紅の術師

椎名冬夜

第1話始まりの季節

『wooo!』

声というには喉が無く、口というにも舌が無い。

震わせる肉は見当たらないが、何処からともなく音はしていた。

言うなればそれは魂の叫び。

この世を去れない亡霊の、本能からくる死の叫び。

「奔れ、水連!」

応えたのは生者の言霊だった。

闇が深まり、影が揺らめき、力を蓄えるその隙に。

空気の震えに圧されることなく、手印を結んで差し向ける。

淡く青く、光るそれは、指の先から伝わるように、水の鞭として敵を叩いた。

『aaaa!?』

蠢く黒衣は波紋を浮かべ、軋む白骨がたたらを踏んだ。

一、二の三と、手が詰まり、膝を着く擬人に垣間見える光。

連なった鞭が手足を砕けど、硬質なそれは心臓のように、黒く固まり闇を生んでいた。

「氷雨!」

攻め気の彼女は再びの詠唱。

短く早く端的なそれは、文字通り氷の一滴を飛ばす。

白の冷気は氷柱と化して、怪物の核へと突き進んでは……触れた途端に、闇に飲まれた。

「(強化!?間に合わないっ)」

塗り潰すように生じた黒が、白の欠片を地に落とす。

骸は立てず、最後の足も伏したまま。

しかし、その目が、その顔が、迫る脅威を見据えていた。

肉の無い空洞がグルリと渦巻く。

続く白撃が、届かず落ちた。

『wooo!』

響く狂騒は闇を統べる。

這い回る影が骸を絡め、伸び縮むように輪郭を成す。

雲間が晴れて月が照らす頃、黒衣は羽ばたく翼と化した。

「っ、部分強化!」

少女の足が仄かに染まる。

青の燐光が大地を蹴って、視界を埋める凶刃を逃れる。

先ほどまでとは打って変わって、身軽な骸の手先は鋭い。

まるで重さが消えたように、左右の骨を振るったと思えば、急に重さを取り戻すように、土煙を上げ空へと舞った。

広がる体躯、伸びる切っ先。

砕けた四肢は闇に縫われて、影の装いで身の骨を増やす。

頭上が深く、闇に染まった。

「あっぶない!」

叩きつけるように、その重さは解放された。

骨と布とは思えぬ地鳴り。

風を巻き上げ、砂塵を散らし、姿形を月夜に晒す。

人を捨てた全長は二メートルを超え、斑色の四足が獣のように地を掴む。

その横腹を、雫が打った。

「飛沫!」

小さな爆撃のような跡地から、それでも彼女は逃げていた。

両足に水の、青の光を纏わせて。

強化された身体能力で、飛び跳ねるように、転がるように、土に塗れて走っていた。

『aaaa!』

背後を取ろうと回り込むものの、獣型へと移行した骸は、影の尾を生やし振り回す。

正面の爪を避けるように、水弾の雨を胴へと集中。

効き目はあるし、当たりもするが。

「(核が殆ど見えない!もしかして中に埋もれた!?だとしたら横からじゃ届かないじゃん!)」

歩行が四足になった今、狙うべき心臓は下を向いている。

ならば鞭かと近付けば、間合いに入った爪が迫る。

一つ二つと躱したとしても、異様に軽く飛び掛かられれば、揺れるほど重く沈み込まれる。

重量の変化による加速と、増量による圧迫。

それらが生み出す震動に足を取られつつも、すれ違い際のチャンスに叫ぶ。

「水連!!」

水流は届く。

心臓まで届く。

一際強く青は瞬いて。

「(割れろ!)」



……しかし、思いは届かなかった。



『gyaa!?』

狙いは逸れて、意識は揺れて。

転がる体に鞭打って、無理な体勢を立て直すまでに、胴を打たれた骸が吠える。

「っ!?氷雨!」

落胆した隙。気を抜いた刹那。

仰け反った体をこちらへ向けて、前足を振り上げたその一瞬は、狙いを付けるには絶好だった。

しかし、あくまで狙えばの話。

それを想定して構えていたなら兎も角、攻撃失敗の直後の好機。

タイミングは最悪。後手後手の相打ち。

『gaaa!?』

「ぃ、たぁ」

間合いに救われ、直撃はしていない。

しかしそれでも確かな衝撃が、体を宙へと運んでいた。

どうやら前方を叩きつけたらしいそれに煽られて、少なからず転がされ土を舐める。

受け身を取り損ねた体が痛むが、これでもマシな方なのだろう。

上から押さえつけられていたら、その時点で勝負は着いていたかもしれない。

「(やっぱ咄嗟じゃ当たらないよね……最初から狙ってれば多分……はぁ。これ絶対後で怒られるやつだ)」

痛み分けと言っていい程には、相手にも確かなダメージがある。

とはいえ、それは的外れ。左を外れた、右の胸。

残念ながら直撃はならず。

