第15話篠塚さんって本気で大事じゃない人には優しいんですね

あれほど嫌がっていたにも関わらず、篠塚は帰宅後、一度思い直して、宇野介護士の住むアパートへとやって来ていた。辺りはすっかり暗くなっており、独り身の女性の家を訪問するには遅過ぎる時間であったがあの飲み会の帰りほどに抵抗はなかった。程なくして短めのスカートを履き、キャミソールの上に薄手の上着をひっかけた露出の多めな若い女性がふらつきながら近付いてきた。

「宇野さん」

思っていた人物か自信がなく、多少語尾を上げて呼び止めると相手は目を見張って足を止めた。

「何ですか。今頃になって迎えにきたんですか」

込み入った話をするにはいささか距離が離れすぎていたが、夜の通りでは充分に声が届いた。相手は怒りを宿した眼差しでこちらを見つめている。

「いや。……酔っているのか」

「あなたに関係ないでしょう!飲むのも仕事なんです」

「無断欠勤の最中に飲酒で、しかも他のところで働いてるとは。辞表を提出してからにしろ」

「放っておいてください。……それとも何ですか。こんな私を見て気が変わりました?あのとき自分のものにしておけば良かったって」

 自嘲気味に笑って耳たぶについたピアスを弄る。

 篠塚はその姿から目を逸らさずに

「悪いが僕は君を連れ戻しに来たわけでも、あの夜の続きをしに来たわけでもない。ただ、君と話しをしに来た」

 はっきりと告げた。

 相手はそれには答えなかった。ただ

「中で話します?」

 顎を使って自室を指し示す。篠塚は無言のまま歩き続ける相手について行った。

室内に先に入ってから宇野は振り返りもせずに

「何のお構いも出来ませんけど」

と本当に何もせず、炬燵とデスクを兼用した机の前に腰かけて篠塚を向かいに座らせた。篠塚は腰かけてからすぐに

「今日君のお母さんと名乗る人が会社に来たよ」

告げた。

 ここで女は先ほどよりも目を見開いて明らかに動揺の色を見せた。そして殊更に篠塚に敵意を含んだ眼差しを向けた。

「だから?あんな母親を持って君も可哀そうだと慰めに来たんですか」

「慰めに来るほど君を許したわけじゃない。正直に言うとなぜここに来たのか僕にもよく分からない。ただ突然今まで知らなかった君の一面を見て、それと向き合うために来たのかもしれない」

宇野は背中を丸めたまま長い息を吐いた。

「私母みたいにはなりたくなくて頑張って資格取りました。それで就職もできてこれからだって思っていたのに」

「うん」

「……私まともに男性と会話できないんです。求められたら好きでもない男性とでも関係を持ててしまうんです。拒んだら嫌われてしまうんじゃないか、存在を否定されてしまうんじゃないかと思ったら怖くて」

「宇野さん」

「自分の存在意義が分からないんです。誰かが一瞬でも自分を求めてくれるならそれだけで安心するんです」

宇野は右目だけ涙を流して訴えた。そんな場ではないにも関わらず、篠塚は彼女の姿に「赤い鳥」の主人公を思い浮かべた。自身の存在を遺すためにただひたすらに異性を求めた男が重なる。

「私ショックだったんです」

女はまっすぐに篠塚を見つめると、あの夜と同じような声色で続けた。

「誘って拒否されたことなんてなかったんです。だからショックだった。篠塚さんこんな私にもいつでも優しくて、かっこよくて、だから余計つらかったんです。あの日横井さんが賭けを持ち掛けてきて、私そんなの応じるつもりありませんでした。横井さんは篠塚さんに対して僻みみたいな気持ちを持っているから、そんなの私どうでも良かった。でもあの夜篠塚さんとあんな雰囲気になって。それなのに感情に流されず理性でそれを押し留められて悔しかったんです。あんなことするつもりなかった。ただちょっとだけ仕返しするみたいな気持ちだったんです。意地悪したい気持ちになったんです。それがあんな風に篠塚さんの耳に入ってしまうなんて全然思わなくて」

「宇野さん、君の気持ちは分かったから」

「私冗談なんかじゃないんです」

宇野はあの日と同じようにすがるように言った。違うのはその瞳に媚びるような色がないことだった。すがるような目で必死に訴える。

「他の誰とでもなくて篠塚さんだから、あんなに腹がたったと思うんです。私篠塚さんのこと」

その後に言葉は続かなかった。女はその後を言い切らずに

「私じゃだめですか」

と訊いた。

「だめでもいいです。だったら今日だけ私に時間をくれませんか。そうしたら思い出にして全て忘れますから」

篠塚は急に目の前の女性がとても哀れに思えた。そんなことをしても何も変わらないことを分かっていながら自分にすがり付いてくる彼女が他人事のようには思えなかった。

だからこそ彼は告げた。

「宇野さん、もうやめよう。……僕は君が想ってくれるような人間じゃない。僕は、少なくとも人前では仮面を被っている。君が優しくて、かっこいいと言ってくれる男は実在しないんだ。君の目に僕がどう映っているのかは分からない。ただ僕は本心で優しいわけじゃない」

「それでも」

「宇野さん、君にふさわしい人は他にいる。……君の運命の相手は僕じゃない。そしてそれは僕にとっても一緒だ」

相手はそう言われることが分かっていたかのようにすっと退いた。

「分かりました」

先程まで荒れ狂っていた大浪が凪いでいく。

「宇野さん、もし君がまだやる気があるなら戻ってきたらどう?落ち着くまでは休みの理由は僕が何とでもしておく。まあ君自身が撒いた火種は自分で回収してもらわないといけないわけだけど」

篠塚はこめかみを掻きながら続けた。

「私居てもいいんでしょうか」

「それは君次第じゃないかな」

女はそれを聞いて泣き笑いのような顔になった。

「篠塚さんって本気で大事じゃない人には優しいんですね」

「そうかもしれないな」

それは言い得て妙だった。真の自分を言い当てられた気がして篠塚は真顔のまましばらくして部屋を後にした。

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