第3話 アルトス殿下の合宿所
魔女号がシルデスの港に着いたのは、翌日の正午過ぎだった。
エスカは、イシネスからの輸入品である絹織物のコンテナに潜り込んで、税関をくぐり抜けた。
その後、ウリ・ジオンのエアカーに乗せてもらい、宿舎に向かったのは夕刻近かった。
「暑い」
それが最初の感想だった。シルデスは夏なのだ。
魔女号から降りる際、ウリ・ジオンから完全無欠な身分証を受け取った。金の力は偉大なり。
エスカ・オブライエンだって。性別を記入する欄はない。シルデスでは、それが一般的だそうだ。助かった。
エアカーは小一時間ほど飛んだあと、街中の、しますでしょうかとある建物の屋上に降り立った。近くに駅があり、停まっている電車が見えた。
十二階ほどのビルで、周囲の建物に比べ、特に高い方ではない。
エアカーを降りると、ウリ・ジオンはエスカを促して、入り口に向かった。手に大きめの箱を持っている。
エスカの薬草や種が入っているのだ。秘かに短剣も入れてある。
エスカは、ショルダーバッグひとつで身軽な出で立ちをしていた。シルデス製の薄い生地のチュニックが、肌に心地良い。
内部に入ると、ウリ・ジオンは広い廊下を通って、ある部屋の前で立ち止まった。
見ると、ドアにウサギのシールが貼ってある。またウサギか~。
とりあえず、箱をクローゼットに置くと、ウリ・ジオンはエスカを伴って、再び廊下に出た。いくつ部屋があるのだろう。広いフロアである。
「このフロア、全部借りきってあるから。下の玄関から入る時は、直通のエレベーターがあるよ」
「ひょっとして、この建物会長さんの?」
「そう。だから遠慮はいらない」
引き戸を引くと、そこはキッチンだった。ウサギの部屋の斜め向かいにあたる位置だ。
鍋をかき混ぜていた女性が、振り向いた。
三十才前後の少しふっくらした、可愛らしい雰囲気の女性。褐色の髪にやはり褐色の瞳。
「お帰りなさい、ウリ・ジオンさん」
嬉しそうに白い歯を見せた。
「こちらエスカ。これから世話になるよ」
「よろしくお願いします」
エスカは会釈した。この人がホロの娘さんか。明るそうで、感じのいい人だ。
「アニタです。仲良くしようね」
とびきりの笑顔を見せてくれた。
「ホロさんにお世話になりました」
「父のお料理は、美味しかったでしょう?」
「それはもう」
「あたしも時々、レシピ聞きに行くのよ」
あはは、と屈託なくアニタは笑い、ウリ・ジオンに向いた。
「皆さんお待ちですよ。すぐ夕食にしますからね」
「ダイニングに行こうか」
「え」
いきなり知らないメンバーと食事? エスカは、そういう場面に慣れていなかった。
魔女号で何とかやってこれたのは、回りが気さくな人たちだったからだ。
それが、ここにはラヴェンナの王子がいると聞いた。トリニタリア王女の婚約者であるヴァルス公爵。そのライバルになろうとしている、ラヴェンナの王子。
「気にすることないよ。あのふたりも僕も、居候なんだから」
エスカは居候の新参者。挨拶だけして退散しよう。夕食なんて食べなくていい。
ダイニングルームは広く、少し離れた所に小さな低めのテーブルと大きなソファがある。
食後は、そちらでお茶を楽しむのだろうか。ソファの側にも、廊下から通じるドアがある。
若い男がふたり、ソファで寛いでいた。ウリ・ジオンとエスカに気づいたひとりが、立ち上がった。もうひとり、ソファに座ったままの男に、立つよう促す。ふたりとも長身である。二十才前後か?
促された男は、かったるそうに立ち上がった。褐色の肌に、ライオンのたてがみを思わせる、豊かなオレンジ色の頭髪が目立つ。
少しきついオレンジ色の瞳。ラヴェンナ人には見えない。他国人の血が、混じっているようだ。
「この子がエスカだよ。仲良くやっていこう」
「エスカです。よろしくお願いします」
型通りの挨拶をして、会釈をする。
「アルトス・デ・ラヴェンナ」
オレンジはそれだけ言うと、またソファに腰をおろした。何さまだ。いや、王子殿下なのはわかるが。
最初に立ち上がった若者は、苦笑した。浅黒い肌に黒い髪、青く綺麗な目をしている。ラヴェンナ人である。
「サイムス・パルツィ。殿下の護衛を務めている。よろしく」
片手を差し出した。大きくてごついが、温かい手だ。
ドアがノックされて、アニタがワゴンを押して入ってきた。ワゴンには、湯気の立つ鍋が載せられている。
アニタは手慣れた様子で、ダイニングテーブルの隣にある大きめのテーブルに、鍋と食器を並べ始めた。
「ここはカフェテリア式なの。自分でよそって食べる。あたしは楽で助かるけどさ」
空になったワゴンを押してドアを出る時に、エスカも続いて出た。
「え、あんた」
「キッチンで食べていいかな?」
アニタは笑った。
「構わないけど。できますあたしは、これで帰るの。マデリンが、もう来てもいい頃なのに。でないと、あんたひとりで食べることになるから」
「それは別に構わないけど、マデリンって誰?」
「メイド兼殿下のコレ」
と言って、アニタは小指を立てた。マデリンとやらに、いい印象をもっていないのが見てとれた。
