第4章

第10話 宣

 初日と二日目こそ(主に綾女とリョンが)てんやわんやしていたものの、三日目からは慣れと開き直りの複合効果により綾女のアリウム生活は平穏と言って差し支えなかった。

 朝はアリウムの朝に設定したアラームで目覚め、身支度を調えてから二人と一匹分の朝食を作り(綾女とツァリはインスタントのスープと保存食、聞くところリョンは水だけで良いらしい)、朝食後に本日の予定を報告してから別行動――ツァリは《神》の偵察に荒野へ行き、綾女は家事、リョンは綾女の護衛として動く。一日出ずっぱりのツァリを抜いて綾女とリョンだけ拠点で昼食を摂ったら夕食の用意まで自由時間となり、綾女は持ち物のノートに異世界事情を纏めたり、予習を兼ねてこれまた持ち物の小説を読み込んだり、もしくは。

「上がれー……下がれー……上がれえー」

 無意識に抑揚づく綾女の命令と両手の上げ下げに合わせ、見えない糸で吊られるが如く宙に浮く木箱が上昇と下降を繰り返している。しかし不安定にぶるぶると震えていた箱は何度も往復していくうちに揺れが激しくなり持ち上がる速度が遅くなった末、四度目の上昇を果たしたところで大きく傾き「うわっと」力尽きたとばかりにへろへろと落ちていく木箱の速度を慌てて調整して地面に着地させ「いててて」軽い筋肉痛を感じる腕を回したり手の開閉を繰り返す。

『大丈夫かよ。一応怪我人だろ』

「もう治ってきてるから平気ー。それよりこの念力が思ったより役に立たなそうなのが……」

 ぼやきながら綾女が覗く木箱の中には綾女の鞄を始め、後翼館から見繕ってきた汚れていないガラクタが詰め込まれている。

「物を浮かせるって魔法より超能力では?」と思いついて以降念力と呼んでいるこの力で浮かせられる物はどうも綾女が両手で持ち上げられる重量が限界で、且つ本や食器数枚の軽量物はともかく実際に両手で持てたとしてもすぐに腕が疲れてしまうほどの重い代物は長時間浮遊を維持できない。また空中で重量物を移動させようとすると地面に引きずってるも同然に遅い上本当に自分で移動させたも同然に疲弊する。無論ツァリやリョンに試しても微動だにせず、平均体重より若干軽い綾女自身に施すと一瞬浮かんですぐ落ちた。頑張って相手の体を抱き上げてみたがすぐに無理と根を上げる友人同士の遊びを思い出したのと念力は綾女の筋力に依存している疑惑がほぼ確定となった瞬間だった。まさか異世界で覚醒した超能力への感想が「筋トレして体力つけておけばよかった」になるとは。

 と、高い電子音が鳴り響いた。出所は椅子に置いた綾女のスマートフォンだ。

『ま、おめェが運ばなきゃならねえデカブツなんかもう無いだろ。おら、ネンリキとやらは今日で打ち止めだ』

「はーい」

 リョンは『お前が無駄に怪我でもしたらオレ様がツァリに怒られんだよ』との事で発言内容が護衛ではなくほぼ目付役になっており、綾女が少しでもするとストップをかけるようになった。雑談でリョンが元子守用ロボットと聞いた時は三度見したが強ち嘘でもなさそうだ。あとアリウムで暮らすうちに知った彼の性格からして三分の一くらいは本心から綾女を気にかけていると考えている。

 アラームを切って大人しく箱の中身を取り出していく。ちなみに綾女のスマートフォンは相変わらず圏外を示す一方日が経過しても充電が九十九パーセントから一向に減らない謎現象に陥っているのだが、これくらいは既に些事と電池切れにならないのを良い事にこうしてぼちぼち活用している。

「これ戻したらご飯とお風呂作りの用意するかあ」

『まだやんのかよ』

「もちろん。ツァリさんとリョンさんにも引っ張り出すの手伝ってもらったからには実現させないと」

『そのフロに対する並々ならぬ執念何?』

 博物館の倉庫で眠っていた、綾女一人が余裕で収まる推定鋼鉄製の展示物搬入箱とすのこの代替板をを思い出しながら力強く拳を握る。火の魔法は下手をすると大事故になるためツァリが博物館にいる時のみと取り決められている。帰宅後すぐ入浴が叶わないのは残念だが仕方ない。火加減調節は順調だから明日明後日には完成する事だけ考えよう。

(まあ熱入れてる理由は他にもあるけど)

 二日目の夜、やいやい騒ぐ綾女とリョンに笑みを零したツァリの顔がどうにも脳裏に焼き付いていて離れない。次の家事に移るまでの隙間時間、ノートを纏め終えたり読んでいる小説に一区切りついて現実に返ってきた僅かな数秒間に、あの控えめな笑顔がふっと蘇って口内胸中腹の奥底がむずむずと落ち着かず、ともすると勝手ににやけてしまうのだ。この現象――心当たりは一つしかない。

(私たぶん、ツァリさんを推し判定してる)

