第20話 ◇夜叉の洞窟
夜叉の洞窟前。
そこに俺と父さんはいた。
ヤシャの村から南西門を通って夜叉の洞窟前まできた。子どもたちが村の大人たちから近づくな、と言われていた門の先は山の麓へと続く一本道があった。
その道は森の中にあり、大人五人が横並びで歩けるくらいの幅で整備されていた。
そんな道を進んでいくと森の草に覆われた岩壁が姿を現わす。その自然にあふれる光景の中、一か所だけ不自然な所がある。
それは棟門だ。
屋根がある和風の門。
森の木材を使って作られただろう。
その門は、全体的に黒く焦げたような色をしていた。特に注目すべき点は、固く閉ざされた両開きの扉に銀色で書かれた文字。
左扉に『夜』、右扉に『叉』と銀色で一文字ずつ大きく書かれていた。二つの扉を開ければ、山の中へと続く洞窟がある。
そこが夜叉の洞窟だ。
「父さん、洞窟に入ろう」
「ローグ、今から扉を開けるが油断して呑まれるなよ。心を強く持つんだ」
父さんから夜叉の洞窟に入ったら油断するなと言われた。
事前に聞かされた話によると、この先には心を惑わす五つの煩悩がある。
――『
心を惑わす五つの煩悩を五蓋と呼び、それらに打ち勝つ精神力が試される道がある。
その道を
棟門から夜叉の洞窟へ入ってすぐ五蓋道があり、強靭な精神力でそこを抜けた先に真の入り口があると聞いた。
つまり、五蓋道を突破しないと目的の餓鬼も牛鬼も狩ることができない。
だから、俺は決して煩悩に呑まれるわけにはいかないんだ。
「ッ!?」
夜叉の洞窟に一歩足を踏み入れると、全身が冷えるような感覚に襲われた。それは洞窟内が寒いのではなく、身体の内側から冷えるような寒さだ。
本能が何かを感じ取った。
俺は得体の知れない何かにより恐怖に近いものを感じ取った。まだ、入ってから10秒も経ってないのに、気がつけば全身の毛穴からねばつく嫌な汗が噴き出していた。
「ローグ、大丈夫か?」
「うん、慣れれば問題ないよ」
俺とは対称に、父さんは涼しい顔で何も感じていないように見える。初めての俺と何度も来たことがある父さんとの違いだろう。
実際に、時間が経つにつれて少しずつこの環境にも慣れてきた。そうして、やっと視界に映る情報を脳が処理し始めた。
洞窟内の広さは横幅と高さがどちらも3メートルくらいあり、自然にできた空間というよりも人工的に造られたような空間だ。
そんな空間が真っすぐと続いていた。
今いる場所から数メートル先を見ると、暗闇の中に二つの赤い光がある。それが洞窟内で照明のような役割を果していた。
「父さんは少し後をついて行くからローグは自分のペースで無理せずに進むんだ」
「わかったよ」
俺は五蓋道を進み始めた。
洞窟の入り口と赤い光が放たれている場所との中間地点。その辺りまで進むと自身に起こった異変に気づく。
体が乾き、喉が渇く。
そのまま進み続けて赤い光の光源が目視できる位置までくると、感情も煩悩によって乱されているのだと悟った。
――『欲し』
俺は体が徐々に乾いていくような感覚に襲われると、喉の渇きも感じて水を欲した。
そんな身体的な異常は徐々に心情にも影響を与え始めた。
喉の渇きは心の渇きともなり、内なる欲望が少しずつ掻き立てられた。そうなると、自身に欲深い貴族の化身でも憑依したかのように貪欲となった。
欲望。
そんな状態の俺は心の中でいろんな欲望が渦巻き、その中でも特に強い欲があった。
幸福と力。
もっと幸せになりたい。
その為に圧倒的な力が欲しい、と。
これらの異常を引き起こした原因となるのは、左右の壁に埋め込まれている赤玉。
ちょうど、真ん中の高さに半球だけ姿を見せる不気味な物体。
洞窟の入り口から見た。
明るくて赤い光は間近で目視すると、赤黒くて禍々しい歪な光だった。
その光源となる暗赤玉は、一瞬でも触れてしまえば気が狂ってしまいそうなほどに悍ましいオーラを纏っていた。
その不気味な玉を間近で見て。
父さんが過剰に心配した理由を察した。
9歳の子どもが目にして耐えられるようなモノではなかった。
一度でも、心が呑み込まれたら。
心が壊れてしまう。
そんな危険な玉に、我が子を近づかせたい親なんて普通はいない。
精神力が試される五蓋道。
最初の煩悩ですら体と心が揺さぶられるのに……これがあと四つも続くと思うと、なかなか厳しい試練になりそうだ。
