第3話 アルトス殿下の合宿所

 魔女号がシルデスの港に着いたのは、翌日の正午過ぎだった。

 エスカは、イシネスからの輸入品である絹織物のコンテナに潜り込んで、税関をくぐり抜けた。

 その後、ウリ・ジオンのエアカーに乗せてもらい、宿舎に向かったのは夕刻近かった。

「暑い」

 それが最初の感想だった。シルデスは夏なのだ。

 魔女号から降りる際、ウリ・ジオンから完全無欠な身分証を受け取った。金の力は偉大なり。

 エスカ・オブライエンだって。性別を記入する欄はない。シルデスでは、それが一般的だそうだ。助かった。

 エアカーは小一時間ほど飛んだあと、街中の、しますでしょうかとある建物の屋上に降り立った。近くに駅があり、停まっている電車が見えた。

 十二階ほどのビルで、周囲の建物に比べ、特に高い方ではない。

 エアカーを降りると、ウリ・ジオンはエスカを促して、入り口に向かった。手に大きめの箱を持っている。

 エスカの薬草や種が入っているのだ。秘かに短剣も入れてある。

 エスカは、ショルダーバッグひとつで身軽な出で立ちをしていた。シルデス製の薄い生地のチュニックが、肌に心地良い。

 内部に入ると、ウリ・ジオンは広い廊下を通って、ある部屋の前で立ち止まった。

 見ると、ドアにウサギのシールが貼ってある。またウサギか~。

 とりあえず、箱をクローゼットに置くと、ウリ・ジオンはエスカを伴って、再び廊下に出た。いくつ部屋があるのだろう。広いフロアである。

「このフロア、全部借りきってあるから。下の玄関から入る時は、直通のエレベーターがあるよ」

「ひょっとして、この建物会長さんの?」

「そう。だから遠慮はいらない」

 引き戸を引くと、そこはキッチンだった。ウサギの部屋の斜め向かいにあたる位置だ。

 鍋をかき混ぜていた女性が、振り向いた。

三十才前後の少しふっくらした、可愛らしい雰囲気の女性。褐色の髪にやはり褐色の瞳。

「お帰りなさい、ウリ・ジオンさん」

 嬉しそうに白い歯を見せた。

「こちらエスカ。これから世話になるよ」

「よろしくお願いします」

 エスカは会釈した。この人がホロの娘さんか。明るそうで、感じのいい人だ。

「アニタです。仲良くしようね」

 とびきりの笑顔を見せてくれた。

「ホロさんにお世話になりました」

「父のお料理は、美味しかったでしょう?」

「それはもう」

「あたしも時々、レシピ聞きに行くのよ」

 あはは、と屈託なくアニタは笑い、ウリ・ジオンに向いた。

「皆さんお待ちですよ。すぐ夕食にしますからね」

「ダイニングに行こうか」

「え」

 いきなり知らないメンバーと食事? エスカは、そういう場面に慣れていなかった。

 魔女号で何とかやってこれたのは、回りが気さくな人たちだったからだ。

 それが、ここにはラヴェンナの王子がいると聞いた。トリニタリア王女の婚約者であるヴァルス公爵。そのライバルになろうとしている、ラヴェンナの王子。

「気にすることないよ。あのふたりも僕も、居候なんだから」

 エスカは居候の新参者。挨拶だけして退散しよう。夕食なんて食べなくていい。

 ダイニングルームは広く、少し離れた所に小さな低めのテーブルと大きなソファがある。

 食後は、そちらでお茶を楽しむのだろうか。ソファの側にも、廊下から通じるドアがある。

 若い男がふたり、ソファで寛いでいた。ウリ・ジオンとエスカに気づいたひとりが、立ち上がった。もうひとり、ソファに座ったままの男に、立つよう促す。ふたりとも長身である。二十才前後か?

