第6話 探偵業

 梶原は、いつもまわりから、

「理屈っぽい」

 といわれていた。

 子供の頃からこんなことばかりを考えている少年で、よく小学生の時、算数の法則を発見して、先生に説明しては悦に入っていた。

 子供ながらに、

「いっぱしの数学者気どり」

 だったのだ。

 だが、一時期、数学が嫌いになった時期があった。それは中学の二年生の頃で、なぜかといえば、

「小学校の時にあれだけ、必死に考えて自分で法則を見つけた」

 と思っていたことを、中学2年せいくらいで、まるで当たり前のごとくの公式を覚えさせられた。

 確かに、著名な数学者が、それらの公式を思いついたのであろうが、せっかく一生懸命に発見したことを、いとも簡単に、

「公式だから、暗記して、問題が解けるようにしておけよ」

 と先生はいう。

 つまりは、

「公式を使えば誰にでも解ける。その術を中学生では養ってほしい」

 というものであり、そこには、想像力なるものは皆無だといってもいいだろう。

 それを考えると、

「算数の方が自由でよかった」

 と思うのだ。

「公式に数字を当てはめて、答えが出せればそれでいい」

 それが数学という学問で、そこに、発想力も空想力の欠片もなかった。

「これのどこが学問だというのか?」

 とまで考えさせられたのであった。

 そんな学問の挫折があったことで、中学二年生の頃から成績は一気に下降気味になった。まわりでも、同じ時期に落ちこぼれていく連中がいたが、

「俺と同じなんだろうか?」

 と気になっていたが、別に人は人、いちいち気にすることもないだろう。

 そんなことを考えていると、

「数学は面白くない」

 と思い始め、唯一、

「面白いと思っていた学問」

 を嫌いになったことで、勉強が一気に嫌いになった。

 特に、数学に深いかかわりがあると思っている、

「物理学」

「天文学」

「歴史」

 などというものは、典型的に嫌いになり、まったく興味も何もなくなったのだ。

 さらに、他の学問でも、数学的知恵を有しないとできない学問は、勝手に成績が落ちていく。

 まるで、

「生態系」

 が壊れていくかのような感じだといってもいいのではないだろうか?

 そんな梶原が、また数学を好きになったというのは、大学に入ってからであり、その時に、

「限りなくゼロに近い」

 という発想であったり、

「無限」

 という発想を、一般教養の数学で聞いたからだった。

 数学は、一般教養としては必須で、他にも理工学の中からどれかでよかったのだが、基本的に数学が分かっていないとそれ以外は、論外だっただけに、数学の選択は必須だったといってもいいだろう。

 そんな中において、特に、

「無限」

 というものに興味を持った。

 そもそも、算数が好きだったのは、

「答えが一つだ」

 ということだったが、無限というのは、総称であるという発想から、いくらでも存在するものの総称になると、それまでの数学に対してのイメージが、ゴロっと変わってしまうのだった。

 梶原は、大学において、再度数学が好きになると、今まで見る気もなかった他の学問、

「天体学」

「生物学」

「歴史」

 というものに一気に興味を持った。

 もちろん、物理学は当然のことで、相対性理論など、分からないまでも、本を見てみようという発想ではあったのだ。

 もちろん、分かるはずもなく、挫折はするのだが、その分、歴史や生物学、特に生態系などは好きになっていた。

 そんなこともあって、薬学にも興味を持ち、専門ではないが、薬や薬物関係には、結構詳しかったりした。

 大学では、ミステリーサークルに入っていた。

 ミステリーの本を読むのは当たり前のことだが、自分たちでオリジナルのトリックを考えてみたり、実際にミステリーを書いて、それを同人誌として発行し、大学祭などで、販売したりしていた。

