第8話 戦いの女神
「カイン、水よ。飲んで」
口元に水差しを近づけ水を含ませるが、熱に浮かされたカインの意識は朦朧として、すぐに口の端から水がこぼれ落ちていく。
しばしためらった後、アリッサは水を口に含み、カインの頬に手をそえ口移しで飲ませた。
飲んで、カイン。
こくりと喉を鳴らし、水を飲み込むのを確認してアリッサは唇を離した。
カインはまぶたを震わせゆっくりと目を開けた。
解毒剤は飲ませた。多少なりとも毒の耐性があったことと、処置が早かったことで最悪の事態はまぬがれた。
二、三日もすれば熱も下がり回復するだろう。しばらく倦怠感は残るだろうが、意識さえとり戻せばまず心配はない。
当然のごとく、王宮内は騒然となった。
カインの身を案ずる者。あるいは、カインか、それともキルティア妃にか。どちらにつくべきかと己の身の置きどころに迫られる者。
だが、この騒ぎもすぐにおさまるであろう。
なぜなら──。
あたしがカインを死なせたりはしないから。
触れていたカインの頬を優しくなでる。
その手にカインの手が重ねられた。
「ずっと、私の側についていてくれたのか?」
「この間と立場が逆になったね」
「そうだな」
「あたしのこと守ってくれて嬉しかった。ありがとう」
「だが、こんな姿をさらして情けない」
アリッサはいいえ、と首を振る。
「アリッサの手……冷たくて気持ちがいい。それに、こうしているととても落ち着く」
途切れ途切れに声をもらすカインの手をアリッサは握りしめ返した。
「側にいる。安心して眠りなさい。朝になったらきっと今より楽になれるはず」
「ああ……」
「早く元気になって」
「そうしたら、また二人で河原に行こう」
「そうね」
「約束してくれるか?」
「もちろんよ」
手に重ねられていたカインの手がゆっくりと持ち上がり、アリッサの頬に伸びる。
カインの唇が何か言いたそうにかすかに動く。
「どうしたの? もう少しお水飲む?」
「アリッサに、触れたい」
カインの手が柔らかくアリッサの頬をなぞり、耳元に触れ、髪をすく。
「口づけをしたい」
アリッサは言葉を飲んだ。
「アリッサ……好きだ。どうしようもなく君が欲しい。君を感じたい」
何かを言いかけようとするカインの言葉を封じるように、口元に指先を添え、その乾いた唇に口づけをした。
「アリッサ……」
「何も言わないで。あたしも、カインが好きよ」
◇・◇・◇
寝台の縁に腰をかけ、アリッサは眠るカインのひたいに手をあてた。
静かな寝息をたてる愛しい人を見つめ、アリッサは瞳を揺らす。
「あたしね……自分の生まれた国も、親の顔も知らないの。自分の名前も年齢すらも。だから、アリッサという名前は本当の名ではなくて、一座から与えられたものなの。あたし、今まで仕事のために色々な人間を演じ、成りすましてきた。たくさんの人を殺してきた。そうしているうちに、やがて本当の自分さえ見失って……」
ひたいにかかるカインの前髪を指先でそっと払う。
「だけど、あなたを守りたいというこの気持ちに偽りはない。誰かを守りたいなんて感情を抱いたのは生まれて初めて。おかしいよね。人殺しのあたしが」
アリッサはカインのひたいに口づけをした。
「カイン、好きよ。愛してる」
けれどこの思いは叶うことはない。
叶うはずがない。
叶えたいと望むことも許されない。
そもそも、カインと自分とでは住む世界が違いすぎる。
彼はやがて一国の王となる身。そして、自分は闇の世界に生きる薄汚れた暗殺者。
「もうカインの側にいることはできないけれど、あなたのことは一生忘れない。カイン、素敵な思い出をありがとう」
と、アリッサはもう一度カインの唇に口づけを落とす。
「あたし、いかなければ」
すべての思いを断ちきるように、アリッサは立ち上がった。
颯爽とした足取りでバルコニーへと向かい、窓を大きく開け放つ。
涼しい風が一気に室内に流れ、まだ熱の冷めやらない火照った身体を冷ましてくれた。
夜空を見上げれば、目もくらむほどの無数の星。
まるで空から星がこぼれ落ちてきそうだと、思わず手を伸ばす。けれど大きく手をかかげたところで、あの輝きは決して手に入れることはできない。
深く深呼吸をして、アリッサは軽く指笛を鳴らした。
間を開けず、その音に応じるように足音もなくイーサが現れアリッサの足下に片膝をついて頭を垂れる。
優雅な旅芸人の姿でもなく、侍女にふんした女装でもない。
闇色の装束をまとった姿。
「状況は?」
ひざまずくイーサにアリッサは短く問う。
「はい。第二王子は自室にてすでにお休みです。部屋には二人の侍女と扉の前に三人の護衛。さらに、外にも三十人の護衛がいますが、問題はないかと」
いつもの軽々しい口調ではなく、甘い声音でもない。
