一、奇跡と呼ばれた男 2
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二人はしばらく無言だった。アステリスもジラルダも、長い沈黙に耐えきれなくなるような人間ではなかったので、砂漠に入ってなお、それは変わらなかったが、アステリスがちらりと彼を盗み見た限りでは、彼はまったく別のことを考えているように見えた。遠いというよりは、どことなく近寄りがたい瞳をしていた。
「……砂漠に来たことはあんのかい」
アステリスはまだジラルダを掴みきれないままそんなことを尋ねた。突然自分の存在を侵されるようなおかしな気分になったからだ。
「―――――いや。なぜだね?」
しかしジラルダは、アステリスのどうにも絶望的な、呆れ果ててなにも言えないくらい呆れ果て、深くうなだれた姿を間近に見ることになる。
「具合でも悪いのかね」
「ち……違う」
アステリスは辛うじて答えると、ふう、はあ、とため息を大きくついて、空を見上げると、もう一度大きく深呼吸して、ジラルダのほうをキッと睨んだ。
「あんたねえ! 砂漠がどういうところか知ってんのかい!? 砂漠に来たことないってことは、なんの支度もしてこなかったっていうの? 死ぬよっ!」
「そんなに大変なのかね、ここの生活は」
「まあ他の大陸ならいざ知らず、このレンゼルド大陸の一番苛酷な土地だもの。レンゼルドで一番苛酷ってことは、世界で一番苛酷ってことさね」
「ふむ。それくらいはわかる」
「! ……だったら、それ相応の支度をしろっての」
「支度……とは」
「防寒防熱のマントとか、水とか、砂漠で必要不可欠のものとか」
「……ふむ。マントは最初からこれでいいとして・・・水はたっぷりある。この二つさえ揃っていれば砂漠では大丈夫と聞いていたが」
「それは砂漠をよく知らない人間の買い被り。なめてかかるととんでもない目に遭うよ」
「ふむ。まだ遭ったことがないのでな、とんでもない目というのは。一度遭ってみたいものだ」
「! ……」
この男、からかってんのか、とアステリスはもう一度怒鳴ろうとした。が、
「その時は君に用心棒を頼むとしよう」
ジラルダのこの一言で、今度こそ呆れて、とうとう何も言えなかった。
その晩夜も更けた頃二人はそれぞれ砂の上に降りて火を起こし、向かい合って眠った。
不寝番は、アステリスがした。本当は、女性にそんなことはさせられないと、(アステリスにとって)わけのわからないことを言うジラルダ当人がしようとしたのだが、初対面の人間の前でのうのうと寝られるほどアステリスは人間ができていなかった。で、顔を上げて見てみると、ジラルダは自分の腕を枕に、すやすやと眠っている。呆れ果てた男である。それでも一度、本当に目の前の男があの『奇跡のジラルダ』かどうか確かめたくなって、二時間ほどした時に殺気を発してみたのだが、その途端眠っている彼の身体がぴく、と動いたのには、さすがに感心した。発した殺気が微量だったからこそだが、本気で斬りかかろうとしたら、いったいどういう反応だったのだろうか。それはさすがに恐ろしくてできない気がした。
しかし、奇妙な男である。『奇跡のジラルダ』というより『奇妙のジラルダ』のほうがあっている気がする。
その生い立ちを聞いただけでもおかしな男だと思った。そして今、目の前にいて話を聞いているだけでも妙な奴だと痛感する。自分に自信があるのか? 単に能天気なだけなのだろうか? しかしただの能天気ではあの数々の逸話は生まれまい。
ジラルダ・リシュリュー。
