第11話 急転
†
とうに見飽きただだっ広い寂寥の荒野が今日はいつも以上に広く物悲しい風景に見える。《神》は相変わらず音沙汰無し、自分以外に人がいない条件下は何も変わっていないならばやはり原因は自身にある――取り留めもなく思考を巡らせた末、ツァリは大きく息を吐いて自動二輪車のサドルに座った状態でだらしなくハンドルに凭れた。《神》が息を潜めている場だと重々承知しているのにどうもいつもの調子に戻れない。
綾女の滞在期間短縮の旨を知らされたのは昨日、荒野から戻って定期報告を終えた後だった。たった一日、されど一日。アリウム生まれではない異世界の人間の転送となると、《神》の乱心でいくらか文明の後退を余儀なくされたアリウムでも絶対予定日より延びると高を括っていたのに。まさか早まるなどと考えもしなかった。
(……いやおかしいだろ)
これでは彼女が元の世界に帰るのを望んでないようではないか。……否、みたいではなくきっと事実だ。地球に早く帰れるなど綾女には吉報以外の何物でもないのにすぐ伝えなかった事が、帰還日を通達された瞬間――知らせたくないと考えてしまったのが何よりの証だ。そこで間が悪くリョンの癇癪だ。いつものツァリならまたかと肩を竦めて(理解を試みた事はあるが怒った理由を頑なに話してくれないため諦めた)リョンの心が凪になるのを待つだけなのだが……もう一度言う、間が悪かった。綾女の前では平然を取り繕ったが、先の不可解な感情由来の自己嫌悪との玉突き事故が起こった結果、今本部からの抜き打ち視察が来たら説教だけでは済まないだろう弛んだ姿勢になっている。
緩慢にハンドルから身を起こし空を仰ぐ。思い出すのは二日目の朝、リョンに酷く当たられた綾女を心配して様子を見にいった時。濁った黄土色の雲しか映らない天井を無言でぼうと眺めていたあの時の綾女は他者の機微に疎いツァリでも瞭然なほど淋しげだった。そしてツァリには当たり前の天の色が異世界から来た綾女には異質で異常だと、彼女はこの世界の人間ではないと幾千の言葉よりも雄弁にツァリに語っていた。あの横顔は今もなおツァリの心臓を深く貫いている。
自分でも何故そう考えるのか理解できていない。それでも、どうしても。いくら自己嫌悪の心が肥大化しても。
「……帰ってほしくない。な」
ガスマスク内で吐き出してしまったのは非常に我儘で自分本位な願望。罪悪感に塗れた願いは決して認めてはならない代物で、口にしてすぐ首を振った――。
――カ エ シ テ
脳を揺さぶる激痛に襲われた。
――ワ た しノ か エシ て わタシ ノ、
「――っ!」
自動二輪車の待機状態を即座に切り替え走査感度を極限まで引き上げる。空と大地が青ではなく真黒に染まる中で一際映えるのは対象の存在を示す赤。場所は――今自分が佇んでいる地表を含めた広範囲。
二輪車が奔る。悪路走行とは異なる震動を走行中でも如実に肌に感じ取れるのは徐々に強まる地震がただの自然現象ではないからに他ならない。
(何で走査で感知されなかった? 何で俺の声で反応した? しかも――勝手に
ツァリが《神》の殺処分を任されている理由の一つは人間の声に反応する《神》がツァリの声には反応しない故隠密行動が可能だからだ。それに何故――今なのか。ツァリは毎日荒野を走っていたのだ、単純に襲うだけならいくらでもあった。なのに何故
呼びかけようにも一方的な接続は既に切られている。無理矢理思考に干渉された影響で頭が熱い。酷い目眩がする。それでも意思の力だけで前を向き限界まで速度を上げる。
リウムで出会った彼女は乱心した《神》にも拘らず温厚な性格に戻っていて、訪れたツァリにも敵対意識を持たなかった。なのに突然――恐らく綾女の声に反応して、遠いリウムからアリウムまで遙々移動した。穏やかな対話中だったにも拘らず回路が壊れたような急激な身の振り方から耐久に負けて自我が壊れたと判断し、元々の《神》としての自我を残した機能停止ではなく殺処分に移行した。しかし彼女は意味ある言葉を喋っていた。何と言っていた――?
