第8話 覚醒は留守番中に
一人と一匹でツァリを見送ってから早一時間。
「たっか……」
二棟ある建物のうち前翼と呼ばれる建物、そこの最も広いエントランスに足を踏み入れた綾女は無意識に吐息を漏らした。
三階まで吹き抜け構造、大理石に似た高級感が漂う床、虹色の幾何学模様で嵌められた格調高いステンドグラスの天井。そして玄関口とあって広さを確保した空間はこの建物を初めて訪れた人達を圧倒させ、普通なら次に入る部屋にはもっと凄い物があるのではと期待を引き出させるものだった。しかし。
「何も無いですね、ここも。台だけ」
頭上から視線を戻し軽く見回す。
博物館だったという建物はエントランスの要所要所にも石造りの置き台が配置されているのだが複数あるそれらはどれも空っぽで淋しく埃を被っている。受付だったとおぼしき場所には紙のパンフレットが散乱し、偽物の観葉植物は無残に倒れて零れた作り物の土も塵埃交じり。壁際には落下かそれ以上の衝撃を受けたのか原型も不明な電子機器らしき物が粉々に砕けていて、延長で床を見てみれば美しいはずの石床にはほとんど罅が入っている。振り返れば綾女とリョンが歩いた所だけ汚れが取れているし、ステンドグラスは天候を加味しても極彩色の彩影を落としていない。床と違って一部の欠けが無いのも逆に不安を煽る。
『持てるモンは全部避難させたらしいからな』
「逆によく移動できましたね。中央に置いてたっぽいのきっとここの主役でしたしょうし、絶対大きくて重いですよ」
ステンドグラスの真下、くすんだ紅のロープと金棒が連結したポールパーテーションが円形状に倒れている場所を「ゲームだったらイベント発生するポイントだな」と眺めていると隣のリョンが欠伸を漏らした。
『案内はここで終わりだ。戻んぞ』
「はーい」
先にUターンしたリョンの隣に並ぶ。想像通り綾女の身長とほぼ同じ体高だったリョンと歩くとコンパスの差どころではないはずだが、追いつこうと小走りになる頻度は意外と多くない。最初こそ綾女の歩行速度に『は? おっそ』と呆れられたが、早歩きはまだ足が痛いと返してからは舌打ちもせず明らかにペースを合わせてくれるようになった。この獣、実は青年と同じくらい優しかったりするのだろうか。
当面の生活のため敷地内を案内しておいてほしいとツァリに言いつけられたリョンが露骨に不平不満を漏らしてから始まったプチツアー。最初は嫌々、というより先の発言からするに綾女といると居心地が悪いのか距離を取られがちだったが、昨日と打って変わって綾女が平然と、時には話しかけるのもあってか案内も終盤にもさしかかるとぶっきらぼうな態度は変わらずとも会話はしてくれるようになった。今もこうして綾女の取り留めもない感想に相槌ではなくきちんと受け答えしてくれている。
「廃墟ですけど荒野とは比べ物にならないですね。何でこんなに残ってるのかな」
『さあな。破壊する所選別してたんじゃね』
「それだと《神》、めちゃ理性残ってることになりますけど……」
『知らネ。オレ様達は《神》に言われた事をやっただけ。真意なんざそれこそ神のみぞ知るよ。オレ様はここの《遣い》でもなかったしな』
「ふうん……」
床石に罅が入る足音を響かせる隣の案内役の言葉に考える。
結論から言うと、リョンはその外見通り《神》から命令を受けて殺戮の担い手になった《遣い》だった。しかし黄緑の眼らしきランプを点滅させて――瞬きだろうか――応対する素振りは気怠げではあっても至って理性的で、現状ではせいぜい柄が悪い話し方にしか悪の要素が見出せず暴虐を尽くした一匹とは信じがたい。それにツァリの話ではアリウム側にとって最早《神》は敵。ならば《神》の支配下に置かれたロボット達も同じく排除する対象になるはず。だというのに狂った《神》の処分するツァリと《神》の配下の《遣い》が行動を共にするのはあまりに不自然で、逆もまた然りである。しかも死に晒せ発言といいどうもリョンは主のはずの《神》を嫌っている節があって……関係性が謎い。