「最初は、朝から来てたの。でも、すぐに午後からご出勤になった。夜遅くまでお仕事るからだって。なんのお仕事してるんだか」
相当、怒りが鬱積しているようだ。
「そこのベルが鳴ったら、マデリンがワゴンでお茶を運ぶ。そのワゴンで食器を片付けて来て、さっと洗って食洗機に入れておく。
マデリンがやるのはそれだけ。まったく最近は夕方出勤になっちゃって」
「エスカ」
ウリ・ジオンが、引き戸を少し開けた。
「食事だよ」
「あ、悪い。僕ここで頂くから」
「え」
「無理ないよ。ウリ・ジオンさん、あんた上司と食事したいと思う?」
「そっか」
ウリ・ジオンは、苦笑して引き戸を閉めた。閉める直前、若い女性の笑い声が聞こえた。アニタは首を竦める。
「ご登場だよ。エスカ、頑張ってね」
アニタはそそくさとエプロンを外し、大型のバッグを肩に掛けると、逃げるに
エスカが、自分の食事を皿によそっていると、勢いよく引き戸が開いた。濃い金髪の華やかな顔が覗く。
二十才前後の美人である。胸が大きく開いた黒のワンピース。腰が引き締まってスタイルがいい。
が、どう見てもメイドの服装ではない。アニタも私服だったところを見ると、ここでは制服はないようだ。
「あなたがエスカ? あたしはマデリン。よろしくね」
「よろしくお願いします」
頷くと、マデリンは自分の食事を用意し始めた。エスカが椅子に座ろうとしたのを見て、マデリンが見咎めた。
「なに、ここで食べるの?」
非難の口調である。エスカは立ち上がった。
「部屋でいただきます」
「分を弁えてるわね」
アニタがマデリンを嫌う理由のひとつがわかった。
「ちょっと、どこ見てるのよ!」
エスカの視線に気づいて、マデリンは不快そうな声を出した。エスカは、無言で視線を逸らす。
「片付ける時は、呼ぶからね」
エスカは頷いて、キッチンを出た。ひょっとして、ここでも下僕をやるのか? 聞いてないけど。後でウリ・ジオンに確認しよう。
エスカは空腹の筈だったが、なぜか食べる気がせず、やっと料理を飲み込んだ。アニタの腕が確かなのは、わかったのだが。
しばらくすると、強くドアがノックされた。乱暴な女だ。エスカはトレイを持って部屋を出た。
キッチンのワゴンに、お茶のセットが載せられている。マデリンは引き戸を開けた。
「それ押して」
ワゴンを運ぶのは、エスカの仕事のようだ。そうだよな。亡命させてくれて、住まいも提供してくれて、遊んで暮らしていい筈はない。
マデリンがダイニングのドアを開けると、男三人の目がこちらを向いた。三人とも食事を終えて、ソファに移動していた。
エスカは、会釈してワゴンを押す。マデリンは、ちゃっちゃとお茶をカップに注ぎ、それぞれの前に置く。
ダイニングで食器を片付けていたエスカは、アルトスのカップだけ、他のふたりと異なることに気づいた。
「あの」
ソファに近づく。
「なに、そっち片付けてよ」
「マデリン」
ウリ・ジオンが、穏やかに声をかけた。
「エスカは使用人じゃない。俺たちと同じ立場だ」
「あらそう? キッチンで食べようとしてたから、てっきりあたしのお仲間かと思っちゃった」
「客人が来るって話しただろう?」
ウリ・ジオンはエスカを見た。
「どこで食べたの?」
「自分から、お部屋で食べるって言ったのよ」
と、マデリン。微妙に違うと思うが。
「その子、嫌らしいのよ。あたしの胸、じっと見てたの」
「そうか。後で注意しておくよ。実は、これから男だけでエスカの歓迎会をやるんだよ」
「え、そんなの聞いてない」
「今言ったろ。だから、マデリンはこれで帰っていいよ」
エスカは、この話がほかのふたりの男にとっても初耳であることを感じた。
「早く帰ったからって、給料を減らしたりしないからさ。はい、お疲れさん」
「だ、だって殿下が……」
「お休み、マデリン」
意外にも、アルトスはあっさりと手を振った。
ウリ・ジオンは、マデリンがしぶしぶ部屋を出ると、ドアを閉めて鍵をかけ、さらに椅子をドアノブの下に運んだ。
「マデリンは、鍵持ってるからな」
にやりと笑う。サイムスもなぜか嬉しそうに、ダイニング側のドアに同じ事をした。
ウリ・ジオンとサイムスは、お色気満艦飾のマデリンがお好みではないらしい。
エスカは、今にもカップのお茶に手を伸ばそうとしていたアルトスから、カップを引き離した。
「失礼します」
ブルーの花柄、内側にも釉薬がほどこされている。他のふたりの物は、ごく一般的な白いカップだが、これは高級品だった。
「このカップは?」
「マデリンがくれた」
ぼそっとアルトスが言う。メイドの給料で? エスカは、ブルーのカップの匂いを嗅いだ。ついで一口飲んで、顔をしかめた。
「なんだよ」
アルトスが、不機嫌そうな声を出した。
「これ、毎日飲んでます?」
アルトスは、横を向いて無言である。
「マデリンが来る日は、いつもな。つまり週五日、夕食後に」
護衛官のサイムスが、代わって答える。
「いつから?」
「マデリンが来るようになってからだ。半年位前からかな」
「半年……」
エスカは絶句した。これを半年間、ほぼ毎日だって?
