第12話 キミの名前も好きだよ
それがきっかけで、美海の方から話しかけてくることが多くなった。たまに僕が、彼女がよく読む図鑑に載っている鯨類の質問をすることもあった。
話を聞いていると、彼女は病弱らしく、学校に通えてはいるものの、友達と直接会える日は少ないのだとか。
その話を聞いて、彼女の言葉遣いが子供っぽいのも、目の奥底が輝いていない理由がわかった気がした。
寂しかったのだろう、甘えたかったのだろう、ずっと。
ちなみに、ずっと名前で呼ばず、敬語を使っていたら、彼女に「名前で呼んで!」と怒られてしまってからは、名前で呼んでいる。
「––––ねえ、勇那くん」
「なに?」
とある日、窓から沈みゆく夕日を眺めている美海が話しかけてきた。こちらに振り向いた彼女の顔は、逆光で少々見にくかった。けど、ほんの少し寂しげな微笑みなのはわかった。
「自分の名前、好き?」
「……さあ、どうだろう。由来がわからないからなんとも言えない」
「聞かなかったの?」
「聞くほどでもないし。あと、興味がなかった」
美海は「冷めてるな〜」と軽く笑いながら言う。その後に少しだけ沈黙が流れた。すると、また美海が口を開く。
「私は好きだよ、自分の名前。”美しい海”なんて、素敵じゃない?」
「まあ、そうですね」
「もちろん、勇那くんの名前も好きだよ」
彼女に言われ、僕はそれまで少し”怖い”と思っていた目を、初めてまともに見た。
その目は、初めて会った時のように、暗がりにあるような瞳ではなかった。都会で懸命に光る星のように点々としてはいるけど、少し輝きを取り戻している。
「…………僕の名前も?」
「うん。お母さんがどんな意味を込めてその名前にしたかは、私にはわからない。でも、『いさな』って、鯨の
鯨の古称。漢字は『勇魚』らしい。
「……鯨の古称だから好きなの?」
「まさか」
そういった彼女の顔は、煌びやかで、今まで見てきたどんな表情よりも綺麗で、美しかった。
その時、名前が人にいい意味でも、悪い意味でも影響を与えるのだとわかった。
「勇那くんは、鯨みたいに雄大な心を持ってるから」
「……」
雄大だなんて、生まれて初めて言われた。今まで人と積極的に関わろうとしなかったからだろうか。それでも、初めてだ。
「……もう少しで退院だね」
「うん」
長い長い沈黙が流れる。今まで沈黙は苦じゃなかった。けど、今は苦でしかない。彼女との沈黙だけは、どうも苦手だ。
「……ねえ、また、会ってくれる?」
「––––覚えていたら」
こういったことに責任は取りたくない。昔、適当に絶対できるでしょ、と言ったら、その子は失敗した。僕のせいにされた。それが未だに嫌で嫌で仕方がない。
適当に言った僕も悪いけど、全責任を僕に押し付けてきたあの行為は、大嫌いだ。
「そっか。じゃあ、期待してるね」
「あんまりしないで」
翌日、僕は退院をした。病室から出る時、彼女はとても辛そうで悲しそうだった。僕は人のことを覚えるのが苦手だ。けど、これだけは言っておこう。
「またね」
「……! うん、またね……!」
◆
全部、思い出した。あれから十数年、まさか本当に会う日が来るなんて、これっぽっちも思っていなかった。
もうどうせ会うことはないだろうと、無意識のうちに記憶から消してしまっていた。
「あはは、まさか名前さえも覚えてなかったとは。さすがにびっくりしちゃったよ」
「あ……ごめん。まさか本当に再会するとは」
「いいよ。また会えただけでも、嬉しくて仕方ないんだから」
その時、遠くにいた鯨がブリーチングをした。海面に触れると同時に、人間ではありえない量の
その飛沫が夕日に照らされ、オレンジ色に光り輝く。
「……嬉しい、と思う。僕も」
そう言うと、彼女は「そっか」と照れくさそうに笑った。
船から降りた後、僕は肝心なことを訊くのを忘れていた。
「あれ、あの時の鯨?」
その問いかけに、彼女は黙って首を横に振った。どうやら違うらしい。
「でも、もうすぐで会える気がするの。あ、でも来月からは勇那くん、繁忙期か」
「ああ、そうだね。まあ、また来年に期待じゃない?」
「え〜、しょうがないなあ」
それは僕のセリフなんだけど……。と、思うけど、自分の表情が手に取るようにわかる。すごくニヤケている。彼女と入れることが嬉しい。
––––けど、それまでにこの気持ちを早くどうにかしないといけない。
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