚えたことが、ひとつだけあるんだ。
六十点主義って知ってる? 入試でも資格試験でも、大抵は六十パー取れれば合格なんだよ。だから、それくらいで満足する方が、気持ちが楽だって」
「僕のミスは大きすぎて、減点法でいったら、赤点どころかマイナスだよ」
ウリ・ジオンは、あわあわと手を振った。
「う……と、ところで、僕が言ったらまずいかもだけど。大学な、親父の息のかかっていない所なんか、山程あるぜ」
「え?」
やっとエスカは、顔を上げた。
「来週から新学年が始まるんだけど、まだギリギリまで募集かけてる所もある。
人気がないからということもあるけど、有名でないからダメということでもない。
オンラインで勉強して、週一度だけスクーリングとか、いろいろあるから調べてみな。
どのみち、十八になるまで働けないんだ。未成年者を働かせると、手が後ろに回るからな。
何かしてる方がいいだろ? 親父の方は、僕がうまく言っとくからさ」
エスカの顔に、生気が戻ってきた。
「ありがとうウリ・ジオン。探してみるよ。もぐりの外科医もね」
「ああ、そっちは僕も探してみる」
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