 そういう意味で、梶原はミステリーには造詣が深く、小説を書いたりも今もしているのだった。

 ミステリーを今でも趣味としているのには、もう一つ理由があった。

 梶原の父親というのが、私立探偵をやっていて、実際に儲かっているのかどうかは疑問であったが、今でも看板を掲げているのだから、それなりなのだろう。

「他に誰もいないからやっていけるんじゃないの?」

 と皮肉を言ったことがあったが、父親は、一瞬だけムッとしたが、すぐに気を取り直して笑っていた。

 その表情は、別に引きつっているわけではなく、本心からに見えたのは、実に不可思議であった。

 というのも、それが、

「父親の昔からの性格」

 だったからである。

 ポーカーフェイスではないのだが、何を考えているか分からないところがあるくせに、とっつきにくいわけではない。それこそ、

「二重人格ではないか?」

 と思うほどなのだが、人を食ったところは、天真爛漫にも見え、それが、さらに、

「何を考えているのか分からない」

 という一種の、

「神出鬼没」

 というイメージを伝えているのだった。

 そんな父親を持っていることを、この時刑事には話していない。

 というか、父親のことを知っている人は、会社でも誰もおらず、近しい友達の数人くらいであろうか? それも、学生時代からの、そう、ミステリーサークルで仲の良かった連中だけであった。

 会社では、採用の時に、家族構成など今では履歴書には書かせないので、聴いてもダメだということで、基本、自分から話題として話さなければ、別にそこに問題はない。

 就職の際に、家族構成を詳しく知る必要があるのは、警察官くらいであろうか?

 もちろん、詳しくというよりも、

「近親者に、犯罪者がいないか?」

 ということが問題である。

 警察官というのは、近親者に犯罪者がいると、なれないし、近親者が犯罪を犯せば、必然的に、警察を辞めなければいけない。

 そういう厳しい職業でもあったのだ。

 普通の民間人である梶原には、警察も家族について言及することはできなかった。何しろ、

「ただの目撃者」

 だからである。

 梶原が、父親のことを口にしなかったのは、もう一つあった。

「俺は警察が嫌いだからな」

 といっていたのだ。

 父親は本当は、最初、

「刑事になりたかった」

 と思っていたらしい。

 しかし、刑事にならなかったのは、一度警察沙汰になることが自分の身近で起こり、それを警察がほとんど、ちゃんと捜査もせずに、放置のような形になったことで、結局大問題となり、その時、放置した人が、一人、首を斬られる形で矛を収めたというのだ。

 父親からすれば、一人でバチをかぶったこの人は、

「自業自得だ」

 ということであった。

 そして、警察の体制も、一人を切ったことで、すべてなかったことのようにしている。何が嫌といって、

「その体質すべてが嫌なんだ」

 ということであった。

「最初から、キチンとしていれば、身内の誰かを犠牲にすることもないのに、最初がひどい対応をするから、世間に親しまれる警察にはならないのさ」

 といっていた。

 いくら、どこかで必死に警察のいいアピールをしている人がいても、一人でも、このような塩対応の警察官がいて、結局何かあってその人が、

「トカゲの尻尾切り」

 ということになるという体質がどんなに同じことを繰り返しても、治ることはない。

 慣れてくるのか、余計にひどくなるだけだ。

 警察組織だけではなく、いわゆる、官僚制度と呼ばれるところは、どうしても、

「お役所仕事」

 の象徴のような感じで、特に警察などというと、よく刑事ドラマなどでは、

「本店、支店」

 と呼んだりして、縄張りという横の争いがあったり、

「縦割り社会」

 というような、階級制度があることから、どうしても、民間とは、結界のようなものがあるのだろう。

 そのことが、どうしても父親は許せなかった。

「自分が入っても、個性を発揮することができない」

 と思うと、自分の席は警察にはないと思うようになったようだ。

 そのため、民間の会社に勤めながら、どうしても諦めきれず、探偵事務所の助手を転々としながら、細々と、自分が探偵をできるようになったのだという。

 自分が設立したところではなく、先代から受け就いた事務所という形であった。

 そういう意味で、先代が引退しても、少しの間は、先代が協力してくれた。しかも、元々先代を贔屓している人たちもいて、

「あの人の後継者なら、大丈夫だろう」

 ということで、地盤も引き継いだのだった。

 先代は、警察ともうまくやっていたが、父親は、どうしても、警察組織を許すことができなかった。警察に対する恨みから、自分が探偵になろうと思ったのだから、警察といまさらうまくやるということをしなくてもいいだろう。

 しかし、これは、一種のジレンマであり、お互いに捜査協力が必要なこともある。

 そういう意味で、いつまでも警察に対してのトラウマや、怨恨を持ち続けるというのも、本当は、

「大人げない」

 と言えるのではないだろうか?