 促された男は、かったるそうに立ち上がった。褐色の肌に、ライオンのたてがみを思わせる、豊かなオレンジ色の頭髪が目立つ。

 少しきついオレンジ色の瞳。ラヴェンナ人には見えない。他国人の血が、混じっているようだ。

「この子がエスカだよ。仲良くやっていこう」 

「エスカです。よろしくお願いします」

 型通りの挨拶をして、会釈をする。

「アルトス・デ・ラヴェンナ」

 オレンジはそれだけ言うと、またソファに腰をおろした。何さまだ。いや、王子殿下なのはわかるが。

 最初に立ち上がった若者は、苦笑した。浅黒い肌に黒い髪、青く綺麗な目をしている。ラヴェンナ人である。

「サイムス・パルツィ。殿下の護衛を務めている。よろしく」

 片手を差し出した。大きくてごついが、温かい手だ。

 ドアがノックされて、アニタがワゴンを押して入ってきた。ワゴンには、湯気の立つ鍋が載せられている。

 アニタは手慣れた様子で、ダイニングテーブルの隣にある大きめのテーブルに、鍋と食器を並べ始めた。

「ここはカフェテリア式なの。自分でよそって食べる。あたしは楽で助かるけどさ」

 空になったワゴンを押してドアを出る時に、エスカも続いて出た。

「え、あんた」

「キッチンで食べていいかな?」

 アニタは笑った。

「構わないけど。できますあたしは、これで帰るの。マデリンが、もう来てもいい頃なのに。でないと、あんたひとりで食べることになるから」

「それは別に構わないけど、マデリンって誰?」

「メイド兼殿下のコレ」

 と言って、アニタは小指を立てた。マデリンとやらに、いい印象をもっていないのが見てとれた。

「最初は、朝から来てたの。でも、すぐに午後からご出勤になった。夜遅くまでお仕事るからだって。なんのお仕事してるんだか」

 相当、怒りが鬱積しているようだ。

「そこのベルが鳴ったら、マデリンがワゴンでお茶を運ぶ。そのワゴンで食器を片付けて来て、さっと洗って食洗機に入れておく。

 マデリンがやるのはそれだけ。まったく最近は夕方出勤になっちゃって」

「エスカ」

 ウリ・ジオンが、引き戸を少し開けた。

「食事だよ」

「あ、悪い。僕ここで頂くから」

「え」

「無理ないよ。ウリ・ジオンさん、あんた上司と食事したいと思う?」

「そっか」

 ウリ・ジオンは、苦笑して引き戸を閉めた。閉める直前、若い女性の笑い声が聞こえた。アニタは首を竦める。

「ご登場だよ。エスカ、頑張ってね」

 アニタはそそくさとエプロンを外し、大型のバッグを肩に掛けると、逃げるにかずとばかりに駆け出した。

 エスカが、自分の食事を皿によそっていると、勢いよく引き戸が開いた。濃い金髪の華やかな顔が覗く。

 二十才前後の美人である。胸が大きく開いた黒のワンピース。腰が引き締まってスタイルがいい。

 が、どう見てもメイドの服装ではない。アニタも私服だったところを見ると、ここでは制服はないようだ。

「あなたがエスカ? あたしはマデリン。よろしくね」

「よろしくお願いします」

 頷くと、マデリンは自分の食事を用意し始めた。エスカが椅子に座ろうとしたのを見て、マデリンが見咎めた。

「なに、ここで食べるの?」

 非難の口調である。エスカは立ち上がった。

「部屋でいただきます」

「分を弁えてるわね」

 アニタがマデリンを嫌う理由のひとつがわかった。

「ちょっと、どこ見てるのよ!」

 エスカの視線に気づいて、マデリンは不快そうな声を出した。エスカは、無言で視線を逸らす。

「片付ける時は、呼ぶからね」

 エスカは頷いて、キッチンを出た。ひょっとして、ここでも下僕をやるのか? 聞いてないけど。後でウリ・ジオンに確認しよう。

 エスカは空腹の筈だったが、なぜか食べる気がせず、やっと料理を飲み込んだ。アニタの腕が確かなのは、わかったのだが。

 しばらくすると、強くドアがノックされた。乱暴な女だ。エスカはトレイを持って部屋を出た。

 キッチンのワゴンに、お茶のセットが載せられている。マデリンは引き戸を開けた。

「それ押して」

 ワゴンを運ぶのは、エスカの仕事のようだ。そうだよな。亡命させてくれて、住まいも提供してくれて、遊んで暮らしていい筈はない。

 マデリンがダイニングのドアを開けると、男三人の目がこちらを向いた。三人とも食事を終えて、ソファに移動していた。

 エスカは、会釈してワゴンを押す。マデリンは、ちゃっちゃとお茶をカップに注ぎ、それぞれの前に置く。

 ダイニングで食器を片付けていたエスカは、アルトスのカップだけ、他のふたりと異なることに気づいた。

「あの」

 ソファに近づく。

「なに、そっち片付けてよ」

「マデリン」

 ウリ・ジオンが、穏やかに声をかけた。

「エスカは使用人じゃない。俺たちと同じ立場だ」

「あらそう? キッチンで食べようとしてたから、てっきりあたしのお仲間かと思っちゃった」

「客人が来るって話しただろう?」

 ウリ・ジオンはエスカを見た。

「どこで食べたの?」

「自分から、お部屋で食べるって言ったのよ」

 と、マデリン。微妙に違うと思うが。

「その子、嫌らしいのよ。あたしの胸、じっと見てたの」

「そうか。後で注意しておくよ。実は、これから男だけでエスカの歓迎会をやるんだよ」

「え、そんなの聞いてない」

「今言ったろ。だから、マデリンはこれで帰っていいよ」

 エスカは、この話がほかのふたりの男にとっても初耳であることを感じた。

「早く帰ったからって、給料を減らしたりしないからさ。はい、お疲れさん」

「だ、だって殿下が……」

「お休み、マデリン」

 意外にも、アルトスはあっさりと手を振った。

 ウリ・ジオンは、マデリンがしぶしぶ部屋を出ると、ドアを閉めて鍵をかけ、さらに椅子をドアノブの下に運んだ。

「マデリンは、鍵持ってるからな」

 にやりと笑う。サイムスもなぜか嬉しそうに、ダイニング側のドアに同じ事をした。

 ウリ・ジオンとサイムスは、お色気満艦飾のマデリンがお好みではないらしい。

 エスカは、今にもカップのお茶に手を伸ばそうとしていたアルトスから、カップを引き離した。

「失礼します」

 ブルーの花柄、内側にも釉薬がほどこされている。他のふたりの物は、ごく一般的な白いカップだが、これは高級品だった。

「このカップは?」

「マデリンがくれた」

 ぼそっとアルトスが言う。メイドの給料で? エスカは、ブルーのカップの匂いを嗅いだ。ついで一口飲んで、顔をしかめた。

「なんだよ」

 アルトスが、不機嫌そうな声を出した。

「これ、毎日飲んでます?」

 アルトスは、横を向いて無言である。

「マデリンが来る日は、いつもな。つまり週五日、夕食後に」

 護衛官のサイムスが、代わって答える。

「いつから?」

「マデリンが来るようになってからだ。半年位前からかな」

「半年……」

 エスカは絶句した。これを半年間、ほぼ毎日だって?