(妄想はできるけど所詮妄想だしなあ。思わず聞いちゃったけど『話す義理あるか?』で一蹴されたし)
判る事と言えばリョンはツァリを慕っていて彼に危害を加えるなどあり得ないという事。そして何だかんだでツァリの大事な命令には従うという事。だから綾女がリョンを怖がってないならと護衛につけてくれたのだろう。そこでふと思いつく。
「私がまだリョンさんを怖がってたら、ツァリさんも今日はここに残ってたんですかね」
綾女を一人で放置できない、しかしリョンも傍には置けないとなっていたら性格的にツァリも博物館に残っただろう。ツァリの仕事を妨害するのは頂けないが《神》の件もある。今更ながらどちらが正しかったのか悩んでしまう。しかし独り言に近い綾女の呟きを拾ったリョンの返事は『微妙なトコだな』と意外なもの。
『ツァリはお前を地球に帰すまでここで待機するつもりだったよ。けど朝お前が来る前、《神》の破壊が最優先って本部、あーアリウムで《神》の対策考えてるトコに言われたんだと。そこにいりゃ小娘は大丈夫だろともな』
「私の扱い雑ぅ……帰してもらえるだけ御の字ではありますけども」
『……あいつも珍しく不機嫌だったよ。んな訳で、ツァリが外に出るのは決定事項だったんだよ。だからおめェをどうするかすげー悩んでたからちょうど良かったっちゃー良かったわ。オレ様が子守する羽目になるとは思わんかったけど』
「すみません……」
『まあ子守はアレだがちょうどいい。お前に聞きてェ事がある』
大気を軽く震わせるほどの歩みを止めたのに遅れて綾女も足を止め「――」息も止まる。
綾女達が歩いている所は右手に空の置き台、左手に天井近くまで届く大窓が連なる長い廊下だ。窓側に立つリョンの巨体は外の砂色の光を容易く遮り、綾女はリョンが作る日陰で覆い隠されている。外からも綾女の姿はきっと見えない。
『おめェにとっちゃ異世界に突然飛ばされるってのは本来あり得ねえことなんだろ。なのに昨日の今日で何でそんなけろっとしてんだ? おかしいだろ、一回死にかけたんだぞ? ……演技か? ツァリを誑かして何がしたい? 何を企んでやがる』
薄暗い廊下で綾女に首を向けたリョンの眼が光る。昨夜の喧嘩を売ってきたのとは違う。鳥肌が立つほど伝わってくるのは苛立ちではなく――警戒心。鉄板と歯車とビスと真鍮で構成された、綾女が知る生き物とは似て非なる〝神の遣い〟が、突然紛れ込んだ
俯き、口元を隠して一度息を吸い、吐き、顔を上げる。
「……企んでもいませんしけろっともしてません。リョンさんが突然動いたり大声出したり今みたいに威嚇してきたら凄く怖いです。演技でもありません。《神》になんて二度と出くわしたくない」
『そうか? オレ様には全然そうは見えねえけど』
「確かにいつもの私ならリョンさんみたいなタイプと一対一になったら頭真っ白になってとっくに号泣してると思います。落ち着いてるように見えるのは……ツァリさんのおかげです」
服の裾を摘まむ。大きすぎてちょっとしたワンピース丈になっている黒シャツとミリタリージャッケットは《神》の乱心で気温調節が壊れたアリウムは寒いからと、予備数着と含めてツァリが綾女にそのまま貸してくれたのだ。ズボンは綾女の夏服のため下は少々冷えるが、借り受けた分は綾女の体をすっぽり隠してくれるところは申し分ない。手渡してきたツァリの顔が自然と浮かぶ。女性に貸すには悪い物だが、を前置きにした青年は僅かに眉を下げて、綾女より余程背が高いのに窺うようでつい笑ってしまい逆にツァリを困らせてしまった。
