第3話

人を忘れる時は声から忘れる、という話をどこかで聞いた。

脳内に呼び起こせる忘却の境界にいる人々を思い起こせば、なるほど、それはあながち出鱈目でもないように思える。

例えば、幼少期に毎日見ていた朝のニュース番組のアナウンサーの顔は思い出せても、その正確な声の調子と言われると途端に自信がなくなってしまう。

白石灯火は、元々、人付き合いが好きな方ではない。

彼女が懐いていたのは親友である青波千冬と、淡い初恋を抱いていたその兄くらいのもので、他の交友関係と言えばクラスメイトと社交辞令をかわすくらいのものだ。

いつか、千冬の声も忘れてしまうのだろうか。

彼女の写真は何枚か持っているが、その声となると―。

灯火は不意に恐ろしくなった。

いずれそうやって何もかも忘れていくのかもしれない。

彼女の不在も、思春期の感傷の一つとして消化されてしまうのかも知れない。

……そんなことを考えながら、灯火は一人、繁華街を歩いていた。

昨日の今日の街である。

花々の痕跡も、炎の痕跡もない。

ゴールデンタイムの繁華街は人で賑わっていた。

魔法によって起きた事象は、世の中に痕跡を残さない。

多少の違和感も、そういうものとして曖昧に処理されていく。

こんな焦げ跡あったっけ、あったのかも知れないな、そういえば昨日どこかでサイレンが鳴っていたかもな……という具合である。

しかし、灯火は妙な胸騒ぎを拭えなかった。

〝分かる〟人間にしか感じられない、魔力の残滓が生々しすぎるのである。

怪物とは、人の祈り、願い、欲望が結晶したものである。

煮凝った欲望は魔へと変じ、〝種〟を元に肉体を得て実体化する。

だいたいは植物の形をしている。

『願い花』。

そんな風に呼ぶ者もいる。

だから、灯火は花があまり好きではなかった。

大抵の場合、その結晶体を吹き飛ばせば、魔力は霧散し消えてなくなる。

その残滓も、一晩もすればほとんど消えてしまう僅かなものだ。

しかし、今日のこの街に漂っている気配は、未だここに潜む何かの存在を明示していた。

それを感じたから、灯火は放課後、街に歩を向けたのである。

前例の無い体験だった。

3年前とは違う何かが起きている。

それが何なのかは、まだ分からない。

繁華街に怪物が出るのは珍しくない。

人が多ければ多いほど、欲望が渦巻いていればいるほど、その発生の頻度は高くなるからだ。

しかし―。

思考を遮るように、灯火を呼び止める者があった。

若い男が、ニヤニヤしながら灯火を見ていた。

夜の繁華街、時刻は23時前。

こんな場所を、そんな時刻に制服で1人彷徨いている女学生がトラブルに巻き込まれるのは無理からぬ話だ。

警察じゃなくて良かったな、と灯火は思った。

一度帰って制服に着替えれば良かったか、とも思ったが、16歳でも小柄で童顔な彼女がどんな格好をしていようと大して問題は変わらないだろう。

「君、どうしたの、こんな時間に」

「いえ、ちょっと、人を待ってて」

愛想笑いでそう答えた。

少し怯えた風を繕って、普通の学生であればそうなるだろう緊張感を持ってそう答えた。

「えー、酷いな、こんな子こんな時間に待たせるなんて」

男が、灯火の左肩に手を置いて、顔を寄せて小さく呟く。

「いくら?」

灯火が目を見開く。

男の言葉にではない。

その方に小さく根を張った、緑色の芽を見たからだった。

「――!」

不意に男を突き飛ばして距離を取る。

痛って…と呟いて灯火を睨んだ男の口から、疑問を含んだ呻き声が漏れた。

「え……?」

次の瞬間、男の身体を貫くように、巨大な植物が口から飛び出した。

その身体を花瓶のように、大きく開いた口を生け口のように数メートルの巨大な花は開き、周囲にその毒気を撒き散らす。

見れば、周囲の人間もバタバタと倒れ、その身体から緑色の鮮やかな芽が伸び始めている。

喧騒が悲鳴に変わる。

昨日の今日でこんな――。

灯火は思うが、思うより先にポケットのコンパクトを慣れた手付きで開き、その中心に白金の球体をはめ込んだ。

『change platinum』

「変身」

コンパクトのコールと共に、閃光と魔力が迸る。

コンパクトは宝玉から発する魔力を魔装へと変換し、人の身に人を超えた神秘をもたらす。

身勝手な願いを誅戮する為に選ばれし者に与えられる奇跡。

魔装外套『白金プラチナ』。

瞬間、灯火の足元から魔法陣が広がる。

それは巨大なコンロのように円形の炎を発し、周囲の花を〝種〟ごと焼き払った。

灯火は数十メートルも跳躍し、夜の街を空から俯瞰すると、空中に形成した魔法陣を足場に宙に着地した。

本体がどこかにいるはずだ、恐らくは昨日のと同じ個体。

仕留め損ねた?