当たっていれば倒せていたレベルのダメージなだけに、右胸と左胸の僅かな差が大きい。

そして再び響く咆哮。

またも高まる妖力の予兆。

「(うわぁ、どうしようこれ……さすがにもう無理なんじゃ……)」

未練を残した遺体や、この世を去れずに彷徨う魂は、死霊という名の妖魔に変わる。

生に縋りつくその思いは、大気に溢れる霊力により肉付き、更なる回帰を本能として、血肉を求めて産声を上げる。

そうして怪物は形を成し、今もなお成長を続けながら、獲物を求めて貪欲に迫るのだ。

少女は一度だけ離れて眺める少年を見るが、返ってきたのはバツ印。

つまりはこのまま続行である。

ちょっと自棄になり、連続で唱える。

「水連!水連!」

『aaaa!』

最早仰け反ってもくれないらしい。

動きは確かに鈍っている筈だが、こちらも疲労で体は重く、イタチごっこは否めない。

このまま相手が強くなるなら、押し切られるのは時間の問題。

「狙い甘いぞ~。真面目にやれ~」

終始、少女の苦戦とも思われる交戦に対し、少年は見守るばかりで手を出さない。

それもその筈訓練の内。

彼女に経験を積ませるためで、術の練度を上げるためだ。

かれこれ彼は欠伸が出るほど、この光景を見飽きていた。

「やってるよ!ちゃんと狙ってるし、すっごく集中してるってばぁ!」

これに悲鳴をあげるのが、件の少女その人である。

肩まで伸びた黒髪を、赤いヘアゴムで小さく結んだ、小柄な彼女は赤上梨央(あかがみりお)。

まだまだ経験の浅い術師見習いで、それでもある一点に於いては、将来有望な新人術師である。

黒のスーツは術師の正装で、赤いマフラーは彼女の私物だ。

ヘアゴムと揃いのその赤は、手に宿す青とは対極に位置する。

故に彼女はその色が苦手で、赤の才能と比べれば拙い。

「花壇の水やりじゃあるまいし。そのジョーロもうちょっと何とかしろよ」

「ホースくらいは出てるよ!わっ、泥跳ねた!?もうやだこの訓練!何で夜中にガイコツと水遊びしなきゃいけないの!?」

「それをホースじゃなくて、高圧水浄機並みにするのが目的でやってんだって。いい加減コツ掴め。ダメ梨央」

「水が苦手なだけだって何度言えば分かるのかな!?大体、赤のボクに青を押し付けようとするのが間違いなんだよ!」

「使えて損はないし、赤ほど難しい要求はしてない……時間切れっぽいな」

再びの咆哮が夜風に流れていく。

びしょ濡れの黒衣から水分が弾かれ、掛けられた水流も吸い込まれて消えた。

ドス黒い染みは溢れ出し、姿形を変えていく。

『gaaa!』

「っ、もう無理限界!消しちゃっていいよね!?」

叫ぶ異形はアバラを伸ばす。

開いたそれは足として機能し、伸びた両手が鎌のようにしなる。

地を這うように伏せた身は軋み、揺れるその目が獲物に定まる。

それに対する彼女の青は、水のそれから赤へと変わっていた。

彼女が最も得意とするのは、名前にも入る赤い色……火の術式へとシフトしようとしたところで。

「水連」

横合いから一閃、青の光が叩きつけられた。

一筋の水流である筈のそれは、本物の鞭のように高速で飛来。

出鼻を挫き、出足を砕く。

先程までの威容は薄れ、跪く胴体が頭を垂れていた。

「あぁ~!?ボクが倒したかったのにぃ~!!」

「余所見すんな、まだ生きてる」

「えっ、わっ!?」

赤の少女への攻撃行為。

その一撃に妨害を受けつつも、怪物の足は止まらなかった。

引き摺るように上体を持ち上げ、再び収束した黒の力により、重さを忘れたように素早く移動して見せたのだ。

反撃のタイミングを逸らされた彼女は、堪らず足に赤を集め跳んだ。

それは彼女の両足を覆い、爆発するような推進力となって、鎌の間合いから遠ざけてみせた。

手足指先など、身体の一部分に力を纏わせて、身体能力を強化する。

部分強化と呼ばれるそれは、今度は赤く彼女を逃がした。

「危ないよ!何で倒してないの!」

「一応、今くらい出せてれば、強化前に倒せてた筈だったっていう見本だ。あと、ここから先は補修な」

苦情の声も何のその。

取り合わず語る彼の背を、一先ずの盾に少女は下がる。

散々、獲物に逃げられた怪物も、ここにきて初めて狙いを変えていた。

彼女の師匠、久世啓太(くぜけいた)へ。

飢えた獲物が咢を開く。

「奔れ、水連」

『gaaa!?』

一言の詠唱が二言へと変わり、水の勢いも目に見えて変わった。

一言目が高圧水浄機とするなら、二言目はさしずめウォーターカッターと言った所だろうか?