 もちろん紳士的で礼儀正しく優しい人格者である恩人の彼の人間性は好きだ、純粋に慕っていると言い切れる。ただ綾女は黒髪クールキャラ好きで、いつも無表情なキャラが極稀に笑うシチュエーションが大好物で、そこに綾女でも格好いいと判る容貌のツァリが見事にそのツボを抑えてしまい、まあ、一分の隙も無く噛み合ってしまったのだ色々と諸々と。

 恩人のツァリの疲れを取りたいのも本心だ。けれど人としての思慕と二次元嗜好のバランス取りが難しくて考え出すとどうにも言い訳染みてしまい、集中力が必要なお風呂作りに熱を転換させているのだ。うっかりリョンにバレようものならドスが利いたヤスリの重低音で心を削られるのは確実なため、彼の外見への印象と合わせて墓場まで持っていくつもりである。……世の中には吊り橋効果という言葉もあるし。

『それよりよォ、今日の話はどんなやつなんだ?』

 こちらの内心を知る由もなくリョンが発した問いに、ガラクタを中に残した箱を念力ではなく自力で持ち上げた綾女は曇天を見上げながら脳内に目次ページを浮かべて。

「……んー……」

『んだよ煮え切らねえな』

「リョンさんの解釈を楽しみにしてるとしか言えないかな。ツァリさんは……今回も難しいかも」




 ツァリが荒野から戻ってから夕食を食べ、翌日には風呂実現の目処が立ったと綾女が上げた野太い歓喜に一人と一匹が軽く身を引いて暫く。

「じゃあ今日の小説読みます。タイトルは『オツベルと象』」

 すっかり綾女の寝床になっている釣鐘部屋の寝具の上で、光量を上げたカンテラを傍らに栞を挟んだページのタイトルを読み上げる。綾女の対面では折り畳みの椅子にツァリが長い足を持て余した状態で座り、リョンは彼の隣でぺたりと地面に伏せた体勢。その状態で一人と一匹は適度に抑揚をつけるのにも慣れた綾女の朗読に黙って耳を傾ける。

 留守を預かる綾女の仕事は夕食(翌日からは風呂用意も追加)までだが、それとは別に日課になっている事がある。きっかけはアリウム生活四日目、異世界トリップと爆風のせいで見るも無惨な有様になったトートバッグを四苦八苦しながら手洗いしていた時、『その鞄妙に重かったが何入ってたんだ?』「本。小説とか専門書とか写真集とか」と何気なくされた質問に何気なく返したらどうも娯楽に飢えていたらしいリョンが食いついたのだ。しかしリョンの体の作りでは本のページを繰れず、できたとしても話し言葉は不思議と通じこそすれ綾女達は互いの世界の文字を読めない。ならばと綾女が拙くも朗読すると殊の外気に入ったリョンが、その日荒野から帰ってきたツァリも引っ張り込み六日目になっても続く夜の日課になった次第である。ちなみに小屋に集まっているのは焚き火だと明かりとしては不安定で読みづらくなるためだ。あとバッグは諦めた。

「――『白象はさびしくわらってそう云った。

 おや、一字不明、川へはいっちゃいけないったら。』……おしまい」

 〆の一言からきっかり三拍。

『何で白象の笑い方が「さびしく」なんだ?』

「やっぱそこ気になるよねえ」

 奇っ怪そうな物言いにリョンに苦笑し、今しがた読み上げた短編部分をぱらぱらとめくる。大学に入ってから近代小説にハマった綾女の鞄内の小説も自然とそちらに偏っており、宮沢賢治の短編集もその一つだ。

 ――ある日、大金持ちの地主であるオツベルの元に一頭の白象がやってくる。オツベルは白象が仕事場に興味を持ったのを利用して彼を労力として捕獲する。そしてよく働く白象に味を占めたオツベルはどんどん仕事量を増やし、反比例して労働対価の食糧を減らして徹底的にこき使う。温厚な白象は初めこそオツベルの謀に気付かず仕事を楽しんでいたが次第に疲労と虚しさが蓄積され、月の助言を受けて遠方の仲間に近況と助けを望む旨の手紙を送る。手紙を読んだ仲間は白象の境遇に怒り狂い、群れを作って白象の救出に向かう。オツベルは象の群れに踏み潰され、白象は助けられた――『オツベルと象』はそんな話だ。リョンはこれ大抵の人が引っかかるだろうなと予想していた白象の笑い方が案の定気になったようだ。

『奴隷扱いしてたオツベルが死んだんだぜ。「ざまぁ!」一択だろ? お前ん所ではこの話ってどう解釈されてんだ』

「それが私もこれ読んだの今日が初めてで、他の人の解釈知らないんですよね。とりあえず死までは望んでなかったってのは分かりますけど」

 恥ずかしながら日本の文豪に本格的に手をつけて日が浅い綾女には深い考察はまだできない。どちらかと言えば綾女もリョンの感想に九割同意だ。白象がそこまでやらんでもな精神になるのは分からなくもないが、読み手としてはオツベルが死ぬシーンは最大のカタルシスだ。