「なんだよ」

 アルトスは、イライラし始めたようだ。

「毒でも入っていると言うのか」

「それに近いですね」

 えっ、と三人が反応した。

 エスカは、カップボードに並べてある、予備の白いカップを取り出した。アルトスのお茶を、白いカップに移す。

「濃いなぁ」

「なんだ?」

 ウリ・ジオンが覗き込んだ。

「これ少量だと、痛み止めに使えるんだよ。でもこう濃いと」

 エスカは首を傾げた。

「失礼ですが、殿下何才で?」

「ハタチ」

 むすっとした返事。

「ハタチで強壮剤って、必要ですか?」

「強壮剤だって?」

 サイムスは、アルトスを見た。アルトスは、ただ驚いたようだ。

「健康にいいからと、マデリンが」

 エスカは首を振った。

「二度と飲まないでください。薬は後で処分しておきます」

 三人は、顔を見合わせた。

「まずいのか、それ?」

「ちょっとね。副反応が出るかもしれない」

「お前は医師か」

 アルトスが抑えた声で言う。

「ちょっと薬草に詳しいだけです」

「薬草とマデリンの胸に、何の関係があるんだ?」

 喧嘩売ってんのか? 愛しのマデリンちゃんか。趣味わる。

「アルトス」

 サイムスがなだめた。

「造り物の胸を見たのは、初めてだったのでつい。失礼しました」

「はぁ?」

 三人の男たちの視線が、エスカに集中した。

「あ、あれ、造り物だったのか」

 ウリ・ジオンは、エスカを凝視した。

「見ればわかるでしょ。あれだけ見事に左右対称だなんて、不自然だよ」

「何で、左右対称が不自然なんだ?」

「自分の目、鏡で見ればわかるよ。左右違うでしょ」 

「あ。俺の目、左が少し小さいんだ」

 とサイムス。

「そう言えば、俺は右が小さいな」

「僕はおんなじに見えるけど」

「ウリ・ジオンは、左目の目尻が右よりつり上がってるよね。ほんの少し違うのが自然だよ」

「そうか?」

 ウリ・ジオンは、壁の鏡を見て納得した。

「ほんとの胸は、小さめだけどきれいな形してたのに、何でああいう事するかなぁ。サイズだけが問題じゃないと思うけど。もったいない」

「見てわかるの?」

 とサイムス。エスカは頷いた。

 ウリ・ジオンが、慌ててエスカの手を引っ張ると、部屋の隅に連れて行った。小さい声でささやく。

「お前な、自覚しろよ。普通の人間には、そういうの見えないんだって」

「あ、そうだった」

「とにかく、馬鹿のふりしてろ。妙な組織に狙われると困る」

 サイムスが少し近づいて、聞き耳を立てている。ウリ・ジオンは笑いながら、エスカの手を放した。

「こいつ霊力があるからな。ま、気にしないでくれ」

「霊力って……」

 サイムスは、納得できないようだ。 

「神殿育ちなんだ」

 アルトスとサイムスは、顔を見合わせた。エスカは、再びダイニングテーブルの片付けに戻ったが、気を取り直しアルトスに近づいた。

 知ったかぶりと言われようが、大きなお世話だと思われようが、確認しておかなければならない。

「最後にひとつ、心音を確認させていただけますか」

 アルトスはむすっとした顔ではあるが、頷いた。

「ありがとうございます。シャツをはだけていただきたいのですが」

 アルトスは不機嫌な顔のまま、シャツのボタンを外した。上質な絹である。

 一国の王子なのだから、当たり前か。下に着ているのは、汗を吸いとりやすい綿だが、これも極上品だ。

「失礼します」

 エスカは、そっと綿の上から アルトスの左胸に手を当てた。アルトスが身震いする。

「冷たい」

「申し訳ありません」

 エスカは、慎重に心音を確かめた。ぎりぎり間に合ったか。だが、心配させても仕方がない。

「大丈夫です。ありがとうございました」

 エスカが少し身を屈めて、シャツのボタンをとめようとした時である。

 ピシャーン! という激しい打擲音と同時に、アルトスの怒声が響いた。

「自分でできる!」

 エスカは後方によろめき、サイムスが胸で受け止める形になった。打たれた右手が、びりびりと痺れている。

「アルトスっ!」

 サイムスが地響きのするような声で、アルトスを怒鳴りつけた。

「失礼しました」

  エスカは会釈をして、その場を離れた。ダイニングテーブルに戻り、食器をワゴンに載せようとするが、左手しか使えない。

 我に返ったウリ・ジオンが、走り寄った。ドアノブを押さえていた椅子を動かし、ドアを開けて、廊下に出る。ウリ・ジオンは、ワゴンを押した。

 そのままキッチンに入るまで、ふたりは無言である。

「悪かった」

 エスカは、無言のまま左手でシンクに食器を入れる。

「そんなこと、しなくていいんだって。居候らしくしていろよ」

 ウリ・ジオンは、エスカを助けに来たのではない。アルトスを庇うために来たのだ。隣に立つウリ・ジオンの雰囲気から、エスカはそれを確信した。

「居候だからやるんだよ!」

 ウリ・ジオンはびくりとして、エスカを見た。

「食事も住まいもおんぶに抱っこ。顎で人をこき使って、挙げ句に女まで連れ込んで! ウリ・ジオンのいう居候の定義ってなに? 僕の頭でもわかるように、説明してみろよ!」

 エスカの怒涛の反撃に、ウリ・ジオンは後退あとずさりする。

「本当に悪かったと思うなら、ここにあのアホンダラ王子を呼んで、皿洗いやらせてみろよ! できないでしょ、口だけ男! 

