第5話 無限への発想

 まず、男の方の証言だが、男の名前は、梶原時久と言った。年齢は、27歳だといっているが、見た目は、30代にも見えなくはないと刑事が思ったほどだった。

「何でこんなところにいるんだ?」

 といきなり核心を突かれ、さすがに最初は黙り込んでしまったが、細々とした声で、

「彼女とデートしていました」

 と、いうのがやっとだった。

「ふーん、デートね」

 と刑事もこの状況を分かってのことだったので、わざと聞いたという節はあった。

「それはいいとして、君たちがここに来たのはいつだったんだい?」

 と聞かれて、

「はい、通報する、1時間くらい前だったと思います」

 という。

 ということは、1回戦を終えるには、十分すぎるくらいであり、2回戦をもくろんでいたのか、それとも、1回戦に突入するまでになかなかタイミングがうまくいかなかったのかのどちらかだろうと、刑事は想像したが、実際には後者だったのだ。

 そもそも、露出をプレイの一環としていたのだから、一番盛り上がるタイミングを見計らっていたのだというのも、まんざらありえないことではないだろう。

 ただ、刑事は二人が普段からSMの関係であり、ここでは露出や、見られることの興奮を感じたいと思っているということを理解していなかったので、二人をどちらかというと、

「まるで、よく言えば中学生のような、純朴なカップルと言えるのだろうが、実際には、ヘタレなカップルなのではないだろうか?」

 ということであった。

 実際には、男は、

「私はSだ」

 と言いながらも、やっていることはヘタレなのだ。

「よく女がついてくるものだ」

 といってもいいのだろうが、どこまでがどうなのか、本人たちもよく分かっていないかのようだった。

 梶原は、自分の仕事のことをいろいろ話していた。それは、警察が聞かなければいけないほどの情報を超越したものであり、次第に刑事も、

「ああ、いや、もういいですよ」

 というところまで、話していた。

 話し方を見ていて刑事は、

「この男、話始めると、興奮してしまい、歯止めが利かなくなるようだな」

 と感じたので、相手のことを、

「しょせんは、ただの第一発見者ではないか」

 と感じるようになった。

 確かに、こちらから何も聞かずに黙っていると、まったくの無口な人間にしか見えない。しかし、ひとたび話を始めると、どこまでも話してしまいそうで、

「こんな男に、ペラペラ自分の秘密を話すようなやつもいないだろうな」

 と、人からの情報は、ほとんど皆無に近いくらいに、何も持っていない男なのではないかと刑事は感じていた。

 確かに、普段から無口ではあるが、話が盛り上がったというか、何かのスイッチが入った時、まるでマシンガンのように話をする人はいる。

 そのことは、刑事をやっていれば、嫌というほど感じることで、特に刑事は話の中から相手の本意、真偽についても、解釈し、自分で理解して、相手の性格を判断しなければいけない職業ではないか。

 人との会話から、何が起こったのかという事実に繋がることがある。

 いや、事実だけではない。

「表に出ているだけではない何かが見つかる」

 という、真実というものも、掘り出せるのではないだろうか?

 それを考えると、この男が何を考えているのかを、刑事は、いつになく掘り下げて見ているようだった。

 ただ、この男は状況判断ができない人間なのか、それとも、いきなり死体を発見したということで、頭の中がパニくってしまっているのか、話の内容は支離滅裂に思えた。

 なぜ、そう思うのかというと、梶原という男は、何が言いたいのかということの焦点が見えてこないからだった。

「ずれているというよりも、最初から、あっちこっちに話が飛ぶので、捉えどころがない」

 ということなのであった。

 あっちこっちに話が飛んでしまうということは、出てきた話は、

「切り取ることもできる」

 ということだ。

 しかし、この切り取りというのを、作戦と考える犯人も今までにはいた。

 わざと支離滅裂なことをいうので、刑事は今までの経験から、必要な部分だけを切り取って、そこをつなぎ合わせようとするものであるが、それを逆手に取って、犯人にとって、刑事が思い込んでほしい部分を、うまく切り取りやすくするために、わざと、支離滅裂な話し方をするやつもいた。