アリッサを見上げる目も、ぞくりとするほどに鋭い光を帯びている。
そう、と答えアリッサは嗤った。
「ずいぶんと物々しい様子だな」
「あの女も、そろそろ自身に危険が及ぶのではと警戒をしているのでしょう」
「だろうな。毒針で死ぬはずだったこの私がこうして生きているのだから」
それどころか、放った刺客二人をアリッサの手によって殺され、さらにもう一人は戻らない。
逃げた刺客はイーサによって捕らえられた。
「キルティアも焦っているはず」
「雑魚どもはすべて私が引き受けましょう。アリッサ様は、まっすぐ第二王子の元へ」
イーサの差しだした一振りの剣をアリッサは受け取った。
「それと宴の晩、王子を襲ったサリアという娘は、地方の没落しかけた貴族の娘でした。キルティアに唆され、王子暗殺に手を貸し、成功したあかつきにはキルティア付きの侍女に召し上げてもらう約束をしていたそうです」
「そんなところだろうな」
アリッサはあの宴の席で、自分を見くだす目で嘲笑ったサリアという美しい少女の姿を思いだす。
気の強そうな目をした娘だった。
王子の心をつかもうと必死だったのだろう。
失敗をすれば、自分も家族も何もかも、すべて失うと恐れて。
華やかな王宮に憧れ、野心をもってキルティアの企みにのったのではない。ただ、生き残りたいがために。
気の毒だな。
「その後、娘の一族も処刑されたようです。もっとも、王子殺害に成功したとしても、口封じに、いずれ殺される運命だったに違いないでしょうが」
あの少女も捨て駒の一人として、キルティアに利用されたのだ。
「もう一つ、キルティアの側に仕えていたルドリアス候ですが、いまだ行方がわかっておりません」
彼も用済みとなり、秘密裏に消されたというところか。
「おおかた、インティス河の底にでも沈められたのだろう。だとしたら、とうに魚の餌だ。運良く浮かんできたとしても、骨と肉片の塊では身元の判別もしようがない。それと、昼間捕らえたあの刺客。殺してはいないな」
アリッサの問いかけに、イーサは口元に酷薄な笑みを刻む。
「もちろん。ですが、なかなか口を割らず少々手こずりましたが」
その言い方からすると、必要な情報を引きだすために拷問にかけた。殺してはいないが無事とも言い難い。とりあえず命はあるという状態か。
「カインの従者、エドラも殺すな。彼も大事な証人だ」
心得ています、とイーサはうなずき、ちらりと上目遣いでアリッサを見上げる。
「アズルという男はいかがいたしますか?」
と、瞳の奥に愉悦的な色をにじませ尋ねた。
キルティアの愛人、アズル将軍だ。
将軍という地位についているくらいだ。それなりに手応えがある。愉しめるとイーサは思っているのだ。
表だった行動は起こしてないが、彼もまたキルティアの企みに荷担する者のひとり。
「あの男も殺すな」
「そうですか」
どこか残念そうな声で呟くイーサに、アリッサは困った奴だと苦笑する。
「口だけはきけるようにしておけ。そもそも、あの男程度ではおまえの相手にもならないだろう?」
それはそうですが、と肩をすくめるイーサは、ふと、部屋の奥、寝台で眠るカインに視線を向ける。
「無防備な顔で眠っていますね。あの時、無謀にも刺客たちに斬りかかった時はどうなるかと思いましたが」
手にした剣を手になじませるように軽く振り、アリッサもカインを振り返る。
今はゆっくりと眠りなさい。
眠っている間に、何もかも終わっている。
もう、誰もあなたを脅かす者はいなくなる。
アリッサは手にした剣を握りしめる。
あなたの為に戦えるのなら、こんな幸せなことはない。
カイン、さようなら。
「行くぞ。イーサ」
短く言い放ち、アリッサは夜の闇へと消えていった。
夢うつつにさまよう意識の中、カインはバルコニーに立つ人物を見つめかすかな吐息をもらした。
滑らかな褐色の肌に蒼白い月の光をまとい、手に剣をたずさえ凛と立つ少女の姿。
美しい、と声にならない声で呟く。
その姿は、まさにイゾラの神話、戦いの女神アリッサが降臨したようだとさえ思った。
◇・◇・◇
寝台ですやすやと気持ちよさそうに寝息をたてて眠るウィリデ王子を、アリッサは静かに見下ろしていた。
開け放たれた窓から涼やかな風が流れ、ウィリデ王子はうんと声をもらして寝返りをうち、突然ぱちりと目を開けた。
「誰かいるの?」
寝ぼけまなこで目をこすり、むくりと半身を起こす。
「リリア? ミリア?」
あどけない仕草で小首を傾げ、お気に入りの侍女の名を呼ぶが、返事がないことに訝しむ。
仄かな月明かりが差し込む部屋。
人の気配は感じるのに、目が暗闇になれず、王子はきょろきょろと視線をさまよわせた。
「ねえ、どうしたの?」
王子の声に不安の色がにじむ。
「あたしよ」
