ニ、砂漠のアステリス
奴隷商人の隊商を襲撃した一件から数日経った。アステリスの家というのは本当に存在するのかと思うほどの遠い道程、それらしきものの影はいっさい見えず、常人ならば本当に家などあるのかと詰問し迫るところだったろうが、ジラルダはいっさいそんなこともしなければ、考えもしなかった。彼は今この状況を楽しんでいるようでもあった。経験できるものなら臨死体験だって進んでやりたがるような男であるから、後悔というものを生まれてこのかたしたことがない。また無心を保っていられるのもそんな彼ならではのことだろう。が、アステリスにはそれが時々苛立ちのもとになることもある。何を言っても暖簾に腕押しとはジラルダのことを言うのだろう。アステリスがジラルダと共にいるこの数日間、彼女が何度こいつは本当に本物の『奇跡のジラルダ』だろうかと思ったかは、今もって謎であったし、またこれからもそうだ。
次のオアシスがどれくらい先か、尋ねるか言うか以外は、彼らはほとんど口をきかなかった。別にきまずいというわけでもない。砂漠は、ひとを物思いにふけさせる。
知らず知らずうちに自分の世界だけに入ることができ、人間はそこに安心を見いだす。 星は冴え、月は照り、太陽は爛々と、ただありのままを砂漠の上ではさらけだすかのように、人もまた砂漠では裸のままの自分をみつけることができる。
そうして砂漠に入って早くも二週間が経とうとした時、アステリスは、はるかかなたで凄まじい砂煙を見た。額に手をかざし目を細める。
「また奴隷商人かね」
「いや……」
アステリスは低く呟いた。手をかざしたまま左手ではぐっと手綱を引く。
「違う」
言うや、彼女は次の瞬間走りだしていた。予想していたのか、ジラルダはすぐに彼女を追った。砂煙の正体―――――それは、襲撃される一台の馬車が、盗賊たちに必死に反撃をしようとしているものだった。騎士たちが五人、血まみれになって馬車を取り囲んでいるが、それをさらに囲んで彼らを狙っている盗賊の数は三十を軽く越えていた。馬車はしっかりと作られているが、騎士たちの必死の様子から、中にいるのは女と容易に想像できた。
(チャンス)
アステリスの瞳が爛々と輝いた。馬車に近寄る彼女の目の前で今、馬車は大きく傾げ、中から柳の木が倒れるようにして一人の女性が転がり落ちてきた。騎士たちは青くなり、口々に姫! と叫んでいる。アステリスは鳥駱駝から転がり落ちるようにして飛び降り、真っ先にその女性のもとへと行った。砂煙がすごくて、まだ盗賊たちは彼女に手が出せないでいる。
「あんた」
アステリスは彼女ににじりよった。白い服を着て、髪は金だ。
「え、あ……は、はい」
彼女は明らかに動揺していた。馬車から転倒して恐ろしいやら何やらで気が気でないというのに突然おかしな女が現われてにやにや笑っている。動転して当たり前である。
「気の毒だけどあんたの護衛はもうそうはもたない。そこで相談だ。あんたの生命を助けてやったら、セルティバッツァ金貨十枚、払えるかい」
女性は突然のことに戸惑ってなんと答えていいのか、はっきりわからないようだった。そしてその時、ジラルダが追い付いた。
「フェクタ、ここにいなさい」
しばらく離れた場所に駱駝を止めると、ジラルダは降りていきなり飛んだ。助走もなく足場の悪い砂地で、彼は見ていたフェクタが太陽を見てしまうほど高く飛んだ。そして騎士たちに襲いかかろうとする盗賊と騎士との間に割って入ると、腰の両側に差していた剣をシャッと抜いて逆手に取った。
「な、なんだてめえ」
「!? ……お、お手前は……?」
「ジラルダ・リシュリュー」
ジラルダは低く言った。その視線は帽子の影に隠れてよく見えない。
「助太刀いたす」
言った瞬間、ジラルダの目の前が斜めに交差して光った。なにも見えなかった。まるで細い細い糸を切るかのように彼はただ剣を降りまわしているようにしか、見えなかった。 が、もし見えればそれは、どちらかの剣で敵の攻撃を受け、同時に片方の手でとどめをさすという凄まじい戦いぶりであった。両脇から同時に攻撃されても一瞬剣で切っ先をするりと躱され躱されたその剣で盗賊は喉元を貫かれた。まさに繊細流華というべき剣技であった。そしてアステリスは、晴れてくる砂煙、迫りよる殺気を感じて、尚も女性ににじりよっていた。
「さあ返事は!? 払えるかい!」
「は、はい」
「もう一度 ―――――払えるのかい」
「セルティバッツァ金貨十枚―――――」
女性はこくんと息を飲んだ。
「はい」
〈録音完了〉
ギラリ、とアステリスの瞳が光った。
腰の柄へ手をやり竜牙剣を引き抜く!
「よっしゃあっ!」
――――― ザン!
ズザア!