 だが、目の前にいる梶原は、そこまでのことができるやつではないと思えてならない。

 もし、切り取って考えた場合に、やつの術中に嵌ったと後から感じたとしても、それはただの偶然なのか、まさかとは思うが、

「やつの持って生まれた性格なるがゆえ」

 ということではないかと思えるのだった。

 梶原という男をどのように見ればいいのかというと、今までの容疑者や犯人と照らし合わせると、

「ただの第一発見者としてしか見ることはできない」

 と思えた。

 探偵小説などでは、よく昔から、

「第一発見者を疑え」

 などと言われ、今でも、捜査の極意として言われていることであるので、刑事の方としても、そのことは百も承知で話を聞いているのだ。

「いかに、どこかにウソが含まれていないか?」

 ということを考えるためにであった。

 それを思うと、

「刑事というのは、どこまで第一発見者を疑えばいいのか?」

 と、余計なことを考えるのであった。

「ところで、どうして、あれを死体だと思ったのですか?」

 と刑事に聞かれて、

「正直自信がなかったのですが、あんなにでかい石があそこにあるとは思えないし、暗かったので、僕も怯えがあったんでしょうね。あの場面では、死体が転がっていても、別に不思議はないという思い込みもあったんでしょうね。だから、一度死体に見えると、後はもう、それ以外には見えなくなって。そのうちに彼女も僕のおかしな様子に気づいたんでしょうが、最初は目をそらしていたんですが、遅る遅る見ると、それを死体だと思ったんでしょうね。二人が二人ともそう思うと、もう疑いようがない。後は警察に通報するだけだって思い、慌てて、110番したというわけです」

 と梶原は言った。

「じゃあ、ずっと死体だと思って疑わなかったんですね?」

 と聞かれて、

「そういわれると、あの時、110番した後に、若干の後悔はありました。でも、死体を触ったり、動かしたりはできないので、それ以上確認のしようがない。さすがに、発見しておいて、その場から立ち去るのは怖いからですね。どこで誰が見ているか分からないということがありますからね」

 と梶原が言った。

 奇しくも、

「覗かれる」

 ということを承知のプレイだったとはいえ、

「このまま、放っておくというのは、どうにも承知できない」

 と考えたことと、

「本当に覗かれていたら、通報しないわけにはいかない」

 という思いがあり、反射的に、

「110番」

 ということになったのだ。

 この時はさすがに、女も男に任せるしかないと思ったのだろう。

「男を手玉に取る」

 ということにかけては、

「長けているオンナ」

 ではあったが、今回のような。

「不測の事態」

 に陥った時は、またしても、

「従順な女」

 に戻るのだった。

 それがこの女の特徴であり、それだけに、梶原が、コロッと騙されたというのも、無理もないことだった。

 刑事も、どうして最初から、二人をそれぞれ別々に話を聞くことにしたというのか?

 普段であれば、一緒に聴くだろう。

 第一発見者として、それぞれに話を聞くよりも、一緒に聴いた方がメリットがあるはずだった。

 なぜなら、

「一足す一」

 というものが、3にも4にもなるからだ。

 それぞれに、相手の話を補足することができるわけで、二人を切り離して話を聞くというのは、普段であれば考えられることではない。

 これが、喧嘩や騒動によることであれば、どちらかが、加害者でどちらかが被害者ということになり、利害が正反対の相手を同時に尋問できるはずがない。

 あくまでも、自分に都合のいいことしか言わないからだ。

 つまりは、お互いの利益になるようなことしか言わない。そんな時だけ、それぞれで話を聞くのだ。

 しかし、第一発見者に、そんな気遣い無用のはずである。

 もっとも、第一発見者二人が、ちょうど何かの言い争いで揉めていたという時であれば。話を一緒に聞くというのは、無理のあることだろう。

 そうでもないのに、二人を分けたということは、

「刑事は、二人に何かの疑念があったからではないか?」

 と言えるのだ。

 それは、シチュエーションから分かったことではなく、二人を見ていて、そして、実際に何かの話を聞いてみて分かったことであろう。

 どちらが噛み合っていないかのように見えたかというと、一番怪しかったのは、梶原の方だった。

 梶原は、一見挙動不審で、その感覚はずっと変わらなかった。

 女の方は、最初のパニックから立ち直って、今では冷静沈着だ。

 きっと、こんな女のことを、

「熱しやすく冷めやすい」

 と思っているのかも知れない。

 男であれば、

「竹を割ったような性格」

 ということで、好かれる傾向があるが、女であれば、

「何か裏があるという執念深さのようなものが、粘着に感じられるのかも知れない」

 と思うのだった。

 そんな二人を分けて尋問するというのは、この時の刑事の初動捜査としての判断は、実にタイムリーだったということであろう。

 女の方とすれば、男ほど、支離滅裂ではなかった。

 ただ、こちらも、なくてもいい情報を出してくる。だが、それは、女の本性からなのであろうか、

「一言多い」

 という程度のことだった。

 確かに女は一言が多い人も結構いる。ただ、それは男でも同じだった。

 ただ、男であれば、

「目立ってしょうがない」

 ということになるのだろう。

「男と女の違いというと、同じことでも、男だと、胡散臭いであったりうっとしく思われることがあっても、女だったら、女だから許されるということになりかねない」

 ということではないかと刑事は思っていた。

 第一発見者とはいえ、話を聞けば聞くほど、

「これのどこがカップルなのか?」

 と思う程、普段では歩み寄りが困難なくらいの性格であるが、これが、ことSMの関係ともなると、ツーカーの関係だといってもいいのではないだろうか?