(そうか、彼女の目的は)
目を灼かんばかりのきつい朱色に染め変えられた地面から脱した直後。
ツァリにとっては初めての、綾女ならば二度目と呼ぶだろう爆発が起こった。
†
「ツァリさんの労働環境ってそんな劣悪なの?」
綾女としてはさり気なく尋ねたつもりだったのだが質問されたリョンは判りやすく一切の動作を止め、露骨に綾女から目を逸らした。足掻きで白を切るのは仕方ないとして、猫科らしくゆらゆら揺らしていた尻尾はともかく洗濯物を口に咥えたまま固まるのは頂けない。皺になるではないか。
水を吸って重くなっているツナギを寄越せと無言で催促する。リョンは数秒物理的にも黙りこくっていたが衣類の持ち主が主人の物とあって渋々ながらも渡してくれた。綺麗に拭いた作業台に置いて裏表をひっくり返す作業を始める。厚い布地の服はまず表裏を逆にし、裏面が乾くのを最優先にする。そしたら表側が乾いてなくても最低限の着心地は確保できるのだ。
「で、どうなの」
『……なーんの事だ』
「昨日の当たり屋張りの喧嘩しかないでしょ」
『小娘には関係ねーよ』
「へぇ? 夕べの余波でぎくしゃくするツァリさんとリョンさんに挟まれて滅茶苦茶いたたまれない思いで朝ご飯食べた私には関係無いと?」
『……』
「関係無いと?」
『悪かったよ』
物理的に黙秘する手段を奪われたリョンが深く嘆息した。謝罪に溜飲を下げた綾女は「私のはそれで良いけどさ」と語調を和らげ今度は服の皺を伸ばす。ツァリのオーバーオールは服の性質上そう毎日洗わず干すだけでも問題無いが毎日荒野を走るせいで細かな砂や汚れが付着しやすい。今日は洗濯デーと決めたのだ。
「ま、あんな《神》の対処とこんな半サバイバル生活な時点でハードってのは私でも判るけど」
『つか何でンな話になんだよ』
「だってリョンさんが怒ったのって、ツァリさんが自分と白象を重ねた上でオツベルを庇ったからでしょ。で、ツァリさんの〝オツベル〟は誰かってなったらもう決まってるじゃん」
白象がオツベルをどう定義していたかは不明だが、作中人物と読者視点では白象とオツベルは理不尽な契約で結ばれた雇用関係。そして白象=ツァリならオツベル役はツァリに保護される綾女でも彼に従うリョンでなくツァリに仕事を任せている相手。そして何度も言うがツァリには非常に恭順なのが彼の鉄のネコ科である。その彼が、ツァリがオツベルを庇う事に――否、
恥ずかしくない程度に整えたオーバーオールに頷き振り返る。リョンは瞬きを意味する両目の点滅をしていた。
『お前推理得意なのか』
「全く。せいぜい伏線から色々考察するのが好きってくらい。でも今回のは誰だって分かると思うよ、絶対あれ小説の感想じゃないもん」
『……だよなあ。分かるよなあ』
再びの溜め息は重さも伴う長嘆息だった。酷く悲しげな声色に今度は綾女が口を噤むがほらよと自身の背中を差し出されたため素直に綾女が持っていた服を置く。てくてく普通に歩き出したリョンを追いかける。
『ツァリには話したのか』
「ううん。リョンさんなら言いたい事ははっきり言うでしょ? 相応の理由があるかなって」
『だったらいい。いいか、ぜってー話すなよ』
「理由は?」
『言わねえ』
ばっさり切り捨てられたが予想の範囲内だったため綾女も肩を竦めるに留めた。話こそ振ってみたがもうじき地球に帰る綾女がアリウム側のツァリとリョンの事情に立ち入るなど、ましてや彼らが抱える問題を解決するなど人生経験も浅い綾女には不可能なと理解している。ただ少し苦しくはあった。ツァリは元よりアリウムで一番時間を共にしているリョンにも綾女は恩義を感じているのだ。そして彼が掻き捨てとしても綾女に悩みや愚痴を吐かないのも、綾女が帰還後も自分達を気を病ませない気遣いだと察せられるのがまたもどかしい。
何となく無言のまま歩いていればすぐに目的地――作業台が置かれた部屋(大きな服を広げられる所がそこしかなかった)から洗濯物を干す場として使っている中庭の一角に到着した。リョンが綾女に背中を向けてお座りの姿勢になり、重い服を代わりに運んでくれた事に礼を言ってから黙々と干す作業に移る。オブジェとして設置されていたと思しき二本の柱にペグ状の金具を適当にぶっ刺して張られた洗濯紐代わりのロープは少々高い位置に張られている。念力を駆使しつつ、出せると分かった温風を当てるのにベストな位置を模索していると。
『事情は言えねえが感謝してんだぜ、お前には』
ぽつりと呟かれた一言に手を止め、すぐにわざと服をはためかせていつも通りを装った。
『手当てつってもか弱い女に自分が触れて大丈夫かってオロオロしたり、おめェの訳分からん盛り上がりっぷりに笑ったり……あんなに感情動かすあいつは久しぶりに見た。おめェからしちゃここに飛ばされたのは災難以外の何物でもねえが、オレ様はお前が来て良かったって思ってる。もう日も少ねえけど宜しくしてくれや』
「……じゃあ早く仲直りしてよ? せっかくお風呂に浸かれる日になるのに素直に喜べないのは困る」
『拘んなァ。安心しろ、そう長引かせるつもりはねえよ。あいつが帰ってきたらす』
リョンの言葉が途切れた。「リョンさん?」『ちょっと黙れ』不自然なぶつ切りに振り向けば命令形で伏せられる。博物館内では無かった張り詰めた空気に綾女も周囲を窺う。異変はすぐに察知できた。
(揺れてる?)
干したばかりのツァリの服が、ロープが奇妙に揺れている。無風にも拘らず揺蕩う動きは日本に住む人間なら大人から子供まで知っている――地震だ。
ぐらりと地面が大きく揺れた。
「っあ」
『あぶねっ』
強い横揺れに踏ん張れず倒れかけた綾女の体にリョンの尾が巻き付け転倒を阻止。そのままリョンの元に引き寄せられてすぐ今度は縦揺れが起こる。頭から押し潰されるのと内臓をシェイクされる感覚を同時に味わう特有の気持ち悪さに吐き気を覚えながらも綾女は別のことを思い出していた。恐らく一生忘れられない、無理矢理結びつけられた恐怖の記憶。
「リョ、リョンさん」
『一旦ここから離れんぞ。廃墟つってもちっとやそっとじゃ崩れねえがとりあえず広いトコ――は?』
尾で綾女を確保したリョンが走り始め、しかし今度は言葉も行動も止めた。急停止に危うく舌を噛みかけたがリョンの赤く変色した両目に痛みより先に嫌な予感が加速する。
「リョンさん、ツァリさんは――」
『ツァリの』
ツァリの声が聞こえねえ。
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