「なんだよ」
アルトスは、イライラし始めたようだ。
「毒でも入っていると言うのか」
「それに近いですね」
えっ、と三人が反応した。
エスカは、カップボードに並べてある、予備の白いカップを取り出した。アルトスのお茶を、白いカップに移す。
「濃いなぁ」
「なんだ?」
ウリ・ジオンが覗き込んだ。
「これ少量だと、痛み止めに使えるんだよ。でもこう濃いと」
エスカは首を傾げた。
「失礼ですが、殿下何才で?」
「ハタチ」
むすっとした返事。
「ハタチで強壮剤って、必要ですか?」
「強壮剤だって?」
サイムスは、アルトスを見た。アルトスは、ただ驚いたようだ。
「健康にいいからと、マデリンが」
エスカは首を振った。
「二度と飲まないでください。薬は後で処分しておきます」
三人は、顔を見合わせた。
「まずいのか、それ?」
「ちょっとね。副反応が出るかもしれない」
「お前は医師か」
アルトスが抑えた声で言う。
「ちょっと薬草に詳しいだけです」
「薬草とマデリンの胸に、何の関係があるんだ?」
喧嘩売ってんのか? 愛しのマデリンちゃんか。趣味わる。
「アルトス」
サイムスがなだめた。
「造り物の胸を見たのは、初めてだったのでつい。失礼しました」
「はぁ?」
三人の男たちの視線が、エスカに集中した。
「あ、あれ、造り物だったのか」
ウリ・ジオンは、エスカを凝視した。
「見ればわかるでしょ。あれだけ見事に左右対称だなんて、不自然だよ」
「何で、左右対称が不自然なんだ?」
「自分の目、鏡で見ればわかるよ。左右違うでしょ」
「あ。俺の目、左が少し小さいんだ」
とサイムス。
「そう言えば、俺は右が小さいな」
「僕はおんなじに見えるけど」
「ウリ・ジオンは、左目の目尻が右よりつり上がってるよね。ほんの少し違うのが自然だよ」
「そうか?」
ウリ・ジオンは、壁の鏡を見て納得した。
「ほんとの胸は、小さめだけどきれいな形してたのに、何でああいう事するかなぁ。サイズだけが問題じゃないと思うけど。もったいない」
「見てわかるの?」
とサイムス。エスカは頷いた。
ウリ・ジオンが、慌ててエスカの手を引っ張ると、部屋の隅に連れて行った。小さい声でささやく。
「お前な、自覚しろよ。普通の人間には、そういうの見えないんだって」
「あ、そうだった」
「とにかく、馬鹿のふりしてろ。妙な組織に狙われると困る」
サイムスが少し近づいて、聞き耳を立てている。ウリ・ジオンは笑いながら、エスカの手を放した。
「こいつ霊力があるからな。ま、気にしないでくれ」
「霊力って……」
サイムスは、納得できないようだ。
「神殿育ちなんだ」
アルトスとサイムスは、顔を見合わせた。エスカは、再びダイニングテーブルの片付けに戻ったが、気を取り直しアルトスに近づいた。
知ったかぶりと言われようが、大きなお世話だと思われようが、確認しておかなければならない。
「最後にひとつ、心音を確認させていただけますか」
アルトスはむすっとした顔ではあるが、頷いた。
「ありがとうございます。シャツをはだけていただきたいのですが」
アルトスは不機嫌な顔のまま、シャツのボタンを外した。上質な絹である。
一国の王子なのだから、当たり前か。下に着ているのは、汗を吸いとりやすい綿だが、これも極上品だ。
「失礼します」
エスカは、そっと綿の上から アルトスの左胸に手を当てた。アルトスが身震いする。
「冷たい」
「申し訳ありません」
エスカは、慎重に心音を確かめた。ぎりぎり間に合ったか。だが、心配させても仕方がない。
「大丈夫です。ありがとうございました」
エスカが少し身を屈めて、シャツのボタンをとめようとした時である。
ピシャーン! という激しい打擲音と同時に、アルトスの怒声が響いた。
「自分でできる!」
エスカは後方によろめき、サイムスが胸で受け止める形になった。打たれた右手が、びりびりと痺れている。
「アルトスっ!」
サイムスが地響きのするような声で、アルトスを怒鳴りつけた。
「失礼しました」
エスカは会釈をして、その場を離れた。ダイニングテーブルに戻り、食器をワゴンに載せようとするが、左手しか使えない。
我に返ったウリ・ジオンが、走り寄った。ドアノブを押さえていた椅子を動かし、ドアを開けて、廊下に出る。ウリ・ジオンは、ワゴンを押した。
そのままキッチンに入るまで、ふたりは無言である。
「悪かった」
エスカは、無言のまま左手でシンクに食器を入れる。
「そんなこと、しなくていいんだって。居候らしくしていろよ」
ウリ・ジオンは、エスカを助けに来たのではない。アルトスを庇うために来たのだ。隣に立つウリ・ジオンの雰囲気から、エスカはそれを確信した。
「居候だからやるんだよ!」
ウリ・ジオンはびくりとして、エスカを見た。
「食事も住まいもおんぶに抱っこ。顎で人をこき使って、挙げ句に女まで連れ込んで! ウリ・ジオンのいう居候の定義ってなに? 僕の頭でもわかるように、説明してみろよ!」
エスカの怒涛の反撃に、ウリ・ジオンは
「本当に悪かったと思うなら、ここにあのアホンダラ王子を呼んで、皿洗いやらせてみろよ! できないでしょ、口だけ男!
