伊沙子について お題:遅い口 必須要素:牛肉

僕はふたくち女と付き合っている。


説明しないといけないかな。ふたくち女とは正面にある口。まあこれはみんなある。しかし彼女はもう一つ口がある。下ネタではなくてさ。後頭部のまんなかに裂けているような大きな口がもう一つ。


「頭の中はどうなっているの」

食事中に彼女――伊沙子に聞いた。ああ。忘れてた。僕の名前は下枝古守、中華屋でコックをしている。彼女は器用に二つの口で咀嚼しながら――ゆっくりと僕の作った料理を味わい、噛みしめながら答えた。


「なにもないわよ。なにも、映らない」

と、そっけなく答えた。はあ、と僕はあいまいな返事をひとつしかない前の口からはきだして、彼女の広いおでこを注視したりもする。まあ、何にもなくても、こうして喋れるし彼女は僕よりも賢いから問題ないか。とか思ったりもする。


彼女はきっと僕のこうしたなあなあ性格と僕が作った料理が好きだから僕を愛しているんだろうなと、ぼんやりと考える。伊沙子は目の前にある盛りだくさんの中華料理一式をゆっくりと食べていく。ゆっくりに見えてもそのスピードは二倍だ。


だからあっという間に料理は消えていく。僕は彼女の食べっぷりが好きだし、平均よりも小さい伊沙子の身長のどこに僕の作った料理が消えていくのかを考えるのも楽しい。可愛い女の子が自分の料理をおいしそうに食べてくれるだけでやっぱり幸せだった。


「昔は大変だったのよ。後ろも自分で食べたいって言うし。外じゃ食べれないでしょ。だからアンタの家でこうしてアンタの料理を食べれるのはわたしの幸せ。誰の目も気にせず、美味しいものを食べれるから」


伊沙子は長い後ろ髪をかき上げて後ろの口を見せる。

彼女のつり目に合う、狂暴そうな口。ギザギザの歯はギザギザの歯なりに行儀よく並んで、透明なよだれを滴らせる。


「ごちそうさま」

彼女はゆっくりと丁寧に手を合せて目をつむる。

柔らかなそうな、小さな唇がまっすぐ結われている。キスしてしまいそうなほど可愛い。正直、夜のことは伊沙子もあまり好きではなかったし、後ろの口から出るよだれがものすごい量だったので僕たちはあまり、セックスはしなかった。


こんな日がずっと続けばよかった。


ある日伊沙子は僕の前から消えた。置き手紙を残して。


「牛肉が食べたい」


なるほどなあと僕は思い、アパートの階段に座り煙草をふかす。確かにあまり使ってなかったからなあ。チンジャオロースくらいか。


でも、僕はあまり気にしなかった。なんだかんだ言って料理の腕には自信があったからきっとまた伊沙子は気まぐれな猫のようにまた現れて僕の料理を食べに来てくれると思っているからだ。

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