ある本屋の店主の物語

 なにかが急に無くなった経験ですか?


 そうですね……物が急に無くなったみたいなのはないですね。うっかり忘れちゃうみたいなのはありますけれども。


 あ、でも人との関係だったら、急に無くなったと感じたことが過去にあります。


 あれはちょうど高校一年生の終わりの春休みのことです。いきなり決まったんです。父の転勤が。それで関西の方に引っ越すことになったんです。


 引っ越すことには慣れてたんです。なんせ転勤族なので。


 でも、この時の引っ越しだけは、なにかこう、運命のいたずらみたいなものを感じました。


 とても仲良くしていた同級生がいたんです。


 最初の会話とかは全然覚えてないんですけど、気づいたときにはすごく仲良くなっていました。彼との関係はとても良いものでした。


 彼には私のおすすめの本たちを読んでもらっていたんです。彼、とても律儀だったんですよ。金曜日に本を渡したら、月曜日にはもう読み終えていて、感想を伝えてくれたんです。それが嬉しくて嬉しくて。


 でも、そんな彼にお別れの言葉を伝えられずに引っ越してしまいました。春休みに急に決まったんで。


 はい、そうなんです。連絡先を交換しとけばよかったんですけど、当時はどうも気恥ずかしくて、連絡先は一度も聞けてなかったんです。


 彼とはそれ以来会ったことないです。一年生の時に引っ越したんで、同窓会とかも呼ばれないんですよ。なので、まったく接点がないんです。


 その後ですか? その後は、京都の大学に通って、大学卒業を機に東京に返ってきたんです。自分の本屋を持つという小さい頃からの夢をかなえるために。


 本の街に自分の店を持ちたかったんです。当時入り浸っていたこの街に。


 ええ、そうです! このスペースは結構こだわりました。私、喫茶店に行くのも好きなんです。なので、真赤なベロア生地のソファを置いて、珈琲が飲める簡単な喫茶店みたいなスペースを作ったんです。この場所が、昔の私みたいに、本をきっかけに人と人とが仲良くなれる場所になってくれたらいいなって。


 彼にまた会えるか、ですか? そうですね……あの時、運命みたいなもので引き離されたんですから、また巡り合いみたいなもので再会できるかもしれないですね。


 なんせここは、セレンディピティが生まれる街ですから。

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