第2話 過去
わたしの住むアパートから、徒歩で約十五分程の場所にあるカフェにわたしと彼女は入った。
このカフェはあまり客がいない。とは言っても、閑古鳥が鳴いているわけでもなく、わたしと同じような、四十、五十代くらいのくたびれたサラリーマンがが利用していて、だいたい一人、二人くらいはいる。営業時間も二十二時までとなっていた。
このカフェは、なぜかわたしや彼らのような、世間の荒波に揉まれて、心も身体もボロボロになった者たちを惹きつける場所であった。そして、この店の、正直言って微妙な味のコーヒーを飲むのがまた良かったりするのだ。
この店に若い者は滅多にこない。来たとしても、やはり似たような雰囲気の者だった。
そんな中で彼女の存在は、掃き溜めの中に光るダイヤのようだった。完全に場違いであるのだが、今は気にしないことにする。
二人席に対面して座って、マスターにコーヒーを二つ頼む。
ここに来てなお、わたしはまだ彼女の言葉に疑問を抱いていた。
「……きみは、わたしを好きだと言うけど、わたしの名前も知らないんじゃないのか?」とりあえず矛盾点から攻めてみる。
「知っています。あなたは
「……なんで知ってるんだよ」
彼女は言うべきかどうか、逡巡する素振りを見せ、少し口ごもりながら答えた。
「……あの、自分でもヤバいことやっているっていう自覚はあります。絶対におかしい女だって思われても仕方ないと思います」とそう前置きして、「えっと、佐渡さんの名前は、近所の方に聞きました。落とし物を届けたいと嘘を伝えて、佐渡さんの特徴を伝えて……」
名前を知るために、そこまでしたのか。
「きみは、探偵か何かなのかな?」
彼女は両手を突き出してブンブン横に大仰に振った。
「違いますよ。ただ考えなしに突っ走ってこんなことしちゃったんです。わたしは、ただのOLです」
そうか。OLなのか。これだけの美人だ。きっと会社でもモテるに違いない。
「……きみは、わたしを見て一目惚れと言ったが、仮に付き合ったとしたら、絶対にすぐに愛想を尽かすと思うぞ。伊達に、四十五年間独身でいるわけではない」
自分で言ってて悲しかったが、事実なのだから仕方がない。
「大丈夫です。佐渡さんがどんな人でもわたし一生ついていきます」
自信満々に言う彼女に、わたしは面食らった。
その自信はいったいどこからくるのだろうか。仮に、わたしがとんでもないろくでなしだったとしても、そんなことが言えるだろうか。まあ、わたしはろくでなしではないと思うが。
「佐渡さんが戸惑うのも無理ありません。けど、どうか少しの間だけでもわたしと付き合ってください。それで、佐渡さんがどうしても、絶対に無理だというのなら諦めます。……諦めたくありませんけど。どうかお願いします!」
彼女は両手を合わせて、頭を下げて頼み込んだ。
わたしは周囲の客を見た。テーブル席にいる一人は腕を組んで、口を半開きにして寝ているようだった。もう一人とは軽く目が合ったが、興味なさげに顔を逸らした。
佐渡聡太。四十五歳の独身。風俗嬢との経験しかない、冴えない男だと自分で思っている。人付き合いもあまり上手い方ではない。それもこれも、高校時代にわたしをいつも揶揄ってきたアイツのせいだと思っている。
何度も自分を変えようとしたけれど、無理だった。自分を変革するためのキッカケがなかった──などと言い訳をするつもりもない。これがわたしなのだから仕方なかった。
これは、そんなわたしに与えられた最後のチャンスなのだろうか? それとも、意地悪な神による仕業で、最後にはやっぱり不幸になるようになっているのではないか。
美味い話には、ほとんどの場合は裏がある。花道だと思って進んだ先には、落とし穴や底なし沼があるのではないか。澄んだ綺麗な水だと思い中に入ってみたら、ヒルに体液を吸われるとか、ピラニアに喰われるとか、そういう話なのではないか。
わたしはしばし目を閉じて黙考した。
そして、目を開いて彼女に一番気になったことを尋ねた。
「……今更なんだが、きみの名前は?」
彼女は口に手を当てて驚いた。いまだに名乗ってないことに気づいたのだろう。
「ご、ごめんなさい! 告白することばかり考えて、色々とすっ飛ばしてしまいました! あーもう、わたしってばほんっと何やってんだろ……」
そして彼女は一つ深呼吸をして名乗った。
「わたし、
如月美奈子。綺麗な名前だ。だが、当然知らない名前だった。
「あ、あの、直ぐに返事はいただかなくてもいいです。コレ、わたしの携帯の番号とSNSのQRコードです。電話で断りづらいのであれば、SNSとかでメッセージください」
初めて女性から連絡先を渡された。それもこんな美人に。
胸の鼓動が速くなる。これは本当に現実なのか。わたしの人生においてこんなことが起こり得るのだろうか。
今までわたしは、人生に期待することを諦めていた。期待しなければ、裏切られることもないからだ。自分自身に失望や絶望をしないで済む。
……一度だけ。今回だけ、ほんの少しでも望みがあるのなら試してみてもいいのではないか。ダメでもともと。ひとときの夢現つだとしても、別にいいのではないか。
この際、騙されていたとしてもいいではないか。どうせこの先も大したことない人生だ。過去のトラウマはあるが、いい機会かも知れない。
わたしは息を吐いた。
「……わたしは、過去に今のあなたのように告白されて、後で悪戯だったという経験があります」
わたしが言うと、彼女は顔を曇らせた。
「そうだったんですか……。酷い話ですね。許せないです。……それなら、わたしのことを信用できないのも仕方ありませんね」
「話は最後まで聞いてください。……まあ、さっきまではわたしがあなたの話を聞こうとしませんでしたけど」
わたしは咳払いして続けた。
「確かにあなたのことはまだ信用していません。だから、本当にあなたがわたしのことが好きなのか、この先も、わたしを知った上で好きでいてくれるのか。それからでもいいですか?」
自分でも何という上からの発言なのだろうかと思う。大した人間じゃないくせに。
そんなわたしの言葉に、彼女は陽光を受けて光り輝くダイヤのような笑顔を見せた。
こんな条件を出した自分に嫌気がさした。
「ありがとうございます! わたし、佐渡さんに好きになってもらえるように頑張ります!」
わたしの周りに、クラッカーやらラッパやらを持った天使が舞い降りてきて祝福している気がした。……いや、まだだ。この天使が、後で突然悪魔に変異して、わたしを嘲笑う可能性も否定できない。
そんなことを考えるわたしの性根は腐っているのだろう。
さて。この美女がわたしに愛想をつかす時間はどれくらいだろうか。とりあえずは様子を見てみることにした。
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