六、To The Holy Sky Sanctuary of ARASANA




  とても大切なものを失った。

  私は、大切なものはその失ったそれだけだった。

  だから、もう大切なものを失うことはないと、思っていた。



 舟は飛翔を続けていた。最初は大陸が、そして次第に四大陸が、やがて海も小さく大陸すら豆粒のようになってとうとう消えても、舟は飛翔をやめなかった。最初の夜アステリスとジラルダは甲板に――――― タラップの逆に位置する―――――立ち、強い夜風に吹かれながら話を続けていた。

「君のさっきの質問……」

 アステリスは顔を上げた。

 ―――――なんだったっけ?

「アラサナは本来何か、という……」

「……ああ……」

 ジラルダは顔を上げた。風が強いのでいつもの帽子は船室にある。船内は鍵で舟を始動させた機械室と船室が四つ、小さな食堂と排泄のための小部屋とご丁寧に浴室まであり、一つの宿にも匹敵していた。廊下の奥には下り階段があって一度降りてみたが大きな機械が連立して唸りを上げており恐くなって以来アステリスは足を踏み入れていない。フェクタは食事以外はもっぱら船室の機械室と地下を行ったり来たりしては、なにかレバーを引いたり方向計を見たりして忙しそうにしている。とても二人の出る幕はないようだ。

「アラサナとは古代空中神殿のことだ」

 ジラルダは手を伸ばせば届いてしまいそうな美しい紺青の夜空を見据えながら言った。

「あまりにも古くてもう誰も知っている人間はいないくらいに古い……」

「だからあんたもすぐに思い出せなかったんだね」

 ゴォン……ゴォン……

 低い唸りを上げて舟は飛翔を続けている。もう上昇はしておらず、まっすぐ北西を目指している。

「で、どんなとこなの」

「うむ。……なんといえばいいのか……一言で言えば古代機械文明の時代の覇者、創設者と言ってもいい。君のその左の耳飾りも、この舟も、すべて古代文明の遺跡の一部だ。 そしてそれを造っていた文明があった時代の指導者だったわけだ。不思議な能力を持ち、また一番機械に長けそれを人々に教え開発の先駆者であったという。機械文明ありし頃の人間の統率者、しかし決して支配者ではない。忘れられて今は古代機械文明、と呼ばれているが、多分元々はアラサナ時代、と言われていたはずだ」

「古すぎて……忘れちゃうくらい古かったんだ……」

 ジラルダはうなづいた。

「じゃあその一族の名前は……」

「おそらくアラサナだろう」

 アステリスは船室にちらりと目をやった。機械室でいそいそと動き回るフェクタの姿が見える。そうとわかると今までのことすべてが納得できる。

「そしてかの時代にも終焉の時がやってきて……アラサナ―――――この場合は神殿のことだが―――――は、分裂する大陸から飛び立って天空に飛翔した。アラサナが古代空中神殿というのはそういうことだ。そして分裂して四つに別れた大陸を見下ろし均衡を保つために中空に留まったという伝説が残されている。伝説であって確たる証拠は今まで出てこなかった。つまり機械文明があったことは確かだが、かの時代の偉大さを後世に示すための作られた伝説だろうという説が正しかったのだ。―――――今の今まではね」

 珍しく皮肉めいた口調のジラルダにアステリスは吹き出した。

 目を移すと、まったく今本当に自分は自分でいられるのだろうかと、気持ちが危うくなってしまうくらいの星の海が広がっている。

「それでさ……あの……」

「なんだね」

 ジラルダはアステリスに目を移して彼女を見た。

「あのさー……あいつ、いたじゃん。イクシオン」

「―――――……ああ」

「その……なんで《ヴ》の魔術師だから、イーリス、さんの仇だってわかったの?

 あんたあんときすぐわかったみたいだったよね」

「あれか……」

 ジラルダはまた星空へと目を移した。端正な横顔が夜空にくりぬいたかのようにくっきりと浮かび上がる。

「―――――あのの詠唱が微かに聞こえてきたという証言があったのだよ。そんなことはありえないし、そんな言語魔術師は存在しないということは当時ではわかっていたことだが、しかし言語魔術師でないにしても、何度も復唱される《ヴ》という言葉は耳にしたそうだ。そしてイーリスは、自分の血で床に月、とだけ書いていた。彼女は月が好きだったから、そのことだろうと周りは思っていたようだったが、私は何かひっかかっていた」




             月の光は虹の光を消してしまう


                 月が虹を喰う




「…………」

 ジラルダは瞳を閉じた。

「―――――その、……月が虹をたべるのにあいつとなんか関係があんの?」

 ジラルダは縁によりかかってアステリスを見た。紺青と群青と藍の世界、星がちりばめたかのようにさざめき瞬いている。

「?」

「……イーリスは『虹』、アステリスは『星の国』、……イクシオンは……『強力な月の者』という意味がある」

「―――――」

「恐らくイーリスは誰何し彼は自分の名前を名乗ったのだろうね。そしてイーリスはそれを伝えるために月と書いた……月としか書けなかった。なにしろ、ひどい死に様だったからね」

 目に浮かぶ……喰い破られたかのように裂けた彼女の腹、白い服が赤く染まり、髪は血と泥にまみれ口元に糸のような血の筋、しなやかだった細腕は硬くなって床にしなだれ、あの美しい藍色の瞳はとうとう開くことはなかった。遺体を固くかき抱いたジラルダは言いようのない喪失感を味わった。悲しみがひどく透明感を帯びて現実を彼に与えなかった。 まるでそうしているともう一人の自分を見つめているかのような、奇妙で、虚無で、そして透明な思いだった。

 旅立ちは感傷とも傷心とも、犯人探しとも言われた。どれも違った。

 あれだけ愛した女ひとり助けられなかった自分がいるのを見ていたくなかった。そこにいれば、どうしても彼女の死が近すぎる場所に存在し、そして周囲の人間もそれを受け入れて生きている。それを見、黙認して生き生活することは彼女の不可解な死をなあなあにして流してしまうこと他ならなかった。死を否定したのではない。彼が一番よくわかっている、イーリスはもう死んだのだ。しかし死に方は不可解だった。謎のまま政治抗争に流され忘れられようとしていた。ジラルダはそれを受け入れることがどうしても出来なかった。

 そして旅に出た。

「さて……」

 そんな自分の過去など気にも留めていないような、からかいのまじった笑顔を浮かべ、ジラルダはアステリスを見た。

「これから先……とりあえず我々には食事を作り食べる以外することはないわけだ」

「……そ、そうだけど……な、なによ」

 アステリスは内心慌てた。同じような言葉で昔傭兵仲間にベッドに誘われたことがあるのだ。

「いい機会だから君に古代語を教えてあげよう」

「―――――」

 言葉が脳に辿り着くのに時間がかかった。

「えっえーっ!?」

 今、到達した。

「他にすることもないのだし、ちょうどいい、来なさい」

「き、来なさいっつったって……あ、あ、ちょっと……」

 さっさと船室に向かってしまったジラルダの背中は、アステリスがついてこようとこまいとおかまないなしとでも言いだけだ。

「だーっもおーっ……しょーがないなー」

 アステリスはあきらめてジラルダを追って船室へ入った。タラップではイクシオンが突風と強風に飛ばされないようしがみつき、全身の傷に顔をしかめている。

 それぞれの時間が、舟の上でゆったりと過ぎようとしていた。


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