第31話 膜
地上は、相変わらず雨で満たされています。シャマナが手を荷台に付き、僕とヒサトは馬車に乗り込みました。
御者が馬を起動し、僕たちは手を教下隊の見送りに振り返します。そして、馬車が市街地を後にしました。
農地は放棄され、黒く溶けた作物で満ち満ちています。雑草すら雨水の行き渡った土壌には生えないようでした。
「何が、西にはあるんでしょうね」
ヒサトが、指先に作った結晶を眺めています。シャマナが、本のページを手袋の填まった手で捲りました。
「西都が、あるそうです。私も人の情勢には詳しくないのですが、一切の外交を拒絶し、町一体を囲む高い壁がその象徴として有名、だとか」
「魔王は、なぜそのような場所に」
「ジュネ、魔人の少年が言うには、魔人たちの楽園が西の果てにあります。西が、魔人たちにとって強い意味を持っているのかもしれません」
「シャマナさんも、何か思い入れが」
「いえ、特には」
彼の形作った結晶が、六脚の星に変わりました。
「白彗星様は東の地に落ち、影も光と共に生じた。明かりが及ばず、照らされなかった場所。そこが西、なのでしょうかね」
幾日か過ぎ、僕たちは首都の市街地西端まで来ました。馬車が街を抜け、全壊した関所だったものが道を塞いでいます。
「どかしましょうか」
僕たちは馬車を降り、町を囲む石塀沿いに歩きました。侵入経路であろう瓦礫のほとんどない箇所を見つけ、残った石木をどかします。
穴が、馬車一台の通れる大きさに仕上がりました。僕たちは馬車を御者とともに穴まで運び、塀を抜けて回り込んだ後に本来の道へ戻ります。
馬車に乗って道なりに行くと、一つの簡素な東屋が街道沿いに設けてありました。僕は一つの人影を屋根の下に認め、外の風景が止まります。
「皆様申し訳ございません、馬が進まないようです」
僕たちは御者の言を聞き、幌を潜って外に降り立ちます。馬車の車輪は回り続けており、前方の馬も足を定点で運び続けていました。
「あ、そこ通れませんよ」
僕は、東屋の人に顔を向けます。ヒサトが屋根の下に入ろうとし、直前で歩き続けました。
「すいません、雨宿りさせて頂けませんか。体が、冷えてしまうので」
「しょうがないですね」
ヒサトの足が、東屋の土台に踏み入りました。僕とシャマナも、彼に続きます。
机が東屋の中心に置かれ、四つの椅子が周りを囲んでいます。壮年の女性は 椅子の一つに座り、うつ伏せになって上体を天板に預けていました。
「それで、あなたは」
ヒサトが椅子に腰掛けようとし、足が椅子の手前で止まりました。女性はため息を吐き、外の景色を虚ろな眼差しで眺めています。
僕たちは長椅子に腰掛け、彼女と相対しました。
「西に行きたいのですが」
「無理です」
「なぜ」
「通れないから、ですね」
ヒサトが、指を卓上で組みました。
「僕は、ヒサトと申します。貴方の御名前をお聞きしても」
東屋の土台近くには水たまりができており、軒先から零れた雨垂れが水面を打ちます。屋根ごしの雨音が、くぐもって聞こえました。
「お暇ですか」
「はい、暇」
「シャマナさん」
シャマナが携帯用の図鑑を懐から取り出し、ヒサトに手渡します。彼の氷刃が僕を机の下でそっと傷つけ、流れ出た白い血が染みを紙片に作りました。
ヒサトはページを捲り、彼女が読めるように向きを変えて卓上に置きます。
「読みますか」
彼は、本を手で押さえて開いたまま尋ねました。彼女が、指を本に向けます。
女性の手が本へ近づくに従い、ヒサトの手は形を保ったまま後退していきました。彼女が、視線を染みに落とします。
「すみません、雨粒が染みてしまって」
「大ゲリール」
翠色の精霊が放たれ、机の上空で飛び続けています。そして、光は掻き消えました。ヒサトが組んだ指は、凍りついたように動いていません。
ページを捲る音が、雨音と混ざり合います。
「これ、なんて読むの」
女性が、文字列を指さして尋ねました。
「受け取ったら、与えなさい、と書いてありますね」
「本当に」
「ええ」
彼女は目を細めてヒサトと見つめ合い、深く息を吐きました。そして、布切れを懐から出して机に置きます。
「私、字が読めないんだよね」
「なるほど」
「で、この肖像画の人が来たら気を付けろとも言われてる」
僕は、彼女と目が合いました。
「それは、誰から」
「字が、読めないんだよね」
「はい」
僕は視線を横にやり、ヒサトは優しげな笑みを顔にたたえていました。彼女が、ページをパラパラと捲っていきます。
「私が、教えましょうか」
「いいよ、忙しいんでしょ」
「是非、教えさせてください」
女性は手を背表紙の下に挟み込み、本をぱたんと閉じました。
「そこまでしたいのなら、ご自由に」
ヒサトが、組んでいた指を解きました。手を本に伸ばそうとし、中空で止まります。
「通さないって。ここから地平線、そして、その先まで通れないんです」
「なぜ、でしょうか」
「通れないから、ですね」
ヒサトが、顔を此方に向けました。
「私は、ここに残ります。字を彼女に教えなければならないので」
「よろしく」
「お二人には南北を巡って頂き、突破口を探して頂きたく」
僕とシャマナは、席を立ちます。
「ああ」
女性が机に突っ伏し、外を眺めながら声を上げました。
「ケーナ、私の名前。街に行きなよ」
ケーナが上体を少し起こし、腕をシャマナに伸ばして手を広げました。
「教えた、でしょ」
僕たちは馬車に一旦戻り、数冊の本を荷台から運び出します。本を卓上に置き、彼女の方へ押して渡しました。
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