もし俺に前世の経験がなく普通の9歳として挑んでいたら無理だった。だけど、俺には前世の経験と一心二体で鍛え上げた。
強靭な精神力がある。
こっちはブラック転生者なんだよ。
この程度の苦痛が乗り越えられなくてどうするんだ。そう、自分を鼓舞しながら俺は歩くスピードを上げた。
最初の煩悩を抜けると。
次は青い光が見えてきた。
これも近づくにつれて明るい光から暗くて禍々しい光へと変化した。そして、また煩悩による異常が表れ始めた。
――『怒り』
やはり、今回も体に異常が表れてから心情へも影響が及んだ。体の異常は心拍数と呼吸数が増加して鼓動と呼吸が乱れた。
それと同時に筋肉などが硬直し始め、体温が上がっていくのを感じた。
それらの身体的変化と一緒に怒りの感情も膨れ上がっていく。怒りの矛先は、少し前まで俺が感じていた欲望が満たされなかったことへと向けられた。
そんな怒りの煩悩による悪影響を気合で打ち破って、さらに前へと足を進めた。
そして、また新たな光が視界に映る。
今度は緑色の光でその煩悩は。
――『怠け』
怒りによって緊張状態にあった。
俺の体から力が抜けていく。
それと共にだんだん。
気力もなくなっていく。
俺の意識は心身の疲労へと向かい、歩幅は徐々に狭まり進むペースが落ちていく。
今すぐにでも地面へと倒れ込みたい、という気持ちを抑えながら、俺は一歩一歩前へと歩んでいく。
そうやって、何とか怠けの煩悩も打ち破ることに成功した。このまま休みたい気持ちもあったが、俺は四つ目の黄色い光へと向かっていく。
――『乱れ』
四つ目の煩悩によって、俺は気づけば挙動不審になっていた。俺の視線はあっちこっちへと不規則に動き始め、振る舞いに落ち着きがなくなっていた。
そんな状況に。
俺は喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しくなったりと情緒が不安定だった。
喜怒哀楽。
その激しい感情の起伏は俺の不安を煽っていき、自信がなくなっていくのを感じた。
どうして俺がこんな目にあっているのかと、気づけば過去への後悔が生まれていた。
なぜ、此処へ来たのか。
どうして、ブラック転生したのか。
どうやれば前世で幸せになれたのか。
いろんな後悔が俺を蝕んでいった。
それでも俺は諦めずに進む。
辛いけど、耐えられると信じて。
心身ともに激しく乱されながらも、俺は何とか四つ目の煩悩を越えた。
あと一つの煩悩にさえ耐えられれば、この辛い五蓋道も終わる。
そう、思っていた時。
後ろから声が聞こえてきた。
「ローグッ! 父さんがずっと後ろにいることを忘れるなよ」
その言葉を聞きながら俺は返事をすることなく、最後の黒い光の元へと進んでいった。
――『疑い』
最後の煩悩は、俺から五感を奪った。
五感喪失。
俺は何も見えず、何も聞こえず。
真っ暗闇な無の世界を一人で歩んでいるような感覚になった。
あるのは、自分の存在だけ。
そうなると、無の世界では自分の存在すら疑うようになった。
俺は存在しているのか。
存在してもいいのか。
俺には、存在する価値があるのか。
様々な疑問を自問自答する。
疑心暗鬼。
一度、それらを疑い始めると全てのことに疑問と不安を感じて恐ろしくなった。そんな疑いの心は、暗闇の中で居もしない過去の亡霊が目に浮かぶほどだった。
気づけば俺の心には、疑いという名の鬼が潜んでいた。それは現在と未来を疑い、このまま頑張ったところで幸せにはならない、と俺を追い詰めてきた。
心の中まで暗くなっていく。
まるで、前世の俺みたいに。
心の中で希望の光が消えかけた時。
俺はある言葉を思い出した。
『父さんがずっと後ろにいる』
父さんの言葉が蘇ると、目の前に父さんの残像が浮かび上がった。その横には母さんもいて、二人の間にはルナもいた。
三人の残像が次第に鮮明になると、俺がいた無の世界は崩壊し始めた。
その光景が今世の俺は幸せになれると肯定してくれているように思えて、とても暖かい気持ちになれた。
こうして、俺は夜叉の洞窟で五蓋道の試練を突破するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます