第39話 前夜

 王が足を階段に踏み出し、僕たちも彼に従います。温い風が上階から吹いていて、気温が熱を徐々に帯び始めました。

「やけに暖かいな」

 王の声が狭い通路に反響し、物の焦げる匂いが漂ってきます。手が僕の肩に置かれ、ヒサトが僕とシャマナを引き止めていました。

「危険です、恐らく」

「火事だ」

 僕は振り向き、火の粉が風に乗って、王の顔を照らしていました。煙が天井付近を伝い、視界が霞がかります。

「王様、出口は他にございますか」

「貯蔵庫に繋がる別の階段が、ある」

 彼は階段入口の扉を閉ざし、僕たちは登って来た道を戻りました。実験所に到達して、別の階段を上ります。

 貯蔵庫に辿り着き、王族や使用人たちが身を寄せ合っていました。血溜まりが床に点在しており、王が婦人に近寄ります。

「この血は、どうした」

「数人の使用人が、殺されておりました。恐らく、賊の仕業でしょう」

「死体は」

「一階の廊下に運び出しました。炊事場への扉は、閉ざしてあります」

 使用人の一人が、僕たちを眼差します。僕たちは暗い貯蔵庫から後退さって、階段を下り、貯蔵庫の扉が上方で勢いよく閉まりました。

「待ちますか」

 ヒサトが、石積みの壁に寄りかかります。僕とシャマナも体勢を楽にし、石は温さを未だに保っていました。

「霧雨なのに、火事なんて」

「火勢が、よほど強いのでしょう」

「その通りだ」

 実験所の壁が内側に吹き飛び、土煙が辺りに立ち込めました。煙の粒が地に落ち始め、襲撃者の輪郭が徐々に鮮明化します。

 壮年の女性が手の土を払い、もう一人が背後の穴から表れました。


「魔王」


 シャマナが、氷刃を構えます。

「貴方が、魔王」

「初めてか、貴様と合うのは。イオリ」

 魔王が紅紫色の剣を抜き、ヒサトを顎で指しました。女性がヒサトに向かって駆け出して、拳を構えます。

 彼女の拳が氷の盾を打ち砕き、破片がヒサトの方へ飛び散ります。彼の氷刃を前腕で受け止め、もう一方の手がヒサトの胴体に打ち込まれました。

 ヒサトの胴体がくり抜かれ、倒れかけている彼は氷柱を足へ纏って、魔人の頭部を針山の如き足で蹴り上げました。彼女の頭部が粉砕され、ひびの入った身体が塵に消えます。

 ヒサトは傷を修復し始め、霜が損傷を補い始めます。

「ほう」

 ヒサトを業火が覆い、彼が跡形もなく蒸発しました。霧散した粒子があたりに漂っています。

「シャマナ、だったか。彼は、死んだのかな」

「いずれ、復活しますよ」

「刃を降ろせ、死ぬには陰惨な場所だ」

 魔王は剣先を下ろして、僕たちの横を通り過ぎます。彼の背中を追い、鉄牢の間に来ました。

 魔王は剣をもたげ、紅紫色の剣身がより明るさを増します。剣先が鉄棒を焼き切り、格子が地面に倒れ落ちました。

「行け」

 中に居た人影が牢の外へ歩き始めて、階段の方へ向かいます。

「そっちは、やめておけ。横穴が、向こうにある。そこから脱しろ」

 魔人たちが包囲を変えて、実験所に駆け出しました。魔王は実験所の上り階段を進んで、しばらくして戻って来ます。

 僕は、彼と目が合いました。

「助けたいなら、行くがいい。私と同じ様に」

 上り階段を進んで、鉄扉の持ち手に触れます。熱い鉄が皮膚に貼り付き、扉は重く閉ざされていました。

 僕は力を入れ、扉を一気に開け放ちました。瞬間、火炎が僕へ向かって噴き出して、身体を焼き焦がします。

 身体を癒やし、折れ曲がった人々を内部に認めました。彼らを癒やし、昏倒して再び突っ伏していきます。

 僕は扉を閉め、背を貯蔵庫に向けました。シャマナと魔王が、実験室で対峙しています。

「では、行こうか」

「どこへ」

 魔王が、歩みを横穴に進めます。シャマナは、氷刃を下げました。


「西の果てへ」


 仄かな火がトンネルに連なって、僕たちが横切ると風に揺れます。道は所々で分岐し、灯火が闇の向こうに浮かんでいました。

「こんな場所が、あったなんて」

 シャマナの声が、岸壁に響き渡ります。魔王が、鼻で小さく笑いました

「貴様も、ここを通ったのかもしれんぞ」

「覚えてませんが」

「山越えできるものは、多くない。生まれたばかりで、記憶が朧げだったのだろう」

「つまり、私も西の果てから来たと」

「そうだ」

 魔王の背中が眼前を歩み、明かりに照らされては陰に染まります。

「全ての魔人は、西の果てから生じる。母なる大地、黒泥の産床。昔日に湛えられた暗夜。これから、そこに向かう」

「何のために」

「決着を付けよう。この、長きに渡る試合の終わりを」

 魔王が前に向き直り、僕たちの足音がトンネルに伝播します。

「あの」

「なんだ」


「帰りは、どうするんですか」


 一瞬の間が置かれ、魔王は高らかに笑いました。トンネルの灯火もまた、より明るさを増したように思われます。笑み声が足音に混じり、混じり合った音が洞窟の奥に消えていきました。

「勝つ気でいるのか」

「負けが決まった訳では、ないでしょう」

「その通りだ、面白い」

 魔王が忍び笑い、肩が震えています。

「面白いな」

「決戦だというのに、緊張しないんですか」

「しているさ」

 魔王の横顔が灯火に照らされ、整った歯が上がった口角の奥に覗きます。角膜に反射した鏡像が、火の輪郭に煌めいていました。

「悲しげな方が、良かったか」

「弔い合戦か、と思いまして」

「まさか」

 魔王が息を軽く吐き出して、片掌を仰向けにしました。

「我らは、死を恐れない。貴様も魔人なら、そうは思わないか」

「多少、共感はしますが」

「だろう」

 トンネルの床は傾斜を深め始め、僕たちは登り坂を進んでいきます。そして、まばゆい光が前方にちらつきました。

「そろそろだ」

 僕たちは、外光に一歩一歩近づきます。足元から伸びた影は輪郭を徐々に明らかにし始め、広がっていた闇が地下に置き去られました。

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