 僕が何をされても、おとなしく引っ込むと思ったのか! あの場面で火を放つとは、考えなかったのか!」 

 ウリ・ジオンは仰天して、背後の壁で背中を支えた。引き戸が開いた。

 サイムスは、素早くキッチンに体を滑り込ませると、ウリ・ジオンに廊下に出るよう、顎でしゃくった。妙に貫禄があった。

 ウリ・ジオンは、何か言いたそうだったが、俯いて室外に出た。

「俺がやるよ。一応護衛官だからな。主人の暴走を止められなくて悪かった」

 腕捲りをして皿を洗い始める。こいつもアルトスのために来たんだ。

「痛むか」

 当たり前だろう。サイムスは一旦手を拭くと、冷凍室から保冷剤を取り出した。

 エスカの赤く腫れ上がった手に持たせようとするが、まだ手は痺れていて、指を曲げることができない。サイムスは息を飲んだ。

「思い切りやってくれたな。後は俺がやるから、もう休めよ。疲れただろう」 

 言われて気づいた。くたくただった。負け惜しみを言う気力もない。

「ありがとうございます、サイムスさん」

「サイムスでいいよ。おやすみエスカ」

「おやすみなさい、サイムスさん」

 サイムスは苦笑したようだ。

 ウサギマークの部屋に入ると、鍵をかける。へなへなと床に座りこんだ。疲労の限界だった。

 女神殿一辛抱強い、という評判のエスカが、どうしたことだろう。どこでタガが外れてしまったのか。

 思えば、シルデスという異国に着いたのは、数時間前のことだったのに、ずいぶん日にちがたったような気がする。

 エスカは少し背を伸ばしてから、左手で赤い右手に触れた。みるみる赤みが退いていく。

 凄い馬鹿力だった。咄嗟に防御しなかったら、小指の骨が折れていただろう。

 何がアルトスの逆鱗に触れたのか、エスカには理解できない。だが、わからない事を考えても仕方がない。

 気を取り直し、立ち上がって、机の前の椅子をドアまで運ぶ。窓の鍵を確かめ、厚手のカーテンを引く。

 それにしても、あんな場面で雷刃が来る筈はないだろう。ウリ・ジオンのびびった顔を思いだし、エスカは少しだけ溜飲を下げた。

 それからバスルームに向かった。

「明日からの事は、明日考えよう」

 シャワーと一緒に、涙も洗い流した。

 

