五、虹の大地




 ジラルダは雨上りの甲板から大陸にかかる虹を見上げていた。二時間前に発ったばかりなので、まだレンゼルド大陸の影は濃い。砂漠の黄色い風が彼方に見える。

「……」

 イーリス―――――唯一この世で愛した女性ひと―――――。

 死んでしまうにはあまりにも早すぎた。あの日々、ただ彼女の幸せだけを願っていた。

 しかしもう彼女は―――――……いないのだ……。




                    9



 言語魔術師とはそもそも、言霊を使って魔法を使う者たちの総称で、普通の魔導師だとか魔法使いと呼ばれる者たちとは異なる戦い方をする。彼らは《ア》から《ン》までの五十音字に分けられた言葉を使って魔法を使うが、この魔法とは魔導師たちのそれのように奇想天外なものは一切ない。というのは、言語魔術師は五行、つまり天地の間に循環流行して停息しない木、火、土、金、水の万物組成の元素を使った魔法を使用するからである。

 そういう意味では、その場所の特徴に応じて地理魔法を使う風水師のそれにもよく似ている。彼らの場合木にあたるものを風とし、自分の専門とする言語に与する魔法を使うのだ。その意味では敵対する場合魔導師たちよりも恐怖の度合いは強いのだが、逆に何の専門かわかった時点、あるいは詠唱だけを聞き取って専門属性を見破られてしまうと、逆に火には水、土には火の属性で対抗されてしまうという弱点も、彼らには見られる。

 言語には、それぞれ《ア》行地属性、《カ》行火属性、《サ》行水属性、《タ》行金属性、《ナ》行風属性、《ハ》行風属性、《マ》行金属性、《ヤ》行水属性、《ワ》行地属

性という特色があり、相反する属性でなければ、魔術師たちは実力に応じて複数の言語を専門にすることを可能としている。

 先日のイクシオンと名乗った男の詠唱の内容を考えてみると、彼は風属性と火属性を専門とするようだ。《ナ》、《カ》、《ハ》、同じく《フ》、 《ラ》・・・・・・合計で五つの言語魔法を使用していた。

 そして恐らく彼の駆使する呪文はこれだけではないだろうとジラルダは言った。これらはすべて攻撃主体のもので、言語魔術師は必ず守りの言葉と癒しの言葉くらいは習得しているだろうと。しかもあれだけの実力を持つ男ならなおさらであった。あの神殿の崩壊にあたり、下敷きになったこともそれで助からないことも予測しないまでも当然のことであったが、しかし、

「恐ろしい男がいたものだ」

 ジラルダはそう呟いた。

 『奇跡のジラルダ』にそう言わせるなんてね―――――アステリスは密かに心中で感心すらしていた。ジェヴェイズまでは船で約一か月近くかかる。アステリスは休暇を自ら決め込み、一日中船室で寝たり、身体がなまったかと思う頃になるとのっそりと起き上がってきて「普通の」剣を借り、船内の道場で一人稽古に励んだりしていた。フェクタはものめずらしい船のなかを終始あちこち探険し、ジラルダはいつものように静かだった。もっぱら親しくなった船長から借りた本を読むことに従事しているようだ。

 アステリスは甲板から海の平野を見つめ同じように海を見つめているジラルダをそっと盗み見た。

「ねえねえ……」

 アステリスは縁に寄り掛かり手を置いたうえに顎を乗せて尋ねた。

「なんだね」

「その……でジェヴェイズから出ちゃったの? まああんたの性格からいって王様も貴族さまもあんまし似合わないけど……でも王様でなくたって、あんたやっぱり貴族の男っぽいよね。苦痛ではないみたい」

 ジラルダには貴族の人間としての礼儀が染みついてしまっている。それを言っているのだろう。なんで? 聞くアステリスに、ジラルダはふふと口元をゆるめて海を見たままこう答えた。

「自分が……嫌になったのだよ。大切なものひとつ守り通せなかった自分がね。あのままあそこにいるのは苦痛だった。結果として私は逃げたのだよ」

 大切なもの……イーリスとかいう女性のことだ。アステリスは直感した。しかしそれを言うことも、なぜ彼女が死んだのかも、アステリスには聞けなかった。誰にでも踏み込まれたくない聖域、聖域であるにも関わらずどろどろとしたものが、必ずあるのだ。

 アステリスは黙って海へ視線を戻した。

 ザ……

 海だけが変わらない。誰に言うでもなく、ジラルダは小さく呟いた。


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