僕が何をされても、おとなしく引っ込むと思ったのか! あの場面で火を放つとは、考えなかったのか!」
ウリ・ジオンは仰天して、背後の壁で背中を支えた。引き戸が開いた。
サイムスは、素早くキッチンに体を滑り込ませると、ウリ・ジオンに廊下に出るよう、顎でしゃくった。妙に貫禄があった。
ウリ・ジオンは、何か言いたそうだったが、俯いて室外に出た。
「俺がやるよ。一応護衛官だからな。主人の暴走を止められなくて悪かった」
腕捲りをして皿を洗い始める。こいつもアルトスのために来たんだ。
「痛むか」
当たり前だろう。サイムスは一旦手を拭くと、冷凍室から保冷剤を取り出した。
エスカの赤く腫れ上がった手に持たせようとするが、まだ手は痺れていて、指を曲げることができない。サイムスは息を飲んだ。
「思い切りやってくれたな。後は俺がやるから、もう休めよ。疲れただろう」
言われて気づいた。くたくただった。負け惜しみを言う気力もない。
「ありがとうございます、サイムスさん」
「サイムスでいいよ。おやすみエスカ」
「おやすみなさい、サイムスさん」
サイムスは苦笑したようだ。
ウサギマークの部屋に入ると、鍵をかける。へなへなと床に座りこんだ。疲労の限界だった。
女神殿一辛抱強い、という評判のエスカが、どうしたことだろう。どこでタガが外れてしまったのか。
思えば、シルデスという異国に着いたのは、数時間前のことだったのに、ずいぶん日にちがたったような気がする。
エスカは少し背を伸ばしてから、左手で赤い右手に触れた。みるみる赤みが退いていく。
凄い馬鹿力だった。咄嗟に防御しなかったら、小指の骨が折れていただろう。
何がアルトスの逆鱗に触れたのか、エスカには理解できない。だが、わからない事を考えても仕方がない。
気を取り直し、立ち上がって、机の前の椅子をドアまで運ぶ。窓の鍵を確かめ、厚手のカーテンを引く。
それにしても、あんな場面で雷刃が来る筈はないだろう。ウリ・ジオンのびびった顔を思いだし、エスカは少しだけ溜飲を下げた。
それからバスルームに向かった。
「明日からの事は、明日考えよう」
シャワーと一緒に、涙も洗い流した。
翌朝、エスカは身支度を整えると、キッチンに向かった。マデリンの薬を回収するためだ。
キッチンは、きちんと片付けられていた。サイムスは、几帳面な男のようだ。
毎日使っていたのなら、取り出しやすい所にあるはずだ。
食器戸棚の真ん中へんに、ピンクのハートマークの箱がある。マデリンの趣味に辟易しつつ、蓋を開けて中を確認したエスカは、目を剥いた。
「夕方から、また一騒動だな」
箱を持って自室に戻ったエスカは、考え込んだ。
三人が出かけるのを待って、エスカはアニタとフロア中の掃除をした。
「助かるよ。いつもはひとりだから、毎日全部は出来なくてさ」
ふたりで昼食をとると、買い出しに出た。エスカは、街というものを知らなかった。女神殿の外に出ることを、許されなかったからだ。僅かな例外を除いて。
アニタから買い物の仕方だの、電車やバスの乗り方だの、日常生活に必要な事を、教えてもらった。
大型店の他に、個人経営の小さな店もある。エスカはおのぼりさんよろしく、きょろきょろしながら、街歩きを楽しんだ。
仕入れた食材を手分けして持ち、帰途につく。
「アニタ、今日も夕方からごたごたするからね。仕事終わったら、さっさと引き上げた方がいいよ」
「今日もって、昨日何かあったの?」
アニタは、鈍い人ではないらしい。
「ちょっとね」
エスカにとって、ちょっとどころではないが、あのパー助三人組は、意に介していないかも知れない。
アニタは、いつにもまして手早く夕食の支度を済ませると、まだ時刻が早いにも関わらず、さっさとワゴンを運び始めた。
エスカは、どうしてもダイニングルームに行く勇気がでなかった。訳は言えなかったが、アニタに詫びて、自室に引っ込んだ。
マデリンが来たら、キッチンに行くつもりだ。
しばらくすると、元気がいいと言うよりは、荒っぽい足音がして、マデリンが、キッチンに駆け込んだことがわかる。昨日の余波が残っているらしい。
「そろそろかな」
エスカが腰を上げると同時に、マデリンの金切り声が聞こえた。反論するアニタの声も。
「知らないよ、あんたの薬なんて! 置くとこ間違えたんじゃないの?」
「あたしが間違える筈ないでしょ! いつも大切にそこに」
「僕が回収したよ」
ふたりが、引き戸の前のエスカを見た。
「な、なんであんたが勝手に」
「なんで、殿下に毒なんか飲ませるの?」
アニタが口を押さえる。マデリンは激昂した。
「毒なんて、飲ませてないわよ! 殿下は心臓が弱いから、丈夫になるように飲ませなさいって、言われたのよ!」
「へえ、誰に?」
詰め寄る姿勢のエスカを、マデリンは反抗的な目で睨み付けた。
「あんたに関係ないでしょ」
「洗いざらい、話してもらうぞ」
「なによ、偉そうに」
言葉が終わらないうちに、マデリンの体は前につんのめった。エスカが、顎でしゃくったのだ。
そのままマデリンの体は、エスカの顎の示す方向に押し出された。マデリンは悲鳴を上げた。
「アニタ、このフロアに防音室はある?」
「あ、あるよ。この並びの、音符のシールが貼ってある部屋」
「鍵は?」
「開いてるよ」
何でもシール。ここは幼稚園か。エスカはそのままマデリンを押す形で、廊下に出た。
マデリンの悲鳴を聞き付けた三人が、やって来るところだった。マデリンが、よろめくように歩かされているのを見て、三人は茫然とエスカを見る。