 翌朝、エスカは身支度を整えると、キッチンに向かった。マデリンの薬を回収するためだ。

 キッチンは、きちんと片付けられていた。サイムスは、几帳面な男のようだ。

 毎日使っていたのなら、取り出しやすい所にあるはずだ。

 食器戸棚の真ん中へんに、ピンクのハートマークの箱がある。マデリンの趣味に辟易しつつ、蓋を開けて中を確認したエスカは、目を剥いた。

「夕方から、また一騒動だな」

 箱を持って自室に戻ったエスカは、考え込んだ。

 三人が出かけるのを待って、エスカはアニタとフロア中の掃除をした。

「助かるよ。いつもはひとりだから、毎日全部は出来なくてさ」

 ふたりで昼食をとると、買い出しに出た。エスカは、街というものを知らなかった。女神殿の外に出ることを、許されなかったからだ。僅かな例外を除いて。

 アニタから買い物の仕方だの、電車やバスの乗り方だの、日常生活に必要な事を、教えてもらった。

 大型店の他に、個人経営の小さな店もある。エスカはおのぼりさんよろしく、きょろきょろしながら、街歩きを楽しんだ。

 仕入れた食材を手分けして持ち、帰途につく。

「アニタ、今日も夕方からごたごたするからね。仕事終わったら、さっさと引き上げた方がいいよ」

「今日もって、昨日何かあったの?」

 アニタは、鈍い人ではないらしい。

「ちょっとね」

 エスカにとって、ちょっとどころではないが、あのパー助三人組は、意に介していないかも知れない。

 アニタは、いつにもまして手早く夕食の支度を済ませると、まだ時刻が早いにも関わらず、さっさとワゴンを運び始めた。

 エスカは、どうしてもダイニングルームに行く勇気がでなかった。訳は言えなかったが、アニタに詫びて、自室に引っ込んだ。

 マデリンが来たら、キッチンに行くつもりだ。

 しばらくすると、元気がいいと言うよりは、荒っぽい足音がして、マデリンが、キッチンに駆け込んだことがわかる。昨日の余波が残っているらしい。

「そろそろかな」

 エスカが腰を上げると同時に、マデリンの金切り声が聞こえた。反論するアニタの声も。

「知らないよ、あんたの薬なんて! 置くとこ間違えたんじゃないの?」

「あたしが間違える筈ないでしょ! いつも大切にそこに」

「僕が回収したよ」

 ふたりが、引き戸の前のエスカを見た。

「な、なんであんたが勝手に」

「なんで、殿下に毒なんか飲ませるの?」

 アニタが口を押さえる。マデリンは激昂した。

「毒なんて、飲ませてないわよ! 殿下は心臓が弱いから、丈夫になるように飲ませなさいって、言われたのよ!」

「へえ、誰に?」

 詰め寄る姿勢のエスカを、マデリンは反抗的な目で睨み付けた。

「あんたに関係ないでしょ」

「洗いざらい、話してもらうぞ」

「なによ、偉そうに」

 言葉が終わらないうちに、マデリンの体は前につんのめった。エスカが、顎でしゃくったのだ。

 そのままマデリンの体は、エスカの顎の示す方向に押し出された。マデリンは悲鳴を上げた。

「アニタ、このフロアに防音室はある?」

「あ、あるよ。この並びの、音符のシールが貼ってある部屋」

「鍵は?」

「開いてるよ」

 何でもシール。ここは幼稚園か。エスカはそのままマデリンを押す形で、廊下に出た。

 マデリンの悲鳴を聞き付けた三人が、やって来るところだった。マデリンが、よろめくように歩かされているのを見て、三人は茫然とエスカを見る。

 エスカはそれを無視して、防音室のドアを開け、マデリンを中に押し込んだ。続いて入ろうとするエスカに、ウリ・ジオンが悲鳴に近い声をかける。

「火をつけないでくれよ!」

小火ぼやくらいは出るかもね」

 無慈悲に言い放つと、エスカはドアを閉めた。さて。

「あ、適当に座って~」

 急に、エスカの口調が変わった。

「え?」

 驚いた顔のマデリンに微笑みかけ、エスカは室内を見渡した。

 大型のソファ、机、椅子。ソファーの端に、弦楽器が置かれている。爪弾くタイプの楽器のようだ。誰か楽器を使うのか。

 マデリンが座るのを待って、エスカも腰を下ろした。やはりこの濃紺のソファも極上品だ。金を出したのは、ウリ・ジオンの親父さんだろうが。

 空気が和らいだのを感じて、マデリンは口元を緩めた。

「どういうことなのかな。最初から話してくれる?」

「いいけど。あれが毒だったなんて、あたしもさっぱりなんだけどね」

 寛いで話し始めた。

「あたしんちは、もともと商売やってたの。でも左前になってさ、閉店しちゃったの。そしたら父さんの知り合いが、あたしにメイドの仕事を世話してくれたわけ。

 それが、ドディさんていう人のおうちだった。つまり、ここに来る前のあたしのご主人様。あたしんちより、大きいお店だった。

 それで、ドディさんがあたしに言い寄って来たのね。別に嫌じゃなかったから、お付き合いしたの。 

 そしたら奥さんにバレちゃって、追い出されたちゃったのよ。ちょっとひどくない?」

 エスカは、にこやかにうんうんと聞いている。どうやらマデリンの話を聞くには、忍耐力がいるようだ。

「それでね、ここのオーナーがメイドを探しているからって、ドディさんが紹介してくれたの。あたしとの関係は、内緒にしてって言われて」

 調査もしないで、採用したのか。天下のタンツ商会がなんということだ。

「その時に、あのお薬を渡されたのよ。あたしはセクシーだから、上手にアプローチすれば、殿下の愛人になれるって。

 そのお薬で殿下に元気になってもらう。それで子どもができれば、その子どもは王族になれるって。素敵なお話じゃない?」

 うわあ。つまりアルトスは、ドディとかいう商人のお古をもらったのか。阿呆。