奇跡と呼ばれた男。彼の剣士としての名前を最初に世に出したのはファマリィの虐殺事件だ。七百人にのぼる村人を虐殺した二千の大盗賊団ラッセルからファマリィの住民を守るため、たったひとりで立ち向かい、全滅せしめたという。その流れるような剣技の数々は繊細流華、水のごとしとまでいわれ、以後急速にあちこちの土地に出没しては、人間離れした技で人々を救済し続けているとか。また有名なのはウィネ海の怪物退治で、四十メートルという巨大な海の大鯰を、あろうことか人間に不利な水中で倒そうと試み、見事討伐して生還したという。あのリケイレスの大樹海を道標なしに通りぬけたとか、ゼノイの洞窟に入って子供を助けたとか、嘘みたいな話がいくつも傭兵仲間から聞かされているが、どれも信じがたい割に、ひどく話が細かくて信憑性のあるものばかり。アステリスはそんな凄い男が、本当にこの能天気な男なのだろうかと思ったが、いざ戦いとなると人間が変わるという者もいるのだし、深く考えないことにした。アステリスは自分が損しなければ別に側でなにをされようと構わないのだし、それにもし本当にこの男が砂漠でやばくなったら、彼の言葉通り報酬しだいで助けてがっぽり頂いちゃおうとまで、アステリスは思っていた。もとが貴族なのだし、ああ言った手前はかなりの金持ちのはずだ。
しかし、この男との旅が、これからのえらいはた迷惑な旅の始まりだとは、さすがのアステリスも考えようはずがなかった。
翌日二人は出発した。
「そういえば聞くのを忘れていたが、君は何しに砂漠に入ったのかね?」
アステリスはじろりとジラルダの方を睨んだ。
「……あたしがなんで『砂漠のアステリス』っていわれてるかわかんないの」
「考えたことはなかったな」
じゃあ考えろどあほう! と怒鳴りかけたが、アステリスはぐっと言葉を飲み込んだ。
「簡単だよ。砂漠に住んでるからさ」
「なるほど」
ジラルダも淡々としたものだ。
「しかしなぜ砂漠に? 苛酷すぎやしないかね。もっと他に生活しやすい場所があるだろう。例えばナイウェの大森林とか、イーフェン大陸には湿地帯がある」
「いい質問だね」
アステリスは珍しくふふと笑った。汗ばんだ額にはりついた髪が、ふりむいた拍子にさらりと風をはらむ。
アステリスは彼方にゆらゆらと蜃気楼揺れる砂に目を馳せ、眩しげに目を細めると、水を一口飲んで言った。
「まずね。砂漠に住んでたりすると、わざわざあたしを殺そうとする人間が減るわけよ。 こういう商売してるとね、色々人の恨みかったりするから」
「違いない」
「ちっ、フォローしなよ。まあいいや、とにかく、アステリスはどこにいる、砂漠だとわかった途端に、やる気をなくす人間が十パーセント。根性出して砂漠まで来るのが十五パーセント。で、この十五は途中でのたれ死にの数にも入ってるわけ」
「残りの五パーセントは」
「返り討ち」
アステリスは淡々と言った。ジラルダは思わず吹き出したが、アステリスは今度は何も言わなかった。
「それに……砂漠はきれいだよ。人は嫌うけどね。こんなきれいな場所はちょっとないね。 あたしは世界のあちこち旅してまわってるけど、砂漠よりきれいだと思った場所はまだない」
「ふむ。世界で一番苛酷だからこそ、一番美しいというわけか」
「詩人だねえ」
皮肉げに言ったが、ジラルダにはそれも通用しなかった。知識人は嫌味なく学を披露し、また皮肉にも通じないものなのだ。
しかし、とアステリスは思った。
(こいつ全然へこたれないなあ)
時間は一番苛酷な土地の一番苛酷な時になりつつある。一番太陽が熱く近く感じられる地獄の時。ジラルダの方をちらりと見たが、ちょっと顔に汗をにじませている程度で、無表情のままだ。ただ一心に前を見ている。銀の髪が時々涼しさを求めるかのようにに反射してキラと光る。一度だけ蜃気楼を見やって顔を上げたとき見えたその顔は、女たちが放っておかない類のものだった。瞳は鋭いが、人を安心させる光を放っている。自分は、異性としては惹かれないが、人間として放っておけない何かを持っている瞳だ。それが何かをまだ掴めずに、アステリスはこの男とまる二日供にいることになる。彼女としてはまったく珍しい限りのことだと言わねばならない。
