第2章

第4話 息継ぎの夜半

 悪夢に魘されたり激痛に苛まれる事も無く、至極穏やかに綾女は眠りから目覚めた。

「……。!」

 ただし寝起きも平穏とは言ってない。眼と意識の霞が緩やかに取り払われても暗闇が滞留して先が見えない天井が広がっている意味を理解しがばりと跳ね起き「いでででででっ!」頭に腕に腹に足、無数の針に刺突されたような、強力な電流が流れたような、熱湯入りのヤカンに触れた肌を無理矢理捻られたような――これまでの人生で経験した事が無いあらゆる種類の痛苦に見舞われ即座に床への逆戻りを余儀なくされた。体調に関してはこと健康優良児で骨折や捻挫の類も未経験な身にはこの打撲もオーバーキルが過ぎる。なのに倒れ込んだ視線の先にすっかり薄汚れた自分の鞄が安置されているのに気付き間髪容れず同じ過ちを繰り返したのは我ながら愚かだがこれは看過できない。呻きながらポリエステル製の旅行鞄とトートバッグの中身を確かめる。

「……良かったぁ全部無事……奇跡……」

 財布、キーケース、音楽プレイヤー、スマートフォン、電子辞書、腕時計、寝間着と二泊三日分の着替え、ノートにペン類の文房具、たくさんの書籍、他旅行用品。精密機器は小さな手提げバッグごと旅行鞄に放り込み、本はチャック付きと普通タイプのOPP袋で厳重に水濡れ対策していたのが功を奏した。本は汚れも破れもせずスマートフォン等もすぐスリープモードから解除された。圏外表示は……もう仕方ない。

 安堵で力が抜けて自然と背が丸まれば視線は下方に移る。綾女も例に漏れず何気なしに自分の腹部に目をやって――ぎょっとした。

 服が違う。カーディガンはともかく半袖の白シャツが、サイズが大きい故実質長袖になっている七分丈の黒シャツになっている(しかも綾女が着ていた物より格段に着心地が良い)。一拍置いて目にも止まらぬ速さで下半身を覆う毛布をどければ下着は着けているがそれ以外は何も履いてな、違った、大きすぎて脱げている同色のズボンが布団の中に紛れ込んでいた。

「うわぁ……うああああ……!」

 判る、理由は判る。露出した足に巻かれた包帯や咄嗟に自分を抱きしめた際の服越しの湿布らしき感触からして丁寧に怪我の手当てを施し、土と砂で汚れた綾女の服を再び着せて寝かす訳にはいかなかったのだと簡単に推測できる。できるが、どっちだ。輩口調かガスマスクどっちが綾女を着替えさせたんだ。第三の女性の選択肢はまだ残ってるだろうかああでも同性がいるなら女物着せるよねこの服どう見ても男物だ!

 従姉の影響で物心ついた頃から頭から爪先までぬか漬けされていた綾女の身近な異性とは父親と親戚のみ。同学年の男子やアイドル、生身の人間全般に砂一粒分も興味関心を持たないまま人生を謳歌してきた女子にこの突きつけは刺激が、それこそ突然異世界に飛ばされて怪獣に襲われるのと同程度には衝撃が強過ぎて、外からノックされた時危うくまた気を失うところだった。

「……起きたか?」

 尋常ではない速さで脈打つ心臓を抑えて振り返る。綾女がいるちょうど反対側の壁が一部くり抜かれ扉代わりか目隠しの布が取り付けられている箇所がある。生地が厚いのか相手の様相は判然としないが綾女の様子を見にきたのは問いかけから察せられる。しかし驚きすぎて声が出ない。

 コン、と先程より控えめなノック。外壁を叩いているようだ。

「喋らなくていいから一つだけ教えてほしい。自力で動けるか? 動けるなら一回、無理なら二回、適当に何か叩いてくれ」

 予想外の質問にきょとんとしてから慌てて状態を確認し……少し考えてから手を一回叩く。垂れ幕越しに安心した気配。

「そこに置いてある水や布は好きに使ってもらって構わない。外に出るなら温かい飲み物を用意してある、ここを出てまっすぐ歩けばいい。ただ外は寒いから出るなら俺の上着と、あと近くの灯りも一緒に。疲れているなら眠ってていい。俺達は今日そこには入らないから。ああ、困る事が出たら今のように手を叩いてくれ。じゃあ」

 実に簡潔且つ的確に要点のみを告げて彼の人物は離れていった。わざとらしい足音は自分が立ち去った事を判りやすく伝えているのかもしれない。

 音が聞こえなくなるまで入口を眺めた後、無言で片腕を組んで額に手を当てる。

「滅茶苦茶親切じゃん……」

 離れたと思わせて実は近くに隠れている、と邪推するのも申し訳ないほど至れり尽くせりできちんと話せなかったのを後悔し始めた。否、まず警戒する必要が無いのか。低めながらも聞き取りやすい男声は間違いなく綾女を助けたガスマスクの男である。わざわざ窮地を救った者に危害は加えない……はず。何より。

「動かなきゃ、何も始まらないよね」

 開き直れ、米原綾女。覚悟を決めろ。でもガスマスクはビビるのでできれば外しててほしいです。

 腹を括ればやる事は一つだ。改めて体を動かしてまだ痛みはするが歩行は問題無いと確認し、枕元の水桶とタオルを有難く拝借して顔を洗い(左頬にテープが貼ってあった)奇跡的にフレームが歪まなかった赤縁眼鏡を装着。上はそのままで鞄から自分のズボンとついでに靴下を出して履き直し、可哀想に丸まっていた男物の方は整えた毛布の上に畳み、水桶の隣の木製椅子に用意されていた黒のミリタリー風ジャケットを着込む。最後に足下で揃えられていたスニーカーの紐を結んで小さなカンテラを持てば装備完了だ。ちなみに床はうっすら砂を被る石畳だった。