「でね、会ってみたら凄い素敵な人じゃない? あたし、一目惚れしちゃったのよ」

「まあ、確かにイケメンだよね」

「でしょでしょ! だから、積極的に押したの。楽勝だったわよ」

「大成功だったね」

「そうなのそうなの!」

 なんだか、中高生の恋バナ風になってきた。

「それにね、体の相性もぴったりなのよ!」

「それはラッキーだ。運が良かったね」

 笑顔が、ひきつってきた気がする。

「でもね、かれこれ半年もお付き合いしてるのに、あたし妊娠しないのよ。変でしょ」

 そういうものなのか、イシネスでは普通だけど。

「ほら、シルデスでもラヴェンナでも、十八才になると成人検査やるでしょ? アルトスもあたしも正常だったのよ。避妊してないのに、なんでかしらね?」

 そういうのを、縁がないって言うんですよ、お嬢さん。話がそれてしまった。

「で、ドディさんは、誰からその薬をもらったって言ってたの?」

「確か、ジム・ジカンとかいう変な名前の人だった。何人なにじんかしらね?」

 吹き出すのをこらえた。

「ほんとだね、どこの国の人なのかなぁ」

 どうやら、ここまでらしい。

「でもあれが毒だったなんて、知らなかった。あれを渡された時に言われたんだ。

『三包みずつ毎日飲ませるといいよ。それより多いと、ヤバいことになる』って。だからあたし、きちんと三包み飲ませてたのに」

「三包みより多いとヤバい……」

「本当は、三包みでもヤバかったってこと? 悪いことしちゃったわね。あたしクビ?」

「かもね。でも、ダメ元で退職金請求してごらん。うまくいけばもらえるかも」

「うん、お願いしてみる。エスカ、あんたって頭いいのね」

「あはは、協力ありがとう。尋問おしまい」 

 エスカが立ち上がると、マデリンは驚いたようだ。

「え、これでおしまい?」

「そうだよ。何かされると思った?」

「うん、怒ってるみたいだったし」

「じゃ、びびったでしょ」

「びびった、びびった!」

 ふたりが笑いころげながらドアを開けると、男三人が慌ててドアから離れた様子が、見てとれた。

 防音室だよ。聞こえる筈がないだろうが。エスカとマデリンの様子を見て、男たちはぽかんとした。

 怒りのエスカと、ボロボロになったマデリンの図を、予想していたのかも知れない。

「アルトス、ほんとにごめんなさい」

 マデリンが殊勝に頭を下げた。エスカは、心配そうに立ち尽くしているアニタに声をかけた。

「帰らなかったの、アニタ」

「だって、心配で心配で」

「僕が、マデリンに暴力をふるうかもって?」

「ごめんね。エスカ、すごく怖い目してたから」

「どこぞの脳たりん王子じゃあるまいし、そんな事するはずないでしょ」

 マデリンと話しているアルトスの背中が、ピキッと音をたてたかのように反応した。一瞬、アニタの目が鋭く動いた。

「マデリンね、底意地の悪い人じゃなかった」

 アニタの顔がパッと明るくなった。

「じゃあ、これからはマデリンの悪口言うの、やめるね」

「僕も、悪く考えるのやめるよ」

 ふたりはちょっと笑った。

 マデリンとの話し合いがついたようだ。ウリ・ジオンが苦笑している。

「わかった。親父に交渉してみるよ」

 商談成立かな。

「サイムス、出口までマデリンを送ってくれ。ウリ・ジオンは手続きよろしく」

 で、王子さま。あんたは何すんの? 

「私物は置いてない?」

「あ、お化粧品が」

 マデリンは引き出しからポーチを出して、バッグに入れた。

「これで全部よ。じゃあね。アニタ、エスカ」

 エスカは右手の人差し指で、ちょんとマデリンのおでこをつついた。親愛の情を示したように見えた。

「エヘヘ」

 マデリンはご機嫌で、サイムスと出て行った。

「エスカ、マデリンとの話だけど」

 ウリ・ジオンが、意を決したように近づく。

「副長を呼んでください」

「はっ? 話なら僕が」

「副長、もしくはセダを」

 静かだが、妥協を許さない口調である。ウリ・ジオンの傷ついた表情を見たくなかったエスカは、洗い物を始めた。

「アニタ、これから一騒動あるかもしれないから、もう帰った方がいいよ」

 アニタは頷くと、尻に帆かけて廊下に飛び出した。

 暫くすると、エスカが驚いたことに、副長のアダと副長代理のセダが連れだって現れた。

 名前が似ているが、他人である。最初アダに会った時大男だと思ったが、セダもおっつかっつの体型で、間違えそうだ。

 エスカはふたりにお茶を出し、椅子をすすめた。

「キッチンでごめんね」

「そんなことはいいよ。疲れているんじゃないか、エスカ」

 アダが気を使ってくれる。

「どこまで聞いてる?」

「昨日から報告は一つも入っていない」

 ははぁ、都合の悪いことは言わないわけか。エスカは、王子毒殺未遂事件を、かいつまんで話した。もちろん、その後のごたごたには触れない。

「で、マデリンは、その薬を元雇い主のドディからもらったと。そのドディは、事務次官から受け取ったって」

「ドディと付き合いのある事務次官ね。調べよう」

「後は薬の出所だな」

「それはわかっているよ」

「え」

 ふたりの男が身を乗り出した。

「あれは僕の薬だ」

「えっ?」

「何かの間違いじゃないのか」

「間違いならいいけどね。自分で詰めたパックは分かるよ。

 マデリンが、『三包みより多いとヤバい』って、言ってたんだ。それって、僕が見習い巫女たちに説明した言葉、そのままだったんだよ。

 薬草の作業は、僕とふたりの見習い巫女たちがやっていた。

 摘んできた薬草を、洗って乾燥させて、選別する。その後、一回分ずつ計ってパック詰めするんだ。僕は選別とパック詰めを主にやっていて、数を数えて箱に詰めるのは、見習い巫女たちに任せていた。

