ニ、砂漠のアステリス 3

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 次の日の昼までにすべての準備を終え、アステリスはリレンを発った。食糧、水などを改めて補給しここに残るというイアネイラ嬢の護衛の委任の件などを準備したのだ。最初はジラルダに残らせようと思ったのだが、彼は自分についてくるつもりらしいし、それを黙認はしても、彼をここに強制して残らせることはそんな権利がない以上、アステリスには何もできない。それに悩んでいると令嬢がこの街の警備隊を雇うと言ってアステリスの負担を和らげた。そんなことができるのかいとアステリスが言うと、魚心あれば水心ありですと令嬢はさらりと答えた。

 まったく、とアステリスは内心で舌を巻いた。十八で自分のように血生臭い傭兵家業をしている者もあれば、この令嬢のように大して年齢も違わないうちからこんなことまで一人でできてしまう者もいるのだ。人は、アステリスの年齢を聞くと目を剥いて驚きを顕わにする。しかし、この令嬢と比べれば自分はかわいい方なのではないかとチラリと考えてしまう。

 アステリスは再び出発した。

「急げば三日で着く」

 アステリスは騎乗でそう言った。そこからは時間もないために鳥駱駝を走らせていたが、ジラルダはぴったりくっついてきた。フェクタもだいぶ慣れてきたのか、今は視線を前に馳せ目を輝かせるほどまでになっている。リレンは砂漠のほぼ真ん中より少し北西に位置する街で、砂漠もこの辺りまで来ると砂ばかりの風景ががらりと変わってくる。砂丘の向こうに岩陰がちらほらと見えてくる。岩陰はやがて見上げるほどになり、大きいものになると影で旅人が休めるようなもの、太陽が隠れてしまうほどのものもあり、見るものの目を楽しませる。遠くからそんな無数の岩をながめていると、さながらそれは自然の造り上げた芸術、厳然としていて静かで、気が付くと息をのんでみとれている、そんなことがたびたびあったりする。巻き上げる砂、それによって作られる不可思議で不作為の風紋、砂漠は混沌と崇高と死と再生の土地。空青く、雲も飛ぶ鳥もいない、ただ地平線だけが見える世界、こんなところにずっといてはきっといつか狂ってしまう。

 しかしそんな砂漠に圧倒されるようなこともなく、ジラルダもフェクタも静かだった。

 ただ時々、やはり目前に広がる一枚の絵にみとれて、アステリスに、なにやってんだいほら、行くよと言われたことは、何度かあったようだが。

「にしても強気な令嬢だよね…………」

 アステリスは空を見上げながら感心したように呟いた。

「ありゃ相当やり手だよ」

「うむ。それに美しい。本国では引く手数多だろう」

 アステリスはちらりとジラルダを見た。

「ふーん…………」

「なんだね」

「あんたでも女に興味あんのかあ」

 当然のことをアステリスはしみじみと言った。しかし今までのジラルダの行動言動を見聞きしていれば仕方のないことではあるのだが。

「それはそうだ。私も生身だからね」

 ジラルダは淡々としている。瞳は前を見据えたまま。

「ふーん……じゃ、国に残してきたひととかいるん?」

「いたよ」

「……なんで残してきちゃったのさ」

「死んだ」

 変わらぬ口調でジラルダは言った。フェクタは彼を見上げアステリスは彼を見た。表情は変わっていなかった。瞳も、怒っても、悲しくも、遠い日々を見つめてもいなかった。

「………………」

 アステリスは一瞬何も言えなかった。これだけ淡々とされていれば聞いたこちらもそんなに悪く思うことはないはずなのに、ジラルダが淡々としているがだけに、なにか不気味で、仮面のようなものを感じてアステリスは、気軽にそんなことを聞いた自分を悔いた。 そして彼女は小さく言った、

「……ごめん」

 するとジラルダも初めて空気を重くしたことに気付いたのか、顔をあげてアステリスに向き直った。

「おや気にしたかね。何も君が謝ることはない」

 相変わらず淡々としていた。アステリスはひどく不安な気持ちに駆られて、それがなんでか自分でもよくわからず、そのあとはずっと黙りこくっていた。

 夜になって火を焚き、簡単な食事が終わっても彼らは口を閉ざしたままだった。ただこの場合は、アステリスは相変わらずひどい不安を全身に覚えていて、ジラルダは生来無口で、フェクタは口がきけなくて、という、一人一人がまったくばらばらな理由で会話がなかったためであり、アステリスが不安に思っていることが直接材料になっているわけでは無論なかった。

