終話 ありがとう

 あのまま4月に入り、僕の部署は繁忙期に入った。そのせいでホエールウォッチングに行くことはおろか、美海に会うことすらできなかった。


 オフィスは今日もバタバタとしていて、やっと昼休憩になり、一息つけた。


「はああぁ、やっぱりこの時期はキツいな」


「だな」


 優希も疲れているからか、大きなため息をついて椅子にもたれかかっている。


「あ〜!」


 疲れ果てながらご飯を食べていると、近くから声が聞こえた。声の主は僕が好いている人。

 

「お、夕凪さんじゃん。やっほ」


「やほ〜」


 彼らは軽快なやり取りをしている。何がどこまでどう進んだか、あとどれぐらいで繁忙期が終わりそうなのかなど。

 けれど、そんな二人を見ていて思う。


 ––––モヤモヤするなあ。


 胸にモヤがかかった感じがする。このむず痒さと言うか、ちょっと苦しいというか、なんとも言えないそんな感じ。


 これが俗に言う”嫉妬”というものだろう。やっぱり、僕は変わってきているようだ。前まではこんな感情、微塵も感じなかったのだから。


「ね、勇那くん」


 そんなことを考えていると、彼女がこちらへトコトコと僕の元までやって来た。そんな様子を見て、優希はニヤニヤしている。


「なに?」


「日曜日あいてる?」


「日……空いてる」


 この忙しい中、何かしらの予定を入れられる程の気力も体力もない。


「何時でもいいから会わない?」


「いいよ」


 僕が言うと、美海は「じゃあ、詳細はあとで〜」と言って、彼女の同僚の元まで駆けていった。


 彼女が行ったのを見ると、なにやら嫌な視線を感じた。その先を見てみると、視線の主は優希だった。彼はこれでもかと言うほど口角が上がり、ニヤついている。


「良かったなー」


「はいはい、そうですね〜」


「なんだよそれ〜」





 あれから予定を決めるためにメッセージでやり取りをしていたのだが、会う時間は昼過ぎになった。


「いや〜、風が気持ちいいね〜」


 結局、海が見える場所で集まろうということになった。いつも通り、あんまり変わらない景色。


 しかし、今日は美海と会った頃とは違い、暖かくほがらかな日和だ。

 暖かい春風が、僕たちを優しく包み込んでくれる。


 しかし、海辺は海辺。あまり風に当たっていると、潮で髪の毛がバシバシになってしまう。まあ、彼女に会えるならそれもいいかもしれない。


「ねえ」


「ん?」


「いつになったら会えるんだろうね」


 彼女の横顔はいやに寂しげであった。美海は恩は必ず返す主義なのだろう。

 病室にいた頃も、いつも話してくれるお礼だと言って、自分の見舞いの花を渡そうとしてきたことがある。もちろん断ったけれど。


 その時も、彼女は不服そうな顔をしていたから、そうなのだろうと勝手に思っている。


「さあ、会えるかもしれないし、会えないかもしれない。人生ってそんなもんでしょ。僕らだって、たまたま人間に生まれて、たまたま同じ年齢で、たまたま同じ病院、病室だったってだけなんだから」


 出会えたこと自体が奇跡的なんだよ、と付け足すと、彼女は少しだけ笑った。けど、バカにするような笑いじゃない。


「はは、そうだね。……ほんと、そうだよ」


 そして沈黙が流れた。お互いに何も話せずにいたけど、それもどこか心地よかった。


 僕は、美海が好きだ、どうしようもなく。今日はそれも伝えたいと思ってここに来た。


 なにもアプローチなんてしていない。やったことないのだからできるはずもない。けれど、優希に相談をしてみたら、言ってもいい、と言われた。


 初めこそ何を根拠に、と思ったけれど、気持ちをこのままにしておいて、ずっとモヤモヤしっぱなしというのも嫌だった。

 それに、優希はどこか動物のような勘の鋭さを持っているし、もう言ってしまおうと思った。


 もちろん、この先、美海に気まずい思いをさせてしまうかもしれないことは重々承知だ。元々、恋愛なんてそんなものだろう。もし断られたら、それこそ縁がなかっただけだ。


 ––––でも、美海はそれを望んでないかもしれない。


 彼女はずっと”友達”でいたいと願っているかもしれない。友達のまま、一緒に鯨を探して一緒に話して……それを繰り返していきたいと考えているかもしれない。


 そんなことを考えていると、美海の目の色が、いきなり変わった。


「い、勇那くん……!」


 あれ……、と声を震わせながら指をさす彼女。その先を見てみると、大きな黒い影が見えた。


 けど、ありえない。ありえていいはずがない。だって、ここはの来る場所じゃない。


 ずっと前から思っていた。僕が美海に会う日の夢に出てきた鯨は、もしかすると彼女のことを助けた鯨なのではないかと。そして、僕と美海を繋げてくれたのではないかと。


 そんなことありえるはずがないと、どこか頭の中で否定していた。けれど、やっぱりありえるのかもしれない。


 いつの間にか、彼女は靴も脱がず、海へ駆け出していた。バシャバシャと音を立てて、足首が浸かる程度の深さまで走った。


 ––––絶対、絶対あの子なんだよ……!


 そして大きく息を吸う。


「ありがとおぉお!」


 彼女の声が辺りに響く。この距離で、人間の声は絶対に届かない。けど、礼を言われた主は「どういたしまして」とでも言うかのように、尾鰭をピンとたてて、海へ潜って行った。


 僕も小さくお礼を言った。


 ––––彼女と出会わせてくれて、再会させてくれてありがとう。


「……美海」


 余韻に浸っている彼女の近くまで行き、名前を呼んだ。澄んだ瞳がこちらを見据える。


 断られてもいい。もう話せなくなってもいい。それでも、僕は彼女にこの想いを伝えたい。

 十数年、もう一度『クジラ』に会うために、各地を探し回った彼女に。


 高鳴る鼓動と共に、僕は口を開いた。


「好きです」

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