ややあって、帰ってきた答えが知った声だと気づき、ウィリデ王子は瞳を輝かせた。
「その声はアリッサ! アリッサだね?」
満面の笑みを浮かべ、寝台の側に立つアリッサに飛びついた。
「こんばんは。ウィリデ王子様」
「ほんとうにアリッサだ! 僕に会いに来てくれたの?」
「そうよ」
「僕、あれからずっと、アリッサに会いたいなって思ってたんだ。またアリッサの楽しいお話を聞かせて欲しいなと思って。だから、母上にアリッサに会わせてとお願いしようと思ってたの」
「あたしも、ウィリデ王子様に会いたいと思ってたの」
「ほんとう!」
無邪気に声をはずませるウィリデ王子に、アリッサは静かに笑む。
「でも、こんな時間にどうして?」
ウィリデ王子は首を傾げアリッサを見上げる。
「王子様と約束したわよね。舞を見せてあげるって」
「ほんとう! 僕に見せてくれるの?」
「ええ」
そうよ、王子様のために、特別な死の舞踏(まい)を。
「でも、こんなに身体が冷えてるよ。そうだ、何か羽織るものを探してくるね。待ってて、アリッサ」
小さな王子は、アリッサのために肩掛けでもないかと部屋を見渡す。
「確か、リリアのがあったはず」
自分のために羽織るものを探し回るウィリデ王子を目で追い、初めてカインの部屋に訪れた時も、カインが自分のために肩掛けをかけてくれたことを思いだす。
もし、暗殺の対象となる者がウィリデ王子ではなく、カインだったら──。
それでもあたしはカインを殺しただろうか?
「あった!」
ウィリデ王子は見つけた肩掛けを手に戻ってくる。
「アリッサ?」
徐々に暗闇に慣れ始めた目が、月明かりに照らしだされるアリッサの表情をとらえ、そこで初めてアリッサの手に剣が握られていることに気づき、顔を引きつらせた。
アリッサの表情に、一瞬だけ悲痛な感情が過ぎる。
心優しい王子だと思った。
自分に懐いて可愛いとさえ思った。
殺すことにためらいを抱いてはいけない。
いや、あってはならない。
今、この場の自分の感情などどうでもいいこと。
今までそうであったように、これからも。
いや、すでにこんなふうに思ってしまっていること自体、暗殺者として失格だ。
せめて苦しまず、自分が殺されたと思う間もなく、王子をあの世へ送ってあげよう。
剣をたずさえ、アリッサは王子の元に歩み寄る。
「どうして?」
己の身の危険を察した王子は、アリッサから距離をとるように一歩、二歩と後ずさる。
その顔は今にも泣き出しそうであった。
「ねえ、アリッサ」
「ごめんね」
ウィリデ王子はさっと身をひるがえし扉に向かって駆け出した。
「誰か、誰か来て! 助けて!」
扉へと走る王子の身体が、何かにつまずき前のめりに倒れた。
ひっと王子の口から声にならない悲鳴がもれる。
王子がつまずいたもの。
それは折り重なって床に倒れている二人の侍女の姿であった。
「リリア……ミリア……!」
彼女たちの名を叫び、起きてとばかりに王子は二人の身体を揺する。が、手のひらにじっとりとついた血を見つめ目を瞠らせた。
彼女たちの息はすでになかった。
「どうして……」
絶望の色を浮かべ、ウィリデ王子はアリッサを振り返る。
思いのほか、アリッサの姿が間近にあり、王子は驚いてびくりと肩を跳ねた。
アリッサとアリッサの手に握られた、血の滴る剣を見つめ、王子は涙をこぼした。そして、アリッサは剣をないだ。
◇・◇・◇
翌朝、ウィリデ王子が何者かによって殺害された。
さらに、カインの従者エドラがキルティアの命令を受け、カインの食事に毒を盛り続けていたことを自白した。
彼もまた、キルティアの息子ウィリデ王子が王位についたときには、相応の地位をと約束され欲に溺れたのだ。
河原でカインを狙った暗殺者も、キルティアに雇われたことを吐いた。さらに、キルティアの愛人であったアズル将軍も、何者かにより両目を抉られ、さらに右腕を失った状態でキルティアの部屋で倒れていたのを発見された。
第一王子であるカインを亡き者にしてしまおう。
その首謀者であるキルティアは、身柄を拘束され投獄された。が、キルティアは獄中で隠し持っていた毒を飲み、自ら命を絶ったと言われている。けれど、投獄直前、キルティアの身体を丹念に調べたが、毒を隠し持っている様子はなかった。
もしかしたら、何者かにより毒が用意され、自決するようすすめられたのか、今となっては分からない。
そして、正式にカインは王位を継ぐことになり、その準備が慌ただしくも着々と進められた。
一方、第二王子暗殺事件後、アリッサはカインの前から姿を消してしまった。
それから、三ヶ月の月日が過ぎた。
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