 日付けと数、薬草名と効能なんかを書いたラベルを、箱に貼る。新しい箱が出来ると、一番古い箱の中身は、処分することにしているんだ。

 古い物も使えるけどね、カビや虫対策は十分にしているから。でも薬だから、新しい物の方がいいでしょ。

 恐らく、見習い巫女ふたりが共謀して、廃棄する筈の箱を何者かに渡していたのだと思うよ。

 それって、まだ僕が女神殿にいたころなんだよね。半年前からとなると、結構な量になるから、ひとりでこっそりは不可能だよ。

 捨てるところまで確認していなかったのは、僕の管理ミスです。ごめんなさい」

 王子を助けたつもりでいたが、自分の薬で殺すところだったのだ。エスカは、深々と頭を下げた。

「そこまで責任を感じることはないだろう。やる奴が悪い」

「しかし、十五の子にそんな重い仕事をやらせるとはな」

 アダとセダは、呆れるほどエスカを庇う。連絡員だとすると、シルデス側とイシネス側双方の話を聞いているわけだ。全部知っているだろう。同情票かな。

「ふたりとも優秀なんだけどな。まだ十三才だから、大人に騙されかも知れない」

「だろうな。となると、その見習い巫女たちと、事務次官を結ぶ線を調べないとな。間に何人か入っている筈だし」

「考えたくないけど、大人の巫女もいるかも」

「その場合、大巫女さまには知らせるか?」

 エスカは、ちょっと考え込んだ。

「知らせて。内部での処分は、任せた方がいいと思う」

「わかった。この件は引き継いだ。エスカはもう忘れろ」

「見せてくれないかな」

 セダが、遠慮がちに言う。

「左の二の腕。半袖着ないの、そのせいだろ」

 アダが頷く。

「箝口令がしかれてるのに、なぜ知ってるの」

「緊急手術した時、立ち会った看護師長がオレに惚れてる」 

 渋いオジさんのセダは、得意そうに鼻をうごめかした。

「情報が少なすぎて、会長にはあげてないんだ。ウリ・ジオンは知らないから、普通の半袖を用意したんだと思う。

 肘までの五分袖なら、着られるんじゃないかな。長袖ではまだまだ暑いぞ」

「質問なしなら、いいよ。恥ずかしくて見せないんじゃないから。いろいろ聞かれて、答えるのがめんどくさいだけ」

 ふたりは頷いた。エスカは、チュニックを脱ぎかけて手を止めた。

「あ、あの、これは僕の趣味じゃないからね。ウリ・ジオンが買ってきたんだから」

「わかった、わかった」

 とはいえ、現れたのはレース付きのピンクの下着。笑えなかったのは、傷跡を見たからである。

 左の二の腕いっぱいに、ギザギザの傷跡。まだ生々しい赤みが残っている。

「一年以上たつのに、まだこんななんだよ」

「痛かっただろう」

 はは、とエスカは笑った。

「ほとんど眠っていたからね。でも寒い時期は疼く」

 アダは、そっと傷跡を指で撫でた。セダがそっと唇を当てた。

「おい、抜け駆けするな」

 セダはにやりと笑う。

「やっぱり、会長に報告しておこう。後でバレたら厄介だ。で、ヒントが欲しいんだが」

「約一年ちょっと前に、伯爵から男爵に降格された人。でもこれは、個人的な憎しみみたいなのが起こしたことで、政治的な意味はないよ」

「わかった。君も災難だな」

「夜分来てくれてありがとう。で、一つお願いがあるんだけど」

 ダメ元である。

「ここを出たい」

 アダとセダは、顔を見合わせた。

「理由を聞かせてくれないかな」

「息が詰まる」

 その一言で、アダはため息をついた。

「あのな。このフロアの両端に、SPがいるの知ってる?」

 エスカは首を横に振った。

「不満はあるだろうが、ここがいちばん安全なんだよ」

「SPっていつからいるの?」

「殿下が、イシネスの王女の婚約者候補になった時からだよ」

「じゃあ、殿下のためのSPだから、僕には関係ないんじゃないの。僕、自分の身は自分で守れるから」

「そりゃあまぁ、攻撃は最大の防御って言うからなぁ」

 茶化したセダが、アダに睨まれた。

「僕がここにいると、遠からず火事が起きるかも」

「おいおい、脅迫はいかんぞ!」

 それでもふたりの男たちは、会長に話してみることを約束してくれた。

「ウリ・ジオンにも、この話はしないといけないんだが、かまわないか?」

「別にいいよ。僕が、直接話したくないだけだから」

「何があったんだ?」

「ウリ・ジオンに聞いてよ」

「ピンク似合ってるぞ」

 アダの言葉で会談は終了した。

 その晩、エスカは熟睡した。前夜は緊張が残っていて、よく眠れなかったせいもある。ふたりに話して、肩の荷が少し降りた気もした。

 明日は平穏な日だといいな。願いは、見事に裏切られることになる。


 三人が出かけてから、エスカとアニタは、朝食の後片付けと掃除をした。広いので結構時間がかかる。

 ふたりでお昼を食べ、前日のように買い出しに出た。帰宅すると、アニタに電話がかかってきた。

 聞くともなしに聞いていると、どうやらホロからのようだ。電話を切ってエスカを振り向いたアニタは、困惑している。

「さっきウリ・ジオンさんが、会長さんに呼び出されて、えらく怒られていたんだって」

 アダたちから連絡を受けたのか。

「会長さんがいくら問い詰めても、ウリ・ジオンさんは、何も言わなかったって。ぴくりとも動かなかったそうだよ」

 あの暴行事件の事だな。

「会長さんの方が根負けして、解放したって言ってた。父さんは、坊っちゃんを見直したって言ってたよ。あの可愛い顔で、よく頑張ったって」

 頑張るのと可愛い顔は、関係ないと思う。

「ねぇ、一昨日の夜、何があったの?」

「アニタにお鉢が回ってきたわけ?」

「う」

「あのね。僕の中では、もう終わってるんだ。だから忘れてください」

 エスカにしてみれば、元凶はエスカの薬草なのだ。そのせいで、アルトスは多分苦しむことになるだろう。

 それなら、殴られようが蹴られようが、諦めるつもりでいる。だがあの打擲は、突発的なものだった。いずれにせよ、終わりにしたい。

「エスカがそう言うなら、いいけどね」

「殿下はどうしてる?」

「いつにもまして、ぐうたらしてるよ」

 副反応が出てきたのか?