叩きつける鞭は足を砕き、切り裂く刃は全身を刻み、蠢く黒衣の核を覗かせた。

「うわ、青の適性も無いのに、水だけでよくそんな刻めるよね、久先輩はさ。でも、それをボクに求めるのはちょっと酷じゃないかなぁ?」

「別に、ここまでは求めてない。弱体化させて動きを鈍らせるまではよかった。けど、もうちょい狙い付けられれば、足潰すなりして核を狙えただろ?」

『wooo!』

悶える化け物、響く声。

傷ついた体の修復もままならず、傾いた個体は敵対者を目指す。

風を切るのは鋭い切っ先。

それを防ぐのは氷の表面。

「薄氷」

冷気の塊が面のように現れ、鎌の一撃を受け止めて凍る。

ギギギと軋む関節が唸るが、両の手を使ってもその盾は砕けない。

所か冷気は段々と広がり、鎌の連打が目に見えて鈍る。

「氷結」

そして繫がる、白の檻。

面が連なり形を変えて、敵対する妖魔を閉ざしていく。

それはまさしく凍てつく氷牢。

死者の時すら止める檻。

「これ、ボクがやるの?受け止めた時点で砕けそう……」

「刻むのに比べたら楽なもんだ。今回の課題はあくまで〝弱らせて動きを止める″だからな。正解の一つとして、こういう形があったってことを覚えておけよ?」

「うーん、燃やしちゃった方が早くない?」

「治癒術以外にも、水は氷結までは使えた方がいい。力押しでどうにかなればいいが、搦め手が必要になる時もあるしな。攻撃と機動の赤は申し分ないが、少しだけ青にも手を付けとけ」

「ふふ~ん♪それ程でもあるけど♪」

「調子乗んな。燃費の悪さを考慮しなければ、だ」

「うっ、それは言わないお約束だよ」

「そんな約束はした覚えがねぇよ。ったく、ほれ、憂さ晴らしだ、やっちまえ」

「やった!さっすが久先輩!そういう所大好きだよ!」

待ってましたと結ぶ印。

今度こそはと指揮棒のように、指し示しては振るう術。

赤く光る円環が、怪物の立つ地を眩く照らした。

「赤化、灯篭!」

途端、立ち上る豪快な火柱。

妖魔を拘束する氷牢ごと焼却し、燃え盛る炎が空へと昇っていく。

再び闇が戻る頃には、小さな窪み一つを残し、怪物は欠片として残されていなかった。

「ふっふ~ん♪きっもちぃ~!」

「一応、何処ぞの誰とも知らない霊体だぞ?火葬して気持ちいいは不謹慎じゃないか?」

「えぇ……さっきまでその霊体を使って訓練させてた人の言葉とは思えないんだけど……」

「あのレベルのザコ妖魔に手古摺る新米術師じゃなければ、もっとさらっと成仏させてやれたんだけどな?」

「うっ、だから青はやめようよぅ。苦手なんだってばぁ」

へこたれたように項垂れる梨央を、甘さと分かりつつも叱る気にはなれない。

これが師匠なら違うのだろうが、オレはオレだし、彼女は彼女だ。

これが自分のやり方なのだと、何度目かの思いを割り切ることにした。

「……まぁ、及第点ってトコだろ。取り敢えずメシでも食うか。腹減ったろ?」

「……久先輩の奢り?」

膝を抱えて蹲ったまま、チラリと向く目に気が削がれる。

指導者としてはどうかと思うが、このままそっぽを向かせるのは、保護者代わりとして如何ともしがたい。

「はぁ。苦手なものを頑張った後だしな。好きなモンぐらい奢ってやるよ」

「さっすが久先輩!太っ腹ぁ~!そゆとこ大好き!」

「はいはい。さっさと帰るぞ」

すっかり機嫌を取り戻した彼女の、先を行くように麓を目指す。

弾むような足取りに、聴こえてくる鼻歌が心地良い。

穏やかな時間が、そこにはあった。

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