『死までは望んでない、ねェ』

 何かを含んだ物言いでちらとリョンが視線をある方向に向け、つられて綾女もそちらを見る。

「……」

 そこには綾女達の話し合いに全く参加せず、僅かに俯き軽く手を組んだ状態で沈黙を守るツァリがいる。彼の名誉のために言っておくと決して寝ている訳でもつまらなくて無視している訳でもない。小説一編につき必ず一言意見を述べるリョンと違いツァリは自分の感情を言語化するのが不得手なのだ。初めての朗読会で読み上げた『注文の多い料理店』について何の気なく水を向けると、アリウムの事情を淀みなく説明していたのが嘘のように数回口をぱくかせて閉じ、間を保たせる伸びの音すら出せず困ったとばかりに首を傾げた時は衝撃を覚えたのは記憶に新しい。リョンの引っ張り込み方が『おめぇも情緒育め』だったのは酷い言い種だと思ったが彼なりの意図があるのかもしれない。

 しかし読書は好きでも感想文を書くのは嫌いだった綾女にとって感想の強要は主義に反する。そのためツァリが自分から話そうとしない限りこちらからは突っ込まない旨をリョンに言い含めていたのだが、

『おめぇはこの話どう感じた? ツァリ』

 さらっと約束を破られた。「俺?」「ちょっとリョンさん」『うっせ。オレ様は色んな考えを聞きたい』綾女の注意を一蹴し、ランプの両目で無言をツァリを見上げている。ツァリはリョンに顔を向け、次に一人と一匹への対応を考えあぐねている綾女を見て片手で口を押さえた。この六日間で分かった、考え事をする時のツァリの癖だ。

「……笑い方が『さびしく』だったのは、白象がオツベルの恩人だったからじゃないか?」

 一粒の水滴のように場を打った。

「恩人?」

「確かにオツベルは白象を騙して酷い扱い方をしたが、白象に仕事という楽しさを与えてくれたのもオツベルだ。白象は群れから離れて彷徨っていた理由は分からないが、敢えて一頭でいたとしても孤独ではあったんだろう。だからやり甲斐がある仕事を与えてくれたオツベルは恩人。怨みや助けを乞う気持ちがあったとしてもそれ以上に感謝の念もあった。だからアヤメ嬢が言う『死までは望んでいなかった』になる」

「あーそれは、確かに……?」

『何でだ?』

 地を這うような声音に喉が引き攣った。

『白象は死ぬ寸前だったんだぜ? 最後の夜は赤い竜眼でオツベルを見てた、怨んでたのは確実だ。なのにまだ感謝が上回んのか? お人好しにも程があんだろ。いいか、オツベルは死んでいい奴なんだよ、恩なんかオツベルの仕業で帳消しどころかマイナスになってんだから。何でオツベルをって表現するんだ?』

「ちょ、リョンさん? リョンさんストップ! どうしたの突然」

 綾女の浅い同意を掻き消してがなり始めた鉄の獣に身を乗り出す。多少の口答えや舐めた態度を取ってもリョンはツァリに従順で世話焼きだと短い付き合いの綾女でも知っている。彼がこれだけ主人ツァリに食ってかかるのは初めてで、しかも露わにしているのは――憤怒だ。それも綾女との初対面と同等と言っていいほどの。

 なお激しく言い募ろうとしたリョンは綾女が遮るタイミングが良かったのか喉の奥に言葉を引っ込め、けれど逆に落ちすぎたのか代わりの言も出てこず獣らしい唸りを上げた末、

『……見張り行ってくる。お前等はもう寝ろ』

 消化不良気味に吐き捨てて、吐露の重さとは裏腹に軽い身のこなしでするりと外に出ていった。

「…………」

 そして残される綾女とツァリ。

(いやこの空気で放置やめて!?)

 立ち去ったリョンに心の中で威勢良くツッコミはできても何とも微妙な空気が漂う現実では身じろぎも難しい。いくら開き直って異世界ハイになっている綾女でもこんな一方的な喧嘩後の空気に突撃する度胸は無い。

「アヤメ嬢は気にしなくていい。時々あるんだ」

 そんな綾女の心境を察したのかツァリが先に切り出してくれた。端々に当惑が滲んでいるが。

「本の感想では初めてだが、衝突自体は珍しくはない」

「衝突というか一方的にどついてきませんでした?」

「文句を言われてる俺が意味を理解してないからな、どうしてもそうなる。まあ二、三日経てばなあなあになるからそれまで」

 ふつと途切れた。

「ツァリさん?」

「……アヤメ嬢。伝えておくことがある」

 不自然に停止したのを隠すように再開したツァリの言葉は滑らかだった。

「貴女が地球に戻る日が一日早まった」

「え? それじゃあ」

「ああ、予定では四日後だったが三日後に変更だ。……良かったな」

 口の端を持ち上げてツァリが笑みを作る。二日目の夜以来時々浮かべるようになった一目だけで気付きにくい、控えめでツァリらしい微笑み。

 けれど綾女は素直に喜べなかった。先程の空気が尾を引いていたからではない。ただ本を読むために光量を強くしたカンテラのせいでか、ツァリのインペリアルトパーズの瞳が光を妙に同化して感情が消えているように見えた気がしたのが心に引っかかった。

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