03 慶応三年十二月八日、高野山挙兵
公家というよりは志士といった方が似つかわしい、硬骨の男である。
たとえば、鷲尾はのちに明治維新後に
ところが鷲尾は、政治に通じない者が歳費を得るために議員になるのは良くないという趣旨の発言をして断った……という逸話がある。
そして、慶応三年十二月八日のことである。
鷲尾の
「鷲尾卿、頼むで」
実は鷲尾は謹慎中である。
かねてからの行き過ぎる勤王活動により、自邸にて謹慎するよう、申しつけられていた。
その鷲尾邸に、客など来ないはずだった……本来は。
だが。
「い、岩倉卿、なぜに拙宅に」
「何て」
そこで
「頼みごとがあるさかい、その相手ェを訪ねて行くンは、当たり前やないかい」
岩倉は戸惑う鷲尾をよそに、「邪魔するで」と鷲尾邸に上がり込む。
そうまでされると、追い返すのも無下かと思い、鷲尾は岩倉を自室へ招いた。
*
「……そも、岩倉卿におかれましては、王政復古の大業に挑まれている最中と聞く。であるのに、なぜ、この鷲尾を訪ねて」
慶応三年の暮れの押し迫るこの時期、徳川慶喜は大政奉還をしたものの、依然として勢力を保っており、むしろ天皇を中心とした新政府において枢要な地位を占め、岩倉ら維新の側から政権を取り上げようとしている……かのように見えた。
これを憂慮した岩倉は、徳川慶喜の辞官納地、つまり官職官位領地を召し上げることを提案し、徳川に圧をかけ、新政府への
「……そのためや」
「……なんと」
鷲尾は、現今、多忙を極める岩倉が、その多忙の原因たる「王政復古」のためといわれても、今ひとつピンと来ない様子を見せた。
それでも岩倉はあせらず、まずは聞いてくれと語り始めた──近江屋事件のこと、天満屋事件のことを。
「近江屋の
「そうや」
だから来たのだ、と岩倉はほくそ笑む。
この、天満屋事件の翌日だからこそ、来たのだ、と。
「それは、何ゆえ? 岩倉卿」
「紀州を討つためや、鷲尾卿」
「なんと」
あっけに取られる鷲尾に、岩倉は
これこそ、故・中岡慎太郎が
「──まず、京において、紀州藩の誰ぞを襲う。この場合、三浦休太郎いう、好敵が
坂本竜馬率いる海援隊、その船「いろは丸」を沈めた相手、紀州藩。
多額の賠償金を支払わされる羽目になった紀州藩は、竜馬に恨みがある。
「近江屋で坂本くんと中岡くんが斬られる前は、その恨みで『いざこざ』があった、という話で、『襲う』手はずになっとったんや」
ところが、近江屋事件が起きた。
『いざこざ』は本物となった。
中岡慎太郎の凄まじいところは、近江屋事件の刺客とその黒幕については置いておいて、まず紀州藩を押さえる策に、現在の状況を加味して変更を施し、さらなるエッジを
「坂本くんのかたき言うて、油小路の天満屋に
これの実行犯──主犯は海援隊の
三浦の襲撃に抜かりはなかった。
犠牲者は出たものの、陸奥は新撰組や紀州藩の応援が来る前に撤収。
……首尾よく、三浦に手傷を負わしただけで。
「今、紀州藩はてんやわんやや。三浦の手当て、京都の藩邸の守り、今後の対応……
その混乱の最中、今度は陸援隊が挙兵する。
紀州を討つために。
「……だから、今日なのか、岩倉卿。天満屋の事件の翌日の、今日に」
「そうや」
鷲尾は冷や汗をかいた。
話を聞く限り、この「挙兵」の道筋は中岡慎太郎の描いたものであろう。
だがこの機に。
この絶妙な機──天満屋事件の翌日という機に挙兵するというのは、明らかに岩倉具視の画策である。
「…………」
鷲尾は岩倉の悪魔的な手腕に絶句してしまったが、その驚きは、さらに増していくことになる。
なぜなら。
「ほンで鷲尾卿、鷲尾卿にはこの陸援隊を率いてもらいたい」
「……なぜ、私に」
それが最初から疑問だった。
岩倉が中岡慎太郎の遺志をついで、天満屋事件や挙兵をするのはわかる。
だが、何で鷲尾隆聚という公家を必要としているのかが、わからない。
海援隊における陸奥陽之助のような人物が、陸援隊にはいないのか。
「そこが、この岩倉の
岩倉は周囲をうかがって、誰も見聞きしていないことを確認すると、おもむろに懐中から一通の書状を出した。
「これは」
戸惑う鷲尾の前に、岩倉はいっそ乱暴にどさりと、その書状を放り投げた。
鷲尾がとりあえず手に取って広げると、その書状が何であるかを理解した。
「い、岩倉卿。こ、これは。この
「……察しのとおりや。勅書やで」
岩倉は威儀を正した。
「鷲尾侍従。
鷲尾はあわてて書状をささげもって拝礼を施す。
しかし岩倉はさっさと姿勢を崩して、「そういう感じに頼むで」と笑った。
「そういう感じとは?」
「決まっとるやん。その勅書、
「……え?」
鷲尾は武術家である。
豪胆で鳴らしている。
その鷲尾が、度肝を抜いた。
「つまりは
何、この偽勅は幸運や、すぐにミステイクでなくなると、岩倉は謎めいた言葉を残して、鷲尾邸を辞して行った。
*
こうして
なおこの際、陸援隊は土佐藩邸から勝手に銃を百挺、持って行ってしまう。
これに土佐藩は追っ手を出した。
「今、下手に陸援隊が大坂なり紀州なりを攻撃してみろ。土佐藩はたちまち火の海となるぞ」
何より、藩の支配者である山内容堂が納得すまい。
そういう土佐藩の必死の追跡であるが、ようやく追いついたところで、鷲尾が「勅書」を示すと、沈黙せざるを得なかった。
「偽勅ではないか」
そういって陸援隊を追及する者もいたが、翌日──慶応三年十二月九日、事態はさらなる急変を告げる。
すなわち、王政復古の大号令である。
*
「勅命である」
真の勅命を受けた鷲尾隆聚と陸援隊は十二月十二日、高野山へと至り挙兵する。
そしてまず紀州藩へと降伏するよう使者を送る。
「ぜひもなし」
紀州藩は朝廷への恭順姿勢を明確にし、これに大和などの諸藩も従い、それは鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍への紀州・大和からの援軍を阻止し、官軍への勝利に大いに貢献することになった。
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