第2話 荒野を彷徨う女子大生

 開けた土地で音は反響しない。しかし異世界という未踏の地はやはり環境が異なるのかもしくは単に幻聴か、綾女の全身全霊の憤怒は言葉こそトレースされなかったがわんっ……と、ドーム内で声を張り上げたように木霊し、ワンテンポ遅れて怒声の残滓が降ってくる錯聴を感じた気がした。そして跳ね返りの余韻も溶け消えて暫く――我に返る。

(いや何やってんの私こんな所で叫ぶとかフラグじゃん!)

 両手で口を押さえ急いで周囲を見回す。

 綾女が目覚めた場所は端的に言えば茶色く、表現に拘るなら鉄錆色で、ありのままに表すなら鉄そのものだった。

 もし漠然と俯瞰的に見下ろすだけならこの地はぱっと見赤茶と暗褐色の大小様々な石や岩が大量に散らばる大地と認識するかもしれない。しかし翼を持たず地に足を着けざるを得ない綾女は知っている。今自分が踏んでいるのは石ではなく鉄屑だ。放置された工事現場で長く雨曝しにされびっしりと錆がこびり付いた鉄材が、スクラップ工場内の機械に雑に突っ込まれ排出口から吹き出したのをそのままにしているとばかりに果てしなく広がる地表を敷き詰めているのだ。しかも角が削れた玉砂利ならまだしも破片達は至る所が鋭く尖っておりうっかり深く足を突っ込んでしまえば流血待ったなし。遠出を理由にスニーカーを選んだ綾女の足は慎重に歩を進めていたのもありまだ惨事に見舞われていないものの、舗装路面など無い荒れ地ではいつ不注意で使い物にならなくなるか気が気ではなかった。加えて地上から見上げる空を覆うのは、田畑と道路の境目の水捌け最悪なポイントで生まれた泥濘を連想するもったりした黄土色の厚い雲。雲間から健気に光を齎してくれる暫定太陽のおかげで昼と夕の間の明るさが確保されているのは運が良かったと感謝しているものの、状況も相まって気持ちが沈む一要因になっている。

 息を潜めて耳をそばだて、涼しさと肌寒さの境の空気が何も伝えてこないと判断して息を吐く。

「まあ異世界トリップだとハードな状況で目覚めるのは割とあるし、私もそういう導入好きだけどさあ……体験したいかってなるとまた別なんだって」

 異世界転移――主人公がある日地球ではない世界に飛ばされて冒険するジャンルは児童書でもライトノベルでも人気で、森や草原、酷いと砂漠のど真ん中に身一つで放り出される導入は綾女も読み慣れている。しかしここ数年の流行は時子が愚痴ったような全方位に万能な力を宿した上での安心安全パックな異世界転生転移コース物語で、特殊能力が無かったとしても最低限他に人はいる。だというのに何故、大学一年生という転移主人公としてはとうが立っている綾女が、こんな文明崩壊して久しいとしか考えられない終末物ポストアポカリプスの世界に投げ込まれなければならないのか。案の定二時間近く歩き続けても蜃気楼すら見当たらない。

 と、びゅうっと強く風が吹き「さむっ……」反射的に体が震える。八月まで日が残っているにも拘らず今年の日本列島は既に三十五度を超える猛暑に突入しているため、綾女も白いシャツに浅葱色のコットン製ロングカーディガン、薄茶の七分丈パンツの軽装だ。この淋しい世界は無風なら木陰の涼しさ程度の気温で問題無いが、強い気流として吹きつけると途端に晩秋並みの冷温に変じて綾女の体温を無慈悲に奪う。着込もうにも肩に掛けている旅行鞄の中の着替えも似たり寄ったりで剥き出しの肌をさすっても気休めにもならない。行動の無意味さにまた溜め息をついて――目の奥と首裏にじわりと熱が宿った。

(ヤバ)

 しかし深呼吸しようと再度息を吸うと同時に鼻が水っぽい音を立てる。

(む、り)

 ――日本でも海外でもあり得ない汚れた金属片が溢れ返ったこの世界で目覚めてすぐは思考停止し、頭が回り出してからは「ガチの異世界トリップだ!」とオタク思考をフル稼動させて強引に鼓舞の一部にしてきたが――叫んで気を散らせてしまったのは悪手で、先の冷たい風でトドメを刺された。全体重をかけて踏ん張って押さえ込んでいた理性と逃避の蓋がガタガタと揺れて浮き上がる。

 目が熱い、鼻が熱い、頭が熱い、痛い。喉が引き攣り体内から水分が迫り上がる、溢れて零れ落ちる、眼鏡を掛けているのに視界がぼやける。生温い水が頬を流れ、しゃっくりとは異なる痙攣と濁った音が勝手に吐き出される。

「どっ、どこなの、ここ……っ。何で、私、こ、こんなっ、訳、分かんなっ、とこっ……!」

 人っ子一人存在せず十中八九地球ではない朽ちた世界で泣いても意味など無い、徒に体力を消耗して動けなくなるだけだと綾女も理解している。けれど一度決壊してしまえば止められなかった。――たとえ我慢したって、ここで独り絶望しながら野垂れ死ぬ未来はどうせ変えられやしないのだから。

「おかぁ、さん……おと、うさん……とっきこ、姉、シオちゃんっ……ヤだよぉ、死にたくないよぉ」

 異世界へ飛ぶなど結局は夢想だから好き勝手楽しめるのだし、こんな草木一本も生えていない破滅済みの地で孤独に蹲らなければならない理由など綾女は持っていない。物語のように神様とやらが試練を課したというのか? 読書とゲームが好きなだけ、夏休みのサークル合宿に家を出ただけの一市民の綾女に?――おかしいだろう。

「神様がやったって、ってっいうならぁ……! 私の、世界にっ、帰してよお――!」

 嗚咽でどもり呂律も回らず、悲鳴と呼ぶには掠れすぎ嘆くと称するには烈しすぎる、あらゆる負の感情で混沌とした悲痛な願いは口にした綾女自身も言葉として聞き取れないほど崩れ切っていた。

 罅割れたのは慟哭だけでなく綾女を持ち堪えさせた一部である警戒心も注意力も木っ端微塵に砕け散った。そして不安定な体勢で泣き崩れていたが故に、遠からず訪れる最期を自覚し捨て鉢になっていたが故に、最終的に泣く体力も尽きて無気力にのろのろと顔を上げた頃にはもう手遅れだった。

 腹の底を揺らすような震動が地面を通して伝わってくる。しかも徐々に強さを増している。

「なに……」

 擦ってもすぐにはクリアにならない両目で辺りを見る。けれどスクラップと厚い雲と虚無の地平線の風景は綾女が座り込む前と変わりない――否、遠くでがらがらと何かが崩壊した。どこかで積み上がっていた鉄屑の山が震動に耐え切れず壊れている。

 不安で立ち上がろうとするも「っ」片足を引いたタイミングで揺れが強くなって後ろに転びかけてしまいしゃがんだ体勢で踏み止まる。地震ならば立つよりこのまま身を低くした方が安全だろうが、たくさんの金属の欠片が散らばる物音が何かをおそれて地表に還っているようで綾女の中で警鐘が鳴り響く。

 ふっ、と。無色の静寂が一帯に落ちた。無風、無音、呼吸も憚られる不気味な静けさ。刹那。

 綾女の目前。ほんの二、三メートル離れた場所が爆発した。

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