第5話 義憤

 どれだけ走っただろうか。

 とにかく狭い路地に入って曲がって曲がって、ジグザグに走り抜けた。

 どうにかわたしが住むボロアパートに戻ってきた時には、汗だくで心臓が破裂するのではないかというくらいに鳴り響いていた。脚はがくがく、頭は酸欠でくらくらした。

 部屋に入ってキッチンに行き、水道水を出して直接口をつけてがぶ飲みする。そのまま床で大の字になって喘ぐように呼吸した。

 このまま目を閉じれば、死ぬのではないだろうか。それくらい、今までの生涯で全体力を使った。

 しばらくすると呼吸が落ち着いてきた。しかし、脚に力が入らずに立ち上がることが出来ない。這いずるようにして、冷蔵庫に向かい、スポーツドリンクを取りだして胡座をかいて飲んだ。スポーツドリンクがこれほど美味いと感じたのはいつぶりだろうか。

 先ほどの出来事が甦る。

 わたしは如月美奈子にプロポーズをした。彼女も頷いてくれて、これから幸せな日々が始まるはずだった。

 もっともその前に、こんな四十半ばのオッサンが二十歳過ぎの若い美女と結ばれるのに、さまざまな障壁が立ちはだかるだろうとは思っていた。その一つが美奈子の親の説得だ。

 どうやって説得しようかと考えた矢先に、その両親が現れた

。それが高校時代の同級生、来栖海斗と竹内佐奈江だ。かつて、わたしに様々な嫌がらせをしていた二人で、美奈子はヤツらの娘だったことが判明した。

 何という悪魔による運命の悪戯。悪魔による悲劇。ここまできたらもう仕込みとしか思えない。

 だから、美奈子はアイツらの指示でわたしを騙そうとしていたのだと思った。でなければ、あんな美人がわたしを好きになるはずがないのだ。

 しかし、海斗と佐奈江の言動を思い返すと、アイツらはわたしが誰か気づいていなかった。ということは、やはり美奈子はわたしを騙していなかったのか。

 頭の中が混乱する。

 わたしが逃げ出し、海斗が追いかけてきた時、美奈子は間に入ってわたしが逃げる時間を稼いでくれた。

 わたしを騙していたのなら、そんなことはしないのではないか。

 目を閉じると、彼女との一年間が思い起こされる。

 彼女と何度も交わした唇の感触、肌の温もり、わたしを包み込む優しさがこの身に染みた。あの時、わたしは彼女なしでは生きられないとさえ思った。あれらが演技だという可能性はあるのだろうか。一年間も、辛抱強くわたしを騙し続けるなんてあり得るだろうか。

 わたしの親が大企業の社長とか、わたしが資産家の息子であったなら、その可能性はあったかもしれない。だが、わたしは一般家庭に育った、高卒が最終学歴の、低年収の、昇進も何もない、いわば落ちこぼれ組。わたしを騙し続けるメリットは皆無だ。

 彼女はずっとわたしのことをおもんばかっていた。わたしのあらゆる欠点を、根気強く優しく丁寧に諭してくれた。

 普通はそんなことできない。

 すなわち、彼女のわたしへの愛は本物だと疑わざるを得ない。

 それに気づいた瞬間、わたしは自身に凄まじい程の憎悪と義憤にかられた。

 いっときでも、美奈子を疑った自分を激しく嫌悪した。

 だが、今は自分に腹を立てている場合ではない。

 美奈子はあのあとどうしたのだろうか。わたしの名前を海斗たちに伝えたのだろうか。だとしたら、わたしと彼女が会うことはもう二度とない。

 …………。

 本当にそれでいいのか、と自分に問いかける。美奈子のような女性は、今後わたしの前に二度と現れることはないだろう。

 二十五歳差の、わたしよりしっかりした菩薩のような彼女を、このまま諦めていいのか。

 嫌だ! 諦めたくない! 美奈子の親が、あいつらだったとしても、何とかして彼女と一緒になりたい!

 わたしは自分のポケットからスマートフォンを取り出して、美奈子と連絡を取ろうとした。

 履歴から彼女のスマートフォンに電話をかける。

 コール音が続いた。出る気配はない。

 一度切って、三十分してからまたかける。出ない。

 一時間おきに電話をした。だが、やっぱり出ない。

 状況は分からないが、海斗たちのことだ。スマートフォンを取り上げた可能性があった。いや、それなら海斗か佐奈江が出てもおかしくないのではないか。それがないということは、スマートフォンはアイツらの手に渡っていない?

 どうしたらいいか、必死にない頭で考えた。美奈子のマンションに行ってみるか。いやダメだ。海斗たちもいることも充分考えられる。

 あれこれ頭を悩ませていると、わたしのスマートフォンに着信が入った。知らない番号からだった。

 ──まさか海斗か。

 美奈子のスマートフォンでわたしの番号を見て、かけてきたのかもしれない。

 着信が続く。わたしは思い切って、出てみることにした。

「……もしもし?」

「ああ、聡太さん! 良かった! 大丈夫だった?」

 思わずわたしの声が大きくなった。

「美奈子! 君こそ大丈夫なのか! 海斗と佐奈江──君の両親はどうした? それに、この知らない番号は?」

「スマホはすぐに川に投げ捨てたわ。だから、あなたの番号がお父さんたちに知られることはないわ」

「川に投げ捨てた?」彼女はなんという大胆な行動をとるのだろうか。スマホの中には、友人関係や会社の連絡先もあっただろうに。

「大丈夫だよ。みんなには水没したって言うから。番号も変えるから、お父さんたちにバレることはないと思うわ。この電話は、わたしの知り合いの家に行ってお願いして貸してもらったの。公衆電話が近くになかったから」

「そ、そうか」ホッと胸を撫で下ろす。海斗たちに知られることがなかったのは良かったが、代わりに彼女のスマートフォンが犠牲になってしまった。わたしを守るために、躊躇なく捨てた彼女の姿が思い浮かんだ。

「……ごめん!」まずわたしは頭を下げて謝った。電話なのだから、こちらで頭を下げても仕方がないのに。

「いろいろと君にひどいことを言った。本当にすまなかった。どうか許してほしい」

 本当は面と向かって頭を下げたかった。

「……ううん、仕方ないわ。だって、わたしのお父さんとお母さんが、聡太さんの高校の時の同級生で、聡太さんを苦しめてきた人たちなんだよね。その娘のわたしを、聡太さんが信じられないのも無理ないと思う。……けれど、信じて。わたしは聡太さんを絶対に騙したり裏切ったりしない」

「わかっている。わたしは君をもう二度と疑わない。信じるよ」

 電話の向こう側で彼女の涙ぐんだ声が聞こえた。

 それから、美奈子が今に至るまでの、海斗たちとのことを話した。

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