 梶原の話は、さほど興味のあるものではなかった。しかし、女に聴いてみると、少し違ったのが印象的だった。

 それも、二人別々に聞かないと分からないことであり、ここは、刑事のタイムリーヒットだったかも知れない。

 女の名前は、川下涼子と言った。年齢は梶原よりも二つ下の25歳だが、明らかに梶原よりも年齢が上に見えた。そもそも、25歳というのが、怪しいと思えたのだった。

「F商事で事務員をやっています。梶原さん、さっきの男性とは、私が受付をしている時に知り合いました」

 と、彼女は聞かれる前に、自分からそういった。

 刑事の方としても、自分から話しをしてくれるのは、手間が省けていいと思っているが、中には、自分のペースを狂わされたと思う男性もいるようで、そう思われると、結構厄介だった。

 それは相手が刑事に限ったことではなく、人それぞれだということを受け付け時代に分かったことで、初対面の人間には、結構聞かれそうなことを、最初にパッと言ってしまうところがあった。

 それだけ、面倒なことが嫌いな性格なので、それを、

「まるで竹を割ったような性格」

 として、皆から、

「男のようだ」

 とよく言われていたのだった。

 だが、そんな彼女が、いくら二重人格だとはいえ、ここまで梶原の前で、M女を演じることができるのかというと、彼女が、SMバーに勤めていて、基本、

「M女」

 として立ち回っていたからだ。

 他の人の前では、

「男性っぽさ」

 を演出していた。

 もちろん、梶原の前でも、最初は、

「男性に負けちゃいけない」

 とばかりに、虚勢を張っていたのだが、すぐに、その本性がバレてしまった。

「君はM女だね?」

 といきなり言われたのだ。

「M女」

 という言葉に、涼子は、過剰反応する。

 恍惚の表情を浮かべて、トロンとした目を浮かべて、涎を出らしているかのようであった。

 その時のことを言われるのが、涼子は、一番恥ずかしいという、

「いやぁ、やめてよ。恥ずかしい」

 といって、これ以上ないというくらいの、Mのオーラを発散させていたのだ。

 それを見た時、梶原のSっ気のスイッチが入る。その瞬間に、二人の立場は逆転するのであった。

 そもそも、普段は、

「竹を割った性格の涼子に、優柔不断な梶原が寄り添っている」

 という構図である。

 まさか、スイッチが存在し、そのスイッチを押すことで、立場が逆転するなど、誰が想像できることだろう。

 ただ、それを知っている人間もいないわけではなかった。それは、梶原のことをよく分かっている男だったのだ。

 逆に、涼子のことをよく分かっている人が二人を見ても分からないのではないだろうか?

 あくまでも、男の立場から見て、見ることができる環境でないと、二人の関係を垣間見ることはできないのであった。

 そのことを、誰が分かっているのかというと、分かっているとすれば、やはり、梶原であろう。

「俺のことを分かっている人がいなければ、俺という男は、表に出ることはない」

 と思っていた。

 それは、自分が、会社で、

「管理職としては、やっていけないんだろうな」

 と感じることからも分かるというものだ。

 確かに、

「俺は現場の第一線にいるのが一番似合っている」

 と思っていた。

 一番の理由は、

「やればやっただけの結果が出る。逆にいえば、怠ければ、怠けただけの結果が出る」

 ということであり、学生時代、

「数学が好きだった」

 ということに直結しているような気がする。

 数学というのは、

「答えが一つ」

 ということで、好きであった。

 他の学問のように、いくつも答えがあったり、そのため、それぞれに理由があるので、そこを一つ一つ突き詰めていくというのは、そもそも苦手だった。

 数学や算数は、

「規則正しく並んだ、数字という並びに対して、いくつもの法則を組み合わせていくものだ」

 その証明も数学であり、数学というのは、

「他の学問にも一番通じるものだ」

 と考えるようになっていた。

 数字が規則的に並んでいるというのは、SFの世界などの発想と似ているところがあるかも知れない。

 一番最初にピンとくる発想は、

「時間」

 というものではないだろうか?

