第10話髪を切ってくれ
久しぶりに声を出したのだと思われる詠を見て尊の方が声を失っているようだった。
「あぁ。部屋から出られたんだな。話をするにしても…今の格好じゃあ気になるんじゃないか?お風呂に入って身なりを整えたら?」
「え…?そんなに…酷いかな…?」
「鏡を見た方がいい」
オドオドとした態度でどうにか洗面所に向かった詠は自分の今の姿を見て絶句しているようだった。
「ちょっと…お風呂…今の姿は…忘れて…」
それだけ言い残した詠は、すぐさま風呂場に向かった。
シャワーが流れてくる音が聞こえてきて少しだけ息を吐いた。
隣で呆然としている尊は僕の顔をまじまじと見つめていた。
「どうやったの…?」
完全に言葉足らずな尊に僕は軽く苦笑する。
「別に特別なことはしてないですよ。僕は魔法使いでもメンタリストでもないですから…」
そんなジョークのような言葉を口にすると尊は信じられないものでも見たかのように口を開けて風呂場まで歩いて向かった。
あんぐりと口を開けていても尊の美貌に陰りはまるで無かった。
「詠〜部屋で話すの〜?」
風呂場で妹の詠に話しかけている尊に彼女は返事をしているようだった。
数分してから風呂場から出てきた尊は未だに信じられないような表情を浮かべている。
「久しぶりに話した…何が起きてるの…?」
尊は独り言のようにつぶやくとそのまま二階へと向かっていく。
次第に掃除機の音が聞こえてきて詠の部屋を掃除しているのを理解した。
それほどまでに詠は部屋から一切出なかったのだろう。
お手洗いやお風呂には入っていたと願いたい。
だがボサボサの髪の毛や眉毛を見た限り、お風呂には入っていなかったのかもしれない。
それほど鏡を見ていなかったという事だと思われる。
ショックがあった時に自分の顔を見たい人間などこの世に殆どいないだろう。
例えば信じられないほどの失敗をした人間が情けない自分の顔を見たいと思うだろうか。
詠に何があったのかは分からないが引きこもっている間、彼女は一切鏡を見てこなかったのだろう。
だから自らのズボラな姿を見ることもなく先程絶句して現在風呂に入って色々と整えているのだろう。
玄関に残された僕にマリネは導くようにチラチラと後ろを振り返りながらリビングへと向かった。
「入りなよ」
そう言われているようで僕はマリネの後をついていく。
リビングのソファがマリネの定位置らしく彼女は僕をそこに座らせるように視線を送ってくる。
「座れば良いの?」
首を傾げて問いかけるとマリネは一つ鳴いた。
ソファに腰掛けた僕の膝で丸くなるマリネを撫でながら借りてきた猫のように静かにしていた。
しばらくすると数個の大きなゴミ袋と掃除機を持ってやってきた尊の額には汗が滴っていた。
「あぁ〜…ごめんね。何もお構いしなくて…」
尊はソファに座る僕を見て申し訳無さそうに口を開く。
「いえいえ。マリネちゃんがいたので…それだけで十分です」
そんな言葉を理解しているのかマリネは甘えたような声を上げた。
「またマリネを甘やかして…」
少しだけ拗ねたような表情を浮かべて唇を尖らせている尊に申し訳ない気持ちを抱いていると風呂場の扉を開けるような音が聞こえてくる。
「あ…詠が出てきた。着替え渡してくるね」
尊はそれだけ言い残すと風呂場へと向かっていく。
そこから三十分ほどマリネと二人で過ごしているとしっかりと身支度を整えた詠がリビングに顔を出した。
「お…またせ…。部屋…行こ…」
昔は活発な陽キャと言った風な雰囲気を醸し出していた詠の現在は明らかに陰キャといった風だった。
頷いてマリネをソファに置く。
「ナァ〜」
マリネは意味深に僕のことを見つめて鳴いた。
「また後でね」
そう言うと仕方無さそうな表情を浮かべて再び丸くなるのであった。
詠の後に続いて二階へと登っていくと久しぶりに彼女の部屋へと入っていく。
部屋は明らかに尊のおかげでキレイになっていた。
「座って…」
座椅子が二つ存在しており、その一つに腰掛けると詠はどうにか心を落ち着かせて口を開いていく。
「家族のことは…その…ご愁傷さまです…なんて…言えばいいか…」
「いやいや。その件はもう大丈夫。僕も心の整理はついているから。それよりも詠の身に起きた話を聞かせてほしいな」
「………」
詠は僕の言葉を耳にして過去を振り返っているのだろう。
どんどんと暗い表情へと変化していく。
「いや、無理なら良いんだけど…」
「無理…じゃない…話すから…」
そう言うと詠は覚悟を決めて口を開いていく。
「私って…きっと…いじめられやすい体質なんだ…」
そんな悲しい話の切り出し方で僕は眉根を寄せた。
「美容学校でも成績がいつも一番で…きっと鼻についたんだと思う…小学校でも中学校でも高校でもいじめられてたでしょ…?成哉が助けてくれて…どうにかなったけど…」
「僕はなにかしたつもりはないよ。ただいつでも傍に居ただけだし…」
「いや…孤独じゃないのが…どれだけ救いになったか…わからないでしょ…?」
「そうなのか?」
「うん…。専門学校でも就職先でも…私の傍にいてくれた人はいなかった…」
「恋人がいたんじゃないのか?」