「それで家に帰ってどうするつもりなのかね」
「さあ」
アステリスは本当にどうするつもりか考えていないらしく、肩をすくめてそんな質問されても困るとでも言いたげに息をそっとついた。
「まあ……しばらく休んで、色々補給して、また旅ぐらしかな」
「不思議に思っていたのだが多くの傭兵はみな君のように家を持たずに暮らしているのに君は時々とはいえそうやって家に帰る。なぜだね。刺客を避けるためなら家などないほうが却っていいのでは?」
「……いろいろ詮索好きなおっさんだなあ」
アステリスはさもうるさげに振り向いた。
しばらく彼女は黙っていた。しかし両者の間にきまずいものはなかった。ジラルダは大して期待もせずに沈黙を守り、アステリスは怒ったようにじっと前方の砂漠を睨みすえているだけだった。
「……旅っていうのは、帰るところがあるからするもんなんだよ」
しばらくしてアステリスは呟くようにして言った。その時になってやっと出た答えのようだった。恐らくジラルダに問われるまで、自身の中での家というものがなにかもわかっっていなかったのだろう。
「そうか」
ジラルダも低く答えた。本当は君の場合は旅というのではないのではないかねと尋ねたかったのだが、今度こそ姫君の機嫌が悪くなりそうなのでまた別の機会に聞くことにした。女性の機嫌というのは、むやみに損ねるものではないのだ。
両者の間にしばらく沈黙が保たれたまま、あとは大した会話らしい会話もなされないまま砂漠は再び夜を迎えた。が、その日はアステリスいわく、
「空気が澄んでいる夜」
なので、休まずもう少し進むという。澄んでいるとどうなのかジラルダには皆目見当がつかなかったが、アステリスがひどく疲れているようなので、質問は明朝に控え、黙々と彼女の後に駱駝を進ませた。
「―――――」
と、その時、ジラルダの研ぎ澄まされた耳、その肌、感覚のすべてが、それを捉えた。
ジラルダは突然駱駝を止めた。アステリスがその気配に気付いて、
「? どうした」
と尋ねたが、ジラルダは黙ったまま澄みわたった夜空を見上げ、じっとしている。
「?」
その時ジラルダは、確かに「別人」だった。
瞳を見開き全身を神経にし、感覚という感覚のすべてがそれ一点に集中する。今や彼は一個の人間というよりは一個の神経、存在自体が神経となって今、彼は彼の一部が捉えたものに大して全力のエネルギーを使って「集中」していた。
そしてそれは間もなくやってきた。ゆっくりと、しかしそれは遠いであるがゆえに。近づけば近づくほど、それが物凄いスピードを孕んでいることを知る。
「え……な、なに」
それが点ほどになって、ようやくアステリスの瞳がそれを捉えた。
ゥゥゥゥウウウ……
凄まじいスピードだった。さすがのアステリスも、その速さゆえ、そしてあまりの突然さゆえ、彼女は対処するということが頭に浮かばなかった。茫然としてそれを見つめるだけしかできなかったのだ。
ザッ。
ジラルダが勢いよく駱駝から飛び降りた。そして少し先の砂丘まで光のごと走り寄ると彼は空から落下してきたそれを、ほとんど勘で受けとめた。凄い落下音がして受けとめた
ジラルダもかなりのダメージを受けたようにアステリスには思えた。とにかくこの異常事態に彼女も鳥駱駝から降り、彼の側へ駆け寄った。
異常事態―――――そう、これを異常と言わずして何と言うべきか。空気澄みわたった砂漠の夜更け、空から何かが降ってきた。
「―――――何?」
アステリスは混乱した。
それは子供だった。まだ五つくらいのいたいけな少女。印象的な深い青の瞳。
空からの落下物は、そう、紛れもなくこの少女であった。
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