第33話 方向転換
馬車が霧雨の降る街道を走り、首都の西方関所を通過しました。灰白い雲が柔らかい影を東屋に落とし、僕たちは荷台から降りました。
「お二人共、お疲れ様でした」
ヒサトが微笑み、遊戯盤が東屋の机上に置かれています。彼は向き直って駒を動かし、盤を相手方に押して滑らせました。
「壁を壊してきたのですが」
「こちらでも確認できました。ケーナさん、通らせて頂けませんか」
魔人は、盤上をじっと見つめています。
「シャマナさん、新しい本をこれと一緒に首都で拾ってきました。良かったら、どうぞ」
ヒサトが卓上に積まれた本たちを持ち上げ、僕と彼女は受け取って馬車へ向かいました。
「ああ、それぐらいでしたら大丈夫です」
御者と別れ、本を荷台に下ろします。馬は、地面の水溜りを舐めていました。
「どうましょうかね」
「貴方の番よ」
ケーナが、遊戯盤をヒサトの方へ押し返しました。
「読み書きにそろそろ戻りましょうか」
「まあ、塔は普通二つありますよね」
「壁は、一枚ではないんですか」
シャマナが、氷遊びを始めます。彼女の作った蝶が、僕の指先で氷花に留まりました。
氷の微かにぶつかり合う音が、森閑に消えます。
「手がかりが、南方にあるかもしれません」
「そのようですね」
僕とシャマナは彼らと別れ、馬車が首都へ戻りました。
「夜までに間に合うでしょうか」
「修道院が、森林帯の手前に会ったはずです。一夜そちらで過ごしましょう」
御者が前方に向き直り、シャマナは煤を新しい本の表紙から払いました。
「どなたも、応じませんね」
シャマナが、手を修道院の木戸から下ろします。日がやがて暮れ始め、夜の帳が下り始めました。
湿った土を靴底から落とし、荷台に上がります。シャマナがページを捲る音が、夜中を刻みました。
僕たちは黎明を迎え、空の布が光を透かし始めます。馬車は修道院を後にし、道が森林に潜りました。
枯れ葉が路面や林床に満ちており、樹木が立ち枯れして白い蔦や苔を纏っています。そして、灰色の空が枝の隙間から覗いていました。
車軸の擦れる音が、ふいに消えます。
影が幌の前方、御者台に走りました。僕たちは、荷台から降りて運転席へ駆け寄ります。
氷の柱が人影から生えており、ぴしぴしと割れる音が聞こえます。そして、人影は土塊となって地面に崩れ落ちました。
短剣が、土の山に刺さります。僕は御者の様子を伺い、彼の体が切り裂かれていました。
霜が傷口を覆い始め、氷が徐々に穴を埋めていきます。
「襲撃者、だったようです」
口が御者のフードから覗いており、言を発しました。僕とシャマナは、後方に戻ります。
濡れた枯葉が車輪に絡みついており、葉を停車中に取りきって荷台に上がります。御者の合図が聞こえ、馬車は再び林道を走り始めました。
日が暮れ始め、馬車は木陰に停まりました。風が時折吹き、枝や幹を縫って風切り音を立てます。
森はやがて闇に溶け込み、微かに明るく青い光が林冠から漏れ込んでいました。月が、枝と雲の先で浮かんでいます。
翌朝に出発した馬車は森を午前中に抜け、関所が平野の向こうに見えてきました。石塀のあちこちが、崩れ落ちています。
馬車が市街地に入り、大通りを塞ぐ瓦礫の手前で停まりました。荒れ果てた建物が市道に並び、道路も所々が窪んでひび割れています。
僕とシャマナは、足を地につけます。
「ご案内できるのは、ここまでのようですね。南都庁舎が、通りの先にあるはずです」
御者に別れを告げ、瓦礫を迂回できる脇道を探します。僕たちは裏道に入って家々の扉前を歩き、くぐもった打音を聞きました。
「誰か、外に居るのかい」
弱々しい男性の声が、扉の向こうから響いてきます。
「もしかして、雨が止んでるのかい」
「まだ降っています」
「そうか」
扉が少し開き、やせ細った手だけが覗きました。
「どうか、水を恵んでくれないか」
僕は革袋を懐から出し、彼に手渡します。
「ありがとう」
戸が閉ざされ、錠のはまる金属音が裏路地に消えていきました。僕たちは向き直り、脇道を再び辿り始めます。
角を曲がり、開けた空間を道の先に認めました。歩を進め、大通りを塞いでいた瓦礫の反対側にでます。
僕たちは道なりに進み、道路に面した広場が表れました。石碑に南都庁舎と刻んであります。
庁舎も他と同じく瓦礫と化しており、広場にはただ霧雨が降りしきっていました。
「見当たりませんね」
僕たちは広場を彷徨い歩き、地図の残骸を見つけました。彼女が板を裏返し、塵と泥をそっと払います。
雨水や泥土が紙面を汚しており、全体像を辛うじて確認できました。
「南南西にあるのは、湖、でしょうか。大きいですね」
シャマナが地図を一通り眺め、体を起こします。僕は彼女の案内に従い、湖へ向かい始めました。
こもった波音が徐々に聞こえ始め、地上の空が建物の隙間から覗きました。道を抜けると、巨大な湖が全貌を眼前に表しました。
さざ波が水面に立っており、灰色の空を写し取っています。埠頭が湖岸の石垣から伸び、何艘もの船が停めてありました。
僕たちは石垣を貫く階段を下り、足を湖畔の砂浜に踏み入れます。足が濡れた地面に沈み、振り向けば足跡が道程を為していました。
そして、二つの人影を向こうの砂浜に捉えます。彼らは座って湖を向いており、僕たちとの距離が縮まると手を上げました。
「やあ、こんにちは」
僕は、不調を彼らの面に認められません。波が渚に寄せては返し、水の砕ける音が空に吸い込まれていきます。
「塔を探しに来たんだろう」
「はい」
「なら、ここだ」
彼らの一人が、湖を掌で指さしました。
「この湖の底、塔はその何処かにそびえ立っている」
彼が、ほんのりと微笑みます。灰色の霧雨が遥か遠くの湖面まで至っており、空と波の境界はお互いに溶け合っていました。
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