「………。恋人も寝取られたよ。何処の女かもわからない。私のことを支えてくれるはずだった恋人も離れていった…。もう孤独でいるのは限界って思って…私は…結局部屋に引きこもった。孤独を恐れたけど…温かみのある実家でぬくぬくとしている孤独は…怖くなかった…でも…もうそれもやめたい…。情けない自分を終わらせたいの…どうすれば良いのかな…?」
詠の必死な言葉を耳にして僕は言葉に詰まってしまう。
何と返事をすれば良いのか僕には未だにわからない。
励ましの言葉も無力な気がしてならなかった。
無理矢理にも檄を飛ばすのもきっと間違いだろう。
それでは…僕はどの様にしてこの幼馴染を救ってやれるのだろうか。
そんな傲慢な考えが胸を覆い尽くした所で僕は頭を振った。
「髪を切って欲しいんだ。美容室ってどうも苦手でさ。話しかけられたら返事しないとって身構えてしまうんだ。でも詠が切ってくれるなら…どんな会話でも苦痛じゃないよ。どうかな?」
「それで…私は…何か変われるのかな…?」
「もちろん。家の外に出られたら相当大きな一歩だと思うよ」
「え…?外に出ないと駄目…?」
「出たくないか?姉に掃除してもらってキレイになった部屋にまた僕を呼びたい?その内、自分が情けなくなってくるかもしれないぞ?」
「………」
詠はそこで数秒黙ると覚悟を決めて頷いた。
「わかった…いつ…行けば良い…?」
「無理にとは言わないよ」
「うんん…頑張る…」
「そうか。じゃあ明日でも明後日でも良いぞ」
「いや…今日が良い…」
「そうか。じゃあ行こう」
そうして詠はハサミなどの道具を持つと覚悟の決まった表情で部屋の外に出る。
そのまま階下に降りると玄関で靴を履き一度立ち止まった。
「ここを…出たら…何か変わると思う…?」
再確認するように僕に問いかけてくる詠に僕は軽く苦笑する。
「何かを変えてくれるのは周りでも環境でもないよ。いつだって自分を良い方向に変えられるのは自分だけだよ。悪い方向に変えてくるのは周りかもしれないけどね…」
ジョークを言うように戯けた表情で口を開くと詠はぎこちない表情で無理に笑顔を作った。
「頑張る…」
口癖のようにその言葉を口にする詠に僕は手を差し出した。
「詠は昔からがんばり屋さんだったもんな。久しぶりにその口癖聞いたよ。昔も頑張るっていつも言ってたもんな。だからいつも優秀な成績を納めていただろ。専門学校でも就職先でも…きっと沢山頑張ってきたんだ。だから今は少し休んでもいいって神様が言ってるんだよ。頑張れるならいいけれど…限界が来る前に休みな」
詠の手を引いて玄関で世間話をするようにして問題から目を逸らすような言葉を口にしているとリビングから続く廊下で尊は言葉を失っていた。
「詠。周り見てみろよ」
満面な笑みでそう告げてあげると詠は言われた通りに周りを眺める。
「あぁ〜…たったこれだけのことだったんだ…」
詠は既に外に出ており景色を見て太陽の下に晒されても平気そうな表情を浮かべていた。
「やっぱり詠は凄いな。僕が久しぶりに外に出た時は…怖くて縮み上がるほどだったんだぞ?」
「こんなの昔のいじめに比べたらなんてこと無いよ。ありがとうね。成哉…また救ってくれたんだね…本当になんてお礼したら良いのか…」
詠は涙ぐむ表情を浮かべていた。
「僕にお礼を言いたい気持ちがあるなら…お姉ちゃんとマリネちゃんに言ってあげて。全ての始まりは二人だから」
「そうなの?私が引きこもっている間に何があったの?」
「まぁそれは追々な。まずは髪を切ってくれ。美容室に行くのが面倒で少し伸びているんだ。キレイに整えて欲しい」
「そう?きれいに整っていると思うけど?」
「もう少しさっぱりと清潔にして欲しいんだ。頼めるか?」
「もちろん。うちの庭で切ろ」
「あぁ。任せた」
家の中に戻っていく詠は廊下で涙ぐんでいる姉に感謝の言葉を伝えていた。
大きな声でマリネにも感謝の言葉を言う詠は昔の彼女に戻ったかのようだった。
リビングから逃げるように顔を出したマリネは僕のもとまでやってくる。
それを追うようにして尊が後を付いてきて僕の顔を覗き込んでいた。
「何をしたの…?」
「へ?大したことは何も。詠が頑張っただけですよ。僕はただアシストしただけです」
「それでも…また家族を救われた…恩が増えていくね…」
「恩だなんて…そんな他人行儀な言葉使わないでくださいよ」
「そうだね…。でも詠もすぐに完全復活するわけ無いと思うから…明日から私がいない間…詠を任せてもいいかな?」
「もちろんですよ。僕も話し相手が出来て嬉しいです」
「本当に…いつまでも優しいんだね…」
尊は意味深な言葉を口にした所で家の中から椅子を持って詠がやってくる。
「さぁ切ろうか」
もう家から出ることに何の抵抗もない詠は一人で平然と玄関から出てくる。
その姿が信じられないのか尊は再び涙ぐんでいた。
「お姉ちゃん。何泣いてるの?成哉の前で泣かないでよ…」
「ごめんごめん。今の光景が嬉しいんだよ…」
「嬉しいなら笑ってよ。お姉ちゃんは美人なんだから。笑っている方が素敵だよ」
「そう…だね。ありがとう」
無理矢理にも笑顔を貼り付けた尊を目にして詠は苦笑している。
そうして詠は僕の髪を超絶テクニックで切っていく。
本日より詠は復活していくのであった。
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