たちまち凄まじい突風が彼女の周囲を覆った。竜の牙の剣―――――竜牙剣は、全長で二メートル以上、刃幅二十センチもある超大型剣なのだ。それを両手で軽々と降り上げると呆気にとられている女性に、
「下がってな!」
叫ぶと、とんと飛び上がって大上段に構え、アステリスは眼下の盗賊の脳髄めがけて容赦なくザン! と降りおろした。返り血と飛び散る脳漿にも構わず、アステリスは狂気の光を目に浮かべて剣を降り回した。竜牙剣は体力腕力の他優れた剣の技をもっていないと使いこなせないものとされている。ただ降り回すのなら愚鈍な大男にもできるが、しかしよけられたり、また段々と腕が痺れて降り回す腕に速さや力強さがなくなったときこそが、戦場では命取りになる。いかにこの重量の大剣を実際より軽く使いこなし、自分の武器であるのと同時に盾にするかは、その者の腕次第なのだ。
アステリスの剣技は見ていて気持ちのいいほど豪快で、そして冷酷だった。しかしそれが気にならないほどの鮮やかさだった。無敵豪快の剣技と言われる所以であろう。
気が付いた時には戦闘は終わっていた。呆気にとられて見ている女性と、わずかに二人残った瀕死の騎士、少し離れたところから静かな瞳で戦いを見ていたフェクタ、そしてジラルダとアステリス。
アステリスは返り血で真っ赤になった全身を厭いもせず、剣を下げたままジラルダの方を振り返ってにやりと笑った。
「おっさん。けっこうやるじゃん」
「…おっさん…私はそういう目で見られていたのかね」
「なに、拗ねてんの?」
アステリスは機嫌がいい。彼女は強い奴が大好きなのだ。こんなに鮮やかな技は見たことがないとでも言いたげな、清涼とした笑顔はしかし、返り血と飛び散った脳漿にまみれて、気絶しそうに壮絶だ。
「ん?」
腕になにかまとわりつくから、なにかと思って糸のようなものを引っ張ると、千切れた神経とそれが支えていたであろう誰かの目がぶらさがっていた。
「ああなんだ目玉か」
アステリスは言うとけらけらと笑った。
「…君は…」
さすがのジラルダもこれには呆れている。この男の神経も相当図太いといわねばなるまいが、それをしっかり見ていた女性は、それが限界だったのか、その場にばったりと倒れてしまった。
「あり……しまった忘れてた」
フェクタがジラルダに走り寄ってきた。アステリスは依頼主となった女性のもとへ近付いていく。フェクタはジラルダの傷の具合を気にしているらしく、しきりに彼の膝を叩いていたが、彼がそれに気付いて優しく抱き上げ、
「大丈夫だよ」
と言うと、目に見えてほっとしたようだった。ジラルダは傷ついた騎士たちのもとへ歩み寄った。
「う…………」
「これはひどい……」
ジラルダは眉を寄せた。
「すぐに手当てをしなければ」
言うとまず彼は二人に水を飲ませてやった。血を大量に流すと人間は喉が乾いてくる。
しかしこれだけではどうにもならないのはよくわかっている。血を止めなければならない。が、傷は意外に深く、慣れたジラルダすらをも手間どらせた。近寄ってくるアステリスに、顔を上げて手伝ってくれと言おうとしたとき、フェクタがそっとしゃがみこんだ。
「おっさん、あっちの令嬢は無事―――――」
言いかけていたアステリスも言葉を一瞬失った。
フェクタは、両手を騎士の傷にかざすと青い瞳をじっと閉じて祈るように顔を空に向けた。つられてアステリスが空を見上げて何かあるのかと思ってしまったほどの静けさであった。
「フェクタ……?」
アステリスは、僧院にでもいるのかという錯覚を起こしたという。ジラルダは、まるでその光が夜明けのそれのように強烈に美しく崇高だったと言っている。何も知らずに治療を受けた騎士の片方は、まるで母親の胎内にいるような心地よい暖かみが傷口に集中していたとも、もう片方の騎士は春の午後にうたたねをしているかのような気持ちのよいものであったとも話している。
とにかくフェクタの両手から瞳と同じくらいに濃い青色の光がもれはじめ、見る見るうちに騎士の傷口を覆うと、傷のある部分に対してだけは特に集中して色が濃くなり、それは黒にも、紫にも見えた。一瞬のようでも、また永遠のようにも感じられたが……―――――気が付いた時にはフェクタの両手から光は消え、騎士の傷口は少しだけ塞がっていた。少なくとも止血は完全にできていた。
「な…………なんなの」
アステリスは絶句した。いい加減薄気味の悪い子供だとは思っていたが、まさか治療の術を持っているなんて。しかし口が聞けない以上は今のは魔法では絶対ない。魔法というのは言霊の力が絶対なのだ。言葉の力を借りずに魔法を使うことのできる生物がこの世にいようか? アステリスは心底気味悪くなるのと同時に、先程見た光の崇高さに心のどこかでそれを否定しもしていた。
「ふむ…………実に興味深い。君はいったいどういう場所の出身なのかね」
ジラルダの間の抜けた質問の前に、アステリスは自分のどうでもいい猜疑心や恐怖が音をたててしぼんでいくのを嫌と言うほど実感した。
ジラルダの言葉に、フェクタは無邪気に微笑んだ。そうしていると、本当にただの無垢な少女にしか見えないのだった。
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