……そんなはずはない。

〝再現〟された。

そんな感じがした。

俯瞰した夜の街には、死体を種として次々と願い花が開いていく。

昨日の夜のリプレイを見ているようだった。

違うのはただ一つ。

『向こう』が、最初から灯火を認識していたことだ。

突然、数十メートルの根の鞭が、横凪に灯火の身体を叩いた。

「なっ……」 

咄嗟に出した魔法陣の盾は粉々に突き破られ、勢いを殺しきれず灯火はそのままビルの壁面に激突した。

コンクリートの壁面にめり込んだ灯火が呻く。

間髪を入れずに、二撃目が放たれた。

灯火は上半身を前のめりに起こし、その巨大な鞭を正面から受け止めた。

予想通りというべきか、ビルとビルの間から顔を覗かせた鞭の本体は、昨日と同じ怪物だった。

ここにも、違う点が一つあった。

怪物から伸びる数多の触手に、まだ息のある一般人たちが宙吊りにされている。

人質?

そんな事は――。

今までなかった。

怪物は、基本的には知性を持たず暴れ回るだけの存在だ。

この夜を再現し、怪物を操っている何者かがいるのではないか。

そんな思考と同時に、現状をどう打破するかという難題が灯火の脳を走る。

助からない人間を躊躇なく焼き払う判断が出来る灯火だが、息のある人質を焼き払うのには躊躇いがあった。

怪物に囚われて吊られているというのは死んだと判断して大差ない状態ではあるが、仮に怪物だけを倒せたなら万一でも助かる見込みはある。

万一助かる見込みがあるなら、思考のリソースを割いて一瞬でも立ち止まってしまう。

それが分かっているから、あえて殺さずに盾として宙に吊っているのである。

かつて対戦した事のないタイプの怪物だった。

躊躇い、疑問、そんな思考の隙をついて、新たな触手が上から灯火を叩き付けた。

ビルは半壊し、地面に叩きつけられた灯火にコンクリート片が降り注ぐ。

「ぐぅ……」

コンクリート片の山の中から、瓦礫を跳ね除け顔を出した灯火を、至近距離で怪物が見下ろしていた。

怪物が口を開く。

そのまま上半身を噛みちぎろうと灯火に迫る。

巨体ではあったが、それは数秒に満たないアクションだった。



――不意に。

灯火は向かいのビルの上に、人影を捉えた。

月明かりを背にして、その細部は見えない。

人のシルエットだけが、月の円の中に浮いていた。

そして、それを、強化された灯火の動体視力は捉えた。

目の前に迫っている怪物が、もはや、灯火の目に入っていない。

その影が握っていたのは、彼女の親友だけが持っているはずのもう一つのコンパクトだった。


『change ×××××』


コンパクトはひび割れ、廃材を組み合わせたような得体の知れない数十センチの機械に繋がれていた。

末期の病人を無理矢理延命させているかのように、そのコンパクトからは痛々しく無機質な機械の管が何本も伸び、それが機械を通してコンパクトを動かしている。

ひび割れたコンパクトが、胡乱な機械仕掛けに無理矢理こじ開けられ、メリメリと音を立てて黒い火花を飛ばす。

中心の蒼玉が輝く。

懐かしい魔力の波形の名残と、その煌めきに似つかわしく無い漆黒の奔流が迸った。

「変身」

声は聞こえない。

そう言った気がした。

蒼玉サファイア』のコンパクトの澄んだ青空のようだった魔力は黒く捻じ曲がり、出力された魔装は人の原型を留めてはいなかった。

その外套の下にあるのは、灯火のような煌びやかなドレスではない。

漆黒のそれは、中世の甲冑のようにも、何か得体の知れない生物の骨格のようにも見える。

パクトから流れる魔力に合わせて生物的に脈打つその骨格を覆うように、黒い魔装外套が形成されていく。

〝完成〟したそれは、外界を一瞥すると、狂った獣のように咆哮した。


――魔装外殻『黒鉄くろがね』。

それは、慟哭のようにも思えた。

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