第3話 怪獣、銃声、救世主
何が起こったか分からなかった。気付けば荷物ごと強烈な爆風で後方に吹っ飛ばされて――数秒宙に浮いたと思う――その勢いが殺されるまでただ地面を転がっていた。
「いっ、だ……!」
肩に掛けている鞄のおかげでそこまで回転せずに済んだのに平衡感覚は狂った。おまけに無理矢理目を開けたら濛々と立ち籠める土煙で涙が流れ、鼓膜が破れるかと思うほどの爆音の残響が未だ綾女の芯を深く貫いて身動きが取れない。暴風の影響で綾女のみならず周囲一帯の屑鉄も諸共吹き飛んだようで、打ちつけた全身は鈍痛を訴えこそすれ流血沙汰は免れたらしい事だけは漠然と察した。
微風が通りすぎる感覚と奇妙な金属質の落下音が拾えるようになったところでゆっくり瞼を開けて痛みを堪えつつ起き上がり――絶句した。
山が生えていた。この世界の大地に散らばる幾千億のスクラップ片全て掻き集めて築いたかの如く
(違う)
正直に言おう。綾女はこの期に及んでまだ現実逃避をしていた。だって認めたくなかったのだ。五階建てマンション並みの巨大な山が鉄片を纏ってもなお曲線的な形を失っていないそれが丸っこい頭部と尖った鼻だと、地表近くに垂直に立っている綾女の身長よりも馬鹿でかい板状の鉄板が前肢だと……生き物のシルエットだと信じたくなかったのだ。
怪物とパニックホラー。最悪なコラボが綾女の前で誕生していた。
緩慢に首を揺らめかせていた鉄の怪獣が綾女が吹っ飛ばされた方向で動きを止め、その拍子に体の一部になり損ねた部品が大地に落ちる。それを気にせず片方の前肢を突き出して地に置いてずるりと前に這い出る仕種。とんでもない事に今現れているのは頭部のみで胴体はまだ地中らしい。
(……フラグ、回収しましたー)
あるある、飛ばされた異世界であてどなく彷徨ってたら暴漢もしくは凶暴生物に襲われる展開。超ベタ、と怪獣が生み出す地震で強制的に地に伏せさせられた綾女は他人事感覚で内心頷く。
(フラグ立てたの私だよね。自業自得? 訳分かんない所に飛ばされたのは絶対私のせいじゃないのに?……腹立つなー)
我ながら負け惜しみにしか聞こえない虚脱した怨み言を頭の中でもてあそぶ間にも怪獣は鈍重に、しかし確実に綾女の元にやってきている。だからといって全身打撲気味の体且つ体勢を崩された今の状態では最早逃げようという発想すら浮かばない。せいぜい迫り来る屑鉄まみれの化け物の目や耳がどこにあるかと漫然と観察するか、誰にも届けられない別れの挨拶を無駄に考えるくらいで。
(ここで死んだら行方不明扱いになるのかな。死体になったら元の世界に戻される? 失踪と死亡って究極の二択だなあ)
這いずってきた怪獣が停止する。普通に立ち上がれたなら五歩も歩くと鼻先に触れそうな近距離で留まった鉄塊の生き物が口を開け、どこに出しても恥ずかしくない欠け一つ無しでずらりと並ぶ鋭利な歯と瓦礫も交ざった口内で歓迎の意を示したのを確認したところで綾女は願った。
――こんな理不尽な世界に私を吹っ飛ばしやがった神様。まだ慈悲が残ってるなら失踪扱いでお願いします。あるなら最初から飛ばすなって話だけど。
怪獣が頭を持ち上げ綾女の視界を黒一色に染める。こうして綾女は怪獣の生物的本能のままに――
一発の銃声が荒野に響き渡った。
今正に綾女を食らわんとしていた巨体が耳障りな甲高い濁声を上げてバネ仕掛けのように頭を後方にのけぞらせ、泥の空が綾女の前に再び姿を現す。と、その泥濘に一筋の黒い影が過ぎり、
『とっとと死に晒せやオラァッ!』
典型的なヤクザかと疑う怒号を供に怪獣に体当たりをかました。
影の挙動は速すぎて一体何が怪獣に突撃したか綾女は捉えていない。ただ内に秘めたるパワーが余程とんでもなかったのかはたまた遠近感がおかしくなっているだけであちらも相応の体躯を誇るのか、見るからに並の質量ではない怪獣の体が更に傾いだ。
チャンスかもしれない、とは一瞬思った。けれど綾女は動けなかった。痛み云々ではなく単純に余所見をしていて、命の危機を目の端に映らせながらも全く別の物を凝視していたからだ――謎の飛行物体から現在進行形で落ちてくるもう一つの影に。
唖然としている間にも上空の物体はみるみる大きくなっていき、輪郭が明確になり、それが人だと思い至った時には綾女の目の前に落ちて、否、軽やかに無駄な所作無く降り立って、
「失礼」
一言断りの文句を発すると重い荷物を二つも持つ綾女を事も無げにひょいと抱え上げた。怪獣の金切り声と誰かの罵倒と酷い地鳴りの中でもその配慮の一語はくぐもっているにも拘らずはっきりと綾女の裡に入り込む。
相手の片腕を椅子にした綾女の目線が何段階も高くなった次の瞬間にはぐんっと後方に引っ張られる感覚が背中に貼り付き、綾女がへたり込んでいた地点が一気に遠のき怪獣が暴れる範囲から抜け出した。地を蹴る音の軽さや綾女にはほとんど振動が届かない安定感はたった一度の跳躍で移動できる飛距離と全く見合っていないのは歴然だった。現に一瞬で安全圏に移ったはずの綾女の心はまだ怪獣の隣に留まっている。
「リョン、対象を保護した! 一旦退くぞ!」
『ああ゛ッ? でもこいつかなり面倒臭くなってんぞ! また潜られねえよう今のうちに――』
「彼女が巻き込まれる! 後でいい、対象の身の安全を優先する!」
綾女の下で張り上げられる命令内容に反応したのは無意識だった。ぎこちなく首を傾けて最初に見えたのは……傷だらけの黒いヘルメット。次に意識したのは座らされている片腕と、落ちないようしっかりと背中を支えるもう一本の腕。服越しでも判る逞しい二本の感触を起点に、目まぐるしい展開で置いてけぼりになっていた綾女の心が次第に体内に引き戻され、ピンぼけしていた現実に焦点が合い始める。
「もう大丈夫だ。怪我はないか」
恐らく救世主と呼ぶべき人物が綾女を振り仰いだ。顔の上半分はスモークがかった灰色のレンズが占領し、鼻から下顎、口に当たる箇所に円形の吸気口と両端にごつい
この瞬間、離ればなれだった綾女の身と体が一分の隙無く合致した。合致して、見た目だけなら怪獣にも負けず劣らずなインパクトを齎す形相にとうとうキャパオーバーを起こし、気絶した。
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