 それを思うと、

「自分のやっていることが本当に正しいのかって思うんだ。警察に対しての対抗意識というものが、今の自分の原動力であるということもウソではないからな」

 といっていた言葉も分からなくもない。

 ただ、

「警察のいいとことは、素直に認めないといけないんだろうとも思う」

 ということも言っていた。

 これが、一種の、

「大人な対応ができるかどうか」

 ということにもつながるのだろう。

 そんな父親が、そういえば、昨日少しおかしかった。普段はほとんど表で呑んでくることなどないのに、その日は、酔っぱらって帰ってきた。

 運転代行の車に乗って、車を運んでもらったようだが、

「どうしたんだい?」

 と聞いてみると、父親は何も言わずに、自分の部屋に引きこもり、カギをかけて、どうやらそのまま眠ってしまったようだ。

 その時の父親の顔は完全に、梶原を睨みつけていた。

「俺が一体何をしたんだ?」

 と思ったが、すぐに顔を背け、明後日の方向を見ると、睨みつけている表情に変わりはなかった。

「俺を睨みつけていたわけじゃなかったんだ」

 と、思った。

 正直、父親がどれだけ飲んだのか分からないが、それほど飲める人ではないはずだ。

 ちょっと飲んだだけでも、べろんべろんに酔っ払い、どこにでも、構わずに寝てしまうほどだった。

 自覚があるだけに、

「お父さんは、決して表で呑んでくるひとじゃないんだけどね」

 と母親も言っていた。

 父親が探偵として、どれほどの手腕なのかは、よく分からない。

 何しろ、私立探偵というもの自体が、ほとんどないといってもいいだろうから、比較対象がないのだ。

 だから、ある意味。

「誰も頼むところがないから、お父さんのようなところにでも頼むしかないのさ」

 と、言って笑っていた。

 完全な独占企業だと思っているようだった。

 それがいいのか悪いのか正直分からないが、確かに依頼はあるようだった、

ただ、依頼と言っても、大きな事件などはない。

「浮気調査」、

「行方不明者の捜索」

 などである。

 要するに、警察が立ち入れない、民事関係のことがほとんどなのだ。

 何しろ、警察は、

「民事不介入」

 いくら分かり切ったことでも、動いてはくれないのだ。

 だからこそ、刑事事件であっても、

「警察は、事件が起こらないと何もしてくれない」

 というわけだ。

 その一番というのが、

「ストーカー事件」

 であろうか、

 ここ20年くらいの間に起こり始めたストーカー事件は、誰かが殺されたり、けがをさせられたりしないと動かない。下手をすれば、傷害事件くらいでは、警察は真剣に動いてはくれない。

