ジンジャーエールと海風

フィステリアタナカ

ジンジャーエールと海風

 肌寒い海風が吹く中、あなたは浜辺で歌っていた。その歌声は今でも心に染み入っている。


 あれは一昨年の冬、仕事帰りに、ふと寄ったBarでギターを持って歌っている人がいた。その歌声は優しく、どこか憂いているような歌声だった。その人の演奏が終わり、カウンター席でジンジャーエールを飲んでいたところを私は勇気をもって声をかける。


「素敵な歌でしたね」


 彼は「いえいえ、どうもありがとうね」と笑顔で返してきた。そう、それが私の恋の始まり。

 カウンターの隣に座り、お酒を注文する。お酒をおごりますよと伝えたら、「お酒はいいんでジンジャーエールをもらってもいいですか」と。話をしてみると大学の後輩で、将来は音楽で食べていこうと決めているそうだ。「ギターってどうやって上手くなるんですか」と聞くと、「弾きながら歌っていたらこんな感じになった」と掌を出してきたので、思わず掌を重ねてしまった。彼は笑い「指ですよ。ほら硬いでしょ」と左手の指の先を触らせてくれた。

 時間を忘れ、彼と話をする。十一時になって彼は「また聴きに来てください」と帰っていき、私は連絡先を交換すればと思ってしまった。

 それでもその日の夜は、幸せな気持ちのまま眠りにつくことができた。


 いつもどおりの出勤。枯れた街路樹の脇を通り、スクランブル交差点で待っているとギターを背にした青年がいた。間違うことのない、あのときの彼だ。彼は私に気づくことなく、たんたんと高架橋の中へと消えていく。


 この街にきて何年経ったのであろう。普段見ない人ごみの中に、彼がいるのではないかと探してしまう。

 次の日も、また次の日もBarに通い、もう会えないのかと思っていたら、演奏前の彼がいた。ジントニックを注文して、彼の歌声を聞く。嬉しい気持ちでいっぱいになり、彼のその顔をこの目に焼き付けた。演奏が終わり、ジンジャーエールを彼におごって、話をする。「練習場所は貸しスタジオ?」と聞くと、お金が無いから浜辺で歌っていると言っていた。なので「練習しているところ見にいってもいい?」と聞いてみたら、いいですよと、今度の休日にお邪魔させてもらうことにした。連絡先を交換して、その日が来るのを、今か今かと待ちわびる。当日は待ち合わせ場所に一時間早く着いてしまったが、驚いたことに彼はもう来ていて「じゃあ、行きましょうか」と一緒に海へ向かった。


 波の音と彼の歌声が混ざり、寒かったけれど心が満たされていくのがわかる。


 練習が終わったのか、彼が私のもとへきて「来月、東京に行きます」と。「そうか、がんばってね」と自分の気持ちを隠し、その日は彼と別れた。


 翌朝、いつもどおり出勤する。街路樹の脇にくると、雪が降っていることに気がついた。

 街路樹に雪が舞う。曇天の空を見て、このまま桜が舞う季節が来なければと私は強く思った。

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