 アニタは夕食をワゴンに載せて廊下に出た。ほどなく戻って来ると、今度は、お茶のセットを運ぶ。

 ふとエスカは、思い至った。アニタは、ホロが単に自分の娘を紹介しただけの事ではない。やはり、連絡員を勤めているのではないか。

 本来なら、ベルが鳴ってからお茶を運ぶのだが、マデリンはいないわ、エスカはトラウマで、ダイニングルームに入れないわで、仕方がないのだ。それでも、アニタの勤務時間ぎりぎりである。

 エスカが申し訳なく思っていると、突然、陶器の割れる音がした。エスカは、咄嗟に台布巾と雑巾、小さなボウルを手に取り、廊下に飛び出した。

 ノックもせずに、リビング側のドアを開ける。案の定、リビングテーブルの下に、お茶と陶器の欠片が散乱していた。

「アニタはテーブルを拭いて! 床は僕がやるから」

 見ると、パー助三人組は知らんぷりをして食事をしている。

「危ないから、あたしが」

「平気。僕、粗忽だから、よくやるんだ。慣れてるよ」

 ボウルに破片を入れ、床を拭く。

「ごめんね」

「よくあることでしょ」

「エスカ」

 どうした風の吹き回しか、王子殿下からお声がかかった。食べ終えたのか、ゆったりと歩いて来て、ソファに腰をおろした。

 サイムスが、後を追って来る。こいつの護衛官は、苦労が多いな。

「俺に気があるのか?」

「はぁ?」

「ごめんエスカ。さっきウリ・ジオンさんから、エスカの様子を聞かれたから、殿下の事気にしてるって」

 エスカは雑巾を置くと、アルトスの背後に回った。すかさず、サイムスが間に入ろうとする。学習能力がありますね、騎士どの。 

 エスカは、素早くアルトスの耳元に囁いた。

「ヘナチンに興味はないよ」

 言った瞬間、エスカはその場を離れた。こちらにも学習能力はある。

 真っ赤になって、立ち上がろうとしたアルトスの肩を、サイムスが背後から押さえた。エスカは、床掃除に戻っている。ちょっと気の毒かな。

「副反応の一つだから、恥ずかしいことではないよ。静かに暮らしていれば、自然と元に戻る。三ヶ月ぐらいかかるかもだけど」

 『使いすぎたんだから、休めた方がいいよ』とはさすがに言えない。

「ごめんなさい。ふたりきりの時に、話そうと思っていたんだけど、チャンスがなくて」

 サイムスとウリ・ジオンが、顔を見合わせる。赤面したまま俯いているアルトスに、アニタが追い討ちをかけた。

「殿下、エスカに何をしたんですか?」

 直球である。アルトスが顔を上げた。

「いちいち、うるさいんだよ! 手をひっぱたいただけだろうが!」

 クリーンヒット! 容疑者から自白を引き出したのである。

 サイムスとウリ・ジオンは、蒼白になった。昼間のウリ・ジオンの頑張りは、水泡に帰したことになる。

 一方、アニタの血圧は急上昇した。

「手を、ひっぱたいた、だけ?」

 危険水域突入。

「あんたねっ!」

 一国の王子を、あんた呼ばわりである。

「エスカの前で、三べん回ってワンと言って、土下座しなさいっ!」

 サイムスとウリ・ジオンは、目を鳩豆にしている。アニタが怒ったところを見たのは、初めてのようだ。

「ありがとうアニタ」

 アニタを促して、廊下に出ようとしたエスカは、室内に背を向けたまま呟いた。

「自意識過剰も、たいがいにしろ」

 リビングのドアをぴったり閉め、キッチンの引き戸もしっかり閉めたエスカは、たまらず爆笑した。

 アニタは、きょとんとしている。

「見事な啖呵だったね、アニタ」

「そ、そう? あ、あたし、殿下になんてことを……」

「つける薬のない奴は、ほっとけ」

 アニタに気を使わせたくない。

「それより、もう時間過ぎてるんじゃない?」

「いつもあくせくしてごめんね、ウチ赤ちゃんいるんだ」

「えええ! 早く言ってよ! 何ヵ月?」

「八ヶ月の女の子、リディっていうんだ。母さんにみてもらってるけどね」

「可愛い盛りじゃないか! 帰って帰って! 抱きしめてあげてね!」

「そうする」

 アニタは、飛び出して行った。

 エスカは、こぼれた分のお茶を沸かしている間に、割れ物を片付け、台布巾と雑巾を洗ってきっちり絞った。お茶のポットを持つと、意を決してリビングに向かった。

「失礼します」

 今度はきちんと挨拶をし、ポットをテーブルに置く。台布巾と雑巾を使って、汚れた部分の仕上げをした。ダイニングテーブルの片付けをする。

 パー三は、気まずい雰囲気のまま、座っている。サイムスがやって来た。

「あのさ。蒸し返して悪いんだけど。あの時、何で謝ったの?」

 エスカは顔を上げた。

「俺の妹のひとりはさ、間違ってちょっと触れても、少なくとも三倍返し、下手すりゃ十倍返しだよ。

 それなのに、エスカは謝っただろ? ひょっとしてエスカは、自分が悪くなくても、謝らないといけないような所にいたのかな、って思って」

 さっき床を拭く姿を見て、気づくところがあったのだろうか。

「下僕だったからね。ウリ・ジオンから聞いてないの? お優しいお坊ちゃまは、僕に恥をかかせまいとして、黙っていてくれたのかな?」

 ウリ・ジオンが口を開きかけた。エスカは構わず続ける。

「僕は、恥ずかしいなんて思ったことはないよ。一生懸命働いていたからね」

 何もしないエライお方より、マシだと思うけど。そのままエスカは廊下に出た。

 洗い物を済ませて、トレイに食事とお茶を載せ、エスカは自室に入った。

 昨夜と同じに戸締まりをすると、ほっとした。ここは自分の城だ。 

 シャワーから戻ると、アダからメールが来ていた。

『会長からゴーサインが出た。一週間以内に、引っ越しの予定』

『ありがとうございます』

 ホロから連絡を受けた会長が、アダたちから聞いた話と合わせて、総合的に判断したのだろう。同居を続けたらかえって危険だと。どちらが危険と思ったのかは、不明だが。

 今夜も、ぐっすり眠れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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