第14話篠塚さん、僕は信じていました

その日就業時間も終了し、人気のほぼなくなった室内で篠塚が庭に咲くひまわりを何の気なしに眺めていると、隣に人の立つ気配を感じ、視線を走らすとそこには猿谷が立っていた。

「猿谷さんまだいらっしゃったんですか」

「ええ。庭木の調子がどうかと思ったものですから。それに篠塚さんのお姿も見えましたし」

猿谷は同じように庭に咲いた花の方に目をやりながら

「今日は大変でしたね」

こんな末端の人間にまで話が聞こえているとすると、あの母親はだいぶ玄関で目立つ振る舞いをしたらしい。

「猿谷さん、今日のことは宇野さんが出勤したとき、彼女の耳には入れないであげてもらえますか」

管理者として表面上そう告げたのか、本心でそれを望んでいるのか、篠塚自身もよく分からなかった。

「職場に身内が来るというのは何でもない場合でもあまり気分の良いものじゃない。殊更あのようなお母さんが来られたと知ったら彼女も居たたまれないでしょうから」

宇野が居たたまれないとすれば、それは母親のことばかりではないだろうが、そこは敢えて伝える必要もあるまい。すると猿谷は先程とは声色を変えて

「篠塚さんはお優しいですね」

と言ってこちらを見やった。

心の底から労るような、子どもを見守るときの愛情のこもったような不思議な響きであった。

「そうでしょうか」

「ええ。普通あんなことをしてきた人間にそこまで親身に寄り添ったりはしません」

ふいの襲撃に篠塚は仮面を取り落とし、驚愕の表情を浮かべた。猿谷が言う「あんなこと」の意味が分からないほど馬鹿ではない。そして仮面を拾うことすら忘れて固まったまま男を見つめた。

「職員の間では持ちきりの話ですよ。と言っても男性職員の間だけですが」

真っ白になった頭で必死に何と切り返すか考えるが、悲しいかな、何も浮かんでこなかった。

「彼女少しおかしなところがありますよ」

猿谷はリハビリ用の手すりに僅かに体重を預けながら続ける。

「彼女、男性ならば誰でもいいんでしょう。少なくともここにいる男性職員全員に声を掛けていますよ。それに乗らなかったのは僕と篠塚さんぐらいでしょうね」

先程以上の衝撃を受けて篠塚は本当の意味で言葉を失った。猿谷の話が事実であるならばこのことを知らなかったのは自分だけということになる。他の女性職員のいる前で話題にできる話ではないにしろ、男性職員が篠塚にだけこの話題に触れさせなかったことに妙な悪意さえ感じた。無論自分はこのような話題を取り立てて面白がる性質でもなかったから、それも理由の一つではあるかもしれないが。

「それは知らなかった」

ようやくのこと篠塚は素の声で応じた。

「篠塚さんがどこまでご存知なのか分かりませんが、少なくともあなたがあの夜受けた仕打ちは表面的なことに過ぎないということです」

「猿谷さんはなぜそんな話を僕に?」

問われた猿谷は急に体ごと篠塚のほうへ向き直った。

「僕は信じていました」

言うなり篠塚の右手首を力強く握り締めた。その瞳に今までと違う熱のようなものが宿っていることに篠塚は気づいた。そして猿谷が自分の近くにいる犬飼に執拗に向けていた敵意の混じった眼差しを思い出し、その意味を悟った。

篠塚は反射的に手を引っ込め、自席の鞄を抱えるとすぐにタイムカードを押して車へと歩みを速めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る