第2話 王子の寝所へ

 広大な大地が広がるエティカリア大陸。

 その大陸中央に流れるインティス河上流の高原地帯に栄えるトリア国。

 その国王カザンは、小国にすぎなかったトリアを、大陸一の強大国と言われるまでにのし上げた。が、王は流行病に倒れ病床の身となってしまった。

 カザンには二人の息子がいた。

 次の王にもっとも相応しいのは、正妃サラサとの間に生まれた第一王子のカインであったが、王が床に伏せると同時にカインもまた体調を崩すことが重なり、臣下たちの間では病弱な王子に王位を継がせてもよいのか、と懸念の声が密かに広がり始めた。

 そこへ、カザンの側室であるキルティア妃が、己の息子を王位につけようと、貴族たちを取り込み画策を弄し始めた。

 しかし、キルティアの息子ウィリデ王子はまだ七歳。

 王位についたとしても、おそらく実権を握るのはキルティア妃となるだろう。

 いや、すでに王が倒れサラサ王妃も身を隠すように王宮から離れた現在、事実上、実権を握っているのはキルティア妃といっても過言はなかった。

 王宮中では、カイン派とキルティア派が二分し、静かに争っていた。

 それはまるで、くすぶる火種が何かの拍子で一瞬にして燃え上がろうとするかのように、危うい状態であった。


「失敗するとはどういうことか!」

 キルティアは床にひれ伏すルドリアス候目がけて手にしていた扇を投げつけた。扇は公の右こめかみにあたり、こつりと床に落ちる。

「も、申し訳……っ!」

 怒鳴られたルドリアス候は、蒼白い顔をさらに青くさせ、ひたいを床に押しつけた。

 王が健在の頃には、とりたてて目立つ存在でもなかったルドリアス候だが、ここ最近キルティア妃に目をかけられ、彼女のお気に入りのひとりとして王宮に頻繁に出入りするようになった。

「よもや、王子があのような卑しい芸人風情を選ぶとは予想もつかず……」

 ルドリアス候はキルティアのご機嫌を伺いつつ、流れ落ちるひたいの汗を拭い、言い訳じみた言葉を並べ立てた。

 王子の寝所に送り込む娘は、オルリア家のサリアと最初から決まっていた。

 もともと女性にあまり感心を示さない王子のこと。

 気に入った娘を選べといっても、選ばないことは承知していた。そこで、あらかじめ用意しておいた娘を王子の寝所に送り込み、王子を殺害させる予定であったのだが。

 計画は見事失敗した。

「次こそ、もっと見目のよい娘を用意して」

「もうよい」

 静かな声音を落とす、キルティアはルドリアス候の言葉を遮った。

 若い娘を王子にあてがい殺させるという策略は、もはや通用しないだろう。そもそもカイン王子はこの宴にはまったく乗り気ではなかった。そこを無理に連れ出したのだ。

「しかし……」

 椅子に深く腰掛けたキルティアは肘掛けに頬杖をつき、もう片方の肘掛けで指先を苛立たしげに打ちつけていた。

「もはや、貴様は用済みだな」

 ぞっとするほどに冷めたキルティアの青い瞳に見据えられ、ルドリアス候は言葉を失いひたいに脂汗をにじませた。

 ここでキルティアの信頼を失えば、今の地位を引きずり下ろされるのは目に見えてあきらかだ。

 いや、それだけですめばいい。

「どうか! もう一度だけ機会をください。必ずや王子を……なにとぞ」

 ルドリアス候はキルティアの足下にすりより、さらにひたいを床にすりつける。

「ぶざまだな」

 そこへ、あからさまな侮蔑をにじませた声とともに、ひとりの若者が奥の続き間から現れた。

「ア、アズル将軍!」

 現れた男はトリア国将軍、それも王を守るはずの近兵。その将軍が何故ここにいるのかと、ルドリアス候は引きつった表情を浮かべる。

「聞こえなかったかな? ルドリアス候殿。キルティア王妃はさがれと言っているのだ」

 側室であるキルティアを王妃と呼ぶ。

 それだけで、このアズル将軍が現在、誰に汲みしているか、考えるまでもない。

 キルティアは将軍の逞しい胸板に指先を添え、ねっとりとした眼差しで将軍を見上げた。すでにキルティアの目には床にうずくまるルドリアス候の存在など入っていない様子だ。

 将軍の鋭い眼差しに射竦められ、ルドリアス候は見てはいけないものを見てしまったという顔で、そそくさと逃げるように部屋を退出した。

「あの男の処分はおまえに任せる。どのみち用が済めば死んでもらうつもりだった」

 アズル将軍はにっと口角をあげて笑った。

「かしこまりました王妃さま。それと、すでに次の手はうって……」

「今はそんな話など、どうでもよいではないか」

 濡れた赤い唇をちろりと舐め、キルティアは扇情的な眼差しで将軍を見上げた。


 その後、王子のお相手をするようにと命じられたアリッサは、湯殿に通された。

 つまり、夜のお相手という意味であろう。

 数人の侍女たちの手によって、丹念に髪や身体を洗わされた。

 自分でできるからと言っても、これが仕事ですからと侍女たちも引かず、あきらめて彼女たちのされるがままとなったのだが、湯から上がる頃にはすっかりのぼせて疲れ果て、ようやく一息つけるかと思いきや、さらに全身に香油をすり込まれ、爪を磨かれ化粧までほどこされた。

 そうして、すべてが終わる頃にはすっかり夜も更けている。

 疲れたかも。

 それに、どうしてこれから寝るっていうのにお化粧するわけ?