エスカはそれを無視して、防音室のドアを開け、マデリンを中に押し込んだ。続いて入ろうとするエスカに、ウリ・ジオンが悲鳴に近い声をかける。
「火をつけないでくれよ!」
「
無慈悲に言い放つと、エスカはドアを閉めた。さて。
「あ、適当に座って~」
急に、エスカの口調が変わった。
「え?」
驚いた顔のマデリンに微笑みかけ、エスカは室内を見渡した。
大型のソファ、机、椅子。ソファーの端に、弦楽器が置かれている。爪弾くタイプの楽器のようだ。誰か楽器を使うのか。
マデリンが座るのを待って、エスカも腰を下ろした。やはりこの濃紺のソファも極上品だ。金を出したのは、ウリ・ジオンの親父さんだろうが。
空気が和らいだのを感じて、マデリンは口元を緩めた。
「どういうことなのかな。最初から話してくれる?」
「いいけど。あれが毒だったなんて、あたしもさっぱりなんだけどね」
寛いで話し始めた。
「あたしんちは、もともと商売やってたの。でも左前になってさ、閉店しちゃったの。そしたら父さんの知り合いが、あたしにメイドの仕事を世話してくれたわけ。
それが、ドディさんていう人のおうちだった。つまり、ここに来る前のあたしのご主人様。あたしんちより、大きいお店だった。
それで、ドディさんがあたしに言い寄って来たのね。別に嫌じゃなかったから、お付き合いしたの。
そしたら奥さんにバレちゃって、追い出されたちゃったのよ。ちょっとひどくない?」
エスカは、にこやかにうんうんと聞いている。どうやらマデリンの話を聞くには、忍耐力がいるようだ。
「それでね、ここのオーナーがメイドを探しているからって、ドディさんが紹介してくれたの。あたしとの関係は、内緒にしてって言われて」
調査もしないで、採用したのか。天下のタンツ商会がなんということだ。
「その時に、あのお薬を渡されたのよ。あたしはセクシーだから、上手にアプローチすれば、殿下の愛人になれるって。
そのお薬で殿下に元気になってもらう。それで子どもができれば、その子どもは王族になれるって。素敵なお話じゃない?」
うわあ。つまりアルトスは、ドディとかいう商人のお古をもらったのか。阿呆。
「でね、会ってみたら凄い素敵な人じゃない? あたし、一目惚れしちゃったのよ」
「まあ、確かにイケメンだよね」
「でしょでしょ! だから、積極的に押したの。楽勝だったわよ」
「大成功だったね」
「そうなのそうなの!」
なんだか、中高生の恋バナ風になってきた。
「それにね、体の相性もぴったりなのよ!」
「それはラッキーだ。運が良かったね」
笑顔が、ひきつってきた気がする。
「でもね、かれこれ半年もお付き合いしてるのに、あたし妊娠しないのよ。変でしょ」
そういうものなのか、イシネスでは普通だけど。
「ほら、シルデスでもラヴェンナでも、十八才になると成人検査やるでしょ? アルトスもあたしも正常だったのよ。避妊してないのに、なんでかしらね?」
そういうのを、縁がないって言うんですよ、お嬢さん。話がそれてしまった。
「で、ドディさんは、誰からその薬をもらったって言ってたの?」
「確か、ジム・ジカンとかいう変な名前の人だった。
吹き出すのをこらえた。
「ほんとだね、どこの国の人なのかなぁ」
どうやら、ここまでらしい。
「でもあれが毒だったなんて、知らなかった。あれを渡された時に言われたんだ。
『三包みずつ毎日飲ませるといいよ。それより多いと、ヤバいことになる』って。だからあたし、きちんと三包み飲ませてたのに」
「三包みより多いとヤバい……」
「本当は、三包みでもヤバかったってこと? 悪いことしちゃったわね。あたしクビ?」
「かもね。でも、ダメ元で退職金請求してごらん。うまくいけばもらえるかも」
「うん、お願いしてみる。エスカ、あんたって頭いいのね」
「あはは、協力ありがとう。尋問おしまい」
エスカが立ち上がると、マデリンは驚いたようだ。
「え、これでおしまい?」
「そうだよ。何かされると思った?」
「うん、怒ってるみたいだったし」
「じゃ、びびったでしょ」
「びびった、びびった!」
ふたりが笑いころげながらドアを開けると、男三人が慌ててドアから離れた様子が、見てとれた。
防音室だよ。聞こえる筈がないだろうが。エスカとマデリンの様子を見て、男たちはぽかんとした。
怒りのエスカと、ボロボロになったマデリンの図を、予想していたのかも知れない。
「アルトス、ほんとにごめんなさい」
マデリンが殊勝に頭を下げた。エスカは、心配そうに立ち尽くしているアニタに声をかけた。
「帰らなかったの、アニタ」
「だって、心配で心配で」
「僕が、マデリンに暴力をふるうかもって?」
「ごめんね。エスカ、すごく怖い目してたから」
「どこぞの脳たりん王子じゃあるまいし、そんな事するはずないでしょ」
マデリンと話しているアルトスの背中が、ピキッと音をたてたかのように反応した。一瞬、アニタの目が鋭く動いた。
「マデリンね、底意地の悪い人じゃなかった」
アニタの顔がパッと明るくなった。
「じゃあ、これからはマデリンの悪口言うの、やめるね」
「僕も、悪く考えるのやめるよ」
ふたりはちょっと笑った。
マデリンとの話し合いがついたようだ。ウリ・ジオンが苦笑している。
「わかった。親父に交渉してみるよ」
商談成立かな。
「サイムス、出口までマデリンを送ってくれ。ウリ・ジオンは手続きよろしく」
で、王子さま。あんたは何すんの?