 時計というものを見ていると、そこには、今はデジタルが多いが、昔のアナルぐであれば、0から12までの数字があり、その上を、秒針、短針、長針と、それぞれ、

「秒、分、時」

 として、形を表している。

 その可能性は無限にあるが、決して不規則ではない。1秒も、1分も、一時間も、一日も、狂うことなく決まったスピードで流れていく。

 もちろん、時計の時間が狂うということはあるのだろうが、本当の時間、つまり、万人に共通の時間が狂うことはない。(もちろん、時差というものは別であるが)

 しかも、それぞれに規則的なスピードで回っている。

「秒針が一周すれば、分針が、一目盛り進み、分針が一周すれば、短針が、5目盛り進む」

 つまりは、0から12までの数字を繰り返していき、一周すれば、繰り上がる形で時というものは刻まれていく。

 それが、地球の自転、さらには、公転というものに結びついているということになるので、ここは天文学だと言えるだろう。

 しかも、日付が重なっていくと、月になり、年になる。それが、歴史というものに繋がってくる。

 さらには、生物には寿命があり、さらには、季節によってさまざまな生態系があり、太陽の向きによって、生態系も変わってくるのだから、時間が、生命に及ぼす力も計り知れない。

 そういう意味で、生物学も、時間という概念とは切っても切り離せないものだと言えるのではないだろうか?

 ただ、時間ということで一番の身近に感じるのは、物理学ではないだろうか?

「タイムマシン」

 という発想、さらには、

「タイムパラドックス」

「パラレルワールド」

 などと言った、時空と呼ばれるものは、

「時間と空間の発想」

 ということになり、それぞれにねじれが生じることから、タイムトラベルが可能になったり、

「パラレルワールドの存在を証明することが、タイムパラドックスを証明するための力になる」

 ともいわれている。

 そこには、

「無限」

 という発想と、

「限りなくゼロに近い」

 という発想が考えられるだろう。

 数式や公式と呼ばれるものの中で、一番厄介な考え方、この二つである。

「無限」

 というものを考えるうえで、

「一つの数字を同じ数字で割った場合、求められる解は、1でなければならない」

 というが、

「無限を無限で割ると何になるかというと、その答えは無限に存在する」

 ということである。

 いくつから上を無限というのかは分からないが。ある程度から上、たぶん、人間が認識できるところまでが有限であり、それ以上を、無限という言葉で表すということでしかないのではないだろうか?

 また、

「限りなくゼロに近い」

 という発想は。

「整数から整数を割った場合、そこまで言っても、ゼロになることはない」

 という発想である。

 一億分の一であっても、決して。ゼロではないということであるが、この発想は、

「合わせ鏡」

 であったり、

「マトリョシカ人形」

 などの発想から出てくるものだった。

 合わせ鏡というのは、自分の左右、あるいは、前後に鏡を置き、そのどれかの鏡を見た時、まずは正対している自分が写る。すると、今度はその後ろに鏡があり、その鏡には、後ろ向きの自分が写っている。さらに、その鏡を、目の前の鏡では捉えているのであって……。

 というように、どんどん小さくなってはいくが、理屈としてなくなることはないのだ。

 これが合わせ鏡の発想であるが、マトリョシカ人形も似た発想である。

 ロシアの民芸品であるマトリョシカ人形は、入れ子になっているのが特徴で、

「人形が蓋になっていて、それを開けると、今度は少し小さな人形が出てくる。そして。またそこを開けると、またしても、人形が出てくる……」

 という形であった。

 その人形が、同じように、どんどん小さくなっていく。

 これも、合わせ鏡と同じで、

「決してゼロになることはない」

 という考え方だった。

 最後はどんなに複雑化も知れないが、算数にしても、数学にしても、その基本というのは、

「一足す一」

 から始まっているのだ。

 答えは万人が分かっているように、二である。

 三でもなければ、一でもない。だれもが知っている発想なのだ。

 だが、

「それを証明しろ」

 と言われてできるだろうか?

 考えてみれば、

「限りなくゼロに近い」

 という発想と似ているのだが、

「微粒子というのは、どこまで小さいものが存在しているのだろう?」

 ということに似ている。

「この世に存在する物体は、必ず、それ以上分割することができないという微粒子でできている」

 ということである。

 これは、合わせ鏡の終点を探すようなもので、

「存在しているものに、無限というものはありえない」

 ともいえる。

 だから、人間が無限と呼んでいるものは、

「それ以上分離することができるであろうが、それを証明することができない」

 といって、今の段階で証明できているものだけを有限とし、それよりも小さいものを、便宜上、無限と呼んでいると言えるのではないだろうか?

 だから、

「無限というものは、無限に存在している」

 というような、まるで禅問答のような言い回しになるのかも知れない。

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