 王子にお目通りするだけで、こんなに時間がかかるとは思わなかった。

 後ほど、迎えにあがりますと言って、侍女たちはいったん引き上げていく。

 控えの間でひとりぽつんと椅子に座っていたアリッサは、ずっとこらえていたあくびをする。

 そこへ──。

「これは……驚いた。見違えたな。それなりに可愛らしく見えるぞ」

 突然かけられた声に、アリッサは窓の方を振り返る。

 そこに、宴の席で竪琴を弾いていたイーサが、優雅な笑みを浮かべて立っていた。どうやら、窓から忍び込んできたらしい。

「どさくさにまぎれて、何であんたがここにいるのよ」

「見つかる? この俺がそんなヘマをすると思っているのかい?」

 イーサの言葉に、アリッサはうっと言葉をつまらせる。

「アリッサが心配だったから、様子を見にきたのだよ」

 しれっとした顔で言うイーサに、アリッサはよく言うよ、と呆れた顔で肩をすくめた。

「それと、それなりは余計だから」

「そう、怒らないで」

 イーサは頬を膨らませるアリッサの頭をぽんと叩く。

「そんな姿を見せられて、正直、俺も戸惑っているのだから」

 戸惑っていると言いながらも、イーサの視線はじっとアリッサに据えられたまま。

 アリッサははっとなり、慌てて腕を胸のあたりで交差させ、頭一つ分以上背の高いイーサを睨みつけた。

 侍女たちに着させられた衣装は、身体の線が透けて見える薄い生地の衣装。その下は下着もつけていない。

 恥ずかしすぎて死にそうだ。

「どうせ、胸がないって言いたいんでしょ」

 イーサは整った眉をあげた。

「アリッサはそんなことを気にしているのかい? 小さくても形がよくて可愛いよ」

 イーサの指先がアリッサの胸元へと伸びる。

 すかさずアリッサは目をつり上げ、その手を乱暴に払いのけた。

「殺すよ」

「愛する女に殺されるなら、それも悪くはない」

 本気とも冗談ともつかない顔で言われ、アリッサはため息をつく。

「調子のいいことを言って、そうやって、たくさんの女性を口説いているのでしょう」

 辛辣なアリッサの言葉に、ふっと笑うイーサであったが、突然真顔になり。

「大丈夫か?」

 と、アリッサの顔をのぞき込むようにして言う。

「何が」

 思わず、口調が刺々しくなる。

 イーサは意味ありげな笑みを浮かべた。

「王子の寝所に呼ばれたのだろう?」

「そうよ。見ての通り」

「ちゃんとお相手ができるのか?」

 途端、アリッサはうろたえだした。

「お相手って……そうよね……やっぱり、そういうことになるのよね」

「それ以外ないだろう?」

 あっさり言われ、アリッサはうう……と唇を噛みしめうなだれる。

「心配になってきた? だからあれほど手ほどきをしてやろうと言ったのに」

 イーサはアリッサの頬に手を添えた。

「こんなに青ざめてかわいそうに。怖い? 不安? まあ、一度やってしまえば度胸もつくだろう。今からでも遅くはないぞ。俺に抱かれてみるか?」

 肩のあたりで切りそろえられたアリッサの黒髪を指先でもてあそび、イーサが唇を寄せてくる。

 相手の顔をずいっと手で押しやり、アリッサは目をつり上げる。

「さわらないでよ。まったく、油断も隙もないんだから」

「アリッサが怯えた顔をするから」

「あんたに心配されたくないわ」

 イーサはやれやれと首を振る。

「まあ、見たところ、あの王子なら酷いことはしないだろう。きっと、アリッサに優しくしてくれるはず。アリッサはただ黙って相手に身を委ねて可愛がってもらえばいい。ま、アリッサなら大丈夫だ。きっと気合いで乗り切れる」

「気合い? 気合いで何とかなるものなの? そういうものなの?」

「なるようになれだ」

「ちょっと、意地悪言わないでよ!」

「意地悪? そうだな、愛するアリッサを他の男にとられてしまうのだ。つい意地悪をしたくなる俺の気持ちも考えて欲しい」

「よく言うよ。あんたなんか女に困ったことなんてないくせに」

「俺は昔からアリッサ一筋のつもりだが」

 言って、イーサは肩をすくめるが、ふいに真剣な顔をする。

「それにしても、君は本当にアリッサなのかい?」

「今度はなに?」

「まるで、別人のようで不思議だよ。でも、こういう元気なアリッサも悪くはない。おっと、侍女たちの足音だ。俺はもう行くよ」

「一座に戻るの?」

 不安げな声をだすアリッサの頭をイーサは優しくなでた。

「安心しろ。いつでも側にいる」

 そう言って、イーサは窓へ向かうと、現れたときと同様、窓から去って行ってしまった。と、同時にイーサの言った通り、侍女たちが部屋に現れた。

「お部屋にご案内いたします」

 アリッサは観念して侍女たちの後に従う。

 緊張のせいか、足どりもぎこちない。

 長い王宮内の廊下を歩き、いくつもの扉を抜け、ようやく王子の居室へたどり着く。

 い、いよいよね。

 アリッサはぐっと握った手に力を込める。

 こうなったら覚悟を決めなければ。

 そうね、イーサの言葉じゃないけど、なるようになれだわ。

 そう決意して、アリッサは王子の部屋に足を踏み入れた。

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