「私物は置いてない?」
「あ、お化粧品が」
マデリンは引き出しからポーチを出して、バッグに入れた。
「これで全部よ。じゃあね。アニタ、エスカ」
エスカは右手の人差し指で、ちょんとマデリンのおでこをつついた。親愛の情を示したように見えた。
「エヘヘ」
マデリンはご機嫌で、サイムスと出て行った。
「エスカ、マデリンとの話だけど」
ウリ・ジオンが、意を決したように近づく。
「副長を呼んでください」
「はっ? 話なら僕が」
「副長、もしくはセダを」
静かだが、妥協を許さない口調である。ウリ・ジオンの傷ついた表情を見たくなかったエスカは、洗い物を始めた。
「アニタ、これから一騒動あるかもしれないから、もう帰った方がいいよ」
アニタは頷くと、尻に帆かけて廊下に飛び出した。
暫くすると、エスカが驚いたことに、副長のアダと副長代理のセダが連れだって現れた。
名前が似ているが、他人である。最初アダに会った時大男だと思ったが、セダもおっつかっつの体型で、間違えそうだ。
エスカはふたりにお茶を出し、椅子をすすめた。
「キッチンでごめんね」
「そんなことはいいよ。疲れているんじゃないか、エスカ」
アダが気を使ってくれる。
「どこまで聞いてる?」
「昨日から報告は一つも入っていない」
ははぁ、都合の悪いことは言わないわけか。エスカは、王子毒殺未遂事件を、かいつまんで話した。もちろん、その後のごたごたには触れない。
「で、マデリンは、その薬を元雇い主のドディからもらったと。そのドディは、事務次官から受け取ったって」
「ドディと付き合いのある事務次官ね。調べよう」
「後は薬の出所だな」
「それはわかっているよ」
「え」
ふたりの男が身を乗り出した。
「あれは僕の薬だ」
「えっ?」
「何かの間違いじゃないのか」
「間違いならいいけどね。自分で詰めたパックは分かるよ。
マデリンが、『三包みより多いとヤバい』って、言ってたんだ。それって、僕が見習い巫女たちに説明した言葉、そのままだったんだよ。
薬草の作業は、僕とふたりの見習い巫女たちがやっていた。
摘んできた薬草を、洗って乾燥させて、選別する。その後、一回分ずつ計ってパック詰めするんだ。僕は選別とパック詰めを主にやっていて、数を数えて箱に詰めるのは、見習い巫女たちに任せていた。
日付けと数、薬草名と効能なんかを書いたラベルを、箱に貼る。新しい箱が出来ると、一番古い箱の中身は、処分することにしているんだ。
古い物も使えるけどね、カビや虫対策は十分にしているから。でも薬だから、新しい物の方がいいでしょ。
恐らく、見習い巫女ふたりが共謀して、廃棄する筈の箱を何者かに渡していたのだと思うよ。
それって、まだ僕が女神殿にいたころなんだよね。半年前からとなると、結構な量になるから、ひとりでこっそりは不可能だよ。
捨てるところまで確認していなかったのは、僕の管理ミスです。ごめんなさい」
王子を助けたつもりでいたが、自分の薬で殺すところだったのだ。エスカは、深々と頭を下げた。
「そこまで責任を感じることはないだろう。やる奴が悪い」
「しかし、十五の子にそんな重い仕事をやらせるとはな」
アダとセダは、呆れるほどエスカを庇う。連絡員だとすると、シルデス側とイシネス側双方の話を聞いているわけだ。全部知っているだろう。同情票かな。
「ふたりとも優秀なんだけどな。まだ十三才だから、大人に騙されかも知れない」
「だろうな。となると、その見習い巫女たちと、事務次官を結ぶ線を調べないとな。間に何人か入っている筈だし」
「考えたくないけど、大人の巫女もいるかも」
「その場合、大巫女さまには知らせるか?」
エスカは、ちょっと考え込んだ。
「知らせて。内部での処分は、任せた方がいいと思う」
「わかった。この件は引き継いだ。エスカはもう忘れろ」
「見せてくれないかな」
セダが、遠慮がちに言う。
「左の二の腕。半袖着ないの、そのせいだろ」
アダが頷く。
「箝口令がしかれてるのに、なぜ知ってるの」
「緊急手術した時、立ち会った看護師長がオレに惚れてる」
渋いオジさんのセダは、得意そうに鼻をうごめかした。