《神》から助け出す直前にも一言告げてくれた青年は、素性も何一つ分からず意識を失った綾女を甲斐甲斐しく世話してくれ、何が逆鱗か自分自身も見当がつかない情緒不安定な綾女をどこまでも慮ってくれた。……泣き出した綾女にかけてくれた「大丈夫」に、本当に救われたのだ。そして不在にしている現在も彼の優しい心は綾女を包んでくれている。ツァリがいなければ綾女はとっくに身も心も死んでいただろう。
「そのツァリさんが一番信用してるのが貴方です。なら私はツァリさんの判断を信じます」
まっすぐに黄緑に光る一対のランプを見据えて嘘偽り無い本心を告げる。リョンは何も言わない。それでも根気強く待っていると恩人の従者はようやく大きな嘆息でだんまりをやめた。
『今のてめェの言葉、ぜってー裏切んなよ』
「裏切る理由なんてありませんから心配無用です。あとはまあ単純に一晩寝て落ち着いたのと死にかけたのは大問題ですけど私オタクで異世界トリップネタ好きだからある意味慣れてるのとちゃんと帰れるなら創作のネタにしようってくらいの気持ちで開き直った方が精神的にも楽っていうのと、あ、言葉が通じて意思疎通できるなら結構運良い方じゃんって気付いたのと」
『長ぇ長ぇ長ぇ。つかお前ネタにするって言ったか? ふてぶてしいな!』
「知的好奇心旺盛なオタクは命が保証されてるなら結構はっちゃけますよ。後でこの世界の事ノートに纏めるつもりなので補足とかあったら教えてください」
『マジでふてぶてしいな!?』
「ここまで来たら恐怖体験だけで終わらせるのは損ですからね。大丈夫です、絶対外には出ませんし、もし何かするにしてもツァリさんやリョンさんの許可取りますから」
『取らねえとキレるわ』
「でも目下の目的はツァリさんへの恩返しですね。留守中に何かやっておきたいです。さっき箒とちり取りは見つけましたけど洗濯、食事の用意……は、水と食糧が貴重なら迂闊に手つけられないですよね」
『本部からの支給品だからな』
どことなく緩んだ空気の中どちらともなく歩みを再開させる。息苦しさが無くなり流れで始めてしまった相談は割と真剣だ。最初に案内してもらった後翼に生活に必要最低限な設備は揃っていたが、食糧と水は本部とやらから補給される物らしく、食べ物はどれも保存食、飲み水は容器入り。家事に使う水は幾分余裕があったとしても、キャンプも未経験なインドアな綾女がサバイバルかと疑うほど切り詰められた物資に手を出したら文字通り恩を仇で返すのは火を見るより明らかだ。
「せめて水が自由に使えたら良かったんですけど。せっかく異世界に飛んだのなら魔法も使えたら良かったのになあ」
『マホウ? 何だそれ』
「えっ知らないんですか」
前翼の終点である開け放たれた両扉をくぐれば馴染み始めた巨大回廊で分断された二つの中庭で、右側には綾女が寝床として借りている小屋と鉄柵に囲まれた泉、左側には椅子と小さな木箱が置いてある集合場所。
「私の世界にはですね、何も無い処から火や水を出したり風を吹かせたりできる不思議な力が存在するって言われてたんですよ。それが魔法です」
『無から有を生み出すのか? あり得ねえだろ』
「はい、実際には存在しません。でもできない事を可能にする魔法はロマンの塊ですからね、古今東西問わず物語にはばんばん出てきますよ。特に異世界トリップものだとひょんな事から異世界に落ちた地球人がその魔法を使えるようになるのが定番なんです。例えばこう、指差した場所に『ファイアー!』って」
ぼっ。
「えっ」『はっ?』
綾女とリョンの声が綺麗に被り、硬直した。
綾女が何の気無く指差した先――燃え尽きた焚き火の跡。火種も何も用意していないただ木々が適当に組まれていた場所に突如、橙色の炎が生まれた。
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