「今度は殺されるかも知れない」

 といって、訴えても、

「警備を厳重にしますから」

 というだけで、パトロールの回数を増やすくらいのことしかしてくれないのだ・

 だからと言って、

「何をすればいいのか分かっているわけではない」

 というのが、警察の言い分であろう。

 また、行方不明者の捜索であるが、これも、警察は、

「人がいなくなった」

 というだけでは動いてはくれない。

 事件性がなければ、いくら、捜索願を出したとしても、警察は真剣に捜査などしてはくれないのだ。

「自殺するかも知れない」

 といっても、動かないだろう。

 せめて、遺書くらいが残っていれば、ひょっとすると探してくれるかも知れないが、そのあたりも、決して警察を信用してはいけないのだ。

 今でこそ、ネットが普及しているので、そのあたりのことは、公然の秘密となっていて、ネットには、ハッキリと、

「警察は事件性がなければ、捜索願を出しても、捜索はしてくれない」

 と書いてある。

 行方不明でそうなのだから、何かを無くした程度では、気にも留めるわけはない。誰かが故意に盗んでも、

「盗んだもん勝ち」

 というものである。

 だから、探偵というものがあるのだ。

 警察に相談しても、なかなか腰が重かったり、ひどい時には、まったく動いてくれない場合がある。

 例えば、捜索願を出す場合などもそうだ。

 もちろん、その人の生存確認をすることで、

「安心したい」

 という、精神的なこともあるだろう。

 しかし、探偵に相談して捜索してほしい時は、そういう感覚ではない。そもそも、事件性のあることであれば、警察でも捜索はしてくれるだろう。しかも、警察の捜査の方が、明らかに早いからだ。

 何と言っても、警察には、組織力がある。組織を持って捜索すれば、それに勝る者はない。全国に手配することもできるだろう。

 さらに、警察には、

「捜査権」

 というものがあり、これは民間探偵にはないものだ。

 警察手帳を見せれば、それだけで、捜査も進む。さらに、犯罪が関係しているかも知れないと思えば、裁判所に願い出て、捜査令状を貰うことで、家宅捜索というようなことまでできるのが、警察の力であった。警察の、

「組織力と捜査権」

 という力は、あなどりがたく、

「日本の警察は優秀だ」

 と言われていた時代もあったくらいなので、今でも、そこは変わっていないだろう。

 ただ、それは、

「刑事事件にかかわる事件性」

 というだけのことである。

 そうでなければ、警察は、

「一切動かない」

 といってもいいだろう。

 そんな警察をどこまで信じればいいというのか、民事関係になると、もう民間探偵に頼るしかない。

 だから、浮気調査、行方不明者の捜査などということが、多いのだ。

 それでも、一応、探偵は引き受ける前に、

「警察に、一応の相談だけはしてください」

 とはいうだろう。

「行方不明になった人がいる」

 ということを証明するために、警察にも、証拠を残すということであろう。

 行方不明者の捜索で、警察が、

「事件性はない」

 つまり、急いで探さなくても、

「ただの家出ですぐに帰ってくるだろう?」

 と思っているのは、もちろん、

「自殺もない」

 という考えである。

 しかし、捜索願を出す人間にとっては、切実な問題である場合がある。

 それは遺産相続に絡む場合だった。

 その場合は、一刻も早く探し出す必要がある。しかし、

「民事不介入」

 という原則がある以上、相続が民法上のことであるので、完全に不介入となるのだ。

 また、浮気調査においても同じである。

「夫婦喧嘩は犬も食わない」

 と言われているが、まさにその通りだ。

「浮気が本当であれば、離婚も辞さない」

 ということで、探偵にお願いして、できる限りの証拠を集めようとする。

 それは、離婚の話し合いにおいて、慰謝料問題や、その他の財産的な問題などに大きくかかわってくるからだ。

 子供がいたりすると、親権問題、さらには、養育費の問題と、子供の問題も大きかったりする。

 慰謝料を払いながら、子供を養うというのは難しい場合、養育費が関わってくる。どこまで可能なのか、調べるのも探偵の仕事になるのだろうか?

