棚とす

小狸

短編

 *


 ――死にたい。


 そう思って、いつも目に浮かぶのは、実家にあった棚である。


 父の部屋にある、木造りの、大きな本棚であった。


 「死にたい」という感情を抑えることができなくなった時というのは、大概、何かを失敗した時である。


 人は誰しも失敗する、などと言うけれど。

 

 私だけは、それは許されない。


 私はいつも、その棚に自分で、頭を打ち付け続けていた。


 最初は弱く。


 少しずつ慣れてくると、強く。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 がん。


 そうしてしばらくすると、痛みに対して鈍くなってくる。それ以上やると出血するという直前まで、私はその棚に頭を打ち付け続けて、やめる。


 ――


 幼い頃の、突然の話である。


 私の何かが気に食わなかったのか、それとも父の好きだった球団が惨敗を期したのかは、今となっては分からない。

 

 元々暴力的な父親だったが、その日は酷かった。


 父は私を羽交い絞めにし、棚に頭を打ち付け続けた。


 そして父はこう言った。



 ――これは、罰だ。



 悪い事をしたから、罰を受けるべきだ、と言われた。


 お前は子どもなんだから、親の機嫌を取るべきだ。


 これはそれができない罰なんだ――と。


 その時は、結局頭から出血し、五針ほど縫うことになった。


 それからすぐさま両親は離婚したけれど、父――正確には元父の言葉も、私の血がついた元父の本棚も、未だに家の中に残っている。


 ――罰だ。


 それ以来、駄目なことがある度に、失敗をする度に、私は棚に頭をぶつけ続けた。母は心配して私を病院へと連れて行った。


 精神科であった。


 精神科とは頭のおかしい人が行く場所ではないのか。


 私は頭がおかしいのか。


 駄目なのか。


 そう思って、また――父の言葉が脳髄の重要な部分をかすめた。


 薬を処方され、毎日飲むことになった。


 自分のせいで、余計な医療費が掛かっている。


 それが申し訳なかったけれど、この頃から私の自罰心は、少しずつ薄れていった。


 薬の効果もあったのだろうが、父ともう二度と会わなくて良いという状況が、私を快方に向かわせてていたように思う。


 それから私は高校に進み、大学に入学した。


 第1志望の大学に入学することができた。


 そして大学生にもなると、通院の数も減っていき、最初は大量であった薬の量も、徐々に減っていっていた。


 大学に入ると、母の勧めもあって、私は一人暮らしするようになった。


 あの家は――あの棚にもう近付けないようにした配慮だろう。そんな気遣いをさせるのも、申し訳なかった。


 そんな折の話である。


 私は、些細なスペリングミスで、必修英語の小テストを一問ミスしてしまった。


 それまでずっと満点を取り続けていたので、先生は意外そうな顔をしていた。


 周囲の皆も、「お前がミスをするなんて珍しい」と言っていた。


 まあ、次間違わないように気を付けよう、と。


 そう思おうとしたところで。


 ふと。


 その念慮が、私の脳裏に湧き上がって来た。


 ――罰だ。


 何の言葉だろうと、最初は思った。


 しかし、徐々に朦朧ぼんやりとした視界が明瞭になっていくにつれて少しずつ、抑えていたはずの、考えないようにしていたはずのその感情が、栓を外した炭酸水のように、滾滾こんこんと湧き上がってくるのが、分かった。


 ――ミスをした。


 ――失敗をした。


 ――駄目だった。


 ――罰だ。


 ――罰だ。


 ――罰だ。


 何とかそれを抑圧しつつ、講義を終えた。都合良く四限目――その日最後の講義だったことが奏功した。


 それを行動に出さないように、胸のムカつきを抑圧しながら、私は自宅へと帰った。


 家には、小さな棚がある。


 母が、私が一人暮らしを始める時に購入してくれたものである。


 家に帰って、入って。


 まずその棚が、目に入った。


 それを。


 見て。


 が、繋がった。


 ――


 私は。


 私は。


 私は。


 私は?

 

 *


 私立欄干らんかん大学英語文学科1回生曽雌そし佐奈子さなこが、自宅アパートにて、自ら本棚に頭蓋骨が陥没するまでぶつけ続けて死亡しているのが確認されたのは。


 令和れいわ5年の、11月1日のことである。




《Thanatos》 is the END.

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棚とす 小狸 @segen_gen

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