 ジラルダは掴みにくい男だが、本当に言いたくないことは口には決して出さない男だ。それが例え些細なことでも彼には例外がない。愛した女が死んだことが些細なことかどうかは彼が決めることだが、もしアステリスに気を許していないのならそんな事実すらも彼は口の端にものぼせなかっただろう。

 空気が澄んでひどく寒い夜だった。マントを引き寄せて火に近寄っても震えが止まらないほどにその日は寒かった。アステリスはブル、と微かに震え両手で己れを抱くようにして身を固くした。じっと炎を見つめていたジラルダはフェクタを膝に乗せていたが、顔を上げてアステリスの注意をひくと、

「どれ、こちらへおいで」

 と淡々と言った。アステリスは最初ぎょっとしたが、深い意味はなく、自分が寒がっていることがわかって言った言葉なのだとわかって安心したようだったが、それでもすぐには側に寄ることはできなかった。それは、一つには女としての警戒が、もう一つは、まだ彼女としては先程のことを気にしているため、口をきくのが申し訳ないと思うのと同時に、なんだか側に寄ることすら今は悪い気がしたというのもある。しかし寒さと、一度片膝を上げて側に行くことを了承したポーズをとったことと、フェクタとジラルダの集中する視線に結局負けて、アステリスは立ち上がった。

 アステリスが不器用に隣に座るとフェクタが彼女にすり寄ってきた。フェクタは温かかった。するとジラルダが片手を広げてマントを広げ、そのままアステリスをフェクタごと包み込んだ。

「……」

 あにすんだよっ! アステリスは怒鳴ろうとして、その暖かさと、しがみつくようにして自分にすりよるフェクタのその手のちからを感じて、見事にタイミングを逸した。

 肩にまわされたジラルダの腕は力強く、温かかった。不思議とどきどきはしなかった。

 ジラルダは彼女にとって「男」というより「戦友」の感覚に近かった。そして気が付くとアステリスは、その戦友と不可解な不思議な力をもつ少女と川の字になって砂の上に転がっていた。目の前一面が砂を散らしたような凄まじい星空だった。

「…………」

 アステリスはその美しさと壮大さにしばらく息を飲んで絶句していた。

「美しい」

「…………」

「こうして空を見ていると、いかに自分が生かされているかを思い知る。そう思うと、たいていのことには寛容になれるものだ」

「……―――――……」

 この男のマイペースというか、決して誰にも正体を掴ませないような緩やかさは、こんな果てしもない考えから及んでいることなのだろうか。アステリスは、大切な人という、

死んでしまった女性の死もあまり気にしていないようなのはそんな考えからなのかを聞こうかとも思ったが、すぐにそんなばかげた考えはやめた。気にしない訳がないのだ。アステリスはプライバシーには敏感で通しているので、そんな誰かの傷口を無神経という名の刃でえぐるような真似だけはしたくなかった。それが傭兵稼業に生きるアステリスの信条である。そんなアステリスの心を知ってか知らずか、ジラルダは続けた。

「アステリス……・・よい名だ。古い言葉で『星の国』という意味だよ」

「…………」

 なんといっていいのかわからなかったので、アステリスはただ、

「ふーん……知らなかった」

 とだけこたえた。ジラルダの視線はただ一点、星空を凝視したままだ。

「…………同じように古い言葉で『虹』という名の女性がいたよ。イーリスという名だ」

 アステリスはぎくりとしてジラルダを見た。黒い瞳は銀の星々を映して人間の瞳ではないかのように見えた。息が止まると思うほど、それは真剣な瞳だった。そう、恐いほどに。

「―――――」

 直感でそのイーリスという名の女性が、ジラルダがかつて愛しそして死んだ女性だということを思いついた。しかし今のアステリスには、いやこれからも、そのことでこれ以上彼の過去に土足で踏み込むことはできない。だから仕方がなく、こんな言葉も言い方も似付かわしくなく、ひどく無神経かもしれず、我ながら気が利かず不粋だとは思ったのだが、とにかく他に言葉がなかったので――――アステリスは言った。

「きれいな名前だね」

 するとジラルダはふふと口元で笑ってそして言った。

「私もそう思う」


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