 弁護士との兼ね合いもあるだろうが、少なくとも探偵は証拠集めを行い、その証拠を元に、訴訟などの法的抗争に入ると、そこから先は、弁護士の仕事になるのだろう。

 主にであるが、父親のような民間探偵に来る捜査というのは、そういうものがほとんどである。

 そうなると、大きな仕事は、証拠探し。あるいは、足取りを追うということで、尾行や張り込みなどという。昭和の時代を彷彿させるものであろう。

 だが、探偵というと、どうしても小説の世界での話になってくる。

 日本でも、戦前戦後に活躍した探偵たち、これまでに、何度も映像化され、そのたびにブームとなり、一度は絶版になった文庫本が、また復刻してくるという、

「いいものは、色褪せない」

 という言葉のごとくに存在している。

 特に、

「悪魔の○○」

「○○の一族」

 などという小説で有名な探偵さんであるが、飄々とした男であるが、頭脳明晰であり、実に個性があった。

 事件が解決すれば、事件に携わっている時、あれだけ前のめりで、中心になっていたのに、事件がある程度自分の手によって解決に近づき、

「後は警察に任せておけばいい」

 ということになると、完全に鬱状態に陥り、フラッと、旅に出たりすることが多いという、これ以上ないほどに、

「人間臭い」

 と言われる探偵であった。

 ただ、犯罪防御率はこの探偵は、

「桁が違う」

 と言われるほど高かった。

 探偵が、事件に参加してから解決するまでの平均、殺害数を、

「犯罪防御率」

 という言い方で表すのだった。

 作者が、大量殺人を行うことが時々あり、さらには、人情に厚い探偵ということもあってか、探偵小説にありがちな、

「犯人を指摘すると、最期に自殺をする」

 という時、止めることができるかというのも、大きな問題なのだが、この探偵の場合は、意外と犯人が死ぬことが多い。不可抗力の場合が多いが、犯人に同情し、

「ここは、犯人の好きにさせるのがいい」

 ということで、分かっていたが、見逃すことも多々あった。

 警察としては、許されないのかも知れないが、旧知の中の警部であれば、

「あれが、あの探偵さんの性格」

 ということで、見て見ぬふりのようなこともあるのだった。

 また、今度は主に、大正末期から、昭和初期の戦前くらいまでの間に活躍した探偵で、のちに、子供を主人公にしたジャブナイル作品などで、子供たちの中心となるような探偵の物語もある。

「地獄の○○」

 や、

「○○鬼」

 などという作品が代表作と言ってもいいだろう。

 彼も頭脳明晰で、素人探偵として、世間に名が通った、いわゆる、

「探偵らしい探偵」

 だった。

 探偵を志す人が、こんな探偵になりたいと思うようなそんな人だった。

 実に論理的に犯人を追い詰めていき、解決する。作家の性格にもよるのだろうが、この探偵の解決する事件には、特徴があった。

「俺はこの犯罪に、40年をかけている」

 というような、強烈な思いを持った復讐であったり、変格探偵小説と言われるような、

「猟奇犯罪」

 あるいは、

「耽美主義的な犯罪」

 というものが特徴だったりするのだ。

 ただ、これらの時代のミステリーを好んで読む人は、

「今の自分たちからは、想像というよりも、妄想に近いくらいの歴史を感じさせる時代背景の中で起こっている犯罪なので、その妄想力を楽しむ」

 というものである。

 今の探偵には、その頃のような犯罪に携わるということは、ほぼ不可能であろう。

 つまりは、時代も変わったし、犯罪の傾向も違う。いわゆる、

「トリック」

 というのも、今の時代では、不可能なものも多いだろう。

 顔を潰したり、指紋のある手首や、首を切り取って、被害者を分からなくしたとしても、今では、DNA鑑定があり、ある程度まで被害者を特定することもできる。

 さらには、アリバイトリックを使おうとしても、今の時代には、いたるところに防犯カメラなどが設置してあり、

「誰かに見られる」

 ということ以前に、カメラが証拠として残しているので、なかなかうまくはいかないだろう。

 したがって、昔のような。

「トリックと、犯罪パターンによる事件の公式」

 というのは、今では通用せず、それだけに、昔の小説における事件が、今では新鮮に感じられるのであろう。

「古き良き時代」

 といっていいのかどうか分からないが、

「文学性」

 という意味では、大いに言えることではないだろうか?

 それを思うと、探偵小説というものが、クローズアップされるのも分からなくはない。

 さらに、ブームというのは、

「繰り返すもの」

 と言われている。

 まさにその通りなのであろう。

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