「情報が少なすぎて、会長にはあげてないんだ。ウリ・ジオンは知らないから、普通の半袖を用意したんだと思う。
肘までの五分袖なら、着られるんじゃないかな。長袖ではまだまだ暑いぞ」
「質問なしなら、いいよ。恥ずかしくて見せないんじゃないから。いろいろ聞かれて、答えるのがめんどくさいだけ」
ふたりは頷いた。エスカは、チュニックを脱ぎかけて手を止めた。
「あ、あの、これは僕の趣味じゃないからね。ウリ・ジオンが買ってきたんだから」
「わかった、わかった」
とはいえ、現れたのはレース付きのピンクの下着。笑えなかったのは、傷跡を見たからである。
左の二の腕いっぱいに、ギザギザの傷跡。まだ生々しい赤みが残っている。
「一年以上たつのに、まだこんななんだよ」
「痛かっただろう」
はは、とエスカは笑った。
「ほとんど眠っていたからね。でも寒い時期は疼く」
アダは、そっと傷跡を指で撫でた。セダがそっと唇を当てた。
「おい、抜け駆けするな」
セダはにやりと笑う。
「やっぱり、会長に報告しておこう。後でバレたら厄介だ。で、ヒントが欲しいんだが」
「約一年ちょっと前に、伯爵から男爵に降格された人。でもこれは、個人的な憎しみみたいなのが起こしたことで、政治的な意味はないよ」
「わかった。君も災難だな」
「夜分来てくれてありがとう。で、一つお願いがあるんだけど」
ダメ元である。
「ここを出たい」
アダとセダは、顔を見合わせた。
「理由を聞かせてくれないかな」
「息が詰まる」
その一言で、アダはため息をついた。
「あのな。このフロアの両端に、SPがいるの知ってる?」
エスカは首を横に振った。
「不満はあるだろうが、ここがいちばん安全なんだよ」
「SPっていつからいるの?」
「殿下が、イシネスの王女の婚約者候補になった時からだよ」
「じゃあ、殿下のためのSPだから、僕には関係ないんじゃないの。僕、自分の身は自分で守れるから」
「そりゃあまぁ、攻撃は最大の防御って言うからなぁ」
茶化したセダが、アダに睨まれた。
「僕がここにいると、遠からず火事が起きるかも」
「おいおい、脅迫はいかんぞ!」
それでもふたりの男たちは、会長に話してみることを約束してくれた。
「ウリ・ジオンにも、この話はしないといけないんだが、かまわないか?」
「別にいいよ。僕が、直接話したくないだけだから」
「何があったんだ?」
「ウリ・ジオンに聞いてよ」
「ピンク似合ってるぞ」
アダの言葉で会談は終了した。
その晩、エスカは熟睡した。前夜は緊張が残っていて、よく眠れなかったせいもある。ふたりに話して、肩の荷が少し降りた気もした。
明日は平穏な日だといいな。願いは、見事に裏切られることになる。
三人が出かけてから、エスカとアニタは、朝食の後片付けと掃除をした。広いので結構時間がかかる。
ふたりでお昼を食べ、前日のように買い出しに出た。帰宅すると、アニタに電話がかかってきた。
聞くともなしに聞いていると、どうやらホロからのようだ。電話を切ってエスカを振り向いたアニタは、困惑している。
「さっきウリ・ジオンさんが、会長さんに呼び出されて、えらく怒られていたんだって」
アダたちから連絡を受けたのか。
「会長さんがいくら問い詰めても、ウリ・ジオンさんは、何も言わなかったって。ぴくりとも動かなかったそうだよ」
あの暴行事件の事だな。
「会長さんの方が根負けして、解放したって言ってた。父さんは、坊っちゃんを見直したって言ってたよ。あの可愛い顔で、よく頑張ったって」
頑張るのと可愛い顔は、関係ないと思う。
「ねぇ、一昨日の夜、何があったの?」
「アニタにお鉢が回ってきたわけ?」
「う」
「あのね。僕の中では、もう終わってるんだ。だから忘れてください」
エスカにしてみれば、元凶はエスカの薬草なのだ。そのせいで、アルトスは多分苦しむことになるだろう。
それなら、殴られようが蹴られようが、諦めるつもりでいる。だがあの打擲は、突発的なものだった。いずれにせよ、終わりにしたい。
「エスカがそう言うなら、いいけどね」
「殿下はどうしてる?」
「いつにもまして、ぐうたらしてるよ」
副反応が出てきたのか?