 入口前で立ち止まって深呼吸し、よしと気合いを入れて布に手をかけ一歩を踏み出す。ばさりと垂れ幕が翻るのを背後に綾女は――感嘆した。

「星だ……!」

 眠っている間に夜になったようで地上はカンテラ周り以外は濃い暗闇が溜まっている一方、天上は泥土の雲が跡形も無く消え失せ、プラネタリウムか山奥でしか望めない幾千の星々が透明ささえ感じる漆黒の夜空で煌めいていた。手元に光源があっても全く輝きが損なわれない満天の綺羅星は一時は死を覚悟した反動か十八年の人生で一番美しく見えたと断言できる。

 束の間生のよろこびを噛みしめていたがジャケットを羽織った上はともかく足下が冷えてきた。涙ぐんでいたのを指で拭いカンテラを持ち直して歩き出す。小さな灯りでは全体を掴めないがアルファベットのH状に建物があり、縦棒部分は三階建ての建造物、横線部分は恐らく二棟を繋ぐ回廊、綾女が出てきた横線下側の空白は中庭に当たるようだ。見たところ左手の建物付近にも何か建っているが暗すぎて見えない。

 庭はそれなりに広かったが物珍しく見回しているとすぐだった。石造りの三段階段を上り、高い屋根と綾女一人では到底腕が回らない太い石柱が等間隔に並ぶ柱廊を縦断途中、柱の隙間から赤い光がちらと映った。柱の陰から窺うと予想通り、下りの段差から約五、六メートル先に赤々と燃える焚き火と椅子に座る影法師が一人。……一人?

 意識せず立ち止まったせいで薄く砂が積もる石材の床とスニーカーが擦れて耳障りな音を立てた。と、人影が振り向き綾女の姿を認めたのか即座に立ち上がって走り寄り――普通に会話する分には支障が無く、接触には遠い絶妙な距離で立ち止まる。マスクは外しているようだが逆光で素顔は見えない。

「ここまで歩かせてすまない。手を貸した方がいいか」

「え、あ、大丈夫です! 平気ですっ」

「分かった。じゃあ足下に気をつけてくれ。それと茶と甘い物、どちらが良い?」

「えと、じゃあすみません、甘いので」

 分かったと背を向けた人物の後を追う。男は火の傍に置かれた背凭れが無い木椅子を勧めると木箱を挟んだ綾女の左側に座り、近くにあった紙袋から粉末が入った瓶を取り出して飲み物を作り始めた。素直に従って腰かけた綾女はこっそり観察する。

 黒いツナギ、黒いブーツ、黒のグローブに黒髪と全身黒尽くめの男は綾女よりも年上、二十代前半か半ばだろうか。欧米北欧系よりアジア系の容貌だが目鼻立ちはそれよりはっきりしており、肌色も(赤橙の焚き火が灯りのため断言できないが)コーカソイドの白よりもモンゴロイドの色白に近い。なら一番近いのは東欧かとも考えたが他の特徴も兼ね備えているように見えなくもなく……誤解を恐れずに言うと各人種の良いとこ取りをした無国籍風で、付け加えると二次元に傾倒する故にリアルの人間の美の基準値が設けられていない綾女でも「端整」「精悍」の褒め言葉が浮かぶくらいの美形。普段の綾女ならこの青年はおろか見知らぬ男性には必ず及び腰になるのに不思議と親近感すら抱くのは彼が命の恩人だからか、それとも異世界で初めて会えた人間だからか、単にガスマスク姿より取っつきやすいからか。ただ炎の色味が強過ぎてせっかく前髪を上げているのに瞳の色が判らないのは何となく残念に思った。

 不意に青年が綾女に顔を向けた。しっかり目が合った事で遠慮皆無で青年を凝視していたと気付いて言い訳するよりも早く、机代わりなのか木箱の上に陶器のマグカップを置かれ「熱いから気をつけてくれ」「あ、ありがとうございます」普通に流されてしまい結局へどもどとお礼を言うも羞恥心は肥大。内心を誤魔化そうと持ち手を向けてくれたカップ(本当に気配りが細かい)を受け取り――鼻腔を擽った香りに意識を吸い寄せられた。不安定な灯りでぱっと見表現しがたい色になっていてもこの甘い匂いは覚えがある。冷ますのも程々に一口飲み込んで目を見開く。

「ココアだ!」

 果汁や砂糖水と異にする舌に残る濃厚な甘みとほろ苦さはカカオパウダーを溶かしたココアの味と似ているどころではない、同じだ。

「えっここってカカオあるんです――」早くも懐かしさを感じる甘味との思わぬ再会に緊張も礼儀も忘れて前のめり気味に大声を出し、「……すみません」自分のカップに口をつけたまま目を瞬かせる青年にモグラ叩きのモグラよろしく席に引っ込んだ。しかし今度こそ内心で悶絶する綾女に青年は気を悪くした様子も無く、逆に何故か謝られた。

「すまない。先に貴女にも馴染みがある物と考えたんだが、説明しておいた方がよかったな」

「馴染み?」

「ああ。貴女が飲んだのはこれだ」

 瓶が入っていた紙袋から取り出された物に言葉を失った。

 異世界の焚き火に照らされるは、焦げ茶と白のツートーン背景と飲み物が注がれたマグカップがトレードマークの、日本の製菓会社が販売しているインスタントココアの袋だった。

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