アニタは夕食をワゴンに載せて廊下に出た。ほどなく戻って来ると、今度は、お茶のセットを運ぶ。
ふとエスカは、思い至った。アニタは、ホロが単に自分の娘を紹介しただけの事ではない。やはり、連絡員を勤めているのではないか。
本来なら、ベルが鳴ってからお茶を運ぶのだが、マデリンはいないわ、エスカはトラウマで、ダイニングルームに入れないわで、仕方がないのだ。それでも、アニタの勤務時間ぎりぎりである。
エスカが申し訳なく思っていると、突然、陶器の割れる音がした。エスカは、咄嗟に台布巾と雑巾、小さなボウルを手に取り、廊下に飛び出した。
ノックもせずに、リビング側のドアを開ける。案の定、リビングテーブルの下に、お茶と陶器の欠片が散乱していた。
「アニタはテーブルを拭いて! 床は僕がやるから」
見ると、パー助三人組は知らんぷりをして食事をしている。
「危ないから、あたしが」
「平気。僕、粗忽だから、よくやるんだ。慣れてるよ」
ボウルに破片を入れ、床を拭く。
「ごめんね」
「よくあることでしょ」
「エスカ」
どうした風の吹き回しか、王子殿下からお声がかかった。食べ終えたのか、ゆったりと歩いて来て、ソファに腰をおろした。
サイムスが、後を追って来る。こいつの護衛官は、苦労が多いな。
「俺に気があるのか?」
「はぁ?」
「ごめんエスカ。さっきウリ・ジオンさんから、エスカの様子を聞かれたから、殿下の事気にしてるって」
エスカは雑巾を置くと、アルトスの背後に回った。すかさず、サイムスが間に入ろうとする。学習能力がありますね、騎士どの。
エスカは、素早くアルトスの耳元に囁いた。
「ヘナチンに興味はないよ」
言った瞬間、エスカはその場を離れた。こちらにも学習能力はある。
真っ赤になって、立ち上がろうとしたアルトスの肩を、サイムスが背後から押さえた。エスカは、床掃除に戻っている。ちょっと気の毒かな。
「副反応の一つだから、恥ずかしいことではないよ。静かに暮らしていれば、自然と元に戻る。三ヶ月ぐらいかかるかもだけど」
『使いすぎたんだから、休めた方がいいよ』とはさすがに言えない。
「ごめんなさい。ふたりきりの時に、話そうと思っていたんだけど、チャンスがなくて」
サイムスとウリ・ジオンが、顔を見合わせる。赤面したまま俯いているアルトスに、アニタが追い討ちをかけた。
「殿下、エスカに何をしたんですか?」
直球である。アルトスが顔を上げた。
「いちいち、うるさいんだよ! 手をひっぱたいただけだろうが!」
クリーンヒット! 容疑者から自白を引き出したのである。
サイムスとウリ・ジオンは、蒼白になった。昼間のウリ・ジオンの頑張りは、水泡に帰したことになる。
一方、アニタの血圧は急上昇した。
「手を、ひっぱたいた、だけ?」
危険水域突入。
「あんたねっ!」
一国の王子を、あんた呼ばわりである。
「エスカの前で、三べん回ってワンと言って、土下座しなさいっ!」
サイムスとウリ・ジオンは、目を鳩豆にしている。アニタが怒ったところを見たのは、初めてのようだ。
「ありがとうアニタ」
アニタを促して、廊下に出ようとしたエスカは、室内に背を向けたまま呟いた。
「自意識過剰も、たいがいにしろ」
リビングのドアをぴったり閉め、キッチンの引き戸もしっかり閉めたエスカは、たまらず爆笑した。
アニタは、きょとんとしている。
「見事な啖呵だったね、アニタ」
「そ、そう? あ、あたし、殿下になんてことを……」
「つける薬のない奴は、ほっとけ」
アニタに気を使わせたくない。
「それより、もう時間過ぎてるんじゃない?」
「いつもあくせくしてごめんね、ウチ赤ちゃんいるんだ」
「えええ! 早く言ってよ! 何ヵ月?」
「八ヶ月の女の子、リディっていうんだ。母さんにみてもらってるけどね」
「可愛い盛りじゃないか! 帰って帰って! 抱きしめてあげてね!」
「そうする」
アニタは、飛び出して行った。
エスカは、こぼれた分のお茶を沸かしている間に、割れ物を片付け、台布巾と雑巾を洗ってきっちり絞った。お茶のポットを持つと、意を決してリビングに向かった。
「失礼します」
今度はきちんと挨拶をし、ポットをテーブルに置く。台布巾と雑巾を使って、汚れた部分の仕上げをした。ダイニングテーブルの片付けをする。
パー三は、気まずい雰囲気のまま、座っている。サイムスがやって来た。
「あのさ。蒸し返して悪いんだけど。あの時、何で謝ったの?」
エスカは顔を上げた。
「俺の妹のひとりはさ、間違ってちょっと触れても、少なくとも三倍返し、下手すりゃ十倍返しだよ。
それなのに、エスカは謝っただろ? ひょっとしてエスカは、自分が悪くなくても、謝らないといけないような所にいたのかな、って思って」
さっき床を拭く姿を見て、気づくところがあったのだろうか。
「下僕だったからね。ウリ・ジオンから聞いてないの? お優しいお坊ちゃまは、僕に恥をかかせまいとして、黙っていてくれたのかな?」
ウリ・ジオンが口を開きかけた。エスカは構わず続ける。
「僕は、恥ずかしいなんて思ったことはないよ。一生懸命働いていたからね」
何もしないエライお方より、マシだと思うけど。そのままエスカは廊下に出た。
洗い物を済ませて、トレイに食事とお茶を載せ、エスカは自室に入った。
昨夜と同じに戸締まりをすると、ほっとした。ここは自分の城だ。
シャワーから戻ると、アダからメールが来ていた。
『会長からゴーサインが出た。一週間以内に、引っ越しの予定』
『ありがとうございます』
ホロから連絡を受けた会長が、アダたちから聞いた話と合わせて、総合的に判断したのだろう。同居を続けたらかえって危険だと。どちらが危険と思ったのかは、不明だが。
今夜も、ぐっすり眠れそうだ。
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